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春の終わりに

作者: 寒がり


 今にも泣き出しそうな空だ。

 照り付けていた太陽は厚い雲に覆われ、空気は冷たく湿っている。もし一度、雷が鳴ればすぐさま土砂降りだろう———そんな確信めいた予感があった。

 にもかかわらず、雨は一向に降り始めない。

 降り始め特有のあの雨の匂いは漂って来ない。


 空き缶がアスファルトの上をカラカラと音を立てて転がってゆく。

 それは、僕なのだった。

 蹴飛ばしてやりたい。思い切り蹴飛ばして、踏みつけて、グシャグシャにしたい。そう思った。


 少なくとも、それを拾いあげて何処にあるのかも分からないゴミ箱まで連れていく気にはならない。そういう事ができるのは、何かとても満たされて有り余っている時くらいだ。今はその時じゃない。


「午後は、涼しくていいね」

「まあ、確かに。雨降りそうだけど」


 この人には今日みたいな天気が「涼しくていい」と感ぜられるそうだ。そういう所が嫌いだ。そして、この人は、そういう所が嫌いな僕のことが嫌いなのだと知っている。僕らは分かり合えなかったし、今更分かり合いたいとも思っていない。


 結局、どこにも行き場がなくて互いに勝手を知っているというだけで続いている燃え滓のような関係だ。惹かれたんじゃなく、お互いに逃げ込んだのだった。軒先で雨宿りしているのは、その場所が好きだからでも何でもない。


 生存確認と称して、僕らは時折、食事を共にする。安くて人が少ないだけが取り柄の店で、弾みもしない会話をして別れる。興味のない話を聞いて適当に相槌を打ち、ほとんど内容を聞いていない相手に特に深刻でもない話をする。


 その帰り、こうして歩いていると、余人にはカップル然として見えるだろうが、現実はなんということもない、ひとりぼっちが2名歩いているのだ。


「じゃあ、ここで」

「じゃあ」


 別れは惜しくない。

 義務を果たしたという解放感さえある。

 

 いっそ、このまま切り出してしまえ。

 そんなことを思ったのはこの重苦しい天気に、何か少しでも軽くしたくなったからかもしれない。

 別れたいという一点ではこの人も僕も見解が一致するはずだ。今、この場で精算してしまえばどんなに清々しいことだろう。

 そうじゃないか。清算してしまえ。


「忙しいから、次はまたいつか」

「分かった。またいつか」


 「いつか」は来ない。

 その事は数少ない世の真理らしき事柄だと思う。

 それ故に、この会話は僕らの中では別れに他ならないと了解されていた。

 終わりは随分とあっさりとしていた。まあ、僕らはこんなもんだろう。


「———最悪」

 

 その言葉に何か意味があるわけじゃない。

 意味がない以上、それは言葉ではなくて鳴き声だ。人間の鳴き声。ただただ曖昧模糊とした不快感が筋運動に、振動に変換されたそれは誰にも届かない。

 届きもしないそれは、鳴き声ですらない。鳴き声ですらないそれは、僕ではなく、灰色で崩れそうなこの瞬間の側に属しているかに思われた。否、僕もその側に属している。


 主体性なるものは完全に解消されて、あるいは乖離して、僕は僕が陰鬱な空の下で歩いているのを、身体の中から俯瞰している。電車の乗客の如く、至って気楽に列車の運行と窓の外の曇り空を眺めている。


「雨、降ればいいのに」


 いっそ崩れてしまえばいい。土砂降りが全部塗りつぶしてくれたら爽快だろう。


 一体、この男の存在に何の意義があるのか。一体、この景色に何の意義があるのか。一体、この疑問に何の意義があるのか。一体、意義を問うことに何の意義があるのか。一体、僕は何を考えているのか。大体、僕には考えるということが可能であり得るのか、本当に僕は存在しているのだろうか。


 分かるということが分節である限り、僕には分からないはずなのだ。

 Aをαとβに分節すれば、Aを分かることができるが、αとβという未だ分かっていないものが生まれる。究極的には、理解はαをαとする直感という分からない、根拠のないものに支えられている。この列車は、曇天模様の下、不透明で底知れない暗闇の上を走っている。


 分からないということは直感される。

 その事は、救いにはならない。分からないことは本源的な恐怖であり不安であり不快だから。健全な直感と思考停止とを理性という狂気が揺るがすなら、行き着くところは決まっている。


 ああ、この脳という器官は稼働すればするほど、狂気を生む。

 ひたすら理不尽や不平等や諸悪を採掘し、麻酔を停止して人を苦痛に叩き落とす啓蒙装置。その暴走する原子炉が、悪と苦痛とを生産して人を死に突き落とすのだ。見ろよ自死したインテリの多さを。


 けれども、あるいは狂気は自然なのかもしれない。生きている方が不自然で、脳は、人間を存在するという異常な状態から解放すべく最大限の努力を行っているのかもしれない。


 僕は人間の身体や存在の中に監禁され、麻痺しているだけで非常な苦痛に苦しめられているのかもしれない。死の側が脳と協力して必死の救出作戦を試みているというのに、犯人が僕を洗脳して、生命の尊貴を信奉させているのかもしれない。

 死からすれば、人間は全てカルト宗教に囚われていて、人身保護請求でも行って救出しなければならない存在なのかもしれない。


 分からない。そんな仮定には根拠がない。

 只々、レールの先では真っ暗闇が口を開けて待っている。


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