第3話
神殿と言うには簡素な造りだった。
装飾は、他の国、他の宗教の神殿と比べても控えめで数が少ない。
神殿の一番奥に祭壇が有る。正面の壁には、女神の彫刻が静かに佇んでいる。
微笑みを絶やさぬ女神は、右手に持った剣を天に掲げ、左手には本を抱えている。
その祭壇の前で、一心不乱に祈りを捧げる少女の姿が有った。
巫女装束を羽織った彼女は、石畳に跪き、手を胸の前で組み合わせ、目を瞑り、唯只管に祈りと魔力を奉じている。
<湖上の姫巫女>とも呼ばれるエリシールは、この数日、銀色に輝く髪を梳く事無く、ずっとこの体勢のまま、結界を張り続けていた。
本来なら美しくサラサラと流れる様な銀髪は、色艶を失い、若干くすんでいる。放つ魔力で体が輝いていてもそれが分かる。
髪を洗ったのは、祈りを捧げる直前に行った禊が最後だった。
周囲の侍女や両親である国王と王妃は、ただ心配そうに見守っていた。
体力もそろそろ限界だろうか、と。
彼らに出来る事は現時点で何も無いのだ。
そして当の本人も、現時点で出来る事は結界を張る以外に無い。
エリシールは祈り手だ。
文字通り、信仰する神に祈りを捧げる巫女である。神官である。
ただそれだけの存在だ。それ以上でもそれ以下でも無い。
つまり、自らが戦う力を持っていない。彼女の力は結界のみだ。
本来は結界にも幾つか種類が有る。
大別すれば、防御用・回復用・攻撃用の三種類。
元々の結界の役割は、敵を退け、邪気を払い、魔を滅する領域である。
敵の侵入を防ぐ防御用の結界は、味方を囲む事で敵との接触を避ける物だ。
邪気を払う回復用の結界は、対象を囲む事で呪いや毒を浄化し、傷を癒す。
そして攻撃用の結界は、敵を包む事で弱らせたり消滅させる事が出来る。弱らせると言う意味では、封印用もこの範疇に入るだろうか。
この国が、そして彼女が信仰する女神・メルクリアスは、剣と本を携えている。それは、力と知恵の象徴だ。
エリシールに取っては、この国の剣が近衛騎士団で、知恵は学者や参謀達なのだ。
自分は民を守る盾になれれば良いと常々考えていたから、自らに剣を持たせる事は全く頭の隅にも無かった。
その発想も無く、修練を積んでいなかった。
浄化する事は少しなら出来るが、敵にダメージを負わせる攻撃型の結界は彼女には作り出せない。
守護に特化しているのだ。それは、優し過ぎる事の裏返しでも有った。
たとえ敵であっても、傷付ける事を嫌うエリシールの優しさ故でもあった。
ただその代わりに、自分が作り出す結界については、絶対の強度と操作性を追及してきた。
それは、先代の巫女であった大婆様より指名を受けて以来八年間、いや、生まれつきの魔力を制御するために物心付いてから十年間、毎日欠かさずやって来た修練の結果でもある。
その『盾』を使う時こそ今だと、彼女は理解している。
外で戦っている者達が敗北した時、この結界が最後の砦なのだ。
少なくとも、魔物の大群が消え去るまで、結界を張り続けなければならない。
「…しかし…何故こうまで多重に張る必要が…?」
「陛下、残念ながら、これは姫様のご意志です…安全性を考慮するならば、二重三重に張っておいた方が宜しいかと申し上げたのですが…」
それは分かる。だがそれならば、それこそ二重か三重で良い筈だ。
エリシールは現在、湖の外側に二つ、湖の中ほどに二つ、島の最外周に一つ、島の中ほどに一つ、王宮に一つ、そしてこの神殿に一つ、結界を張っている。
合計八重の完全球形である。
実際問題、そこまで多重に結界を張る必要が有るのか疑問なのだ。
幾ら魔力を膨大に持っている彼女でも、シルヴェスターの護符が無ければ、一日と持たなかっただろう。
これについては家臣達も困惑している。
そもそもエリシールに伝えたのは二つか三つである。しかも地上部分だけだ。
それでも莫大な魔力が必要となるのだが、変更したのは彼女自身の提案である。
安全策は手厚い方が良いとエリシールは押し切ったのだ。
事前に三賢と五人の戦士達の知遇を得ていなければ、エリシールもこんな提案はしなかったであろう。
神託を授かった時、既に覚悟はしていた。何日も長引き、体力と気力を消耗するであろう事は。
ネヴィルの見立てでは、穴を塞ぐのに三日程掛かると言われた。恐らく楽観的に、との但し書きが付いてだ。
全てのモンスター達を殲滅するのに、今のままでは更に三日掛かるかも知れないと釘も刺された。
つまり、魔物達が大挙して押し寄せてから、余裕を見るなら少なくとも七日程度は結界を張り続けないといけないと言う試算だった。
それでも彼女は祭壇の前に進み出た。全ては民を、この国を守るためだ。
預言の日から今日で四日目に突入した。
結界を張った彼女には、現場の状況が手に取るように分かる。
映像が脳裏に流れ込んで来るのだ。
上から俯瞰する様な視点は、数年前から見える様になったものだ。
結界を張ったその場所がどうなっているかを確かめたいと思って身に着けた力だったが、今回は想像以上に精神を磨り減らす光景が広がっていた。
有象無象の魔物達がひしめき合い、まるで一つの壁の様に、或いは黒い津波の様に押し寄せている。
最初見た時は目を疑い、思わず集中を切らしそうになった。
だが良く観察すると、その集団は完全に統率された訳では無い。『大群』ではあるが、『大軍』では無いのだ。
その壁の僅かな隙間を、罅を、砕く様に、押し広げる様に、五人の英雄が戦っている。
そう、彼らは助っ人なのだ。あくまでも。
近衛騎士団のメンバーでは無いので、途中で匙を投げても構わないのだ。
しかし彼らは投げ出す事無く、この三日間戦い続けている。いや、今日で四日目か。
二日目、朝の出撃前に、自分の後ろで父王がアリスとシルヴェスターに聞いた。
何故そこまで必死にやってくれるのか、と。
返って来た答えはシンプルだった。
―――友達ですから―――
普段から常に冷静で感情を表に出さないと言うシルヴェスターも口角を歪め、特にアリスは満面の笑みだったらしい。
一日目から地獄の様に凄惨な場所で戦っていたのに、それでも継続するのはどれほどの決意が必要か。
そう思っていたが、父も母も、そして家臣団も呆気に取られたと言う。
そんな彼らの厚意を無駄にしてはいけない。
(女神様…そして大婆様…今一度、私に力をお貸し下さい…この国を…友人達を守る力を…)
信仰する女神と先代の顔が脳裏に浮かぶ。
三年前、大婆様が死の床に臥せった時、エリシールは手を握られた。
そして頼まれたのだ。この国を、民を守ってくれと。
それからこうも言われた。巫女は代々指名制だが、この数百年で王族から出たのは数える程しか居ないと。
――済まぬ…まだ子供のお前に、こんな重責を負わせて――
カサカサの手を自分の手に重ね、死の間際にそんな事を呟いた。
この国の巫女は、毎日祈りを欠かしてはならない。
それこそが力の源泉であり、信仰なのだ。
だから、選ばれたその日から、王宮の外に出る事は難しくなる。
実際、エリシールは、巫女になってから八年間、王宮の外に出た事は数える程しか無い。
そう、その全てを思い出せる程度には。
大婆様も、父母も、皆その境遇を哀れんでいた節が有ったようだ。
だからこそ、最後に先代はこう言ったのだ。
本来ならば、もっと外に出て民と交流を持つ事も出来た筈なのに。
しかしエリシールは、泣き言一つ言わなかった。
それは、巫女に選ばれる前から、たとえ選ばれなくても、姫であるが故の覚悟を、幼いながらに持っていたのだ。
自分の魔力は、民を、王国を、皆を守るために有るのだ。
あの時は泣き腫らして伝えられなかったが、今はちゃんと言える。
私は、自分を不幸だと思った事は一度も有りません――。
「良い決意だ」
不意に背後で声がした。
自分は今動けないので振り向けないが、数日前に聞いた事が有る。
見守っていた家臣達とエリシールの間に、何時の間にか一人の男が立っていた。
草臥れた埃塗れのローブを着込んだ中背の魔術師。
「おお!ネヴィル様!」
「『様』はやめてくれ、そんなガラじゃねえよ」
青年から壮年に差し掛かる見た目のこの男は、金色の長髪を揺らし、否定する様に顔の前で手を振りながら、エリシールに近付いた。
「そのまま聞け。神酒はアイツらに渡して来た。もうすぐ穴も塞がるだろう」
「はい」
顎の無精髭を触りながら、エリシールの後ろに立った。
ネヴィルの金色の瞳に、憔悴し切り、気力だけで祈る少女の背中が映る。
「これから姫さんに力を与える。うちの連中を助けるために、な」
「はい」
もう片方の手をエリシールの肩に置く。
「俺の魔力を姫さんに流し込む。一時的にだが、お前さんに剣を与える」
「はい」
エリシールは結界を張るしか能が無い。
つまり、彼女に取って『剣』と言う言葉が意味するものは一つしか無い。
返事を聞きながら、男の魔力が増大していく。
ローブが下から風を受ける様にたなびき、その魔力がネヴィルだけで無く、エリシールをも包み込んだ。
「手加減は保証しねえぞ」
「はい」
「他人の魔力を直接受け取るのは本来負荷が高いからな。あの眼鏡小僧が難無くこなせるのは、マナ・キャンセラーで受け渡しに慣れてるからだ。慣れねえヤツがやると、相手に負荷を掛け過ぎて精神も肉体もボロボロになる」
説明を続けながら、魔力をエリシールに流し込んでいく。
「うっ…ぐっ…」
「最悪死ぬ。だがそうそう時間も無い。だから一気に渡す。絶対に結界を絶やすな」
エリシールは全身を駆け巡る痛みに耐えながら小さく頷いた。
頷いた瞬間、ネヴィルから莫大な魔力が流れ込む。
まるで洪水の様な負荷がエリシールを襲った。
「う゛っ、ああああああああああああああああああああああああっ!!!」
神殿に絶叫が響き渡り、周囲の者達は思わず顔を顰めた。
今まで感じた事の無い激痛に必死に耐える。
自分が気絶すれば、或いは死ねば、結界は消えてしまう。
既に四日目に突入し、体力も気力も限界に近い彼女を支えているのは、この国を守ると言う使命感だけであった。
「これから指示を出す。その通りに結界を張り直せ」
肩を上下させ、粗く息をしながら、エリシールはそれでも気丈に頷いた――。