7 ナナと梯子の魔法
――爆発か火事か、とにかくそれは避けられませんが、契約していない状態では逃げられません
ルナの言葉を反芻して、ナナはある可能性に気付いた。
「ルナ、それってもしかして」
耳を澄ますように感覚を拡げる。契約前には、ユーリアに魔法を教えられてもらっていた時は何度やってもできなかったことだ。
家の壁を越え、さらにもう少し拡がったところで何かが引っかかった。
「ええ、今です。先程から家の外で火種を用意している者がいます。おそらく、あのバカ者がつけた護衛でしょう」
黒猫の耳がクルリと動き、立ち上がる。
ナナはその言葉で合点がいった。あの三人の男たちは、今家の外にいる護衛に殺されたのだろう。そこそこの手練れの騎士の目をかいくぐってどうやって、と思っていたが、見張っていた人間が行ったのなら充分可能だ。
「ルナ、基本的なことを聞くけど」
「感覚は鋭くなったと思いますが、魔法は相変わらずのはずですよ」
ルナはナナの言葉を遮って、かすかな希望を打ち砕く。
もちろんナナの希望は本当に小さなものだ。使い魔がどういったものかは知っているので、契約をしたからといって魔法を今まで以上に使えるようにはならないことは、知識として知っていた。ただ、それならどうして、「契約していないと逃げられない」などと言ったのだろう。
「魔法使いは、契約している使い魔を魔法で常に防御しています」
言いながらルナはテーブルから降りて歩き出す。ナナはほとんど無意識に梯子をとって、その後についていった。向かっているのは、家の中心だった。
ユーリアとナナが過ごしたこの家は、入ってすぐのところにテーブルがあり、台所もある。入口の正面の壁に扉があり、そこを開けるとユーリアの部屋、右手にある台所の奥にも扉があり、そこを開けると左側はすぐ壁に、右手には廊下が延びている。廊下を挟んで部屋が一つあり、薬草を保管する部屋となっている。その部屋からもう一つの部屋へ移動でき、そこは書庫となっている。書庫にはユーリアの部屋からも移動できる。ナナの部屋は、台所の手前、入口のすぐ近くに屋根裏に上がることのできる梯子がかけてあり、そこから上がることができる。丁度、薬草の保管室の上になる。書庫もユーリアの部屋も入ってすぐの部屋も天井を高くとってあるので、その他に部屋は無いことになっている。
「まあだから、使い魔の時が止まると言われているんですが」
歩きながらルナはしゃべり続ける。
(やっぱりここに入るのか。だったらスープの鍋くら持ってきたらよかった)
そんなことを考えながら、家の中心――書庫の隠し扉を開ける。地下室へと続く階段があるのだ。だが、地下室と言っても、大人が二人くらいしか入れない狭い空間だ。中に入ると元通りに隠し扉を閉めておく。
ルナについて歩きながら、ナナは拡がった感覚で、外にいる男が家に火を点けるのを感じた。
「あ、天井の板は嵌めておいてくださいね。一応、ユーリアの部屋のクローゼットの位置になっているので、焼け残ってもバレないとは思いますが、変な空間があると知られると見つかり易くなりますから」
階段を降りながらルナが石造りの壁に立てかけてある板を見る。ナナは一旦梯子を壁に立てかけてから板を持ち上げ、一段上がって嵌めた。
「あとは」
地下室には、小さな椅子が置いてある。寒くないようにとクッションも一緒だ。ルナに促されたナナがそこに座ると、黒猫はその膝に載ってきた。梯子はもちろん、ナナ自身の体に立てかけてある。
めったにないことに驚くいていると、そのまま四本の足を折りたたむようにして座り込む。
「これで大丈夫です。魔法使いの防御のある使い魔に触れている者は、一緒に防御されるんですよ」
それが、契約者であっても。座ったまま顔だけ向けていた黒猫がそう言った時、頭上から爆発音が聞こえてきた。
ナナは、物心ついた時から、変な造りの家だと思ったいたのだ。
まず、入ってすぐの部屋に台所があること。ユーリアは簡単な悩み相談みたいなこともしていたから、すぐにお茶を淹れられるようになっているのは便利だったが、一般家庭ではめったに見られない。
次に、窓があるのは、この部屋とユーリアの部屋と、屋根裏のナナの部屋と、廊下だけであること。これも、書庫に陽が入ると本が傷みやすいからとか、薬草保管室もそのためとか考えられなくもないが、風が通らない為、管理がなかなか大変なのだ。実際は、薬草保管室には窓があり、空気の入れ替えくらいはできるのだが、窓にはガラスは嵌められていないので、陽は当たらないのだが。
そして地下室だ。面白がって作ったとしか思えない隠し扉に、二人くらいしか入れない地下室は、何のためにあるのかすら、想像のつかないものだった。ナナが地下室について知らされたのは、ユーリアが病気に倒れてからだったので、疑問に思っていたのはわずかな時間だったが。
ナナは、すべては、この時のことを見越してのことだったのだと、爆発音が止んでから、やけに暢気な気分で考えた。
正直な話、頭がついていってなかった。
地下室に来た理由は判る。火事もしくは爆発から身を守るためだ。ではルナは何のために膝に載っているのだろう。
「防御の一つに、目くらましの術のようなものもあるんですよ」
ナナの考えていることが判ったのか、ルナが膝の上から教えてくれる。
「だから、もし相手が魔法使いを連れていても、この空間は見つかりません。もともとこの家にはユーリアの魔法が染み込んでいますからね。防御壁に気付かれたとしても、違いが判るような魔法使いが来る確率のほうが低いでしょうし。…逆に、丹念に手と目で探されたほうが厄介ですね」
「ってことは」
「もちろん、ここで、ユーリアの用意した術を発動させます」
ナナは、ルナの瞳をじっと見つめた。ちょっとした思考停止状態だった。
「火事なら時間がかせげたんですが、あれは火事にみせかけた爆破のようだったので、時間はないと思いますよ?」
火事なら燃え切るまで踏み込めないだろうが、爆破なら建物自体が吹っ飛ぶので、燃えるものが少ない。
つまり、燃えた跡にちゃんと死体があるか確認にくるまでの時間が短い。
「……無理だよ、秘密の呪文が判らない」
「まあそれは、正確なところは私も判りませんけどね」
たぶん『お母さん』という単語が必要なのは間違いない。
「とりあえずやってみましょう」
黒猫はチラリと梯子を見た。
「ルナは、お師匠から何を聞いているの」
自身の体に立てかけてあった梯子をぎゅっと握って、ナナは訊いてみる。
ルナは少し考えるようにナナを見つめた。
「必要なのは、その梯子と、私と、あのバカ王の持ってきた指輪と、そして呪文です。術が発動すると、目くらましの術が展開されます。これは、あなたの魔力を元に展開されていくので、あなたが死ぬまで有効と言っていました。それから、ユーリアとあのバカ王に関する記憶を操作します。その為の鍵がその指輪と、あのバカ王自身です」
ナナは目を見開いた。
「二つも?!」
「当たり前です。術を用意したのはユーリアですよ?」
ルナは、ふん、と鼻を鳴らした。
「でも、発動させるのは、私だよ!」
ユーリアが設定した火も、カミナリも、風も、ナナが発動させるとナナのサイズに変わる。
「問題ありません。その為に条件を揃えたんですから」
ナナは小さく首を傾げた。
「ユーリアは、あなたに何度も試させましたね? 一度だけ、ユーリアの仕込んだ通りの大きさで発動したことがあるのを覚えてませんか?」
「覚えてないよ!」
「じゃあ、諦めてやってみましょう。元々、五分五分です」
黒猫はあっさりとそう言うと挑発するように瞳だけを向けてきた。
「梯子はどういう状態で持っていてもかまいません。指輪もあなたが身につけているのなら問題なし。……ここまでお膳立てされて、引き下がるんですか?」
ナナは唇を噛んだ。
出来ない、というのは簡単だ。
でも、それは、病気の身でわざわざ王に会いに行ったユーリアの苦労すら無にするということだ。
「いくよ」
小さく、つぶやくように言って、梯子を強く握って。
『お母さん……!』
言葉に魔力を込めて、ナナは小さく叫んだ。
その頃ハルは、森のナナの家へ向かって走っていた。
護衛にと連れてきた騎士三人のうちの一人、レイモンドが裏切り者だと密偵から報告を受けたのはついさっきだ。しかも、ナナの家が燃え、爆破されたとの情報付きである。当然の話で、爆破した本人はピンピンしていて、瓦礫となった家の跡に入って行ったらしい。おそらくナナの死体を探すためか、まだ息があるのならとどめをさすためだろう。
今回の件の主犯は未だ不明だ。考え出せばキリがない。レイモンドは侯爵家筋の者だが、直接関係があるとは限らない。伯爵家も、前王の弟妹あたりの実家数件も可能性としては捨てられない。そして、今回主犯を見つけ始末をしたとしても、同じことをする人物は何人でも現われるだろう。
それくらい、ユーリアの子供の存在は、王の座を狙うものには邪魔なのだ。
あくまでも、『王の座を狙う者』にとってで、ハルとしては、ユーリアに子供がいたとしてもそれが男であっても女であっても跡継ぎとして王家に迎える気は毛頭ない。もちろん、彼らの気持ちが理解できないわけではないのだが。
正直なところ、ハルはミリアが狙われる可能性のほうが高いと踏んでいた。まず、多くの者が知っている王妃の姿と重なる部分が多いし、年齢が近い。顔は確かに似てないが、似ていない親子というのはあるものだ。それに比べ、ナナは髪の色も瞳の色もユーリアと違うし年齢も違う。ユーリアの娘だとしても王の娘であるとは考え難い。どちらも怪しいからどちらも消す、としても、ナナを先に狙うとは考えてもいなかった。
それが実際にはナナが先に襲われた。陽動の可能性もあるので、騎士二人と密偵を一人残し、ハルは急いで向かうことにしたのだ。
――ナナ。
ハルには、どちらも自分の娘だとは思えなかった。ミリアは自分には似ていないし、ナナは年齢が若すぎると信じていたからだ。だが、ユーリアのことを、『お師匠』と呼び慕うナナは、他人とは思えないものを持っていた。一緒にいて話す時間が多かったせいもあるだろうが、おそらくそれは、ユーリアに向ける気持ちが似ているからだろうと、ハルは思っていた。
そしてまた、ユーリア自身も、ナナのことをとても可愛がっていたのだろうと想像できた。それは、会ったその時から、気付いていたことだった。黒猫がナナのそばにいて、自分のことを鬱陶しそうに見ていたからだ。
あの黒猫は、ずっとユーリアと共にいた。使い魔なのだと聞き、傍にいるのは仕方のないことだとユーリアが言っても、ハルには鬱陶しい存在でしかなかった。――ルナ自身が、そういう目でハルを見、態度で示していたからだ。その猫が、ユーリアが亡くなってからもナナの傍にいる理由は、ユーリア自身がナナのことを大切にしていた以外には考えられなかったのだ。
だからハルは、より怪しいと思われたマクシミリアンをミリアにつけ、さらにギルバートも同行させた。いざという時には取り押さえられるように、密偵四人のうちの三人も控えさせた。
だが、結果は逆だった。
レイモンドの見張りにつけていた密偵は、家の周りで怪しい行動をとり始めたレイモンドを止めようと近寄った直後の爆発で、飛んできた瓦礫でケガを負っていた。そのままではレイモンドを止められないと判断して、ハルに知らせることを優先したと言っていた。レイモンドを見張るためにつけていた密偵を二人にしておけば、取り押さえるために早く動けたかもしれない。そう思うと読みの甘さに歯噛みをする。
まだ遠い森の入口あたりに黒い煙が上がっているのが確認できる。
「ナナ……!」
思わず立ち止まり、ユーリアの弟子の名を呼ぶ声は、心の中だけのものだったのか、本当に発したものだったのか、ハルはまったく意識できなかった。
ただ、次の瞬間にはすぐにまた走り出していた。
ナナは首を傾げた。
何かが変わったとは思えなかった。梯子からなんらかの魔法が発動したとも思えなかった。
それともユーリアが仕掛けた魔法は、そういうものなのだろうか?と思い始めたあたりで、ルナが、
「呪文が違うようですね」
と、やけに冷静な声で言った。
「え」
「しかたありません。片っ端から試しましょう」
「え?」
自分としては『お母さん』などと口に出すのはものすごく恥ずかしいことだったのに、この黒猫は何を言っているんだろう、という気持ちで見つめた。
「ぼうっとしている時間はありませんよ?」
冷たく言い放つ、自分の使い魔となった猫に、イラっとしながら、仕方なくナナは気持ちを切り替えた。
ユーリアと付き合う中で培った技術の一つでもある。
「なら、他にお師匠が言って欲しそうな言葉よね…」
ちょっと考えて。
『お母さん、大好き』
同じように魔力を込めて言う。
「違いますね。次」
ナナは黒猫を睨む。
『お母さん、愛してる』
「次」
『お母さん……』
言いかけて、言葉を切る。
「どうしたんですか」
「ごめん、他に思いつかない」
思わず情けない顔になりながらナナは言った。
ルナは少し考えるように首を傾けると
「語順を変えてみましょう。大好き、の後に呼んでみるとか」
「あ、そうか」
呪文は正確に詠唱しなければならないのだ。
『大好き、お母さん』「次」『愛してる、お母さん』「次」「……」「ナナ?」『お母さん、好き』「……次」『世界で一番お母さんのことが好き』「次」……
時間ばかりが無情に過ぎていくなか、ナナは思いつく限りの言葉をくっつけたり順番を変えたりしていた。そして、しばらくそんなことを続け、ナナと彼女の使い魔猫は見つめ合った。
「もしかして、マズイんじゃない?」
それは、このまま行くと秘密の呪文が見つからないままなのではないか、という問いかけだった。
が。
「ナナさん、そこに居ますか?」
空気が揺れ、突如知らない男の声が聞こえてきた。それはつまり。
――見つかってしまったようですね。
黒猫がナナにだけ聞こえる言葉でそう言った。