10.エピローグ この気持ちの名前
「二度と、あんなことするな……!」
2人きりになった部屋で、アデルは絞り出すような声で言った。
なんと返すべきか、分からなかった。
「……あなたが無事でよかった」
迷った挙句、私はいちばん素直な気持ちを口にする。
「___________ッ……そういう、ところだ……!」
ああ、ちがう。
こんな、こんな顔をさせたいんじゃないのに。
「あなたの、そういうところが、俺は_________っ!」
あとは、言葉にならなかった。
嗚咽を押し殺し、静かに涙を流す彼に、おそるおそる手を伸ばし……少し迷って。
私はアデルを抱き寄せる。
彼は、抵抗しなかった。
少しだけ入った力はすぐに抜けて、抱きしめられるまま、私に身をゆだねる。
「…………俺は」
私の肩に顔を埋め、くぐもった声で、アデルは言う。
「あなたを、こんな冷たい世界に残して、どこかに行くつもりも、死ぬつもりもない。
だけど……あなたのために死ねるなら本望だって、そう、言ったのに」
つぶやくような、吐きだすような、狼狽の混じった声音。
「頼むから、俺を遠ざけようとしないでください」
ひどく弱々しい声だった。
「……お願いだ……置いて、いかないで……」
それは、小さな子供が母親に縋るような声で。
その面影が、高熱にうかされる、不安げな幼い少年と、重なった。
_______ああ。そうか。
ふいに気がついたのは、単純なこたえだった。
今も、昔も。
アデルには、私しかいない。
「__________っ!」
どん、と胸をついた感情が、身体の底から濁流のように湧き上がる。
すべてを押し流してしまうような、激しく荒れ狂う、喜びとも悲しみともつかない感情。
叫び出したいような気持ちだった。
この気持ちに名前があることを、ほんとうは知っている。
幸せでいてほしい。笑っていてほしい。あなたのことが、いとおしくてたまらない。
私に縛られてほしくはなかった。
そのくせ、別れがとてもこわかった。
だから、あなたをつき放そうとした。
私がいなくなってしまえば、あなたを自由にできると思った。自由に、どこにでも行けることは、きっと幸せだから。
全部間違っていた。
アデルは。
あの頃からずっと、私だけをみて、私のことだけを想ってくれていたというのに。
「……置いていかないわ。約束する」
私にとって、彼が大切な存在であるように、彼にとっても私が大切なのだと、認めるのがこわかった。
だって、認めたところで、ともにしあわせになることなどできないから。
皇女と奴隷ではなくなったところで、私たちは貴族と平民。ほんとうは、私たちの生きる道が交わるはずはなかった。
それでも私たちは出会ってしまって、お互いのことをこんなにも想ってる。
なら、わたしが言うべきことは。
アデルが欲している言葉は、きっと。
「もう、あなたを生かすために、自分の命を諦めたりしない。ちゃんと、あなたも私も生き残れる道を選べるようにする」
思い至れば、こんなに簡単なことなのに、どうしようもない私はたくさん間違えて、アデルを傷つけてしまった。
アデルの身体が震える。
私はその背を二度と離すまいと、強く抱き締めた。
「不安にさせてしまって、本当にごめんなさい」
_______私はアデルに、恋をしている。
そして、決してことばにすることは許されないと知りながら、おそらく彼は……_____
気がついてしまった気持ちには、もう蓋をすることなんてできなくて、どうしようもなく息が苦しい。
だけどこれは、私が背負うべき想いだ。
自由になった彼が、こんな私のとなりにいたいと望んでくれるのなら、せめてそれにこたえたい。
いつの間にか私も泣いていた。なんの涙なのか自分でもよく分からない。
けれど、臆病な気持ちや、迷いが流されていくような、どこか温かい涙だった。
からだを離そうとすれば、逆に背中に腕をまわされ、いっそう強く抱きしめられる。
こんなに自分の望みに忠実で、素直な彼を見るのは初めてかもしれない。
隷属紋を通して契約していたアデルは、私に対していつも、どこか一歩引いていた。
こうして抱きしめてくれるのも、護りたいと言ってくれたのも、アデルにとっては、自由になったからこその望みなのだろうか。
そう思ったら、どうしようもなく嬉しい。
……分かっている。
この気持ちを口にできる日は、きっと来ない。
身分の差とはそういうものだ。
それでもいいと、私は思った。
-*-
北西諸国の春は、帝国よりも早く来るらしい。
花の香りがして、あたたかな風が頬をなでた。
目の前にあるのは、帝国ではあまり見ない造りの建物だ。
この国では、私たちくらいの年齢の貴族の子息が、この学び舎でともに集団生活をおくり、勉学に励むのだという。
これから、私はここで、北西諸国の貴族として生きるための術を学ぶ。
敷き詰められた石畳の色も、淡くきらめく空の色も、高くそびえる鐘塔も、なにもかもが帝国とちがう。
違うのは、貴族の在り方も、だ。
北西諸国では、家柄よりも、能力を重視した政が行われているのだという。
血がすべてだった帝国とはあまりに違う。違いすぎて、正直なところ、あまり想像がつかない。
これまでとちがう景色に、これまでと違う常識。
私はもう皇女ではない。
けれど、学んできた知識は私の血肉となっている。これから、きっと役に立つ。
不安よりも、期待のほうがはるかに大きいのは、これまでと変わらずそこにいてくれる、彼のおかげだろう。
「アデル」
呼びかければ、私と同じように目の前の建物を見上げていた彼は、ごく自然にこちらを見た。
見慣れた、空と、同じ色の瞳。
その色を、綺麗だと思った。
「私と一緒にきてくれて、ありがとう」
アデルは、やわらかな微笑を浮かべる。
「俺は、あなたの従者ですから」
私は、アデルに笑顔を返した。
上手くいかないこともたくさんあるだろう。それでもなんとかしてみせる。
私は、1人ではないのだから。




