2 ナナと梯子の役割
――ナナ、私が死んだら、ルナを使い魔にしなさい。ルナは了承しているから。
ふとユーリアの言葉が耳をよぎって、ナナは軽く頭を振った。
今は、ハルと一緒に医師のモレムの所に向かっているところだった。いつもは近くにいる黒猫が、横にいる男を嫌ってかつかず離れずの距離にいるせいかもしれない。ユーリアには言われたが、ナナ自身まだ決心のつかないことだった。
「なにか?」
不思議そうな顔で見降ろすハルに、ちょっと考え事してました、と笑って返し、あとちょっとですよ、と伝える。モレム医師は、街道に近い方に住んでいて、パン屋からは少し離れているからだ。
ジャムは瓶に入れられたままパン屋に卸す。そして客が買い、空き瓶は銅貨一枚でパン屋が引き取り、またナナへ返却する。まだユーリアが存命だったころからずっと続けてきたことだ。
森ではいろんな果実が季節ごとに採れる。大した量ではないがそれをジャムや砂糖漬けにしたり干したりして、パン屋で売ってもらうのだ。
そして、薬草から薬を作り、医者のもとへ届けている。町と言っても、王都から離れた小さな集落と言ってよいほどのもので、流通は少ない。薬も必要な種類を必要な量だけすぐに用意するのはとても難しい。そこで、ユーリアが提供することになったのだ。ちょっとした常備薬のようなものは、直接町の人に売ることもあるが、ユーリアにもナナにも医術の心得はないので、なるべく控えるようにしている。医者のモレム先生はユーリアから薬草の名と効能を聞いて、処方する。それだけで、町の人たちのケガや病気の治りは随分と早くなった。ユーリアの後を受け継いだナナも、町の人たちからは頼りにされていた。
パン屋を後にして、ナナは男と並んで歩きながらそんなことを説明した。男はどうやらミリアをユーリアの実の娘ではないかと疑っているようで、その証拠を得たい様子だった。適当に誤魔化しつつ問われるままに答えていると、目の前に三人の男が立った。見慣れない男たちだった。
「大魔女ユーリアの弟子ってのはあんたかい」
真ん中の男がにやにや笑いながらそんなことを聞いてくる。
「それは間違いないですが、何か用ですか」
町の人たちでないことはすぐに判った。判らないのは声をかけてきた理由だ。
「一人になるのを待とうと思ったんだが、なかなかそうもいかないらしい。ここで始末させてもらおう」
言いながら男は腰の剣を鞘から抜く。人通りもある町中でする意味が判らない。
(アタマ足りないのかな)
ナナがわりと失礼なことを考えていると
「ナナ、下がって」
小声でハルが言ってくる。が、ナナはチラリとハルの腰の大剣に目をやった。
おそらくそれなりの使い手だろうと想像はつく。が、
「いえ、ここは私が」
そう言って、空の瓶と薬の入った瓶の入った籠を渡した。
あちこちから興味深そうな、心配そうな視線が飛んでくるのを感じながら、ナナは梯子を肩からおろして地面につけた。
ナナは確かに大した魔法は使えない。だが、小さな魔法をいくつも積み重ねることで、多少のことはできる。魔力を梯子に流しながら、口の中で呪文を唱えていると、
「そっちはどんな魔法を使えるか判らんがね、こっちには魔法避けをかけてあるんだ、よ」
よ、のところで、真ん中の男が剣を打ちこんでくるのを合図に、左右の男たちも剣を振りかざした。
だが、それを抑えたのは、ナナの梯子だった。とっさの判断だった。呪文は途中だがしかたない。魔法避けがされているのなら、ナナの力では及ばないことは確実なのだから、とっとと魔法は諦めることにしたのだ。
立てて持っていた梯子を両手で持って体を左回転させながら、切り込んできた男の剣の腹に当てて払うと、正面に向き直りながら左足を踏ん張って梯子の端を向かって右側の男の腹に当てる。その反動でまた回転しながら、梯子の右の端で、残った男二人をなぎ倒した。梯子の重さと遠心力あっての技だ。
(あと、油断と)
誰も梯子を棒術の棒のようには使うとは思っていない。その隙を突く攻撃なのだ。
「ナナ、君って」
呆れたようなハルの声が耳に届いたが、まだ気は抜けない。
「このガキ……!」
真ん中の男がまだ向かってくる気があるようだ。ナナはその鳩尾めがけて梯子を突き立てた。
「お、親分!」
横の一人が駆け寄るが、親分はうめき声を上げて気絶したようだ。ナナは梯子を構えたまま、両横の男二人を睨みつける。
それほど迫力はないはずだが、二人は気絶した男の片腕ずつを抱え込んで引きずって去って行った。
「強かったんだね…」
男たちを見送りながら、ハルがポツリと呟く。それに合わせたように、見物人の拍手が聞こえてきた。
ナナは梯子を降ろして片手で抑えて、自分のスカートの埃を払うと、小さく肩を竦めた。
「大した魔法が使えないから、お師匠が覚えとけって」
小さく笑ってみせて、見物人たちには軽く手を振って未だ呆然としているハルから籠を取ると歩き出す。
「さ、行きましょうか」
先に立って歩きながら、ナナは平然としているフリをしていた。本当は恥ずかしくて仕方ない。でも、ハルのことを下がらせた手前、恥ずかしがってなんかいられないのだ。
実際、良い機会だと思ったのだ。自分には、身を守る術があることを示すための。ユーリアには魔法があった。それを知っていたから、町の人たちは女と子供がたった二人で町はずれの森で暮らすことをそれほど心配しなかった。そのユーリアが亡くなったことで、町の人たちが、魔法を使えないナナが一人暮らすのを心配していることを、彼女は知っていたのだ。
それでも、ナナとしては、強さを、しかも梯子を振り回す姿を見られるのは、たまらなく恥ずかしいことだった。
なのに。
「あれ、棒術だよね、すごいね。もしかしてその梯子、見た目より軽いの? それともナナが力持ち?」
後ろをついて歩く男は、そんなナナの気持ちを慮ることもなくぽんぽんと言葉を発してくる。
「実は大した魔法が使えないって聞いて心配してたんだけど、安心したよ」
「あの!」
ナナは立ち止まるとくるりと振り返り、ハルのことを睨みつけた。合わせるように彼も足を止めた。
「お師匠とはどういったご関係だったんですか!」
話題を変えるためにした質問だった。が、言った端から後悔する。素知らぬフリをして気付かないフリをして帰ってもらうつもりだったのだ。事実がどうかなんて、ナナにとってはどうでも良いことだったのに。
失敗したという気持ちと梯子術を恥ずかしがって歯を食いしばり、じっと自分のことを見つめるナナを見て、ハルは小さく吹き出した。
それを見てナナは更に睨みつける瞳に力を込めた。
「ああ、悪い悪い」
ハルは近寄ってきて手をナナの頭の上に載せ軽く撫ぜ、歩くように促した。
「ユーリアに出会ったのは、今から十九年くらい昔のことだ。君が生まれるずっと前だね」
ついて歩きながらナナは曖昧に頷く。
「その頃ちょっと困ったことがあってね」
ハルは少し考えるようにしながら言葉を紡ぐ。時折、道を確認しながら、ナナと歩調を合わせて歩く。
「半ばヤケになって占い館に入ったんだ」
ナナはその頃ユーリアが占いで生計を立てていたことを思い出していた。
「そこにいたのがユーリアでね。……一目ぼれだった」
ハルは恥ずかしそうに笑った。
「でも彼女は、俺のことはただの客としか見ていなくてね。…それでも、占ってもらって、難しい顔をしたあと、俺の望みをかなえる、と言ったんだ」
「……望み?」
「うん、詳しいことは話せないけどね、一年契約で傍にいて貰うことにしたんだ」
ハルは前を見たまま話していて、それをナナは見上げながら歩いていた。
(やっぱり、この人だったんだ…)
ちょっと絶望的な気持ちになりながら、でもそれを顔に出さないようにして、歩いていた。
「その時、お師匠が魔法使いだってことは、知ってたんですか?」
不自然じゃない程度に質問をして。
「いや、知らなかった。だから、望みをかなえると言われてもピンと来なかったんだ。でも、一目ぼれだからね、求婚した」
「は?」
どこの誰とも判らない相手に? 占い師なんていう、アヤシイとも言える人物に?
ナナの気持ちはすぐにハルに伝わったようだった。
「すぐ断られたけどね、その後、魔法使いだって教えられた。……そこで考えたんだ。だったら、一年間、口説き倒そうって」
どこか誇らしげな顔で言うハルを、ナナは呆然と見上げた。すでに声が出ない。
「まあそれで、結局振られたんだけど」
苦笑して、なんとなく遠い目をして。
「いろいろあって、その一年でいろんなことが解決して、ユーリアもずっと傍にいてくれるんじゃないかって思った頃に、いなくなった。行方を捜したけど、見つからなくて、最近になってようやく気配を察知して、ここに来た」
この町に来て、驚いたよ、と言う男は悔しさを噛みしめているようだった。
それならば仕方ない、とナナは思う。ユーリアはおそらく目くらましの術をつかっていたのだろう。それが彼女の死によって解けてようやく見つかったのだ。おそらく、ユーリアに似た気配を察知したのだろう。
ナナは、だがそれを知らなかったフリをする。
「お師匠のこと、随分想ってくれたんですね」
約二十年。どれほどの時間だろう。赤ん坊が大人になるまでの、それほどの長い時間を、この男はユーリアのことを想っていたというのだ。
「彼女は、ずっと一人で?」
ナナの言葉に返事はせず、ハルはそんなことを聞いてくる。
「はい。さっきミリアも言っていたように、町の男の人たちにも何度も声を掛けられてたけど、全然相手にしてなかったです」
師匠の心の中にはちゃんと大切な人がいたと思う。ミリアが口にしたその言葉をナナは飲みこんだ。
「そうか」
ハルは小さく返事をしてほろ苦いような顔をして笑った。
「もう一度会って、ちゃんと聞きたかったのに、それも聞けないんだな…」
ユーリアの本当の心はナナも知らない。だから、憶測で言ったりはしないし、元気付けるためだけに口からでまかせを言うこともしない。ただ、申し訳なさそうな顔をして見つめることしかできなかった。
ナナが医師の家の中に入っていくのを見送って、ハルはくすくす笑った。先程の恥ずかしそうな顔を思い出したのだ。
ハルは、細い路地側の壁に寄り掛かり、通りを歩く人々を眺める。王都から馬で三日。それだけで着ているものもなんとなく違う。昔はこうやってよく旅をしたものだ、と懐かしくも思う。
「ハル様、楽しそうですね」
路地の奥のほうから低い声がした。姿は見せない。
「まあね。――何か判ったことでも?」
「いえ、大したことは。ユーリア様のことも、お子様のことも、彼女が言っていたこと以上のことは」
ユーリアが姿を消してから、ハルはずっと占い師に探させていた。この十九年ずっとだ。それなのに、ずっと見つからなかったのに、三月前に、とても近い気配を見つけたのだ。占い師はユーリアの子供ではないか、と言っていたが、候補者はどちらも違うと本人が言っている。
ユーリアの性格を考えれば、実の子供を『拾った子』として育てるくらいのことはしそうだが、危険が分散されただけで、安全になったわけではない。
「先ほどの者たちは?」
「……それが」
ハルは眉を顰めた。今、報告をくれている者はハルの密偵だ。他に三人ほど連れてきている。腕も立つが、情報収集の力にも長けている。それが、言葉を濁すということは。
「手助けをした人物がいる、か……引き続き調査を。それから、待たせている騎士たちをいつでも呼べるように」
占い師により、ユーリアの子供の存在の可能性を知った時、ハルはすぐにでも駆けつけようとした。だが、事情が許さず実際に行動できた時には三月も経ってしまった。それだけでなく、一人での行動は却下され、大変目立つ『騎士』連れだ。
そのことで、ユーリアの子供がいるらしいという情報がどこかで漏れたのだと、すぐに見当がついた。
(相変わらず物騒な人たちだ…)
ハルはため息をついて、ナナとミリアの警護を指示した。この一件で終わるわけではないだろうが、一つでも潰しておきたい。
ドアの開く音がして、籠を持ったナナが姿を現した。と、路地奥の気配が消えた。ハルは何事もなかったかのように体を起こし、ナナに手を上げてみせた。
医者の所へ行って、薬草と煎じた薬を渡すと、空になった瓶と薬のリストを渡された。それを見ながら、森の状態を思い出しながら、時期を告げる。採るにはまだ早い薬草もあるし、もう充分なものもある。足りないものは、少量でも補充して、足りているものは時期を待って貰うよう交渉するのも、いつものことだ。医者のモレムも慣れたもので、ナナの説明に多少の注文をつけつつも大方を了承した。
「大したものだ」
帰り道、医者とのやりとりや経緯などを説明すると、感心したようにハルが言う。ナナは苦笑した。
「お師匠が、怒鳴りつけながら根気強く教育したんです」
なんとも矛盾する言葉だが、果たして本当のことだから始末に負えない。
あの薬が欲しいと言われても、作るための薬草が育ってない状態ではすぐには作れない。とりつくしてしまえば、次の年に作れなくなる。そういったことを告げるとモレムはとたんに不機嫌になり、怒り出す。仕方なく師匠は理屈で言い負かし、代案を提示した。すべては採れないが、少量で問題ない時は、当座しのぎの量を作り、まったく採れない時は、代わりになる薬を提示する。もちろん代わりのない薬もあるので、使い方の提案までしていた。
もちろんナナもしごかれた。うんざりしたくらい言われた言葉もある。
『薬を作るには、いろいろ条件が必要なのよ。植物によっては季節で成分が違うものもあるし、量も違う。部位で違うこともある。適切な時でないとダメなの。だから、落ち着いている時に作業をしなさい』
この言葉の大切さを知ったのは、初めてたった一人で作業をした時だ。知っていると思っていたことにどんどん自信がなくなり、不安になっていくのを感じた時、ちゃんと知識として頭の中で整理できていないと、知っているつもりになっているのと同じだと気づいたのだった。
「ユーリアらしい」
懐かしそうに笑うハルに、ナナは首を傾げた。
「俺があまりにもワガママだったから、いろいろ指導されたんだよ」
「……本当に、お師匠なんですね」
十中八九間違いなく、この男だ、という確信はあった。それでも、間違いであって欲しいという気持ちもあったのだ。なにかの偶然で、似たようなことがあったのではないか、と。だが、男の話すユーリアはナナがよく知っている師匠だった。
男は苦笑した。
「まあ、簡単には信じられないとは思っていたけどね。証拠と言えるものもないし」
「お師匠に何か渡したものはないんですか?」
「あったけど、契約が切れた時に返されたよ」
「……お師匠らしいですねえ」
しみじみと言うと、男はごそごそと肩に担いだ袋を漁って小さな袋を取り出し、中身を出した。男の手の平の上に乗っていたのは、小さな緑色の石のついた指輪だった。
「ちなみに、渡したのはこれ。もっと高価なものを贈りたかったんだけどね。これくらいなら持って行ってくれると思ったのに、置いて行かれたよ」
そう言って、指輪をナナに渡す。
「君が俺のことを信じていなかったように、俺も確信が持てなかった。ユーリアはまだどこかで生きているんじゃないかって思ってた。思いたかった。……実はね、ユーリアが亡くなったっていう頃に、一度会ってるんだ」
空の瓶の入った籠は右腕にかけている。梯子は左の肩に段を引っかけるようにして載せて、落ちないように手で持っている。ほとんど抵抗できない状態で、右手の平に載せられた指輪を呆然と見ていたナナは、はじかれたようにハルを見上げた。
「お師匠は、ずっと臥せっていました。病気だったんです」
「それも町の人たちに聞いた。だからよけいに信じられなかったんだ。でも、間違いなく、ユーリアだった。彼女は変わらず美しくて、そう、年をとってないように見えた。……今なら判る。彼女は、そういうふうに見せていたんだね」
問うように言ってはいたが、それはただの確認だったようで、返事を待たずに言葉を続ける。
「礼を言われた。楽しい一年だったと。すぐに去ろうとしたから、せめてこの指輪を持っていってもらおうと渡そうとしたら、懐かしそうに受け取ってくれて、しばらく月にかざすように見てから返してきた。そしてすぐに姿が消えた。本当に魔女だったんだと、その時になって思ったよ」
だからそれは君にあげるよ、と彼は言った。
「これから先の生活で困ったことがあったら売ってもいい。ユーリアの形見として持っていてもいい。俺が形見に持っていようと思ってたけど、最期の時に会いに来てくれたってだけで、充分だ。それだけで、彼女には彼女の事情があったと判ったから。ああ、でもね。さっき、大したもんだって言ったのはね、君の薬がちゃんと商品として認められていることを言ったんだよ。だから、きっと売らないと思ってるけどね」
ハルは片目を瞑ってにやりと笑ってみせた。どうやら照れ隠しのようで、ナナも思わず笑ってしまう。
「ハルさん…」
呟きながらそっと右手を握り込むと、小さな波動を感じて、思わず手を開いて指輪を凝視した。
「どうかしたか?」
「ええ、いえ、お師匠の波動を感じたように思ったんですけど」
再度握ってみても何も感じない。
首を傾げながら、一旦梯子を降ろして、指輪をハンカチに包むとポケットに入れた。
その時に、目の端に映った黒い影に気付きそちらを見ると、黒猫が何か言いたげな様子でこちらを見ていた。