1.プロローグ もう自由だとおっしゃるなら
私は今、自分が殺されかけているという事実を冷たくなった頭で認識した。
「そこをどいてくれないかな」
お兄さま……第2皇子ユリシスは、いつでも攻撃をしかけられる構えで、私をかばうように立ち塞がるアデルに言う。
「僕が、用があるのは君の主人だ。できれば君のことは殺したくない」
その口調は朗らかだ。くつろいでいると言ってもいい。
彼の傍らでは、お兄さま自身の従者が、油断なく剣を構えている。
従者の名は確か、マリスと言ったろうか。
人気の無い宮廷の廊下。頭上の豪奢な飾り燭台に、今は光は灯っておらず薄暗い。
ここから距離があるはずの大広間の方からさざめきが聞こえるのは、さきほど聞こえてきた悲鳴と関係あってのことだろう。おそらく、もう収穫祭どころではない。
私の中の冷静な部分は、いやに正確に状況を捉えていた。
ここから逃げることはできないだろう。
それならば、せめて。
逃げられないのならば、せめて。
「アデル、剣を下ろしなさい」
「フリージア様……!?」
「"命令"よ」
私は、アデルと視線をかわす。
アデルの瞳は、驚愕に彩られていた。
出会ってからこれまで、約8年。
理不尽で、不自由な魔力契約を強いていたというのに、どこまでも忠実に尽くしてくれた、私の大切な従者。
「"命令"よ。隷属紋を見せなさい」
アデルが目を見開く。
彼は一瞬抵抗するそぶりを見せた。
____しかし、命令という単語に身体を縛られ、彼の手はその意志と関係なく動く。
あらわになった首元の隷属紋に、私は触れた。
魔力を込める。
「我、汝を縛る者。我、汝に課せられし、全ての制約を解除する」
隷属紋からあわい光がこぼれる。
「契約に従いて、我ここに、汝、アデルの解放を宣言する」
隷属紋は一瞬、白く強い光を放ち。
そして光を失った。
私は、アデルにほほえみかけた。
「これであなたは自由よ。もう私に縛られることはないわ」
……うまく、笑えているだろうか。
「今まで本当にありがとう。……どうか、幸せに」
アデルの瞳が震える。
彼はゆっくりと顔を伏せた。
お兄さまは、どこか面白がるような表情でなりゆきを見守っていた。
「あまり、苦しくない殺し方をしていただけると助かるわ」
マリスがチラリと送った視線に、お兄さまは首肯を返す。
マリスは足早に私に歩み寄る。そして、そのまま、流れるような動きで剣を振りかぶった。
思わず目をつぶる。
空気を切り裂く音がした。
次いで、鈍い音が響く。
……けれど。
振りかぶられた剣が私の身体を貫くことはなかった。
恐る恐る目をあけ、目の前の光景に息を呑んだ。
「アデル……?」
アデルは、マリスの首に剣の刃を添えていた。
何を……?と言いかけた私の言葉をアデルはさえぎって、口をひらく。
「もう自由だとおっしゃるなら」
空色の瞳が、静かな怒りをたたえて鈍く光る。猫のような細毛の金髪が、ぶわりと逆立ったように錯覚した。
「……俺が、あなたを護ることを選んだって問題ありませんよね?」
アデルは、マリスに刃を向けたまま、お兄様に向き直る。
「フリージア様に手を出すと言うなら、お前の従者の命も無いものと思え」
聞いたこともないような低い声で、彼は言った。
「…………」
お兄さまの表情は、ゆらがない。
感情の読めないほほえみをたたえたままだ。
「……分かった分かった。降参だよ。僕の負けだ。だから、彼を放してやってくれないか?」
形のよい唇から発された声はさして慌てた様子もなく、相変わらず朗らかだった。
きっと、今、この場でもっとも混乱しているのは私。
契約は、間違いなく解除された。
それなのに、私は今、アデルにかばわれている。
「……ユリシス様」
静かに声をあげたのは、マリスだ。
「私にかまうことはありません」
「君は僕に必要な人間だ。死なれると、困る」
お兄さまの瞳が、ほんの一瞬感情を宿したように見えた。
ひととき灯った感情の色は、しかしすぐにその鳴りをひそめる。
ひたと自分を見据えるアデルの視線を、お兄さまは正面から受け止めた。
「……君の覚悟に免じて、猶予を上げよう。夜明けまで待つ。どこへなりと逃げるがいいさ。」
温度のない瞳が動き、私を見る。
「けれど……日が昇った後のことは、保証しない。
フリージア、君が皇女である限り、僕は君を必ず殺す。
せいぜい怯えながら逃げ隠れるといいさ」
口元には笑みが浮かんでいる。
けれど、その色はあまりに冷たい。
アデルは、勢いよくマリスを突き飛ばした。よろめくマリスには目もくれず、私の手をすばやく握る。
「行きましょう」
返事を待たずに、彼は駆け出した。
つないだ手を、やけに大きく感じた。
……いつの間にこんなに大きくなったんだろう、なんて、場違いな感想が浮かぶ。
手を引かれ、薄闇にしずむ廊下を駆けながらぼんやりと、ふたりで過ごした日々を思う。
始まりは……そう。8年前の、あの日。
商人に連れられてやってきた、ほとんど死にかけの彼の目は、ひどく尖ってギラついていた。




