天使と悪魔とその他大勢
百円を拾ったときのことは、百円を拾ったときに考えればいい。そのように生きてきたわたしが、路上で百円玉を拾う日がついに来た。わたしは自販機の脇に落ちていた、その薄汚れた硬貨に手を伸ばした。
「もちろん交番に届けるんですよね?」
わたしに真っ先に話しかけてきたのは天使であった。といっても、もちろん脳内の話である。姿は見えていないが、なぜか声でそれが天使だということがわかった。天使の声なんて聴いたこともないのに。
「何してんだ、早くポケットに入れちまえよ」
次に耳もとでそう呟いたのは悪魔であった。とはいえやはりこちらも、悪魔と自称しているわけではない。だがその妙に低いガラガラ声は、悪魔であるとしか言いようがないように思われた。
それにしてもなんというベタな展開であろうか。わたしは手の内の百円玉を見つめながら、どちらの言うことを聞くべきか悩みはじめた。
「グハッ!」
すると悪魔のほうが、にわかに血へどを吐くような声を上げたのだった。いや「ような」ではなく実際に血へどを吐いているのが、その様子が見えてもいないのに、頭蓋の内壁に響き渡るその声ですぐにわかった。
「大丈夫ですか?」
続いて脳内のわたしにそう声をかけてきたのは勇者であった。どうやら勇者は脳内平和のために、この悪魔を退治してくれたらしい。そうなると一気に、天使の声が優勢になってくる。勇者とて、どちらかといえばもちろん天使寄りの存在であるだろう。わたしは百円玉を握り締めて、交番への一歩を踏み出そうとした。
「動くな!」
新たに登場したその声に、わたしは驚いて動きを止めた。しかしどうやらその声は、わたしに向けて放たれたものではないようだった。その証拠に勇者が終始ガチャつかせていた鎧の金属的な擦過音が、ピタリと止まっていた。
「傷害及び殺人未遂の現行犯で、お前を逮捕する!」
どうやら勇者の動きを止めたその声の主は、刑事であったようだ。たしかにいきなり切りつけて流血させているのだから、相手が誰であろうと、それを刑事が見すごすわけにはいかないだろう。だがここで勇者が逮捕されてしまったとなれば、天使と悪魔のどちらが優勢ということになるのだろうか。勇者が天使側であると考えれば、自動的に二人は共犯関係にあると疑われ、そちら側が不利になるのは否めない。
「お客様の中にお医者様は、どなたかお医者様はいらっしゃいませんか?」
そこに現れたのは、どういうわけかキャビン・アテンダントであった。明らかに路上に現れるのは場違いであるような気がするが、たしかに医者が必要とされる場面ではあった。ほかに医者を召喚できる職種がないということなのか。
「私におまかせください!」
するとそのリクエストに応えて、メスを聴診器に当ててリズムを取りながら医者が前に進み出てきた。ここで医者が悪魔を無事助けることができれば、悪魔側の勢力が一気に巻き返す形になりそうだ。
「そんな奴を助ける必要はない。そいつはさっきウチのラーメンを食い逃げしたんだ!」
どこからか走り込んできたラーメン屋の店主が勇者に手錠をかけて連行中の刑事を呼び止めると、まだ路上にあお向けで応急処置を受けている悪魔の逮捕を要求した。しかし食い逃げと剣で切りつけられるのとでは、罪と罰のサイズがさすがに釣りあわないのではないか。医者には目の前の患者が誰であろうと平等に助けるという信念があるらしく、手を止める様子はない。わたしは手の中の百円玉をどうすれば良いものか、ますますわからなくなってくる。
「そいつは特殊メイクをした親孝行なバンドマンだ。悪魔なんかじゃない!」
どういう風の吹きまわしか、そう言って悪魔の正体を明かしたのは通りがかりの音楽評論家であった。しかし天使と悪魔の戦いに、まさか音楽評論家まで関わってくるとは。いやそもそもが天使と悪魔の対戦ですらなく、拾った百円玉を交番に届けるか否かという話であったはずだ。しかしこうなるともう、誰が正義で誰が悪なのかもわからない。
わたしはこれ以上面倒な戦いに巻き込まれることを避けるために、手に持っていた百円玉をそっと路上に戻してその場を立ち去ることを選んだ。そうして歩きながら脳内で振り返ってみると、といっても脳内で振り返るというのがどういう状態なのかはよくわからないが、そこで初めて自らの頭の中で繰り広げられているこの場面の全体図が見えたような気がした。
それはまるで地獄絵図のような光景であったが、ついさっき地面に置いたはずの百円玉と最初に声をかけてきた天使だけが、いつのまにかその場から姿を消していた。




