プロローグ『油まみれの仔羊亭』
ついにその時がやってきました。
ジャックは、大きく息を吸い込みます。
「……すっ……好きです、付き合ってくださ――」
「――ごめんなさい」
即答でした。
紛うことなき即答でした。
音速よりもはやい即答でした。
ジャックの告白を聞く前から答えが決まっていたのだろうということが、はっきり分かるような即答でした。
ついでに、さっきから「何の用なの?」「早く言って」と急かしていたのは、告白を心待ちにしてのことではなく、早くこの話を終わらせて帰りたかったからだ、ということまで分かってしまう即答でした。
申し訳程度に頭を下げた後、足早に村の方へと戻っていく背中を、ジャックは黙って見つめました。
そして、背中に隠したままの花束を出すタイミングを間違えたことにふと気付きました。
「付き合ってください」の言葉と同時に出すのが鉄板のはずなのに、何故かまだ、間抜けなことに背中に両手を回したままになっていました。
この変な姿勢で胸を張って告白をしたのだと思うと、あれやこれやの情けなさで、ジャックの目頭は熱くなってきました。
冷たい風が、ジャックの背中から雪を吹き上げて走っていきます。
風に煽られて、手の中から大輪の花々の芳しい香りが漂ってきました。
その香りに今しがた去っていったエリーのことを思い出し、ぞくぞくと身体を冷やす寒風に、息が詰まります。
それでもぐっと涙を堪えて、ジャックはその15年の人生における38回目の失恋を、静かに味わうことにしました。
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生ぬるい空気に漂う、キツいアルコールとにんにくの香り。
ざわざわと、あちらこちらから絶え間なくざわめきが聞こえます。
そんな中、ジャックは顔を上げないまま、どこからか出て来るため息でついでに声帯を震わせました。
「あー……」
「おい、カウンターに突っ伏すのやめろ」
「あー……なーんで1回もうまくいかないかなぁ……」
「人の話を聞けよ」
「顔だってそんなに悪くないしー、そこそこ頭も良いしー、まあまあ腕も立つし優しいしー」
「ほら、起きろ。子どもの癖に酒場だからって酔った振りしなくて良いから」
かん、と音を立てて、ウェイターのエドは、ジャックの前にミルクのカップを置きました。
今宵も、『油まみれの仔羊亭』は村の男達で賑わっています。
振動で顔を上げたジャックは、垂れた茶色い前髪の奥から、どこか虚ろな目でエドを見上げました。
ジャックの視線を受けて、エドは深くため息をつきます。
「全く……いつまでいる気だ。いくら幼馴染っつっても、酒場でこうもミルクばっか頼まれちゃ、うちの在庫がなくなっちまうよ」
エドは『油まみれの仔羊亭』の跡取り息子なので、そんなことを気にするのです。
幼なじみのよしみで優しくして欲しかったジャックは、しょんぼりと肩を落としました。
「まだ5杯しか飲んでないよ……なあ聞いてくれよ、エド」
「あー、もう! もう何回も聞いたよ。エリーに告白しようと奮発してでかい花束買ってったのに、差し出す間もなく振られたんだろ、ウチの飾りが増えて良かった。もうすぐ40回目の失恋だろ、今年は冬が長いから、もしかすると冬の内に大台に乗るかもな」
「乗りたくねぇ」
「その時は、大々的にウチを貸し切ってお祝いしてくれ」
「そこは慰めてくれよ」
「知るか、お前の失恋話なんざ、耳にたこが出来たわ!」
エドとそんな会話を交わしているジャックの耳に、ふと扉が開く音が聞こえてきました。
建付けの悪い『油まみれの仔羊亭』のドアは、開閉の度に嫌なきしみ音を立てるのです。
音以外には何の気配もなく、するりと入ってきた人影が、ジャックの隣の隣、カウンターの端に座りました。
目深にフードを被っていますが、近くで見ていると随分細い身体です。
そのシルエットが腰の辺りでいびつなのは、剣を差しているからでしょうか。
ちらちらとそちらを見ている内に、エドが注文を取りにいきます。
「お客さん、何にしましょう?」
「……オレンジジュース」
答える声が高くて細かったので、ジャックにはそのフードの人影が女の子だと分かりました。
立ち上がるときにジャックが椅子を引いた、がたり、という音で、彼女はこちらに顔を向けます。
「――っ……!」
思わずジャックが言葉を失うほどに愛らしい女の子が、そこにいました。
フードの奥からは、真っ黒に光る両の瞳と、そしてツヤツヤと美しいまるで夜の河のような黒い髪をした女の子が、こちらを見ていました。陶器のようにすべすべした頬に、ぷるりと濡れた桃色の唇。これはヤバイ上物です。
この辺りでは見たことのない子でした。
こちらを向くと、やはり両腰に剣を佩いているのが分かります。ごく軽い武装をしているところからも、旅の冒険者だろう、と分かりました。
女の子は、じっと自分を見詰めるジャックの視線に、少し眉を寄せています。
「……何か、用か?」
恐る恐る問うようなその様子で、ジャックはぶしつけにも女の子を黙ってじろじろ見てしまった自分に気付きました。
気付いたと同時に、勝手に椅子を1つ詰め、女の子の隣の席に座ります。
――そうです。
顔も、頭も、腕も悪くないジャックが、ひたすら振られ続けていたその理由は、ジャックがあまりにも空気読まず、ぐいぐいくる感じだったからなのでした。
当然、突然間を詰められた女の子も少しばかり嫌な顔をしています。
「――あー……あの、俺ジャック」
「……は?」
「俺、ジャック。よろしくね。君の名前は?」
まずは隣に座る許可を取ったほうが良いでしょう。
少なくとも、遠くでオレンジジュースを注いでいるエドは、そう思いました。
ですが、エドの無言の圧力も、その目に女の子の愛らしさしか映らないジャックには全く効いていません。
顔を背けた女の子を追いかけて、カウンターの上に肘を突きながら、更に話しかけます。
「ね、君どこから来たの? 1人? こんな田舎に何しに? あ、もうご飯食べた? 宿は決まった? どこに泊まってるの?」
しつこいです。
あまりの鬱陶しさに、女の子が手を上げそうになったとき、ガツン、とカウンター越しに拳が飛びました。
「――痛ぇっ!?」
「お前、ウチのお客さんに何やってんだよ。営業妨害か」
エドです。
殴られた頭を抱えたジャックが痛みに悶え始めて沈黙したので、女の子はようやく少し安心して、頬を緩めました。両手を出して、エドから差し出されたオレンジジュースを受け取っています。
悶絶していたジャックは、おずおずと両手を伸ばす女の子の姿に見とれました。
なんて可愛い子なんだろう! この子の為なら、俺は命がけで――さっき勢いでエドにやっちまった花束を、そこの花びんから取り返しても良い!
何やら安っぽい命がけでした。
そんなジャックの様子を見ていないのか、それとも見ていても見なかったことにしているのか、女の子はカウンターの向こうのエドに、再び声をかけました。
「……店員さんにお聞きしたいのだが」
「ん? お客さん、何か探しものかね?」
酒場で情報を集めようとする冒険者は多いのです。
エドは慣れた様子でリンゴを切りながら、女の子に問いかけました。
女の子は、ようやくフードを外して、エドを見上げます。
「……わたしは、冬の女王のいる塔を探している。この村の先にその塔があると聞いたんだが」
「冬の女王!」
「恋人たちの塔か……」
女の子の声に必死に耳を傾けていたジャックと、リンゴをウサギの形に切り終えたエドは、同時に声を上げます。
2人には、女の子の目的がはっきりとわかってしまいました。
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この村のはずれにある、恋人たちの塔。
今年の冬が長いのは、本来、春夏秋冬の女王が入れ替わり季節を巡らせるためのその塔に、冬の女王がこもってしまったからなのです。
国中に春が来ず、困ってしまった王さまは、お触れを出しました。
「冬の女王を春の女王と交替させた者には好きな褒美を取らせよう。
ただし、冬の女王が次に廻って来られなくなる方法は認めない。
季節を廻らせることを妨げてはならない。」
だけど、この村まで辿り着いた旅人は、ジャックの知る限りは黒髪の彼女だけでした。
何故なら、王さまは国中で有名なドケチで、「好きな褒美」とか言っといていざとなったら絶対バックレることが、目に見えていたからです。