3F 同衾の間(後半)
「よし、これできっと最後までたどり着けるぞ!」
ジャックは、きゅぽんと音を立てて、蛍光ペンのキャップをしめました。
この蛍光ペンはいつも辞書の「ピー」な単語に線を引くために使っているヤツですが、今日はたまたまポケットに入れっぱなしだったので助かりました。
別に、告白の直前まで辞書の「ピー」な単語に線を引いていた訳ではありません。たまたまです。偶然です。本当に本当にたまたまなのです。少なくとも、何度聞き返されたところで、ジャックはそう答えるでしょう。半ギレしながら、「たまたまだってば!」と主張するに違いありません。
「……なるほど。こう進めば良いんだな」
ジャックがきちんと色を塗った迷路を見て、マリーはこくりと頷きました。
この世界には日本語どころか英語があるのか?と思われる向きもあるかも知れませんが、地の文はこれが英語だとは一言も言っていないのです。出口までのルートをたどれば、こうなります、ということを書いてあるだけです。それ以上の意味があるかどうかについて、地の文は関知しません。
さて、こうしてマリーは扉の脇から正しいルートをチェック済みの地図を剥がしました。
そうして、片手で地図を持ち、もう片手でジャックの手を引くと、改めてシーツの海の中へと足を踏み入れました。
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シーツを掻き分けながら、柔らかいクッションの上を進むのは、傍で考えるよりも結構大変なことでした。最初は楽しそうだったマリーも、疲れて段々と無口になります。
ジャックはそんな様子を敏感にさとり、繋いだままの手に力を入れながら、マリーに声をかけました。
「ねぇ、そろそろ夜もきたし、少しここで休憩して一眠りしない? おあつらえ向きに床はふかふかのベッドなことだし」
振り向いたマリーはしばらくじろじろとジャックを見ていましたが、やがてこくりと1つ頷きました。
こうして2人は、迷路のちょうど「O」の真ん中辺りで歩みを止め、朝までおやすみすることにしたのです。
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この部屋は、どこかに窓があったのでしょうか。
段々と辺りが暗くなっていくにつれ、マリーの手にこもった力が強くなるのを、ジャックの手は感じていました。
ふかふかの上に2人で寝転がっていると、周りの静けさが気になってきます。
ジャックが手を繋いだまま寝返りをうつと、マリーの身体がびくりと震えました。
「……怖いの? マリー」
「怖くない」
即答でした。
紛うことなき即答でした。
ただ、ジャックはこの即答が、プロローグの即答とは質の違うものだということを知っていました。
人は、明らかな答えを持っているときに、ついつい即答してしまうものです。
その答えの真偽は別として。
震える手のひらを両手で握って、ジャックはマリーの方へ向き直ります。
見つめられていることに気付いてはいるのでしょうが、マリーは仰向けになって、闇に浮かぶ真っ白な天井を見上げたままでした。
「マリーはさ」
「ん?」
「何で、王さまのおふれを見て、塔に来ようと思ったの?」
なにせ、その名も高いドケチ王なのです。
たとえおふれの通りに冬の女王を春の女王と交替させることに成功したとしても、好きな褒美、なんて絶対にごまかされるに決まってます。
ちらり、とマリーの黒い瞳がジャックの方へと向けられました。
何かをはかるようなその視線を、ジャックは真っ直ぐに受け止めます。
何せ、この時のジャックは「マリー可愛い。流し目もイケる」くらいしか考えてなかったのです。目を逸らしようがありません。
「……君のその真っ直ぐな目を信じて、事情を話そう」
やっちゃいました。
信じちゃいました。
男の子の真っ直ぐな目は、時に女の子とは違うものを見ているものですが、この時のマリーはまだそんなことを知らなかったのです。そういうことを知らない若い娘は、時にこういう間違いをおかすのです。
マリーは再び天井に視線を戻して、呟きました。
「この国の王さまには、一人息子の王子がいたんだ」
何だか良く分からない唐突に始まった昔語りを聞いて、正直ジャックは面食らいました。
ジャックとしては、可愛いマリーのことをもっと知りたいというそれだけなので、別に王さまの事情とかどうでも良いのです。だけど、可愛いマリーが折角話してくれているので、黙って聞くことにしました。
「ところが、王子は今から5年前に悪い魔女に拐われてしまった。王子の行方を見失った王さまは、国をあげて大金を使ってその居場所を探したけれど、ついに王子を見つけることはできなかった」
「そうなんだ」
そこでお金をたくさん使ってしまったので、今の王さまは貧乏でドケチなのでしょう。
マリーの瞳が、そっと伏せられます。
「見付からなかったのには、実は理由がある」
「へえ」
「拐われた王子は、魔女によって姿を変えられていたんだ」
「なるほど」
少しだけ、わくわくしてきました。
魔女によって姿を変えられた王子――ジャックは想像します。
彼は、どんな姿になってしまったんだろう。
醜いひきがえるだろうか。
それとも、物言わぬ愛らしい小鳥になって鳥かごに?
昔話に良くあるのは、腰の曲がった汚い乞食の姿になってしまうってやつだけど。
そんなことを考えている内に、ジャックは、マリーがごろりと身体を自分の方へ向けたことに気付きました。マリーの黒い目が、食い入るようにジャックを見つめています。
「……マリー?」
「少女だよ」
「?」
「王子は、少女の姿に変えられてしまったんだ」
「……ふーん?」
そっかー、女の子になっちゃったのか。
と、ジャックは思いました。ジャックはこういうことに関しては、色々と鈍いたちなのです。
もしも自分が悪い魔女の魔法で女の子になったらどうしよう、などと考えていると、更にわくわくしてきました。自分のぱんつなら見放題だ、などとロクでもない思いが頭に浮かびます。
「それで、王子は5年かけて王さまのところまで戻ってきたんだ」
「え、戻ってきたの!?」
「そう、魔女は王子の姿を変えたことで、安心してたんだろうね」
女の子になってしまった王子を見て、王さまはどう思っただろう、とジャックは考えました。
女の子でも良い、よくぞ戻ってきた、と言ったでしょうか。
それとも、王子が女の子では意味がない、と言ったでしょうか。
いえいえ、もう一つの可能性がありました。
「だけど、王さまは少女を見て、王子であるとは信じなかった」
「え!?」
「だって王子は王子だからね。少年だったはずの王子が少女になっただなんて、信じやしないんだ。あの頭のかたいクソ親父が」
「そっか……」
ジャックは再び色々とスルーしました。
王さまの存在も王子さまのことも遠すぎて、何だか物語の中の登場人物のようにしか思えなかったのです。
ですが、ジャックは鈍い子ではあっても、優しい子でもありました。
じっと自分を見ているマリーの目を見返して、静かに答えます。
「だけどそれは、王子さまにとっては寂しかっただろうね。せっかく1人で遠くから戻ってきて、それなのにたった1人のお父さんが自分を信じてくれないなんて」
マリーは、びっくりしたように目を見開いた後、黙って寝返りをうち、ジャックに背中を向けました。
その黒い髪のすきまからのぞく白いうなじを見ながら、ジャックもまた黙って、繋いだ手をぎゅっと握って手のひらの柔らかさを楽しんでいたのでした。