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『熊が子猫を拾った日、無表情令嬢は全部決めた』

作者: 月白ふゆ

雨は上がっていた。

上がっているのに、王城の裏庭は律儀に濡れていて、石畳の目地という目地が光を抱えている。濡れた場所は、噂が育つ土壌とよく似ている――足跡が残りやすく、あとからいくら拭いても「さっきここに誰かいましたよね」と主張してくる。


子爵令嬢エリシアは、その濡れた中庭の端で立ち止まった。


表情は動かない。

口数も増えない。

姿だけは、増える。視線が。


王城では、彼女の存在を見た瞬間に人間が二種類に分かれる。

一つは、目を逸らせる人。

もう一つは、目を逸らせない人。


後者はさらに三種類に分かれる。勘違いする者、怯える者、面白がる者。面白がる者が一番厄介で、勘違いする者は面倒で、怯える者はまだ可愛い。


(可愛い、というのは、こちらの精神衛生上の評価であって、相手の価値ではない)


内心では相変わらずよく喋る。毒も回る。分析もする。

ただ、それを口から出す必要がほとんどない。短い言葉だけで大抵の状況は片づくし、片づかないなら紙と印章で殴ればいい。


雨上がりの裏庭は、紙も印章も役に立たない。ただ湿っているだけだ。

それなのに――今に限って、湿り気がやけに意味を持ちそうだった。


植え込みの影から、小さな声が聞こえた。

猫の鳴き声だ。弱い、擦れた、助けてほしいのに遠慮している声。


エリシアは反射で足を向け、次の瞬間、固まった。


影の中にいたのは子猫だけではなかった。

“熊”がいた。


侯爵令息ガルディアス。

社交界で「熊が服を着ている」と噂される、強面で巨躯の男。背は高く、肩幅は広く、声は低い。大剣を背負っているせいで、彼がそこにいるだけで背景が戦場みたいな圧になる。


その熊が、しゃがみ込んでいた。


しゃがみ込み方が、祈りの姿勢に似ていた。

両手を前に出し、指先を震わせ、息を浅くして、目の前の子猫と真剣に交渉している。


「……大丈夫だ。噛まない。噛まないからな……」


子猫に言っているのか、自分に言っているのか分からない。

たぶん両方だ。


子猫は雨で濡れ、毛が貼りついて一回り小さく見えた。震えながら、でも逃げる力も残っていない。


(熊が子猫を拾う。それ自体は美談だ)

(問題は、熊のほうが怯えている)


ガルディアスは外套を外して子猫を包もうとした。

だが外套は大きく、子猫は小さく、彼の手は大きすぎる。包んだつもりが端がずるりと落ち、彼は慌てて拾い、もう一度包み直す。布を折り込む指が、剣を握る指と同じとは思えないほど慎重だ。


最後に、そっと胸に抱え込んだ。


「……寒かったな」


低音が優しさに変換されると、音圧のある毛布みたいになる。


その瞬間、エリシアは理解した。

この男は怖いのではなく、不器用なのだ。

そして不器用な優しさは、たいてい――危険だ。


(これは刺さる)

(刺さるというのは、私に)

(何に? どこに? 心に決まっている)


表情は動かない。

だが内心の会議室が一斉にざわついた。


(怖い顔で優しいことをするな)

(優しいことをするなら、もう少し自覚を持て)

(自覚を持ったら、こちらが困る)


足音を立てないように一歩踏み出した瞬間、ガルディアスがこちらの気配に気づき、ゆっくり振り返った。

無表情の超絶美女が立っている。


彼は固まった。

戦場で矢が飛んできても動じない男が、視線一つで停止する。停止の仕方が正直すぎる。


「……失礼しました。猫が……その……」


何を言えばいいのか分からない声だった。

エリシアは、毒舌で逃げようとした。だが毒舌は状況を処理するための道具であって、状況を増やす道具ではない。今、毒を吐けばこの男は更に固まる。固まると子猫が落ちる。落ちるとまた濡れる。濡れると世話が増える。


(世話が増えること自体は問題ではない)

(問題は、私がそれを嫌だと思っていないことだ)


口から出たのは、最小限の真実だった。


「……優しいですね」


たった一言。

無感情の声。淡々とした音。

なのにガルディアスは、見事に撃沈した。耳が赤くなり、背筋が更に伸び、必要以上に丁寧な礼をした。


「……いえ。たまたまです」


(たまたまで子猫を拾う人間はいない)

(いるとしたら、それは“たまたま善人”だ)

(最悪だ。最悪に好ましい)


子猫が小さく鳴いた。

エリシアは子猫に目を落とし、そしてガルディアスを見る。


「……名前は」


「まだです」


「……では」


(私が決めたい)

(だが、これは彼の責任だ)

(責任という単語にこの熊は弱い。たぶん今も弱い)


「……あなたが」


エリシアが言い終える前に、背後で咳払いが聞こえた。


侍従長のヴァルター卿が、手帳と紙束を抱えて立っていた。顔には「余計な仕事」の影が濃い。彼は二人と子猫を見て、息を吐いた。


「……王城裏庭における野良動物の取り扱い規定に抵触する可能性があります」


(来た。規定)

(この国は優しさにも申請が必要)


ヴァルター卿は淡々と続ける。


「ただし、害がなく、管理が可能で、貴族が責任を持つ場合、保護対象として登録できます。様式は――」


「私が持ちます」


ガルディアスが即答した。

彼が“責任を持つ”と言うときの声は、剣より重い。


ヴァルター卿は頷き、紙束を一枚差し出した。


「様式12-B。二枚複写。署名と押印、猫の特徴記載、保護場所の申告、衛生管理の誓約、他者への危害防止、糞尿処理計画――」


(糞尿処理計画まで)

(行政は強い)


ガルディアスは真剣な顔で紙を受け取った。

その真剣さが、また刺さる。


「……猫の特徴」


彼が子猫を見下ろす。子猫は彼の胸元で丸くなり、震えが少し収まっている。


エリシアは短く言った。


「……小さい。濡れている。目が青い」


ヴァルター卿が即座に筆を走らせる。

そして一拍置いて、エリシアを見た。


「子爵令嬢はここで何を」


「……散歩です」


「雨上がりの散歩。……噂が育つ要素ですね」


(育てるな)

(畑を閉鎖しろ)


ヴァルター卿は去り際に付け足すように言った。


「なお、保護対象が王城内で問題を起こした場合、責任は――」


「分かっています」


ガルディアスが答えた。

分かっている顔をしている。だがこの男は、分かっている顔ができるだけで本当に偉い。たいていの男は分かっている顔すらできない。


ヴァルター卿が去ると、二人と子猫だけが残った。

中庭の湿り気が、急に意味を持ち始める。


ガルディアスが躊躇うように言った。


「……子爵令嬢は、動物がお好きですか」


(好きだ)

(だが今は動物より、あなたのほうが危険だ)


「……普通です」


「そうですか」


会話が途切れた。

沈黙はエリシアの得意分野のはずだった。だが今は、沈黙が敵だ。沈黙が続くと、噂が勝手に喋り始める。噂は一番信用ならない話し手だ。


(噂に主導権を渡すな)

(主導権は自分で取れ)


その時、香水の気配がした。

過剰な自信の足音がした。


皇太子が現れた。


完璧と呼ばれる男。何をしても上手い、何を言っても様になる、と称賛される完成品。完成品であることに、本人も疑いがない。


皇太子は状況を見て、笑みを整えた。整えすぎて貼り付けになっている。


「これは珍しい。侯爵令息が猫を抱いているとは」


ガルディアスが深く頭を下げる。

皇太子の視線がエリシアに移った瞬間、空気が変わる。

男は例外なく、エリシアを“特別なもの”だと誤認する。皇太子も例外ではない。


「子爵令嬢。最近よく見かける。王城に相応しい方だ」


(また始まった)

(相応しい? 何に? 飾り棚?)


皇太子は続けた。


「君は特別だ。私の隣に立つ資格がある」


内心の毒舌担当がマイクを握った。

刺す。ここは刺す。


エリシアは無表情のまま皇太子を見て、最短で最大を刺した。


「……順番待ちですか」


皇太子が固まった。


「何?」


「私を、所有する前提で話す方が多いので。整理番号でも配られているのかと」


衛兵の肩が震えた。侍従が咳払いで笑いを誤魔化した。

ガルディアスが子猫を抱えたまま目を丸くしている。


皇太子は笑顔を維持しようとして失敗した。完成品が一瞬バグる。


「君は相変わらず辛辣だ」


「……事実です」


皇太子が何か返す前に、子猫が鳴いた。

場の空気が一瞬で“猫優先”になる。皇太子の格が一段下がる。完成品でも猫には勝てない。


皇太子は息を吐き、去り際に言った。


「君が本気なら、最後までやれ。私は面白がらない」


(今さら)

(だが引くと言ったなら、引かせる)


皇太子が去ると、中庭の空気は少し軽くなった。


ガルディアスが小さく呟いた。


「……子爵令嬢は、怖くありませんか」


(怖い)

(噂も視線も面倒も怖い)

(だが今一番怖いのは、この状況を“嬉しい”と思う自分だ)


口から出たのは、淡々とした真実だった。


「……怖いです」


ガルディアスの眉が寄った。


「……申し訳ありません」


(違う)

(あなたのせいではない)

(あなたのせいなら簡単だったのに)


エリシアは一歩近づき、子猫を見た。

子猫は彼女の指先に鼻を寄せ、弱く鳴いた。


「……触っても」


「どうぞ」


エリシアは子猫の頭を撫でた。濡れた毛が少し温かい。命の重さが軽く、でも確かにある。


(この手触りに負けるのは反則)

(そしてこれを抱えている熊男にも負ける)


その日、子猫は侯爵家で保護されることになった。

登録名称は「保護対象・仮称ミル」。エリシアが言ったわけではない。ヴァルター卿が勝手に書いた。だが“ミル”という響きは、どこか柔らかくて悪くなかった。


噂は当然育った。

「無表情令嬢と熊男が密会」

「猫が縁」

「皇太子が絡んだ」

「新しい恋愛劇」


(恋愛劇ではない)

(行政手続きと飼育計画である)


そう思いながらも、エリシアは侯爵家の保護部屋へ足を運んだ。

理由は猫。建前は猫。だが建前は、時に現実を動かす。


ガルディアスは毎回そこにいた。

入口の少し奥で背筋を伸ばし、こちらに気づくと一瞬固まってから、ぎこちなく頭を下げる。

猫の餌の温度を気にし、毛布の乾き具合を確かめ、爪の伸びを見て心配し、ミルがくしゃみをすれば大騒ぎする。


熊が溶ける。

熊が溶けると、世界が平和になる。

だが噂は平和を餌に育つ。


そして――ガルディアスは丁寧すぎた。


誰に対しても礼儀正しく、距離を取る。誤解を生まないように。噂を増やさないように。巻き込まないように。


(距離を取るのが礼儀だと思っている)

(礼儀は正しい)

(だが今は敵だ)


噂は距離があるほど好き勝手に踊る。

踊らせるくらいなら、こちらが舞台を奪えばいい。


押す。

押して、話を奪う。

噂に先を走らせない。自分で走る。


最初にやるべきは皇太子の“暇つぶし”の根を折ること。

次に侯爵家側の警戒を解除すること。

最後にガルディアス本人に、逃げ道を与えないこと。


(逃げ道を塞ぐのは悪役の仕事ではない)

(だが私は悪役扱いされている)

(役得を使う)


皇太子には、廊下で止めた。

無表情のまま、短く。


「……殿下は、暇なのですか」


皇太子が固まった。

エリシアは続けた。


「……国務が足りないように見えます」


完成品の笑顔が崩れた。

だが皇太子は愉快そうに息を吐き、最後に頷いた。


「分かった。私は引く。だが、君が選ぶなら最後までやれ」


(やる)

(紙で確定させる)


侯爵家には茶室で会った。

侯爵夫人は噂に敏感で、息子の外見のせいで何十年も誤解を処理してきた人間だ。合理的に警戒心が強い。


「偶然かしら」


「……偶然でした」


「では今は?」


エリシアは嘘を捨てた。


「……今は、私の意思です」


夫人の眉が上がり、次に表情が柔らかくなった。


「あなた、噂と違って冷たい方ではないのね」


(噂は当てにならない)

(ただし危険なのは本当)


夫人は息子の不器用さを語り、「主導権を取ってあげて」と言った。

エリシアは淡々と答えた。


「……取ります」


最後に、本人。


猫を理由にできない夜を選んだ。

王城裏庭、中庭。雨はもう降っていない。湿り気だけが残っていて、言葉が滑りやすい。


ガルディアスは来た。呼んでいないのに来た。

彼は“いつもの時間”に“いつもの場所”へ足が向く男だった。


「……待っていました」


ガルディアスが固まる。


「ミルに、何か」


「……ミルではありません」


逃げ道を潰す。

猫を外す。

噂を外す。

残るのは、二人だけ。


「……噂が、面倒です」


「申し訳ありません」


「……あなたのせいではありません」


そして、最短で結論を落とした。


「……正式にします」


ガルディアスの理解が追いつかない顔。

エリシアは補足した。


「……噂ではなく現実にします。あなたと私の関係を」


沈黙。

風が一筋通る。石畳の冷えが戻る。


ガルディアスが絞り出す。


「……それは、あなたに不利益が」


「……不利益は、既にあります」


「……私は、あなたを巻き込みたくない」


(巻き込まれたい)

(という本音を、ここで言う)


「……巻き込まれたいのです」


彼の目が揺れた。

戦場より重い質問が落ちる。


「……あなたは、私をどう思うのですか」


エリシアは一秒だけ息を止め、言った。


「……好きです」


無表情のまま。

声も淡々と。

なのに空気が熱くなる。


ガルディアスは“優しさ”で逃げようとした。待つ、急がない、慎重に――その言葉が口元に見えた瞬間、エリシアは被せた。


「……待ちません」


「……え」


「あなたは優しい。だから曖昧にする。私はそれが嫌です」


そして、逃げ道を完全に塞ぐ。


「私を選ぶなら、選ぶと言ってください。選ばないなら今言ってください。私は引きます」


“引く”という単語で、熊が跳ねた。

失う言葉に弱い。

それは、優しさの裏返しだ。


ガルディアスは長い沈黙のあと、覚悟の形で言った。


「……私は、あなたを選びます」


(よし)

(ここからは事務手続き)


「……では」


「……では?」


「……明日、両家で話をします」


ガルディアスの“え”が出た。

さらに、息を呑む。


「……皇太子にも、止めてもらいました」


「え」


「……侯爵夫人にも、味方になってもらいました」


「え」


「……準備は終わっています」


熊が追い詰められた顔をする。だが壊す気はない。

エリシアは最後に少しだけ譲歩する。


「……あなたは頷くだけでいいです」


彼は観念したように頷いた。


「……分かりました」


翌日、書類が並んだ。署名、押印、確認、儀礼。

紙は裏切らない。噂より強い。


指輪の交換の場面で、ガルディアスが一瞬固まった。

重さに怯んだのだろう。剣より重いものがある男は信用できる――が、止まっては困る。


エリシアは短く言った。


「……手」


ガルディアスが反射で差し出す。

エリシアは彼の指に自分で指輪を通した。迷いなく。淡々と。事務処理の速度で。


部屋の空気が止まった。

侯爵夫人が笑いを堪え、侍従が厳粛に宣言した。


「これをもって、両家の合意を確認します」


噂は育った。

だが今度は噂が追いかける側になった。


「本当にまとまった」

「熊男が落ちた」

「無表情令嬢が主導権」

「皇太子撤退」

「子猫が最大功労者」


ミルは、功労者の顔で鳴いた。

まるで「当然だ」と言うように。


――そして、未来。


よく晴れた午後。侯爵邸の中庭。芝の匂い。焼き菓子の甘い香り。

熊は崩れていた。


子煩悩という言葉が生ぬるいほど、ガルディアスは子どもに弱かった。大剣を背負っていても膝をつき、目線を合わせ、声を上げようとして失敗し、抱っこの力加減で真剣に悩む。


縁側にはエリシアが座っている。腹は丸い。六ヶ月。

無表情は変わらない。だが昔の“刺す無”ではなく、柔らかさが宿っている。表情が動かないのに空気が温かい。


中庭を駆けるのは三人。

長女、長男、次女。


三人とも母寄りのスタイルを容赦なく受け継ぎ、顔立ちは両親の良いとこ取りで早くも傾国級の気配を漂わせていた。

王国が将来ざわつくのが分かりきっていて、侍女たちはすでに遠い目をする。


長女は頭の回転が異常に速く、家庭内の参謀として機能している。

父が声を“二段階上げるべき”だと理詰めで指導し、母の沈黙の意味を正確に読み取り、兄妹の順番争いを整理する。


次女は黒い。黒いというのは肌の色ではなく思考の陰影だ。

刺す言葉を最小限で選び、父の優しさの隙を見逃さず、必要なら兄も姉も静かに黙らせる。


長男は屈強な身体と超絶イケメンのハイブリッドで、幼いのに走り方が“戦える走り”をする。父の体幹と母の骨格と、よくない意味で全部混ざっている。


三人は両親が大好きっ子だった。

そして両親も、三人が大好きで仕方がない。


「……お父さま、また床」


長女が言う。

ガルディアスは真剣に頷く。


「……子どもは、目線を合わせないと」


エリシアが淡々と落とす。


「……あなたの目線、合わせると怖い」


次女が容赦なく刺す。


「今の、よけい怖い」


長男が胸を張って報告する。


「おとうさま、きょうはころばなかった」


ガルディアスが感動して、長男を抱き上げようとして力加減に悩む。

悩む熊を見て、エリシアが指示を出す。


「……ゆっくり。指先から。抱える」


ガルディアスはその通りにする。

戦場の命令より素直だ。


長男は父の首に腕を回し、当然のように言う。


「おとうさま、だいすき」


熊が終わる。

涙腺が緩み、声が震える。


「……私も、だいすきだ」


長女が即座に状況判断する。


「泣くなら後で。今泣くと次女が刺す」


次女が頷く。


「刺す」


熊が涙を引っ込める。戦場より厳しい。


次女が母の腹を見て言う。


「……おなかの子、いつ出てくるの」


「……あと三ヶ月」


「……じゃあ、その子にも順番教える」


ガルディアスが反応する。


「……順番?」


次女が当然のように言う。


「お母さまを抱っこする順番。お父さまが一番になったらだめ」


長女が補足する。


「お父さまは無自覚に割り込みする。声が大きいから権力に見える」


「……私は割り込まない」


「割り込むよ。ミルのときも割り込んだ」


事実は強い。熊は黙る。


エリシアが淡々と結論を出す。


「……順番、守る」


ガルディアスが直ちに頷く。


「……守る」


その足元で、ミルが鳴いた。

かつての子猫は成猫になったが、この家では永遠に功労猫で、発言権が強い。


エリシアがミルを見下ろし、淡々と言う。


「……あなたは、順番の外」


ミルが納得していない声で鳴く。

長女が小さく笑う。


「お母さま、ミルには厳しい」


エリシアが、少し懐かしい言い方で答える。


「……必要な分だけ」


その一言で、ガルディアスが少しだけ嬉しそうに目を細める。

熊の強面が、家族の中でだけ柔らかくなる。


長男が母の腹を指差す。


「ここに、いる?」


「……いる」


「かわいい?」


エリシアは一秒だけ考え、正直に言う。


「……かわいい」


次女がぼそりと結論を落とす。


「……かわいいの確定。傾国コース」


長女が冷静に補強する。


「顔は確定。スタイルも母寄り。問題は性格。誰がどこを継ぐか」


次女が即答する。


「私は黒いとこ継いだ」


長男が胸を張る。


「ぼくはつよいとこ!」


長女が淡々と言う。


「私は頭の回転」


エリシアは無表情のまま三人を見回し、そして静かに落とした。


「……全員、良いとこ取り」


ガルディアスが、長男を抱えたまま頷く。


「……私たちの宝だ」


その声が揺れたので、長女がまた即座に指示する。


「泣くなら後で」


熊は頷く。

家族会議の決裁は、長女が握っている。


エリシアが立ち上がろうとすると、ガルディアスがすぐ手を差し伸べた。

差し出し方が、昔と同じくらい丁寧だ。


「……支える」


エリシアはその手を取る。

言葉はいらない。取るだけで、全部が確定する。


三人の子どもが笑い、ミルが鳴き、腹の中の子が静かに存在を主張する。

噂より強い現実が、ここにある。


雨上がりの中庭で、熊が子猫を拾った日。

無表情令嬢は、最短の一言で世界を動かし、必要な分だけ押して、紙で確定させた。

そして未来、熊は子煩悩になり、妻は無表情のまま柔らかくなり、子どもたちは良いとこ取りで愛されて育つ。


中庭の水たまりは、今はもうない。

だが、あの日の湿り気だけが、家族の中心に静かに残っていた。

あとがき


自分で書いていて毎回思うのですが、どうして恋愛物なのに「手続き」「書類」「規定」「役所感」が入り込むのか。

たぶんこれは、恋を「感情だけの現象」として扱えない性格なんだと思います。


好きになった、想いが通じた、で終わらせると、どうしても不安になる。

それは本当に守られるのか。

誰が責任を持つのか。

社会の中でその関係はどんな位置になるのか。

そこまで確定しないと、安心できない。


だから恋が成立する瞬間が、告白ではなく「署名と押印」になる。

気持ちより先に制度で固める。

夢より先に現実を押さえる。

その方がずっと誠実だと思ってしまう。


この話のエリシアも同じで、

彼女にとって恋はロマンではなく「意思決定」でした。

噂に流されるくらいなら、自分で紙に落として確定させる。

不安定なものを制度に落とし込むことで守る。

それが彼女なりの愛し方だったのだと思います。


多分、自分の恋愛物に役所感が出るのは、

「好き」という感情を信用しすぎていないからです。

信用していないからこそ、

制度・責任・確認・署名という“逃げられない形”を与えたくなる。


感情は揺れる。

噂は歪む。

でも書類は嘘をつかない。


だから恋愛にまで行政が入り込む。

それは冷たいからではなく、

一番確実な「守り方」だと思っているからなのだと思います。


結果として、

恋愛なのに事務処理っぽくなり、

ロマンなのに実務的になり、

甘さよりも安定感が前に出る。


でも、それが自分の書く恋愛の正体で、

「好きだからこそ、逃げ道を残さない」

という癖なのかもしれません。

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