8 ナナと梯子と呪文
ナナはルナと目を見合わせて立ち上がった。ルナは心得たもので膝から飛び降りる。それを確認してからナナは梯子を右手に持ち直し、いくよ、と唇だけを動かして、地下室を見降ろしているだろう、男の顔が見える位置に移動した。
逆光ではっきりとは判らないが、ハルに紹介された人物に似ているように見えた。
ナナは再び感覚を拡げる。間違いなく、家の外にいた人物だ。
心配そうな声だが、おそらくは地下室から出てくるのを待っているのだろうと思われた。魔法使いが籠っている未知の部屋に踏み込むことの危険性を知っているからだろう。ナナにとっても、ここは自分やユーリアくらいの背の高さなら問題なく歩き回れる程度の天井の高さだが、梯子を振り回すとなると不自由だ。地下室から出て行くことに異論はない。
「はい、あの…」
不安そうな声で、問いかける。
猿芝居だ、とナナはなんとなく思う。互いに、相手が気付いていると知っているのだ。
ナナが襲われないようにと見張っていた護衛が、家が爆破されるようなことを黙って見ていたわけがない。
身の危険を感じていない人間が、隠し部屋の奥底の地下室に身を潜めているわけがない。
けれども、どちらも気づいていないフリをしなければならないのだ。
――倒すためには、相手の油断を誘わなければならない。
「ハル様の護衛の騎士です。大丈夫ですか?」
「ああ! 大丈夫です。今、上がります」
ゆっくりと階段を上りながら、ナナは梯子を握る手の力を抜いた。息を細く細く吐く。力んでいては、いざというとき、力を発揮できない。
階段を上がって行き、頭が地上に出る瞬間に刺されるのかと思ったらそうではなかった。騎士はナナに対して完全に油断しているか、見くびっているようだった。ナナはありがたい、と思う。
「なにが、あったんですか…」
瓦礫となった我が家に驚き悲しんでいる様子を装いながら地上に完全に出る。
「油断していました。どうやら、家の裏手のほうで、火をつけられたようで」
騎士も沈痛な面持ちで、ナナの問いに答える。
「火を……」
辺りを見回しながら、さりげなく背を向けた瞬間だった。ナナは、右手でしっかりと梯子を掴んで、足を軸にして体を回転させた。ガツン、と固いものに当たって止められた感触がする。
「やはり、気付いてましたか」
にやり、と笑って騎士は言った。
「そこは、なにをするんですか、くらいにとぼけておいた方がいいんじゃないんですか?」
ナナは地面を蹴って間合いを取ってから、不機嫌な調子で言った。
「いまさらですよ、とっくに知られている」
誰に、とは言わなかったが、それがハルのことだとすぐに判って、ナナは心が少し痛んだ。おそらく彼はこの男のことを信頼して連れてきたのだろう。ユーリアのこと、もしかして子供がいるかもしれないということ、それらを知られても構わないつもりで連れてきたのだろう。
「そうですか。……なら、手加減無しでいいですね」
ナナは一気に距離を詰めて、腹に突き立てようとした。が、寸前で躱される。さすが、ハルが「手練れ」と言うだけある。妙に感心しながら、連続で突く。何度か繰り返したあと、突くと見せかけて足を払いにいくも、それも避けられる。騎士は少し感心したような顔をした。
「なかなか良い腕だ」
「いろいろ事情があるんですよ」
元家だった瓦礫がそこらじゅうにある状態では、足場がなかなか安定しない。瓦礫だけでなく、未だ燻っている木材もあるのだ。ただでさえ力負けする体格と性差であるのに、足場がしっかりしていないと充分な力が出ず、当たっても大した威力にならないのは判っていた。ここぞ、という時にカミナリを発動させるのが確実かと思いながら、どう動いたら良いか計算する。
「魔法が使えない、とか?」
男がにやにや笑いながら言う。ナナを挑発して体力を消耗させようとしているのだろう。
「町のみんなが知ってることです。秘密じゃないですよ」
互いにじりじりと動きながらそんな言葉をかわす。ナナは相手の動きを警戒しながら目の端で足元を確認する。視界の隅に黒猫の姿をみつけた瞬間、思い出した。
「ルナ!」
――来て。
叫んだ瞬間を隙と見たのだろう。男が踏みこんできた。梯子で防御しながら、飛ぶように駆けてきたルナが肩に着地するのを感じる。カン、という高い音がして男の剣が撥ね返った。
「え」
男は驚いたように動きを止めた。それはそうだろう。梯子はただの木製だ。金属製の剣を撥ね返すはずがない。
――だが、黒猫が触れたものは、防御されるのだ。黒猫に触れられているナナが持っている梯子もまた、防御される。ならば。
ナナは、その瞬間を無駄にはしなかった。梯子を左手に持ち、自分の左側に押し付けるようにして、体を回転させる。その勢いのまま、梯子を男の腹にぶちあてた。
「ちょっと」
「ふんばってて」
苦情を言ってくる黒猫に短く言って。
体勢を崩した男を確認しながら、左足を踏ん張って梯子だけを背側から移動させて右手に持ち替える。そのまま右足で地面を蹴って飛び上がり、梯子を男の頭めがけて振り下ろした。ナナと梯子と黒猫の重さプラス勢いを利用すれば気絶くらいはさせられるかもしれない。
だが、男は寸でのところで体勢を戻して、剣を横に構え梯子を防いだ。
ガン、という音とともに、衝撃が手に伝わる。痺れるような感覚に開きそうになる手を必死で握って着地したのは、燻った木材の上だ。おそらく柱だったものだろう。だが、熱くはない。燃える心配もない。
「惜しいな」
男は、剣を両手で持って押し返しながら、背後に飛んで間合いを取った。
(余裕がある…)
ナナはギリと、奥歯を噛んだ。相手の油断につけ込めれば倒せるかもしれないと思っていたが、どうやら無理そうだと判断する。ルナがいるかぎり、あの剣が刺さることはないだろうし、まだ燃えているものを踏んで火傷を負うこともないだろう。だが、ルナが載っているぶん、動きは制限されるし、体力の消耗も激しくなる。
(どうする?)
隙を見せないように梯子を両手で持って構えながら考える。
だが、相手はナナの迷いや疲れを感じ取ったようだった。足元の瓦礫など気にしない様子で突っ込んできた。胸を目がけてきた剣をすかさず梯子で払うが、連続で突いてくる。それらすべてを払いながら男の様子を窺うが、わずかにある隙をつこうにも、直後にやってくる攻撃に防戦一方となる。
何合か打ち合うと、ナナはもう、肩で息をしているような状態になった。
とにかく一旦離れたほうが良いと判断し、払った勢いのまま梯子の反対側で突き、相手が避けた瞬間に後ろへと飛び退った。
「そろそろ限界か」
男が嗤う。
「そうですよ!」
ムカっときて、額の汗を腕で拭いながら答える。ほとんどヤケだった。
黒猫にも、ナナが切れたのが判った。言い返す言葉が、丁寧語になっているからだ。
「恨むなら、大魔女ユーリアを恨むんだな。俺はあんたがあの魔女の娘だろうが弟子だろうが関係ない。あんたと、パン屋の娘がいなくなれば、喜ぶ人間がいるんだ。王と血が繋がっていようがいまいが関係ない」
ナナの呼吸が荒いままなのに対し、男の息はまったく乱れていない。これが実践経験の差なのか、と悔しく思う。
「本当、ですよ」
悔しさのあまり、正直な気持ちを吐露してしまう。
男が、ほお、とわずかに眉を上げた。
「本当、いい、迷惑、ですよ! お、師匠が! 何者、か、なんて、知りま、せんけど!」
はあはあと呼吸をしながら、ナナは言う。
「こんな、こと、残すくらいなら!」
ずっと思っていたことだった。
ユーリアが、秘密の呪文、なんてことを言いだした時から。……自分が、ユーリアの本当の娘で、王の血を引いていると知った時から。
「自分、で! なんとか、したらよかったん、ですよ!」
魔法を梯子に仕掛けるなんてことしなくても。そんなことが出来るくらいなら、同じことを自分でできたはずなのだ。秘密の呪文だってそうだ。隠したりせずに教えてくれればこんな苦労しなくてもよかったのだ。
汗が額からどんどん流れ落ちてくる。首筋にも伝うのがきもちわるい。だが、拭うための動作が、今度は切っ掛けになることが判っていた。だから、気持ち悪いまま放置して、相手を睨みつけていた。
「文句なら、あの世にいってから直接言うんだな」
しばらく面白そうにナナのことを見ていた男は、そろりと動き出した。
それを見て、ナナは呼吸を整える。おそらく、好機は一度だけだ。
「今、言い、ます、よ」
(何が、『お母さん』だ)
一歩一歩近づいてくる男との間合いを測りながら、ナナは頭の中で悪態をつく。さすがに、絶対に音にしてはいけない言葉は自制する。
(何が、『大好き』だ)
「お師匠の……お師匠の…」
(今だ)
「バカー!」
叫びながら梯子一旦突くと見せかけて、そのまま姿勢を低くして回転する。狙ったのは、男の足だ。
梯子が突かれることは予測していたのか男は身を軽く引いて避けた。
その瞬間、梯子が突如発光した。
「え」
その声を上げたのは、ナナだったのか、男だったのか、ルナだったのか。それとも三者ともだったのか。
ナナは回転を止められず、とにかく梯子を握りしめたまま、魔法が発動したの感じていた。
男は、突如の光に目を奪われ、足を狙って回された梯子を避けきれなかった。
ルナは、『秘密の呪文』に呆れたまま、ナナの肩の上で上手にバランスをとっていた。
ナナが足を踏ん張って回転を止め立ち上がった時、どさっと音がして男が倒れた。うめき声が聞こえてそちらを見たが、男は動かない。今のうちに縛ってしまったほうがいいかもしれない、と思ったが、ナナは動けずにいた。
体から魔力が流れ出ていくのを感じて、その感覚に驚いていたのだ。
「ナナ、大丈夫ですか?」
使い魔には判るのだろうか、心配そうにルナが訊ねてくる。
「ちょっと、キモチワルイ」
返答はできたが、やはり動くことはできなかった。自分の中がどんどん空っぽになっていくような、そんな感覚が、体を動かせなくさせていた。
「ナナ!」
どれくらいそうやって立ち尽くしていただろう。まだ続く流れ出る感覚にも慣れてきてようやく体が動かせそうな気がしたとき、名前を呼ぶ声が聞こえた。
ハルの声だ、と思いながら、ナナは振り返った。
ハルが森のナナの家のあった場所についた時、そこにあったのは黒く煤けた木材や屋根の瓦や食器類や、未だ燻る板などだった。遠くから炎や煙が見え、爆発音が聞こえた時点でこうなっているだろうことは判っていたが、それでも少なからず動揺しながら進むと、家の中央だったあたりに立ち尽くすナナとその肩に載っている黒猫を見つけた。
「ナナ!」
足を止めずに声をかけ、近寄ると、こちらを振り向くナナの向こうに倒れた騎士を見つける。レイモンドだった。
「ハル、さん」
よく見ると、ナナは肩で息をしているような状態だった。汗で黒い髪が額や頬に貼り付いている。細い首も汗で濡れているようだった。そして立っている場所からは、小さな火がまだ覗いていて煙も上がっていた。
「ナナ、大丈夫か?」
今の状態と、今の場所と、両方の意味で問うと、訳が判らないといった具合にナナは首を傾げる。続けて指摘しようとすると、黒猫がにゃあ、と鳴いた。ナナは、「あ」と小さく呟いて、場所を移動した。燃えている物がなにもない地面へ移動すると、黒猫が肩から降りた。
使い魔の防御か、とハルは気付いた。昔ユーリアから聞いたことがあった。
「大丈夫か?」
近くまで寄って再度訊くと、ナナは頷いた。
「あの、」
ナナは視線だけでレイモンドを示し、申し訳なさそうな顔になる。
「いや、いいよ。むしろ、謝るのはこっちだ」
「すみません」
それでもナナは小さく頭を下げた。その瞬間ふらつく。
「ナナ」
慌てて肩を抱きとめれば、「大丈夫、です」と言う。だが、足元から崩れるように倒れそうになり、その小さな体を手で支えた。よく見ると、意識がないようだった。
「にゃあ」
足元で黒猫が鳴く。相変わらずの可愛げのなさに顔を顰めるが、相手は気にした様子もなく、背を向けて歩き出した。ついて来い、ということらしい。
手を離せばすぐにも崩れ落ちそうなナナと、そんな状態でも梯子を握ったままの右手とを見て、到着した密偵に目で合図を送った。レイモンドの拘束の指示だ。
そして、少し悩んだ後、ナナの右腕を自分の左肩にかけて、横抱きにする。梯子が背後で揺れるのは多少邪魔だったが、苛々と待っている黒猫についていった。