1 ナナと梯子の関係
よいしょ、っと、ナナは左肩の梯子を担ぎ直した。歩いているうちにどんどんずれていくのだ。
右手には瓶を沢山入れた籠を持っているので、体の反動だけで位置を直すのだが、それももう慣れたものだ。
なにしろナナはこの梯子と十三年も付き合っている。ちょっと自慢の梯子なのだ。
難を言えば、梯子が少し大きいことくらいか。これでもナナの身長に合わせて長さを調節したのだ。ただ、予定よりナナの身長が伸びなかったのだ。
「……なによ」
だが、先を歩く黒猫は、ナナの掛け声を聞いてチラリと視線を向けてきた。
「べつに。……ちょっと物悲しい気持ちになっただけですよ」
金色の瞳は彼が呆れていることを語っていた。梯子の扱いにすっかり慣れてしまったナナのことをそういう目で見るのは初めてではない。
「今さらなに言ってんのよ」
「ところで、何か忘れてることはありませんか?」
ぷう、と頬を膨らまして言うと、そんなことを聞いてくる。少し考えて、ナナが「ないよ」と答えると、黒猫は軽くしっぽを揺らすことを返事にして、素知らぬ顔で背を向けた。
(何なのかな…)
ナナは少し不安になる。ルナがこの質問をしたのは、今朝から二度目だ。何かを感じ取っているのかもしれない、と考えて、一瞬浮かんだ言葉を頭からかき消した。違う、そっちじゃない、と自分に言い聞かせルナを見ると、その両の耳が前方を向いているのを見て、ナナも視線を上げた。
前方からこちらに向かって歩いてきている男がいた。まだ遠いが、旅装の、若そうな男だ。
(誰だろう?)
ナナは町の知り合いを数人思い浮かべるが、どれも合致しない。
だがこの道は、ナナの住んでいる森へと続く道で、街道からも離れている。ナナの家に用がある町の人か、ナナくらいしか通らないような道なのだ。
だんだんと近くなって、どうやら確実に知り合いではないと判る。なおさら、誰なのか判らない。
チラリと黒猫に視線を向ければ、彼はかすかに警戒しているようだ。
「ルナ、知り合いなの?」
小さな声で問いかける。黒猫は返事をしない。が、わずかに動かした左の耳は、知り合いだと肯定しているように見えた。正確には、知り合いだと認めたくない、というところっぽい。
(適当に会釈ですれ違えればいいけど…)
どうしようか、と考えているところで相手の顔かたちがハッキリ見える距離まで近づいた。
歩き方などから若い男と判断していたが、どうやら三十代半ばくらいではありそうだった。長めの金の髪は無造作に後ろで束ねられ、深い青の瞳は特徴的だが、派手な要素と比べ顔立ちは、少し整っている、程度だろうか。そして、腰には剣を佩いている。旅をしているのなら珍しいことではないが、それにしては大ぶりなものに見えた。そして、全体的に品がある。見た目より身分が高いという印象だった。
じっくり見るのも怪しく思われそうなので視線を少し下に落としながら観察をするが、相手はどうやらナナのことを見ているようだった。
(すれ違ってサヨウナラ、は無理かな)
仕方ない、と少し左に避けながら立ち止まって見上げた。男が随分背が高いのもあって、首が痛くなるような角度だ。被害妄想かもしれないが、子供に見られてるんだろうなと感じる。初めてのことではないからだ。
「こんにちは、もしかして、魔法使いユーリアに御用ですか?」
「えっと、君はもしかして、梯子の魔女さん?」
ナナの問いに対し、男は一瞬驚いた顔をしたが、彼女の頭からつま先までをじっくりと眺めたあと、質問を返してきた。黒い髪、青い瞳、魔法使いの衣装と言って良い黒いワンピース、どこにでもありそうな編み上げの革の靴。確かに見慣れていない人にとっては珍しい出で立ちかもしれないが、そこまでじっくりと見る必要があるのかと、多少不満にも思う。思いながら、
「えーと。……お師匠に御用なんじゃないんですか?」
再度訊いてみた。
つっこみたい部分もあるが、いちいち否定していてはキリのない部分なので軽く無視をすることにして、不満も隠してさらに質問で返してみる。と、男は、少し安心したように笑った。
「やっぱり君が、大魔女ユーリアの弟子のナナちゃんなんだね」
『ちゃん』付けの呼び方に、ナナは、やっぱり、と思う。ナナの年齢ではまだ珍しくないが、男の口調はあきらかにナナを子供扱いしていた。
ナナは事細かにツッコミを入れたほうが良かったのかなと後悔しつつ、小さく頷いた。目の端に背を向けて座っている黒猫の姿が映る。頭だけを振り向かせた彼の瞳は男のほうを見ていて、警戒の色をしていた。
もしルナが何かを感じていたのだとしたら、これなのかもしれないと、ナナは少しだけ思った。
魔女じゃなくて、魔法使い。
梯子の魔女じゃなくて、ただの魔法使い。
魔法使いユーリアの弟子のナナであると認めたところで訂正すると、男は堪えきれない、というふうに笑い出した。
「俺は、ハル。……や、ユーリアもよくそう訂正してたな、と思って」
「そりゃ、お師匠の受け売りですから。…お師匠とお知り合いなんですね」
肩をすくめて言い、確認すれば、さらに笑って頷いた。
知り合いとなれば、無視はできないと判断し、ナナは用向きを訊ねることにした。内容によっては、一度帰った方が早いかもしれないと思ったからだ。
「ところで、私に御用なのでしょうか」
「いや、用はユーリアにだったんだ。……でも、町の人に聞いたよ。三月ほど前に亡くなったんだってね」
「はい」
「せめて、墓に参りたい」
そう言う男の瞳は思いのほか真摯で、嘘は無いと思えた。だが、そうとなれば予定は変更せねばなるまい。ナナは、肩の梯子を降ろして地面につけて自身の体に寄り掛からせた。
「なら、行きましょう。ご案内します」
「君は、これから町へ行くところでは?」
「そうでしたけど、一旦戻ってから出かけても問題ありませんから」
というか、とっとと片付けてしまいたいと思ったからだ。ルナの不機嫌さを見るに、どうも良い客とは思えない。だが、深い青の瞳を見るに、彼自身に嘘はないだろうと思える。変に待たせて長時間付き合うよりも、さっさと終わったほうが良いと判断したのだ。
「俺のほうはそれほど急いでないし、君の用が済んで帰りに案内してくれたらいいよ。どのみち町で一泊する予定だったからね」
町とナナの住んでいる森とはそう離れた距離にはない。こういうふうに言われてしまうと、断りにくいのだ。困ったように黒猫を見ると立ち上がって町へ向かって歩き出した。許可が出てしまった。
「なら、そうしましょうか…」
よいしょ、と梯子を肩に担ぎ直し、ナナは男の提案を受けることにした。そして、町に向うことにしながら、ナナは『ちゃん』を付けないで呼んでほしいとお願いしたのだった。
「ナナ、今日はお医者の所かい? 今度暇な時にうちに来な、かーちゃんがなんか教えて欲しいって言ってたぞ」
「小母さんが? 判ったわ、小父さん!」
「この間の薬よく効いたよ、また分けてくれるかい」
「判ったわ、小母さん。…でも、あんまり長引くようならモレム先生のところに行ってね」
町に入ってすぐ、ナナは多くの人たちから声をかけられ、やりとりをした。いつものことだ。だが、同行者となってしまった隣の男は少し驚いたように彼女を見降ろしていた。
「君はえらいね。ところで、今さらだけどその梯子は…」
男はどう訊いたら良いのか困っていたようだ。ナナと梯子を交互に見ている。
ようやくの質問にナナは苦笑してみせた。
「この梯子は、魔法使いが使う杖とか棒みたいなものなんです」
だが男は眉を顰めた。そりゃそうだろうとナナも思う。そんな説明ですぐ理解できたら、ナナのほうが驚いてしまう。
「子供の頃、魔法を習い始めた時、お師匠が魔法を教えるために棒をくれたんですけど、それじゃ上手くいかなくて。いろいろ試したんですけど、唯一魔法を使えたのがこの梯子で」
「……それはまた…」
男はやはりどう言えば良いか困ったらしい。中途半端に言葉を発して黙ってしまう。
「なんとなく覚えてるんですけど、お師匠がすごく微妙な顔で、『見つかってよかったのか悪かったのか』って呟いてました」
「……ああ…」
なるほど、と、男もまた微妙な顔つきでうなずいた。
「でも、この梯子を使っても大した魔法は使えないんです。ようやく梯子に落ち着いたあと、本格的に魔法の訓練が開始されたんですけど、ちょっと火を点けたり、ちょっと風を起こしたりするくらいしかできなかったんですよね。『あんたのその魔力は高級な下着と一緒よ!』とか嘆かれました」
男はさらに微妙な顔つきになる。ここは笑うところなのに、とナナはちょっとだけ残念に思って、「だから、今私がしてるのは、森で薬草をとって加工したり、木の実や果実を加工したりして町の人に買って貰うことくらいなんですよ」と付け加える。
だが、男はその内容に困っていたわけではなかったらしい。
「君は、ユーリアの娘ではないのか?」
ナナは思わず微笑んだ。よく訊かれることだからだ。
「お師匠の話では、どっかの森の入口で拾ったらしいです」
視線を、少し先のパン屋へ向ける。ちょうど店から一人の若い娘が出てくるところだった。
「彼女も」
ナナの視線を追って、男も彼女に目をとめ、小さく息を飲んだ。
金にも見える茶色い髪と、緑の瞳の彼女はナナを見つけて大きく手を振った。
「ミリア!」
梯子と籠のせいで手を振り返せないナナは、彼女の名を呼んだ。
「さっき、ルナが歩いてるのを見たから、そろそろだと思ったのよ」
ミリアは長いスカートの裾をひるがえして駆けてきて、ナナの持つ籠を勝手に取って、それから男を見上げた。
「あなたが、薬の魔女に用があるっていう旅人さん?」
「薬の魔女?」
「お師匠のことです。お師匠は、ここで暮らすようになってから薬を作るのを生業にしたので」
そう説明すると、男はなんとも複雑そうな顔をした。これもよくあることなのだ。それほどユーリアは魔法使いとして名が知られていたということだ。
「お墓参りしたいんだって。こっちに向かう途中で出会ったから、帰りに案内したらいいって言われて」
「ふうん」
ミリアは意味ありげに男を見上げる。
「何かな?」
多少たじろぎながら、男が問う。
「あなた、薬の魔女の元恋人?」
ナナはミリアの質問に内心驚いていた。可能性として考えなかったわけではなかったが、知らないほうがいいことのような気がして、敢えて訊かなかったことだからだ。
ナナ自身、ユーリアから恋人らしき人のことは聞いたことがあった。正確には「恋人」なのではなく「ほだされちゃった」らしいのだが、ほだされて付き合っていたのなら、それは恋人だったのではないか、とナナは思ってしまう。そのあたりについての詳しい話をユーリアにつっこんで聞かなかったので違いはよく判っていなかった。
だが、その驚きは顔に出さないようにして、息をひそめるようにしてじっと男の返事を待つ。この状態で耳を塞ぐほうが不自然だし、何かを知ることになるのなら、それは今がその時だからなのだろう。
男はミリアの質問に面食らったように一瞬目を瞠り、それから懐かしむように笑みを浮かべた。
「振られるまでは、そうだと思ってたんだけどね」
(!)
ナナは思わず男を見上げた。ユーリアの言葉とかぶり、この人が?と思ってしまう。でも、同じように思っている人間はこの男一人だけではないだろう、とも思う。
――そして、気付いてしまった。特に珍しくもない、その青い色の瞳を。それから、ルナがこの男のことをひどく嫌っていたことも。
そんなナナには気づかずにミリアはつまらなそうな顔になった。
「なーんだ」
「ユーリアと最後に会ったのは十年以上前だけど、すごく美人だったからね」
男は、誰もが彼女に憧れていたよと、続ける。ミリアはちょっと得意そうに鼻をうごめかした。
「おばさまは、いくつになっても美人だったわ。うちの母さんと同い年とは思えないくらい若々しくて、そこはナナがとても羨ましかったの」
言いながらミリアはパン屋へと足を向ける。ナナも男もそれについて歩いた。
「町の男の人たちにもモテてたけど、誰も相手にしてなかったわ。まだまだキレイなんだからもったいないってみんな言ってたけど、興味がないみたいだった。きっとずっと想ってる人がいるんだって思ってたから、もしかして貴方のことかなって」
ナナは男の様子を窺う。だが、男は苦笑のような顔をしているだけで、その表情からは何を考えているのかは読み取れなかった。
「あ、これ全部貰っていってもいいの?」
店の入り口が近くなって、ミリアはカゴの中を覗き込んだ。
「いくつかモレム先生のところに持って行くのがあって…」
ナナは、瓶に貼ったラベルの色を伝える。ラベルを見ずとも、中の液体が水に近い状態のものが薬で、傾けても移動しないのがジャムだと判るが、それでも判り易くしてはいる。
「うん、判った。ちょっと籠ごと貸してね。待ってて」
言い置いてミリアは店の中に入って行った。
「ジャムはパン屋さんに引き取ってもらってるんです」
じっとミリアのことを目で追っている男に、ナナは簡単に説明をする。
「彼女を、ユーリアは拾った、って?」
男はどうやら忘れてなかったようだ。店の入り口を見ながらそんなことを言いだした。
「髪の色、瞳の色はそっくりだ」
そして呟くような言葉に、ナナは思わず声をあげた。
「え? お師匠の髪の色は黒でしたよ? 瞳の色はミリアみたいな緑でしたけど」
本当はナナは知っている。ユーリアは魔法で髪の色や瞳の色、肌の色を違う色に見せることができるのだ。
ナナ自身も、ユーリアの本当の姿は知らない。知らないが、ユーリアとの約束がある。彼女が死ぬ間際の約束だ。誰にも知られてはならない、約束なのだ。だから、もし、この男が本当にユーリアの相手だったとしても――相手だったのならなおさら、知られてはならない。
「え?」
「どっちが本当の色なんでしょうねえ」
少し困ったような声を出す。自分にも判らないのだ、と伝えるように。
「彼女がパン屋さんのご夫婦の元に行ったのは、彼女には魔力がなかったからです。私には魔力はありますけど。…これですけどね」
小さく梯子を持ち上げて笑ってみせる。
「あ、もちろんミリアもちゃんと知ってますよ。自分がお師匠に拾われた子供だったってことは。せまい町ですから、どこから知れるか判らないからって、おばさんとおじさんは最初っからちゃんと伝えて、でも愛情もたっぷり注いでミリアを育てたんです」
パン屋の入口に目を移すと、ミリアが出てくるところだった。手にはちゃんと籠があって、瓶の数は増えていた。
「来月、ミリアは結婚するんです」
呟くように、でも男にはちゃんと伝わるようにナナは言う。
「姉妹みたいに育った友達だから、幸せになってほしいって思うんですよ」
「彼女は、いくつなんだい」
「十七です」
ナナは、私も同い年なんですよ、という言葉をあえて飲み込んだ。
むしろ、知られないほうがいいと思いながら、梯子を握る手に力を込めた。