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もったいなくない運命狂走曲

作者: 克微 ショウ


 あれは一年前のことだったか、二年前のことだったか、はたまた三年前のことだったか。多分、四年前のことではなかったと思う。

 世間を賑わせた、ある男がいた。

 気に食わない。

 その一文だけを遺し、この世から去った男だ。

 彼はどういう訳だか練炭自殺をやめ、踏切に入り込んで自殺しようとしていた女性をどういう訳だか助けて、死んだ。

 その不可思議な行動と人助けの美談に人々は惹き付けられたようで、その事件は一週間程ワイドショーで取りざたされていた。

 彼は何故死のうとしたのか。そして何故死ぬのをやめたのか。テレビの向こうの人々が、フリップに張り付いた紙を剥がしながら、議論を交えつつ考察していたのが記憶に深く残っている。

 彼は過去に恋人を寝取られた。彼は過去に受験に失敗した。彼は不治の病に罹っていた。彼が意図的に残した『気に食わない』の一文以外の情報をマスコミは列挙し、壮大なストーリーを無粋にも事件に添加したがった。

 だが、僕は初めてその事件についてテレビで観た時、『気に食わない』のたった一文だけで、理解した。彼はどうしようもなく気に食わない運命にあらがったのだ、と。そして僕はその日から、彼への憧れを胸に抱いて生きてきた。

 彼に倣って、僕も何かいい一文を遺して死にたい。そう思っているが、なかなかいいものが思いつかない。

 まだ時間はあるが、もうそれほど時間はない。本腰を入れて考えなければいけない。

 開いていた本をはたりと閉じて、乱雑に床に置く。タイトルにちらりと目をやる。『自殺うさぎの本』。うさぎ達が回りくどく自殺をしようとする、コミカルでブラックな絵本だ。

 そして僕も今日、このうさぎ達のように、回りくどく自殺する。

 何故僕は死ぬのか?

 そんなことはきっと、ワイドショーが解説してくれる。


            ***


「もったいない!」

 俺は思わず、叫んでしまった。

 夜も深まって日付も変わり、月も高く昇り外も静かになっていた。近所迷惑だと頭では理解できたが、それでも俺は思わず、叫んでしまった。

 もったいない。

 声を荒げてそう叫ぶと、二十メートルほど先の愚鈍な女性がびくりと肩を震わせ、俺の方を素早く向いた。その表情からは、簡単に恐怖の色を読み取ることができた。

 時が止まった。そんな気がした。彼女の体は、突然の出来事への驚きで動くことを忘れていた。俺も俺で、ついカッとなって叫んでしまった後、どうすればいいのか分からなかった。

 気まずい。そう感じた瞬間――がたんごとん、ちゃりんちゃりん――自販機が無遠慮に音を鳴らすとともに、止まった時が動き出した。

「きゃああああああっ!」

「ま、待てっ!」

 女性が甲高い悲鳴をあげながら逃げ出し、慌ててそれを俺が追いかける。彼女はまだ、お釣りもコカコーラも回収していない。それはもったいないし、俺が伝えたい事が一ミクロンも伝わっていないのは俺の好意がもったいないので、急いで追いかける。

「わ、忘れ物っ! お釣りとっ、コーラッ!」

 必死で前方に声をぶつけるも、彼女には届かない。彼女にとってきっと今、俺はストーカーみたいなもので、俺の声は全て罵声に聞こえているのだ。

 ……じゃあ、彼女のためを思って走っても叫んでも、時間もエネルギーも、もったいないだけじゃないか。

 そう気付いて、俺は立ち止まる。心臓が暴れていた。汗が吹き出し、呼吸が制御できない。ああ馬鹿らしいもったいない。俺も彼女も近隣住民も、全員が損をしてしまった。

 本当に、もったいない。

 その場にしゃがみ込み、溜め息を吐く。かすれた吐息が喉に引っかかり、咳が出る。

 右手で汗を拭いながら腕時計を見てみると、午前一時四十五分。秒針も「僕を見て」と言わんばかりに忙しなく動いていたが、あいにく彼に用事は無い。しかし折角の働きを無駄にするのももったいないので、大した意味も無いが読んでやる。現在、三十五秒から三十六秒。

 だからどうした。心の声をそのまま呟きながら、左腕を下ろす。すると、視線の先に、さっきまで無かったモノがあった。

「……お前は」

 うさぎだった。

 夜闇の中、色までは分からなかったが、確実に長い耳を持ち、確実にふわふわした毛を持っていた。これは間違いなく、うさぎ。俺はうさぎを迷いなく両手で持ち上げながら、立ち上がる。両手を伸ばし、同じ目線で、うさぎと見つめ合う。紅い瞳と黒い瞳の視線が、確かに合った。

「なあ、お前さ、知ってるか?」

 うさぎが小首をかしげる。「なんのこと?」と訊いているようだった。

「あそこのコンビニ、あるだろ」

 踵を返し、さっき全速力で通りすぎていったコンビニの方を向く。が、うさぎの背になってると気付き、慌てて一八〇度回転。コンビニをコンビニと認識できるかは知らないが、とりあえず、見せておくだけ見せておく。

「そこでさ、コカコーラがさ、自販機よりも安い値段で売ってんだ」

 愚か極まりないあの女性に教授しそびれたおトク情報を、うさぎ相手にひけらかす。当然うさぎは、うんともすんともにゃあとも鳴かない。どうせ理解もしていない。だから声帯を震わすだけもったいない。でも、なんとなく、誰かに言わないと、気が済まなかった。

「……お前さ」

 ついでにもう一つだけ、言っておきたいことがあった。

「真正面から見るとさ、案外似てんだな。ピーターラビットに」

 うさぎが小首をかしげる。「誰のこと?」と訊いてるのか、「そんなに似てる?」と訊いてるのか。判断がつかないが、まぁどうでもいい。

 小動物様との不毛な会話を終えようと、ゆっくり地面に下ろそうとする。と、そこで新たな発見。このうさぎは首輪をしていて、そこに新しめのネームプレートがついている。

「まぁそりゃあ、飼いうさぎだよな」

 目を近付けて見てみれば、そのネームプレートの上で、物騒な四文字と、ゼロから始まる九桁の数字がシンプルな書体で踊っていた。

『死にたい 090-XXXX-6658』

 飼い主の名前が死にたいなのか、うさぎの名前が死にたいなのか、はたまた飼い主が死にたいと考えてるのか、うさぎが死にたいと考えてるのか。判断がつかないが、直感的に、一つ感想を述べるとすれば。

 なんだか、もったいない。


            ***


 じりりりと 今日も元気に 朝が来て そうして僕は 生きてると知る

 一首作りながら、僕は苛立ちに任せ目覚まし時計の頭頂部に拳を下す。鏡は見ていないが、僕の死んだ鮭のような目の下には大きなくまが出来ているに違いない。電話が鳴って僕が死ぬ。その運命の瞬間を、一睡もせず待っていたというのに、待ち人もとい待ち死神来ず。世界中の人々に分けてあげたいくらい、今日の僕の生存運はマックス。

「……とりあえず、着替えて、朝ごはん食べて、学校へ行こう」

 死ぬつもりだというのに、僕の思考は当たり前のように日常の行動をTODOリストに叩き込む。当然のことながら今日提出の課題も今日の授業の予習も何もやってない。そもそも学校に行く必要もない。けれども親に不審がられるのも面倒なので、やはり、学校には行こうと思った。

 悩む余地もなく制服に着替え、朝食を胃に流し込み、顔をごしごし洗ってみる。くまは消えないし、疲れきった顔もちっとも治らない。そしてふらふらになりながら、学校に繋がる道をいつものように進んで行く。太陽が眩しい。徹夜明けだからか、それとも、自殺をやましく思う心が灼かれているからか。答えは授業中に出た。前者だ。

 それから僕は、疲れきった顔のまま、学食にて安価な牛丼を食べ終えた。昼休みは残り一五分になっていたが、死ぬ人間は午後の授業に出る必要がない。屋上にでも行ってまた違う死に方を考えよう。そう思って、席を立った。その瞬間。

「もったいない!」

 隣から怒号。恐る恐るそちらを向けば、案の定声の主は僕に向かってそう怒鳴っていた。いったい僕が何をしたというのだ。

「な、なにが?」

 問うてみれば、隣の男は先程とはうってかわって静かに「ん」と僕の食べ終えた後の丼を指差した。撥音一つじゃ何一つ分からない。

「ご飯粒、もったいないだろ」

 男は僕の困惑した顔をぎろりと睨み、今度は言葉で指摘した。確かに僕の丼にはまだ数粒ほど米が残っていた。しかし、彼の言うことを素直に聞いて座り直すのも癪だ。僕は今、機嫌が悪いのだ。

「君には関係ない」

 死んだ鮭のような目で睨み返す。男はますます眉に皺を寄せた。

「俺には関係ないが、米には関係あるだろ。米はお前に残されるために生産されたんじゃないし、お前に残されるために品種改良されたんじゃないんだぞ」

 僕だってこんな馬鹿みたいな口論をするために生まれたんじゃないし、この高校を選んだわけでもない。僕はただ、運命の巡り合わせで米を残しただけじゃないか。ああ、面倒くさい。

「僕は今、機嫌が悪いんだ。放っといてくれ」

「米だってお前に残されて機嫌悪いだろうし、だいたいお前、機嫌が悪いって自分でアピールして、子供かよ」

「ああ、子供だよ」

 口論は無駄に体力を使うから嫌いだ。ゆえに僕は彼の発言をさらりと受け流し、食器を返却しに行く。割烹着のおばちゃんは丼に残った米粒を見ても笑顔を崩すことはなかった。やはり、異常なのは彼だ。未だに怒りを顕わに、遙か後方から「絶対、もったいないお化けが出るからな!」なんて叫んでいる。どっちが子供だ。肩をすくめ、僕は屋上へと向かう。

 屋上の空気は悪くなかった。僕の気分は良くなかった。今のところ良い点は二つ。僕一人で貸切状態であることと、眺めが結構いいこと。

「僕は、いつでも、死ねる」

 柵を超えた先の足場に座って、呟いてみる。

 そう、僕はいつでも死ねる。

 兎に託した電話番号に電話が来ることで起こる振動で仕掛けが作動してボウガンが僕の頭部を貫く――なんて、無駄に何度も練習した挙句失敗してしまったようなややこしい方法さえとらなければ、いつでも死ねるのだ。そう、重心を移動させれば、次の瞬間にも僕は死ぬことができる。

 でも、ここから落ちて死ぬのは、あまりにも単純すぎる。

 受験勉強を苦に、突発的に自殺。

 そんな単純な見解が為されないように。

 もっともっと計画的に、複雑に、世間に爪痕を遺して、僕は死にたい。

 目を瞑る。風が気持ちよかった。これから先の未来を考えなくていいと思うと、その約六十年分だけ背中が軽かった。この穏やかな気持ちを、ずっとずっと、味わい続けていたい。死ぬまで、ずっと。

 それなのに、扉が開いた。屋上には滅多に人が来ないというのに、いったい何故、こんな時に限って。僕の静かな時間を妨げるのは誰だ。振り向いて、柵越しにその相手に鋭い眼差しを向ける。

 そこに立っていたのは――


            ***


 完全に勘だった。何故か、あいつは屋上にいると確信できた。そして見事、その勘が当たった。そういうわけで今、米粒の呪怨を背負ったあいつと俺は、再び対峙していた。

「よう、やっぱりここにいたか」

 軽く手を振り、憤怒を裏に隠したぺらぺらの笑顔で、けしからん同学年生に挨拶する。向こうは俺を睨んだままだが、まぁいい。

「僕に構う時間の方がよっぽどもったいないと思わない?」

「トータルだ、トータル。人生ってのはトータルで決まるんだ。俺がお前を説得する手間と、今後の人生でお前が残す米粒の量、二つを比べて、よりもったいないのは後者だ。だから俺は、お前を叱りに来た」

 俺は威勢よくあいつを指差す。するとその瞬間、何故かあいつは笑い始めた。柵の向こう、立ち上がって、手を打って、大爆笑していた。

「今後の人生? あはは、はっはっはっはっは!」

 なにがおかしい、なんて漫画みたいな台詞を吐き出しそうになって、喉元でとどめる。いや、でも、やっぱり言いたい。なにがおかしい?

「今後の僕の人生なんて、片手で数えられる程しかないよ。僕は死ぬ。しかも、屋上から飛び降りるなんて簡単な死に方じゃなくて、もっともっと、複雑な死に方で」

 僕は死ぬ。そんな言葉を聞いて、思い出すのは昨日のうさぎ。死にたいという文字の下に書かれた、電話番号。俺はあの時、電話を掛けなかった。わざわざ死ぬ奴に掛ける電話代がもったいなかったからだ。

 僕は死ぬ。目の前のあいつは柵越しにそう言った。勝手気儘な自殺願望をうさぎに引っ提げさせた飼い主は、もしかして。

「もしかして、昨日のうさぎは、お前のか?」

 勘繰る時間がもったいない。思考を巡らす時間がもったいない。だから俺は率直に訊いてみた。そして案の定、あいつは目を見開かせ、驚きの色を露骨に示した。

「僕の邪魔をしたのは、君だったのか!」

 柵を越え、あいつは初めて俺と真剣に対峙した。ご飯粒ご飯粒、なんて言っている場合では最早ない。

「お前、保険金はおりるのか? ドナーには登録したのか?」

 詰め寄りながら問い詰める。「いや、べつに」と聞こえた瞬間、「もったいない!」と怒鳴り散らす。そもそも死ぬのがもったいない。何も生み出さずに死ぬなんて論外な程にもったいない。よってこいつは最大級にもったいない。死後、もったいないお化けが大挙してこいつを地獄に連れて行くに違いない。

「何度でも言う。君には関係ない」

「そうだな、俺には関係ない。でも、お前の家族には関係があるだろ。お前が意味なく死んだら、それに伴う諸費用がもったいない。葬式で流される涙も出る食事ももったいない。そうだ、家族会議を開け。そしてペット含め過半数以上の賛成を得たなら勝手に死ねばいい」

 もう負ける気がしなかった。何に勝つのかもよく分からないが、とにかく意見を押し通して、もったいない行為を削減出来る気がした。今の俺にかかれば、もったいないお化けだって成仏する。

「だいたい君さ、もったいないとか言ってるけど、このまま僕が生きている方が、遙かにもったいない」

 だが、あいつがそう言った瞬間、俺の思考回路も口の動きもぴたりと止まって、饒舌に動いていた舌が急にしゅんとして大人しくなった。

「なんだよそれ、どういうことだ」

「人生はトータルなんだろ? 僕がこのまま生きてるより、今ここで死んだ方が、色んなものが有効に活用されるってことだよ」

 なんだよそれ、なんだよそれ。同じ言葉が頭の中でリピートされる。いったいなにが、なにがそんなに、彼をそう思わせているんだ。

「……お前はなんで、死のうとしてるんだ?」

 あいつは「それは」と口を開き、一旦閉じて目を伏せて、それからもう一回、強かった眼差しを脱力させてから、無気力に言葉を紡いだ。

「それはきっと、ワイドショーが解説してくれる。大衆の興味を引くように、あれこれとドラマを組み込んで、教えてくれる」

 言い終えた瞬間に、授業開始五分前を知らせる予鈴が鳴った。急に自分が何も出来ないように思えて、自分がちゃんと立てているのかも分からなくなる。

 青い空の下、風が吹いた。爽やかな空気とこの状況のギャップに、吐き気がした。

 とりあえず、サボってしまっては授業料がもったいない。止まってしまいそうな頭でそう考え、俺は為す術なく、一時撤退を選んだ。


            ***


 今夜こそ死ねる。

 僕はパソコンの前、頬杖をつきながら確信した。思わず笑みがこぼれる。

『死にたい 090-XXXX-6658』

 画面に表示されている文章は、有名な巨大掲示板に書き込んだものだ。インターネットの海に託したボトル。悪趣味な人間揃いのこの場所なら、誰かしらボトルの栓を開け、電話してくるに違いない。そして僕は昨日と同じ装置でボウガンに撃ちぬかれ、死ぬ。

 大学のための受験、就職のための大学。就職してからは退職金のために個を捨て波風立てぬよう働き、待っているのは住みづらい老後。平凡な僕はこのサイクルに何も抗えず飲み込まれ、何も見つけられずに漫然と日々を消費し、何も為さずに命を終える。平凡な僕は世界に関係ない。僕のちっぽけな存在では何も変わらない。そんな運命を、僕は感じた。だから僕は死ぬ。生きてる意味を見失ったくらいで死ぬ必要があるのかは分からない。だけど、死のうと思った。気に食わないこの運命を手っ取り早く終わらせた方が、楽な気がしたから。

 贅沢を言うなら、あの人のように人を助けて死にたかった。しかし実際そんな現場を目撃することはまず無い。そもそも、目撃できたところで、僕という人間はきっと逡巡無しに危険を顧みず身を投じるなんて真似は出来ない。それが出来るなら、きっと今、死のうだなんて考えていない。

 あれこれ思考を巡らす内に、僕の書き込みに対しレスポンスがつき始めた。そろそろ、電話がかかってくるはずだ。そう、そろそろ。

 ちらり、とボウガンを見る。そしてすぐに違和感を覚えた。そう、僕は今、ボウガンを、おそるおそる、機嫌を伺うかのように、見なかったか? まるで、今更死を怖がっているかのように。

「馬鹿な。怖くない。今更、怖くない。もったいない? もったいなくない。そうだ、関係ない。誰とも関係ない」

 無意味に画面を上下にスクロールしながら呟いた瞬間、音が鳴った。あり得ないほどに肩が跳ねる。

 死んだ? 死んでない。いや、違う、これは、着信の振動音ではない。これは……ベランダから、窓を叩く音?

 立ち上がって、カーテンを開ける。そして、瞠目する。二畳分の窓の向こうには――あいつがいた。

「おいっ! お前っ! うさぎを返しにきたぞッ!」

 うさぎを小脇に抱え、他人の家のベランダで迷惑指数を考慮せずに高らかに叫ぶのは、もったいないお化けの手先。どこから侵入したんだ、どうやってここを知ったんだ、何故わざわざうさぎを返しに来たんだ。疑問は尽きない。

「君はいったい――」

 なんなんだ。そう言おうとした瞬間、空気が震えた。かと思えば、あっという間に、暴力的な音がした。何かが弾けた。音のした方向を見る。パソコンが壊れていた。本当なら、こいつが現れずにずっとここに座っていれば、僕は死んでいたはずだった。なのにまただ。また、失敗した。

 目の前の男は、当惑する僕などお構いなしに窓をどんどん叩く。あけろ、あけろと言っている。仕方なしに開けてやれば、開口一番、当然の如く、「もったいない!」。

「無為にパソコンを壊して、お前は何がしたいんだ! もったいない!」

 烈火のごとく、顔を真っ赤にして、僕に向かって叱り飛ばす。僕の方が怒りたいくらいだというのに、こいつは、いったい。もはや憎しみも怒りも湧かない。ただただ、理解できない。

「何がしたいって、自殺だよ、自殺」

「ああ、そういえばそうだったな。確かお前、複雑に死ぬとか言ってたよな? なんでわざわざ、そんなことするんだ?」

「世間を騒がせるためだよ」

「騒がせる? 何のために?」

 よくわからない、という顔をするもったいないお化けこともったいない人間に、僕は「平凡な僕の存在を特別にするために」と簡潔に説明する。が、それでもまだ、もったいない主義者はよくわからない、という顔をしていた。

「ただ普通に死ぬだけじゃ、別段珍しくもなんともない。ミステリアスな事件ほど、世間の興味を引く」

 それでもやっぱり、もったいない教狂信者は合点がいかぬと唸る。唸って唸って、そして「結局お前はさ」と口を開く。

「結局お前はさ、死にたいのか? それとも、目立ちたいのか?」

 うぐり、と唾を飲む。今の言葉は、僕の核心を貫いた。

「それは――」

 言葉に詰まる。死という選択肢は、多分、あの人をなぞろうとしたからだ。運命に抗うために死んだ、あの人を。でも本当に死ぬ必要があるのかは、分からない。だから僕は不確定要素を自殺の行程に混ぜて、自らの死を運命に任せようとしていた。

「それは、……よく、わからない」

 僕は何をしたい? 死にたい。楽になれるから。一番初めに抱いた想いは、本当に、そうだったか?

「僕は、ただ――」

 僕は、非凡になりたかったんだ。最初は、それだけだった。それに、色んなものが混ざっていって、全部叶える最適解が、死として導き出されたんだ。

「ただ、平凡でありたくなかった、だけだ」

「なら、お前はとりあえず普通じゃないことをやってみろ。そうだ、ストーカーでもやればいいんだ」

 何故彼は若くしてストーカー行為に至ったのでしょうか。きっと、平凡な運命から脱したかったのでしょう。そんな間抜けなワイドショーも、面白いかもしれない。

 だから僕は、そんな馬鹿げた提案に首肯してしまった。


            ***


 頭がおかしい。

 別になんでもよかったのに、何故あえてストーカーを勧めたのか。自分でも全くわからない。頭がおかしいとしか思えない。それに賛同したこいつも頭がおかしいとしか思えない。

 頭がおかしいとしか思えないけども、あの騒がしい夜の翌日、日が昇りまた沈んだ夜、俺達は今、ストーカー行為を行なっている。腐れ縁だよ腐れ縁、などという自殺野郎の訳の分からない論理で俺も協力させられているという点が非常に頭がおかしい。時間の無駄、労力の無駄。果てしなくもったいない。

「俺としては、寝ることは死ぬことの練習なんだと思う」

 ブロック塀の陰に隠れながら、俺は小声で教授する。自殺野郎は小首を傾げている。

「眠る時の気持ちよさを考えれば、眠るように死ぬ時、きっととんでもなく気持ちいいに違いない」

 目標を見失わないよう注意しながら、俺は語る。自殺少年は「へぇ」と軽く相槌を打った。

「だから、寿命を全うせず死ぬのは、もったいない。今まで苦労して生きてきた分の年数と、得るはずだった快感が、もったいない」

「そういう考え方も、確かにあるかもしれない。でもそれは、些か自己中心的だ」

「そう言われたら、そこまでだな」

 足音をなるべく立てないよう、目標との適切な距離をとりながら進む。隣の自殺野郎がストーカー行為に対し何の疑問も持たずに爛々と目を輝かせているのが少々怖い。絶対宗教に嵌るタイプだ。

「……しかし、またあの女と会うなんてな」

 独り言をぽろりと漏らす。そう、今俺達が追跡もとい付け回しているのは、一昨日俺から全力疾走で逃げてった自販機コーラの愚鈍な女性。

 あの自販機でコーラを買ったもったいない愚か者をストーキングしよう、と提案したところ、現れたのはまさかの彼女だった。奇妙な縁だ。これは御もったいない神が俺に今度こそ彼女におトク情報を伝えろと言っているのに違いない。

 進んで、止まって、止まってる時間がもったいないと苛々して、また進んで、止まって、苛々して。繰り返す。ストーキングというのは非常に面倒だ。これと探偵だけは生業にするまいと心に決めた。

「あの女の人、さっきからよく止まる。ストーカーを警戒してるのかな」

 訝しげに自殺ボーイが呟く。ご丁寧に顎に手を当てている。探偵か、お前は探偵か。違うお前はストーカーだ。

「警戒だと? そんなもん、するだけもったいない。自意識過剰だ」

「自意識過剰って、実際ストーキングされてるんだから、すごい勘じゃないか」

「その勘で最安値のコーラを感じて欲しいもんだ。体内ストーカーセンサーではなく体内価格ドットコムを導入しろ」

「家電量販店荒らしになりそうだね。『このテレビ、向こうのお店じゃもっと安く売ってる気がしますよ?』ってね」

「スピリチュアル過ぎて相手にされないな」

 自殺男との雑談を適当に切り上げ、標的を見失わないように陰から身体を出す……と、あれ? 目が合った? ああ、目が合った。あの女と、目が合った。あの時と同じように、時が止まった。そんな気がした。

「や、やっぱり、あんたが――!」

 恐怖で震えた声が聞こえた。やばい。逃げられる。口を突いて出た言葉は「ま、待てっ!」。待つわけがない。もったいない無意味な台詞を吐いてしまった。ああ、これは、ストーキング失敗だ。……いや、失敗したところでぶっちゃけどうでもいいのだが、しかし、ちょっと悔しい。今まで追ってきた時間がもったいないからだ。溜め息が漏れる。

 さて、これからどうしよう。無様にもったいなくとぼとぼと月を眺めながら帰路に着くか。俯いてこれからの事を考えていると、ぽん、と隣のあいつが俺の肩を叩いた。

「君は顔かシルエットかを知られてるみたいだし、僕が気付かれないよう追ってみるよ」

 何を言ってるんだこいつは。「えっ」と思わず口に出してしまう。歯を見せてぐっと親指立てて、こんなやる気に溢れた爽やか系キャラだったか。やはり頭がおかしい。「ああ、任せた」と言ってみたものの、頭がおかしい。

 複雑に死にたがる自殺うさぎ少年が、まっすぐ迷いなく走り出す。その後ろ姿は、どういうわけか、未来を目指して走っているように見えた。そんな錯覚は、あいつにはもったいない気もするが。

「……しかし、あいつ、いきいきと走るな」


            ***


 戦線離脱したあいつの想いを一心に背負い、細心の注意を払い、僕はとうとう、目標人物の家まで辿り着くことに成功した。小奇麗ではあるが家賃はあまり高くなさそうなアパートを見上げながら、僕はあいつに電話をかける。はてさて一体ストーカーというものは相手の家に着いてからどうするものなのか。落ち合ってじっくりと教授してもらわなければならない。

『もしもし、着いたのか?』

「勿論。さっきの所からまっすぐ行って、二つ目の信号を右に曲がって、道なりに進むと着く小奇麗なアパート――名前は、菜秒荘というらしい。そこの――」

 二階の、手前から三つ目の部屋。そこまで言いかけて、ふと、気付く。僕は何をやっているのだろう?

「……ストーキングごときで、何か変わるものなのかな?」

『それを見つけるのは……お前次第なんじゃないか?』

 少し間を置いてから、あいつは答える。が、はったりだ。すぐに分かった。あいつ自身、意味もわからずやっているんだ。きっと内心、もったいないと思いながら、僕の心を紛らわすつもりで、そう仕組んだんだ。

「ストーカーをしたところで、楽にもならないし、話題にもならない。それこそ君の言う、もったいない、というやつじゃないか」

『いや、ふむむ、それはだな……』

 もったいない大明神が口ごもる。ほら、やっぱり、ああ、もう、駄目だ。僕の中で抑えられていた欲求が、また、溢れ出る。

「駄目だ! やっぱり、僕は、自殺するっ!」

 高らかに、月に向かって、宣言した。その時だった。

 女性の悲鳴が聞こえた。

『おい、今のは――』

 電話越しのあいつにもが聞こえたようで、いつもの無根拠に自信満々な声にも、明らかな動揺が読み取れた。僕は「二階だっ」と階段を駆け上がり、どの部屋から声が発せられたのかを、見極めようとする。

 また声がした。「だれかっ」と助けを呼ぶ声。先程よりも大幅にボリュームダウンしていたが、確かに聞こえた。その部屋は――二階の、手前から三つ目の部屋。

「まじかよっ!」

 あの女性の部屋だ。一体、何が起こったんだ。強盗? いや、お金目当ての奴がこんなアパートに押し入る訳がない。ならば、何故? 彼女は何に巻き込まれている?

『よしっ、早くっ、お前が助けるんだ!』

「助けるって、どうやって!」

 まずはこの部屋に入らなければいけないが、その方法が思いつかない。取っ手を引けば、やはり扉には鍵。初手からして早くも行き止まりの僕に、何が出来る。

 ベランダをつたって行くのも難しそうだ。あれだけの悲鳴だったというのに、両隣の住民も他の部屋の誰も助けに来る様子を見せない。薄情者め、臆病者め。僕しかいないのか。どうして僕しかいないのか。僕だって薄情者で臆病者なのに。

『今のお前はストーカーだろっ! 部屋の一つや二つ、簡単に侵入してみろよ!』

 そんなこと言われたって、どうすればいい? この部屋を開ける方法? 今この部屋には誰がいる? 扉の表札を見る、彼女は多分、一人暮らしだ。一人暮らしの女性と、あらかじめ部屋に侵入していた何者か。あらかじめ……あらかじめ、侵入?

 ――ああ、もしかして。

 僕の頭に一つの答えが浮かび上がる。

 そうだ。さっきあの人は“やっぱり、あんたが”と言った。前からこの人はストーカー被害に遭っていた。だからあんなに警戒していた。靄が晴れる。絡まった糸が、ぴんと張られた感覚。

 この部屋を開けるには、ストーカーを挑発すればいい。それは危険かもしれない。警告音が耳の内側から聞こえた。しかし、無視する。僕は死ぬつもりなんだ。もう、何が起きても、関係ない。

「おーい、僕だ。今日は僕が来たよ、開けてくれ」

 ぴんぽんとインターホンを押し、どんどんと扉を叩く。彼氏のふりをすれば、ストーカーは僕をどうにかしようとするはずだ。

 手を止めて、ストーカーの出方を待つ。額に汗がつたうのが分かる。僕が偽物の彼氏と見ぬける情報量と冷静さをストーカーが持っていれば、この扉は開かない。ごくりと息を飲む。

 開け、開け――――念じて、念じて、念じる。そして、祈り通じて、がちゃりと、扉が開いた。男だ。視認してすぐ目を瞑る。歯を食い縛る。何も考えずに、僕は思い切り、この身を投げ出し体当たりで先制攻撃。この感覚は、確実に捉えた。

 ばたんがたんと音がして、色んな所に身体をぶつけた気がした。ちっとも痛くない。下敷きにした男にもう一撃与えてから、「助けてっ!」という声に導かれて奥へと進む。そこには予想通り、縛られたあの女性がいた。

 創作でしか見たことのない状況だった。しかし僕は迷わず女性のもとへ近付き、自分でも驚く程の手際の良さで縄を解く。「ありがとう、貴方は……?」という創作でしか聞かないような台詞が女性の口から飛び出し、僕も僕で「通りすがりの――」と創作でしか聞かないような台詞を吐こうとする。……が、はてさて、僕は通りすがりの何なのだろう。通りすがりのストーカー? それは再び彼女を恐怖させることになるかもしれないし、ストーカー対ストーカーという構図は少々ややこしい。よし、ならば、こうしよう。そう、僕は――

「通りすがりの――下着泥棒です」

 最高に格好良く答えて、立ち上がる。同時にストーカー男も立ち上がるのが視界の端に見えた。すぐ振り返れば、その目はうさぎの目のように赤く充血していて、その肩は波のように怒りに震えていて、その右手には月のように光るナイフが握られていた。

 目が合った瞬間、男が迷いなく僕に向かってきた。不思議と怖くない。無根拠な自信があった。ああ、もったいない狂のあいつのが感染ったのか。

「早く逃げてっ!」

 そう言って、僕は男と取っ組み合う。入れ違いに、彼女が玄関の方へ走って向かっていく。

 よし、これで大丈夫。僕はにやりと口角を上げ、ふっと腕の力を抜いた。その瞬間、腹部に違和感。やはり痛くない。けれども、少しばかり熱い。ああ、刺されたんだ。すぐに理解した。

 ストーカーはご丁寧にナイフを抜いて、今更ながらに自分の行為に恐れおののき、僕の視界から離れていった。ついでに光も僕の視界から消えていき、僕の意識も消えていく。

 さて、今度こそ、死神は僕に微笑えんでくれるだろうか。


            ***


 気に食わない、気に食わない、気に食わない。

 リピート再生かよ、誰も聞いてないんだから、電池がもったいない。思わずそう言いたくなった。

 苦しそうな顔で、気に食わない、気に食わない、とうわ言を繰り返すあいつと、ベッドの上で楽しそうに飛び跳ねているうさぎ。

 見舞いに来てみれば、病室は随分と面白い様相になっていた。誰かの見舞い品のフルーツは少々齧られ、六羽だけの千羽鶴が寂しそうに吊るされていた。

 入院してから四日目。こいつが意識を取り戻してから二日目。意識を取り戻したこいつと病室で会うのはこれが初めてだ。ちなみに、死のうと思ってた奴に見舞い品なんてもったいないから持って来なかった。

「おい、寝てるのか」

 声を掛けてみるが、返事は無い。折角来てやったというのに、時間がもったいない。俺は未だ満身創痍のあいつの身体を無遠慮にさすってみる。なあに、今更死にはしない。

「おい、起きろ、起きろ」

 自殺したがり屋が「いてててっ」と目を開け、俺の姿を確認するやいなや「ああ、君か。なんだよ、まったく」と不機嫌そうに眠気まなこで睨んでくる。それでも、最初会った時よりも遥かにいきいきとした目をしていた。

「結局、お前は死ななかったな」

「ナイフでお腹を刺されたけど、救急車が来るのが早かったから」

「やっぱり俺のお陰か」

「そうだよ、君のせいだ」

 あいつが顔を綻ばせる。多分、俺の顔も綻んでいる。男二人でニヤついて、本気で気持ち悪い。が、しかし、運命というのは本当に面白い。

 何の気なしにテレビを付けると、ちょうど正午のニュースがやっていた。画面には“自称下着泥棒、ストーカーを撃退”のテロップ。ジョークニュースかと思うほど滑稽極まりない字面だ。

「お、やってるやってる。実際は撃退じゃないけどな」

「ダメージ負いまくりで普通に死にかけたからね」

「取材は全部断ったんだって? もったいない」

「いや、いいんだ。多分、そっちの方が面白い。偶然にも現場に遺書を落とししてきちゃってさ、多分、ミステリアスなニュースになるよ」

 自殺野郎が楽しそうに語ると、すぐにニュースキャスターが「なお、現場には謎の文書が残されており、『平凡な僕は誰とも関係ない 僕は運命を殺す』と書かれていました」と朗々と伝えた。

「へぇ、運命を殺す、か。で、実際に、殺せたのか?」

「半分は、殺せたよ。多分さ、僕は簡単には死ねないんだ。そういう運命なんだ。でも、そうと分かれば、死ぬ気で何か出来れば、平凡な運命は、殺せる気がする」

 すっかり未来を見据えた目で、自殺野郎は語る。いや、元自殺野郎、という表現が正しいかもしれない。

 ぴょんぴょんとうさぎが跳ねる。「生きててよかった」と言ってるようにも見えるし、「早く死ねばよかったのに」と言ってるようにも見えなくもない。

「ああ、そういえば、お前のお陰で、伝えられたぜ」

「コーラのおトク情報? あの人の反応は?」

「それだそれだ。反応は微妙だったけどな。全く腹立たしい。俺の好意がもったいない。うさぎを正面から見るとピーターラビットに似てるって話の方が、遥かに驚いてたぞ」

「それは僕のうさぎが似てるだけで、他はそうでもない。個体差だよ」

 元自殺野郎がうさぎを抱きかかえ、「よしよし」と撫でる。よしよし、なんて言葉がこいつの口から出てくるとは夢にも思わなかった。

「そういえば、そいつに名前はあるのか?」

「名前? ああ、そういえば、特に決めてなかった」

 元自殺野郎が苦笑して答える。ああ、『死にたい』はやはり名前じゃなかったんだな、と俺は安堵する。しかし、そうか、名前がないのか。

「ならば、付けてやらなきゃだな。そうだな、それじゃあ、こうしよう――」

 一呼吸置いてから、俺は、心に決めた考えうる限り最高に尊い名前を、口にする。

「もったいない」「もったいない」

 二人分の声が重なった。その後の笑い声も重なって、俺とこいつの人生も、これから先の多くの部分が、腐れ縁とやらできっと重なっていくんだろう。無根拠極まりないけども、なんとなく、そんな気がした。

 風が吹く。果実の匂いがする。うさぎが目をつむる。運命とやらの歯車は、今日も元気に順調に、一つの無駄もなく、回っている。

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― 新着の感想 ―
[良い点] なんというか、……青春? [一言] アホな青年達が可愛く見えて来ました。 到底自分には書けないジャンルです、これは。 素晴らしい作品とその著者に感謝します。
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