7 悪女、犯人を捜します。
どうぞよろしくお願いいたします。
7 悪役令嬢、犯人を捜します。
リリスは、屋敷の自室で机に肘を付き、両手を組んでそこに額を乗せていた。
頭の中をぐるぐると渦巻くのは、ここ数日、学園で聞いた噂話だ。
――『リリス様、あの『獣落ち』に毒を盛ったらしいぞ』
――『やはり、改心したというのは嘘だったか』
――『俺は、最初から信じちゃいなかったさ』
――『わたくしたちを、油断させたかったのですわね』
――『今度は、何を企んでいらっしゃることやら……』
数日前の、あの場面を目撃した生徒が居たのだ。
恐れを交えながらも、熱心に語られているリリスに関する噂は、瞬く間に学園中に広がった。
リリスが、ルーヴに毒を盛ったという噂を、知らない生徒は居ないだろう。
(……振り出しに戻ってしまいましたね……)
攻略キャラだけではなく、他の者たちにも、リリスは出来る限り丁寧に親切に、信頼を得られるように行動していた。
それも、一瞬で水の泡だ。
リリスは、恐ろしかった。
それは、命の危機に直面したものとは違う恐怖だった。
一生懸命、塗り替えて来た色を、一瞬で覆される恐怖。
生徒たちの猜疑心に、怖れ、敵意に晒され、リリスの精神は擦り切れてしまいそうだった。
しかし、それは、昔のリリスが、周囲に強いて来た支配よりも甘いものだろう。
(わたくしに、悲しむ資格はありませんわ……)
リリスは、深く溜息を吐く。胸に溜まった重苦しい空気を、吐き出してしまいたかったが、どれだけ長く息を吐いても、胸は重いままだった。
――『きっと、あの『獣落ち』を掌で転がして、楽しんでいたんだろうよ……』
不意に、思い出した噂に、リリスは目を瞑った。
先程、聞こえて来た噂話の一つだった。そして、リリスを一番苦しめている噂だ。
そんなこと、リリスは、していない。
ルーヴとの時間は、本当に楽しかった。しかし、それは、掌で転がして油断している様子を見ることが、ではない。
純粋に、ルーヴと一緒に食事をとれるのが楽しくて、嬉しかったのだ。
リリスは、突然、今までよりも一層、強い恐怖に襲われた。
(あの噂をルーヴに聞かれてしまったら、どうしましょう)
まるで、真実のように語られるそれが、ルーヴの耳に入ったら……。
(いいえ……きっと、ルーヴはもう知っている筈ですわ……)
ルーヴは、嗅覚も良いが、聴覚もすこぶる良い。
(それに、あの噂がなくとも……既に、わたくしたちの仲は壊れてしまいましたわ)
これでは、死亡フラグを折るどころではない。
もはや、強固なフラグになってしまった。
しかし、リリスは、それよりもずっと、気にかかることがあった。
――『ハッ、……そうだったな。……裏切るも何も、そもそも信頼など存在しなかった』
「――ッ!」
リリスは、顔を歪めた。苦痛に歪むルーヴの表情に、胸が締め付けられた。
ルーヴにあんな顔をさせたくはなかった。
リリスは、涙が流れないように、ぐっと耐えた。
「――お嬢様……」
のそりと振り返れば、メイドのアンヌが心配そうにリリスを見ていた。ゆっくりと歩み寄ると、背に手を当てて優しく摩ってくれた。
「……調査結果が出ました。こちらです」
アンヌから羊皮紙を受け取る。
紐を解き、丸まった羊皮紙を広げた。
これは、あの日の昼食の毒物調査の結果だ。
リリスは、すぐに屋敷に持って帰り、鑑定に出していた。
自分だけが狙われたのならまだ良い。
しかし、今回は、ルーヴを危険に晒さらしてしまった。
なんとしても、犯人を見つけだす必要があった。
「……毒物はミートローフのみに混入していたのね……」
今回のミートローフは、リリスが作っていた。よって、制作過程で混入された訳ではない。
「厨房にあった食材も、すべて調べましたが……毒物は、検知されませんでした」
「そう……」
ということは、リリスが屋敷から持ち出した後、どこかのタイミングで毒が混入されたという訳だ。
レイヴィンズ公爵家、全員を狙っての犯行ではないらしい。
リリスは、やはり、と思った。
(わたくしを、狙っての犯行ということですわね)
リリスは、溜息を吐いた。
毒を盛られるような恨みは、数えきれないくらいに買っている。
「リリスお嬢様……このことを旦那様には……」
「……駄目よ。お父様には、まだ話さないでちょうだい」
この件は、父にはまだ報告していなかった。
公爵家そのものに対する犯行であったら、すぐに報告するつもりであったが、そうではないとわかった今、父には報告したくなかった。
「ですが……」
アンヌは、まだ何か言いたそうであったが、緩く首を振るリリスを見て、目を伏せて口を閉じた。
父に話したら、怒り狂った彼による大規模な犯人捜しが始まってしまう。
そんな大事にしたくなかった。
「……お嬢様が、ミートローフをお召し上がりにならなくて、本当に良かったです」
ポツリと、そう呟いたアンヌの言葉に、リリスは何とも言えない顔をする。
リリスは、肉が食べられない。
よって、今回のミートローフも、ルーヴの為に作って持って行っていたのだ。
このことは、レイヴィンズ公爵の者は皆知っている。
一先ずは、犯人は、屋敷の使用人には居ないとわかっただけでも良しとするか。
リリスは、もう、何度目かわからない溜息を吐いた。
*
「――不審な人物、ですか?」
リリスは、登校後、朝一番に厨房を訪ね、シェフに聞き込みをしていた。
「ええ。厨房に出入りした方で、怪しい者は居ませんでしたか?」
「ふむ……。出入りの業者は、決まった顔しか居ませんし……。その他となると、朝からずっと忙しくて……わかりません」
申し訳ありません、とシェフは頭を下げた。
「いえ、ご丁寧に答えてくださって、ありがとうございます」
大した手がかりを得られないまま、リリスは厨房を後にした。
あのバスケットが、リリスの手を離れたのは、厨房に預けた時だけだ。
厨房に来れば何かわかるかと思ったが、当てが外れてしまった。
ちなみに、厨房の者は、白だと判断している。
リリスと、シェフ並びにコックたちとは、今まで接点はなかった。
悪戯に毒を盛るにも、第一王子の婚約者である公爵令嬢の食事に毒を盛らないだろう。
職を失って困るのは、彼らの方だ。
一応、彼らの経歴や素行の調査を秘密裡に命令していたが、結果は、やはり白だった。
とぼとぼと、廊下を歩く。
「――きゃあ!」
早朝ということもあり、誰も居ないと思って俯いて歩いていたので、前が見えていなかった。
リリスは、曲がり角から出て来た人物の胸に、思いっきりぶつかった。
相手の胸は、思った以上に硬くしっかりしており、リリスは跳ね返ってバランスを崩した。
「――おっと、大丈夫ですか?」
地面に倒れる前に、背中を支えられて事なきを得る。
「え、ええ……申し訳ありません。ぼーっとしていて……――ッ⁉」
リリスは、支えてくれた相手を見て固まった。
(ディレット……!)
さあぁ、と頭から血の気が引く。
今まで接点がなかったが、リリスは彼をよく知っていた。
彼は、貴族ではないが、優秀な成績を評価されて、学園に入学を許可された商家の子息だ。
……表向きは。
実際は、人間界の教会から派遣された人間だ。
聖女が来る一年前から魔界に潜入し、学園の調査をしている『ギルティ・ラブ』の攻略キャラの一人だった。
「おや、これはリリス様ではありませんか。――大変、失礼しました。どこか、お怪我はありませんか?」
ディレットは、ほぼ初対面のリリスのことを、気軽に下の名前で呼んだ。
ツッコもうかと思ったが、止めた。
早く、この場から立ち去りたかった。
「いいえ。支えてくださったので、どこも怪我をしていませんわ」
「そうですか。それは、良かった」
ディレットは、ほっと胸を撫でおろすと、リリスの手を取って甲にキスをする。
「初めまして、僕は、ディレットです。リリス様は、ご存じないかと思いますが、同じ学年なのですよ」
(ヒィ! 流石、フェミニスト……! やることが違いますわ!)
リリスは、内心、悲鳴を上げた。
そして、それを悟られないように、澄ました顔で言う。
「……いえ、ディレット様はとても優秀な方だと聞いたことがありますわ」
なんと答えるか、少し迷ったが、半分、本当のことを言うことにした。
庶民で――表向きだが――ありながらこの学園に入学出来たくらいなのだから、ディレットはかなり優秀で、リリスも何度か噂で聞いたことがある。
ディレットは、嬉しそうに微笑んだ後、胸に手を当てて言った。
「ディレット様なんて呼ばないでください。僕はただの商家の息子です。是非、ディレットとお呼びください」
「……わかりましたわ」
とある理由から、親しくするのは、正直、嫌だったのだが、ここは素直に頷いておく。
「でも、リリス様にお怪我がなくて、本当に良かった」
そう言って、ディレットは、女性が思わずうっとりする笑みを浮かべてウインクした。
ディレットは、特殊な経歴でも目立っていたが、たくさんの女性の間を遊び歩いていることでも有名だ。貴族の娘たちばかりの中で、そんなことをすれば痛い目を見そうなものだが、どういう訳か、彼は上手くやっているらしい。
このディレットの甘い笑みに、何も知らない娘ならころりと恋に落ちるだろうか、残念ながら、リリスは彼のことを知り過ぎている。
ゲームで彼を選択すると判明するのだが、ディレットは、リリスと同じく魔族と人間のハーフだ。
そして、そのどちらの世界からも拒絶された経験から、両者に恨みを持っている。
誰にも優しく飄々としているように見えるが、本当は、誰も信用していない。
あるのは、憎しみだけだ。
この優し気な表情の裏に、世界に対する憎悪が煮詰まっているのだと思うと、ゾッとする。
しかもリリスは、聖女を傷つけた報復と魔族への復讐として、ディレットに拷問されて死ぬのだ。
……ルーヴルートと並んで酷いエンドだと思う。
否、一番酷い。
リリスは、拷問死など絶対にご免だった。誰だってそうだろう。
いつかは出会うかもしれないとは思っていたが、出来れば関わりたくなかった。
他のキャラと違って、現時点でリリスは、ディレットの個人的なヘイトを稼いでいない。
関わりないままエンドを迎えれば、ワンチャン、死亡フラグを回避出来たかもしれなかったのだが、接点が出来きた今、リリスは全魔族代表として拷問される可能性が出て来てしまった。
「ん? どうされました?」
石のように固まっていたかと思うと、カタカタと小さく震えだし、その次は、ずーんと落ち込んだリリスに、ディレットは不思議そうな顔をした。
「な、なな、何でもありませんわ!」
思わず、声が裏返ってしまった。
ディレットは、きょとんとしていたが、にやりと口の端を上げた。
「もしかして、僕に見惚れていたり……」
「していませんわ!」
リリスは、食い気味に叫んだ。そして、ハッと口を押える。
「はははっ! 冗談ですよ。リリス様は、殿下の婚約者ではありませんか」
楽しそうに笑うディレットだが、リリスは『殿下の婚約者』の言葉に、うっ、と言葉を詰まらせる。
あのお茶会からというもの、ヴィンセントから、何の連絡もない。
実を言うと、今までの悪行を理由に、早々に婚約破棄されるだろうと高を括っていた。
またも、黙り込んで顔を曇らせるリリスを、ディレットは面白そうに見ていたが、不意にリリスの腰に手を当てて引き寄せた。
「……リリス様が殿下のものでなかったら、僕にもチャンスはありましたか?」
そう、耳元で囁く。
「は⁉」
リリスは、大きな声を上げて目を見開いた。冷静な表情の仮面を張りつけながら、心の中で慌てふためく。
少女漫画の一コマかと思うような状況だ。
「……なんてね」
ディレットは、リリスを解放すると意味深に微笑んだ。
その姿は、まさに遊び人のチャラ男。
前世では、最も縁遠い存在だ。
正直、苦手な部類だった。
拷問死の未来を抜きにしたとしても――
(……やっぱり、関わりたくありませんわ……)
*
(そう思っていましたのに……!)
リリスは、真っ白なキャンバスを前に、心の中で頭を抱えていた。
「リリス様、こちらを向いてください」
鉛筆を持ったディレットが、楽しそうに言った。
今は美術の授業の最中で、ディレットのクラスと合同だった。
二人一組になってお互いの姿を描くという課題で、リリスは、当然、ひとりぼっちだったのだが、そこに声をかけたのがディレットだった。
今は、空中庭園に陣取って、絵を描き始めようとしているところだった。
「……ディレット、他に貴方と組みたい女性はたくさん居たでしょう? 何故、わたくしに声をかけたのですか?」
リリスは、肩身を狭くしながら、こそこそとディレットに聞いた。
ちらちらと、こちらを気にする女生徒の視線が、先程から気になって仕方がない。
「美しい女性がひとりで居るのですよ? 声をかけない男など居ません」
さも、当然だと言わんばかりの、遊び人のディレットに、リリスはこっそりと溜息を吐いた。
「それに、リリス様のことは昔から気になっていたのです」
「え?」
「奔放ながらも、男を惹きつけてやまない麗しい女性……。ずっと、お近づきになりたいと思っていたのです」
「……わたくしの行いは『奔放』だなんて言葉で、片付けて良いものではありませんわ」
リリスは、過去の行いを苦々しく思いながら言った。
「そうですか? 僕にはリリス様の振舞いは、その美しさを益々引き立たせるスパイスのように感じます。実際、リリス嬢に想いを寄せる男は多かったでしょう?」
「それは……」
確かに、とっかえひっかえ出来るくらいには、言い寄って来る男性は多かった。
まぁ、その後は、もれなくリリスの毒牙に刺された後、手酷く振られている。
立派な被害者たちだった。
「それに、最近は、お優しい聖女のようだと話題になっていましたよ」
「はい?」
ディレットの言葉が信じられなかった。
それと同時に、ディレットの口から『聖女』の単語が出て来てドキリとする。
そもそも、魔族に『聖女』はないだろう。
一体、誰が、そんな戯言を言い出したのか疑問だ。
「『奔放』、『聖女』……どちらが本当のリリス様なのでしょう? ……とてもミステリアスで世の男たちはその魅力に惹きつけられてしまう。あの『獣落ち』の彼も、その魅力に憑りつかれた男のひとりなのでしょう。毒を盛られたとの噂ですが、本望なのでは?」
「そんなことありませんわ!」
リリスは、思わず立ち上がって叫んでいた。
近くに居た生徒たちが息を呑んで、こちらを見た。
「あ……も、申し訳ありません」
リリスは、全員に謝って椅子に座り直す。
「ディレットも……いきなり大声を出して申し訳ありませんでした」
(ああ……やってしまいましたわ……)
リリスは、自分の軽率さを呪った。
「いいえ、僕の方こそ、申し訳ありませんでした。……その様子では、毒を盛ったという噂は、真実ではないようですね」
リリスは頷いた。
「もしよろしければ、ことの詳細をお教えくださいませんか? 何か、力になれるかもしれませんし。こう見えても、僕、情報通なのですよ」
リリスは、調査が手詰まりであった上に、誰も味方が居ないこの状態に参ってしまっていた。
ディレットとは親しくしないと決めていたが、この件について話し相手が欲しかったのもあり、リリスは結局、誘惑に負けた。
ディレットに、今わかっていることを、簡潔に話して聞かせる。
「……なるほど。学園で毒を仕込まれた可能性が高い、ということですか」
「ええ、昼食を入れていたバスケットが、わたくしの手を離れたのは、厨房に預けていた時だけなのです」
ディレットは、ふむ、と考え込んだ。
「そういえば……、僕の隣のクラスのマリー嬢から聞いたのですが、オット・トラースという生徒が、厨房の裏口を出入りしているところを見かけたと話していました」
「それは、本当ですか⁉ それは、いつのお話ですか⁉」
「その話を聞いたのは五日前だったので、八日前くらいではないでしょうか? 厨房を出入りする生徒は珍しいので、よく覚えていたらしいです」
毒を盛られたのは、丁度その日だった。
リリスは、関わりたくないと思っていた相手から、思わぬ話を聞けて喜んだ。しかし、ふと思う。
「何故、そんな話を知っているのですか?」
「まぁ、マリー嬢とはちょっと……ね」
ディレットは口に人差し指を当て、意味深な笑みを浮かべた。
きっと、秘密の逢瀬で聞いたのだろう。
自分でも、情報通と言っていたが、遊び人というのは、案外、情報収集に都合がいいのかもしれない。
遊んでいるように見えて、しっかり、教会の仕事しているのだと思うと、リリスは見直すべきか、嘆くべきか迷った。魔族としては、嘆くべきかもしれない。
しかし――
リリスは、そのオット・トラースという生徒は知らなかった。
(どういうことでしょう……?)
リリスの知らないところで、オットは何らかの二次被害を受けたのだろうか?
(それか、悪戯に毒を盛った……とか?)
実は、魔族にとって毒物は、それほど脅威ではない。
人間と違って、魔族は毒を盛られた程度では死なないのだ。
毒を盛る相手を選んでいたことや、後ろ盾が大きかったということもあるが、そのような理由から、リリスも大した咎もなく放置されていた。
「その、オット・トラースという方はどのような生徒なのでしょうか?」
「そうですねぇ……親しいという訳ではありませんので、詳しくは知らないのですが……大人しい生徒ですよ。良くも悪くも、目立たないというような感じです」
「そうですか……」
「お力になれず、申し訳ありません」
眉を下げたディレットに、リリスは頭を振った。
「いいえ。貴重な情報、ありがとうございました」
リリスは、オットを調べてみようと思った。
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