日常
Saraは、基地の近くの住宅街に母親と住んでいた。
母親も、ハーフ―らしく、金髪に白い肌だった。
家はそれなり立派だったが、調度品はなにもなく、生活に窮乏していることが覗えた。
米国の植民地政策の成れの立てだ。
米国からの輸入により、経済が成り立っていたのだから、撤退すれば窮乏するのは当たり前のことだ。
この比島は、一度も統一国家を持ったことがない。多民族の国家だ。長いスペイン統治時代をへてアメリカ統治となり、いま日本が統治している。
だからと言って、日本に服従しているわけではない。
米国の支援を受けた、ゲリラがここでも暗躍している。
とりあえず、新谷と竹部は、地元の店でタバコと食料を交換してSaraに持たせた。
どうしても、家に寄って行けと言われたので、二人仕方なくついてきた。
途中子供がくずったので、竹部が背負うとすぐに眠ってしまった。
母親は、軍服の新谷と竹部をみて、警戒したがSaraか゜事情を説明したことと、新谷が英語が通じることで安心したのか、近くの店からビールを持ってきた。
Saraが、Mariaを寝かせてから戻ってきた。
なぜか、化粧をしているのが気になったが、宿舎に帰る時間がきていたので、帰ろうとした。
「I want to do some thanks(何かお礼がしたい)」
とSaraがいってきた。こんな場面でのはなしは、わかるが、新谷も竹部もその気がなかった。
「We apologized for the impoliteness of the countryman(同胞の非礼を詫びただけ)」
と新谷はいって、Saraの家を後にした。
「きれいな女性でしたね、新谷少尉は残ってもよかったんですよ。」
と竹部飛行兵曹長は、意味深に言った。
たしかに、Saraは魅力間的な女性だが、他人の妻だ。状況的に上だとしても、それはあるまじき行為だと思っていた。
それから、なぜかSaraの家に、竹部飛行兵曹長は行きたがり、それにつられて、新谷もつく役の意味でSaraの家に行くことがなった。
Saraと新谷と竹部の奇妙な関係が出来上がっていた。
竹部は、とくにMariaを以上に可愛がった。その姿をSaraと新谷は見ていた。
Mariaも竹部になついた。いつも、竹部が来ると抱っこせがみ、にこにこしながら近くの店から買ってきたお菓子屋、基地から持ってきたサイダーをお土産にしていた。
Saraはそんな竹部に惹かれていたようだ。新谷の目にはそう映っていた。
戦場なのに、Saraの家にいると、家族といるのではないかという幻覚さえ覚えた。
出撃して、明日死ぬかもしれないのに、こうしてのんびりとした日々を送っていることが、不思議に覚えた。
そんな日々が、1月くらい続き、9月に入ったころ、基地があわただしくなった。
大がかりな作戦が、準備されているといことで、基地の警戒レベルもあげられた。
続々と、台湾や南洋の基地から航空機が、比島へと集められた。
捷一号作戦 - 比島方面の発動だった。
この作戦は、陸軍と共同でじっしされ、比島を最終防衛ラインとして、戦局の打開と講和交渉への材料とすることにあったといわれる。
どちらにしろ、空母の機動艦隊、連合艦隊ともに壊滅的打撃0受けていた。
9月15日には、パラオ諸島のペリリュー島へ米軍が上陸を開始して徹底交戦を続けていた。
米国の本土上陸作戦は、着々と進められていた。
8月31日、第38機動部隊第4群は硫黄島を空襲した、第3艦隊(ハルゼー大将)が9月初めにセブ島を空襲して、温存していた航空機400機以上を大破されていた。
米国は、マッカーサーの主張どおりにフィリピン攻略に乗り出した。
ここに、日本史上類をみない、作戦が実行されることになる。
神風特別攻撃隊
新谷は、この言葉を忘れることができない。
後にこの作戦は、際限なく続けられ、陸海空軍を含めた4、000名以上が爆弾を抱いて敵艦に突撃していくことになる。
もともとは、この作戦は体当たりではなく、ゼロ戦を使った反跳爆撃のはずたった。敵艦に低空の高速で近づき爆弾を水面に反跳させて、命中させるという作戦だったが、命中率が低かった。
もうこのころの日本は、通商破壊により資源のほとんどがなく、飛行機の材料のアルミニュウムもほとんどなかった。
戦況打開のための秘匿兵器が開発されていた。
名前の通り、魚雷を改造した"回天"、アルミの機体に木製の翼に1トンもの爆薬を積んで飛ぶロケット、250kg爆弾を積んだ、自動車のエンジンで動くボート、潜水服で潜らせて、棒の先に爆雷をつけて起爆させる伏龍など、の兵器が開発されていた。
これらの兵器を使った、作戦について、作戦ではないという、意見があったが、戦時に押し流されたということと、最初の特別攻撃隊の成功率の高さと威力の大きさに魅了されたのかもしれない。
捷一号作戦 - 比島方面の発動により、残存する連合艦隊をレイテ湾に突入させて、当時世界最大を誇った、大和・武蔵の46cm砲で、米国の上陸部隊をせん滅するという作戦だった。
レイテ島上陸直前の1944年10月12日から3日間、アメリカ軍は台湾にある日本の航空基地を空爆。これにより台湾沖航空戦が起きたが、日本側は約400機とパイロット多数を失ったが、それを隠すためか、戦果として"空母19隻、戦艦4隻、巡洋艦7隻、(駆逐艦、巡洋艦を含む)艦種不明15隻撃沈・撃破"と発表。これを信じた陸軍は、レイテ島での戦闘で、敵戦力を過少評価して苦戦を強いられることになった。
比島でも、空襲があり新谷も竹部も迎撃に出撃したが、台湾ほど数が多くなく散発的な戦闘になっていた。
何としても、連合艦隊のレイテ湾突入を成功させる必要があった。そのためには、最低でも一週間程度は空母の飛行甲板を使用不能にする必要があった。
250kgの爆装零戦が、飛び立ち、次々と空母めがけて突撃した。
6機の爆装零戦で、護衛空母一隻沈没、3隻中破・小破という戦績は、限定的だった、特攻という作戦を変遷させていく。
この波に、新谷も竹部も否応なしに呑み込まれていくことになる。




