二千対一の消耗戦
普通ならば、雨の日は優つになるが、ここ戦場では一時の休息になる。
敵さんのレーダも雨の中では、それほど役に立たないらしい。
機体に、バナナの葉っぱをかけて偽装している。
のんびりと南国の雰囲気が、漂っていた。
新谷は、ポーとして降る雨を見つめていた。
ここに来て、2か月以上が過ぎたが、まだ不思議と生きていた。
攻撃に出れば、かにらず未帰還機がでた。
こうして、生きているいるのも竹部飛行兵曹長が僚機となってくれているおかげた。
竹部飛行兵曹長は、戦闘の中でも新谷の後ろをはなれない。
後ろにつかれても、追い払ってくれている。
何度も、敵に食いつかれて、離脱しようとしたが、敵は4機編隊で攻撃方法をとり、決して近接戦闘ドッグファイトはしなかった。
一撃離脱で、高高度よりダイブしてつっこんでくる。
だいたい、この時に1機か2機くらいが餌食に掛かる。
もともと、ゼロ戦は航続距離を優先させた軽戦闘機だった。
千海里以上の航続距離を持つ、つまり1000km飛んで、30分程度戦闘して帰ってこれるだけの航続距離を持っているのだ。
太平洋戦争時の、初期にゼロ戦と交戦した、連合軍は当時の常識として千海里以上飛べない戦闘機が爆撃の直援としているのに驚き、近海に空母があるはずだと盛んに偵察を繰り返していたらしい。
しかし、航続距離と引き換えにしたものに、防御力の欠如があった。
燃料タンクを翼面に装備したことで、上空からの一撃でタンクに被弾して、火災を起こすことだった。
昭和17年に、アリューシャン列島で、無傷の21型のゼロ戦が鹵獲されて、研究された結果、近接戦闘をさけて、高高度からの一撃離脱による戦法と、複数機で戦闘が課せられ。
さらに、ゼロ戦は極度の軽量化によりダイブ速度360ノット(667km/h)に制限されている。
一方の敵は、頑丈な機体のため、400ノット(740km/h)以上である。
急降下で逃げられると、まず追いつけない。
竹部は、戦闘が終わって基地に帰投すると必ず、今日の反省を促した。
「新谷少尉 今日の敵は相手の電探で高高度で待ち伏せされているという状況です。どう考えても不利です。そんな時は、必ず機を滑らせて弾をそらしてください。相手の弾は。12.7mmです。20mmの機関砲と違って、直進性がいいいです。4門から6門くらいあるんで、注意しないと操縦席何かは、貫通します。それから、手順書の胴体タンクではなく、翼内タンクに切り替えて空戦は行ってください。翼内タンクを打たれるとあっという間に火だるまですだし、空戦は全開で通常航行の4倍の燃料を食うです。」
と釘をさされた。よく、竹部はよくゼロ戦を研究していると感心した。
「20mmは、ほとんど当たりません。7.7mmで頭を押さえてから、照準器いっぱいに入ったところで打つんです。新谷少尉の52型は20mmは100発以上あってベルト給弾式ですから余裕があります。
7.7mmは各700発ありますから十分に打ち込めばいけます。」
実際20mmはほとんど当たらない。当たれば炸裂弾だから、翼が吹っ飛ぶくらいだが、地球引力に引かれて、直進せずに下方に流れることが多い。もともと、地上攻撃に有効ということで搭載されたものだ。
敵も、それは心得ているから、12.7mmの機銃なのだ。
「F6Fは、空冷ですが、P38やP51は、液冷ですから発動機を狙えば、オーバーヒートして落ちます」
と各種の敵機との戦法まで教えてくれた。
「竹部飛行兵曹長は、そんな情報をどっから持ってくるんですか。」
「落とした敵機の残骸を、整備の連中と一緒に鹵獲に行くんですよ。なんせ部品撮りにばっちりですから。F6Fなんか、不格好な機体ですが、搭乗員を守るために前方4枚、後方に1枚の防弾版があるんですよ。もちろん燃料タンクも特殊ゴムと自動消火装置付きです。敵さんは、分かってるんですよ、飛行機の替えは効くが、搭乗員の替えは効かないんです。一人前の搭乗員になるには、最低5年以上はかかるんですよ。」
新谷たちの、搭乗訓練は100時間程度で実戦に送り出された。さらに、海軍なのに空母への着艦訓練もなしだ。もっともミッドウェー、マリアナ沖海戦以来、まともな空母はほとんどなく、商船や客船を改造した空母での発着訓練など、未熟な技量で貴重な航空機の損失を招くだけだ。
「だから、敵さんはかならず洋上で脱出させて、潜水艦で救助に来るんですよ。訓練に掛かる時間と金とかを考えると、救助したほうが安いんですよ。敵さんは、人命より金の算段をしてるんですよ。それがまた、経験をつんで空にあがってくる、最新鋭の機体でね。こっちは、型落ちした機体で挑まなきゃならない、熟練搭乗員なんて、ほとんどいませんよ。ほとんど戦死しています。私みたいな勇敢でなく臆病ものだけが生き残っていますけれどね」
と自傷ぎみに笑って見せた。
新谷は、前に飲んだ時に竹部飛行兵曹長に、なぜ飛行機乗りなったのかをきいたことがある。
「私は、福岡の田舎の水のみ百姓の次男でね、家は長男がつぐんで次男は出て行かなくちゃならない、さらに親父が、満州事変で死んで、さりゃ大変なことになって中学も途中でやめて、志願して海軍の機関兵として、入隊して軍艦に乗っていたんだけれども、水上飛行機とかかっこよくて、また海軍のなかのしごきにも嫌気がさして、もう勉強して勉強して、飛練 (飛行科練習生)に入ったんですよ。入っても、振り落とされて原隊復帰を言い渡されるのが怖かったな。はれて航空隊に配属されて、空母での訓練なんかもひやひやだったよ。その空母もミッドウェーで沈んでもうないけどね。いままで、なんとか生きてこれたのも、機体の整備だけは、海軍で機関兵をやってたから、大切だとわかっていたから万全を期しているんですよ。」
新谷みたいな、将校と違って一般兵卒出の竹部が少尉になるのは、10年以上かかる。その十年を生き残ることができないのが、戦争なのだ。
4年かかる予科練を即席の半分以下で、修了。即席の搭乗員なのだ。
そんな、搭乗員が生き残れるほど戦場は甘くはなかった。
南方に派遣された同期の戦死の話を聞かない日はない。
朝飯を食って、夕飯の時に居ないのはざらだ。
そんな感覚も麻痺していく。
そんな中で、竹部だけは、新谷に
「こんな戦争は時期におわりますよ。新谷少尉達が、その後を作るんです。私がシナにいたころ、"60k爆弾を落とすのに、千円かかるのに、その穴を埋めるのに50銭で済む二千対一なんだ"といっていたことを聞いたことがあります。始まったときから、この戦争が消耗戦だとわかっていたということです。だからこそ、生きて日本に帰りましょう。そのために生きる努力をしましょう」
といったことがあった。竹部の言葉には、投げやりではなく確固たる信念が感じられた。
参考資料 修羅の翼 角田 和男著書 光人社
ゼロプロジェクト 映像
くらべて飛行機 東京書籍
ウィキペディア
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ゼロ戦操縦 酒井 三郎
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