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19 悪女は拾いました。

どうぞよろしくお願いいたします。

 なんで。

 なんで。なんで。なんで。


 ――僕が一体、何をしたというの?


 まだ幼いエリオットは、涙を拭いながら全力で走っていた。否、逃げていた。

 裸足の足が石を踏みつけ、傷だらけだった。

 しかし、今はその痛みを気にしている暇はない。

 とにかく、奴らから逃げなくては、殺されると思った。


 優秀な兄さんと違って、自分が出来損ないであることは自覚していた。

 それでも、兄さんの為、養ってくれる■■の為、僕は一生懸命に働いた。


 でも、いつからだろう。

 皆より食事の量や回数が減らされるようになったのは。


 いつからだろう。

 理不尽な命令で寝る間を惜しむまで働かされるようになったのは。


 いつからだろう。

 罵詈雑言を吐かれ、暴力を振るわれるようになったのは。


 いつからだろう。

 地面に這いつくばって、命乞いをしなければならなくなったのは。


 きっと、兄さんが僕のもとから居なくなってからだ。


 「……ッ……うぅ……ッ」


 絶対に、泣かないと決めていた。

 そう、兄さんと約束していた。

 それなのに、勝手に流れて出て来た涙は、いつまでたっても止まってくれない。

 もう何日も着ている、汚れた服の袖で涙と鼻水を拭った。元々は白かった筈のこの服は、灰に塗れて黒くなっている。


     *


 背後からは汚い罵り声が聞こえてくる。追手はすぐ傍までやって来ていた。

 エリオットには迷っている暇はなかった。魔界の浸食が進む呪われた森に飛び込む。

 当然、恐ろしかった。

 あそこに居る間、ことあることに、「呪われた森に連れて行くぞ」と脅された。それだけ、この町の――否、人間にとって魔界の浸食は恐ろしいものだった。


 だから、きっと、奴らはここまでは容易には来られない。

 森の奥深くへ行かなければ大丈夫。

 森の中には、食べ物もある。

 もしかしたら、生き延びられるかもしれない。


 そんな、淡い期待を抱いていた。

 しかし、現実はそんなに甘くはなかった。


 エリオットは森の中で迷い、いつの間にか森の深部に足を踏み入れていた。森の深部に足を踏み入れた途端、空気が変ったのがわかった。

 まだ、狭間までは来ていないにもかかわらず、ひんやりとした気味の悪い風が吹き、木々の合間で何かが囁いた。

 エリオットは怯えた。


 夜は木の洞で丸くなって眠ろうとしたが、凍えるほど寒くて眠れない。あちらこちらで獣の気配を感じた。

 昼間であっても、いつ何に襲われるかわからない恐怖が全身を支配した。恐怖で心が衰弱していった。

 期待した食べ物も、知識のないエリオットには、何が食べられて、何が食べられないのか、まったくわからなかった。


 イノシシに遭遇した時は、死を覚悟した。

 必死で走って、何とか逃げ切ることが出来たが、もう限界だった。


 とにかく、空腹だった。

 全身が軋んで痛んだ。

 もう、歩けなかった。


 「――ルーヴ……?」


 まるで聖女のように美しい声が聞こえた。

 エリオットはその声に誘われるように足を進めた。

 鬱蒼と茂る低木の枝を掻き分けて行った先には、中腰で身構える女性が居た。

 エリオットを見て、目を丸くしている。


 銀色の髪に、宝石のような青い瞳。

 陶器を思わせる肌は滑らかで、柔らかそうだった。

 エリオットは跪いた。聖女だと思ったのだ。


 「……聖女様、どうかお助けください……」

 「――えっ⁉」


 聖女は驚いた声を上げた。

 力尽きて、そのまま地面に倒れ込むエリオットに、聖女は慌てて近寄り、その細い身体を支えた。


     ***


 「――それで、その餓鬼に飯を喰わせているという訳か」

 「ええ……」


 ルーヴは、必死に残り物の焼いたイノシシ肉に齧り付くエリオットを見て溜息を吐いた。

 リリスはエリオットの頭を優しく撫でた。彼の傷も手当してある。

 リリスがエリオットから聞いた話をルーヴにしてやったのだ。

 ルーヴはもう一度、溜息を吐くと、もう何も言わなかった。何か思う所があったのだろう。

 エリオットが満足するまで食事するのを待って、ルーヴは再び、口を開いた。


 「で、お前は何から逃げて来たんだ?」


 リリスの説明の中では、エリオットが何から逃げているのかは語られなかった。


 「…………」


 水を飲んでいたエリオットは、ルーヴの問いに俯いてしまった。


 「さっさと話せ。俺たちも忙しいんだ」


 そうだ。リリスたちはもう魔界に帰らなければならなかった。

 エリオットは、カップの底を見詰めていたが、ポツリと呟いた。


 「………………教会、です」

 「は?」

 「え?」


 リリスとルーヴの声が重なった。そして、二人は顔を見合わせる。教会とは、人々を救う為にあるものだろう。


 「教会?」

 「何故、教会がお前を追う?」

 「僕が、魔族との子だから……」

 「はぁ?」


 ルーヴは心底訳がわからないといった顔をした。リリスも混乱した。

 魔族であるリリスたちから見れば、エリオットはどう見ても人間だ。魔族の象徴でもある角もないし、第一、魔族なら必ず持っている筈の魔力がまったく感じられない。


 「僕は人間なのに……アイツらはいつもそう言って、僕を殴るんです」

 「なんてこと……!」


 リリスは絶句した。ルーヴは苛立たしそうに舌打ちをする。

 リリスは、エリオットの身体は至るところに痣があるとは思っていた。しかし、それは逃げている時についたものだと思い込んでいた。

 しかし、そうではないないらしい。


 「……今回、町で病が流行っているのも、僕の所為だって」

 「魔族が流行らせているという……病のことですか?」


 リリスの言葉に、エリオットは頷く。


 「でも、先生が言っていました。この病は魔族が流行らせたんじゃないって。必要な薬草が足りないから爆発的に流行ってしまっただけだって」

 「薬草が足りない……」


 リリスは呟いた。それは深刻な問題だ。


 「昔は、この森で薬草を採っていたらしいですけど、今は……」

 「魔界の浸食の影響で誰も近寄らなくなったのか」


 ルーヴの言葉に、エリオットは頷いた。


 「じゃあ、町の人はどうやって薬草を手に入れているのですか?」

 「教会が手配しています。だけど、全然足りてなくて……。先生が危険でも森に入って薬草を採りに行くべきだって訴えたけど、それは出来ないって教会の偉い人に言われたそうです」

 「…………」


 リリスは黙り込む。


 (教会の方の気持ちはわからなくはないですけれど……有事の際にその姿勢は悠長なのでは?)


 何と言うか、危機感が足りない。


 「前は、町の人は皆、教会へ不満を言っていましたが……今は、教会の発表で魔族がこの病を流行らせたって聞いて怖がっています」


 それを聞いて、リリスはムッとした。


 「つまり、それは魔族の名前を出して、黙らせたってことではないですか!」


 教会は、魔族に罪を擦り付け、民衆の不満の矛先を逸らしたのだ。

 そして、エリオットは無実の罪で理不尽に責められているということだ。否、日常的に虐待されている。

 また、薬草の足りていない町の住人たちは、今も病に苦しんでいる。


 「…………、リリスさんたちは魔族ですよね……?」

 「えっ⁉」


 エリオットの突然の問いに、リリスは固まった。しかし、エリオットは真剣にリリスを見詰めながら言葉を続ける。


 「さっき、思い出したんです。始めは聖女様かと思ったんですけど……フードを被っていなかった時に、角があったって」


 森の奥には人間は来ないと思い込んでいたので、リリスはフードを脱いでいた。その時にエリオットが現れたのだ。


 「それを知ってどうするつもりだ? 教会に俺たちを売るか」


 ルーヴが警戒する。唸り声も小さく聞こえた。


 「そんなことしません。……お願いです。僕を魔界へ連れて行ってください」


 エリオットはリリスの手を取って、再び跪いた。


 「そんな……わたくしなんかに跪かないでください!」


 リリスは慌ててエリオットと同じように地面に膝を付いた。

 それをルーヴが目を細めて見ている。


 「ハッ! 魔界なんざ行ってどうする? 人間に居場所なんかないぞ」


 魔族であっても魔界に居場所のないルーヴが嘲った。


 「……それでも、ここよりはマシです」


 エリオットは今にも泣き出しそうな顔でルーヴを睨んだ。


 「本当に、もうどこにも行く当てがないのですか? その先生という方は?」


 エリオットは首を横に振る。


 「先生は教会付きのお医者様です。時々、隠れて食べ物とかくれましたけど……教会に逆らえません。僕には、もう守ってくれる家族も居ない……。お願いです。何でもします……!」


 エリオットはリリスの手をぎゅっと握って言った。その手が小刻みに震えている。こうして魔族に縋らなければならない程にエリオットは追い詰められているのだ。


 「そうですか……」

 「――おい。リリス。止めとけ」


 リリスの考えていることを察したルーヴが先手をとって忠告する。


 「本来ならば、お前はここに居なかったんだ。見て見ぬふりをしろ」

 「……ですが、今、わたくしはここに居ます。見てしまったものを見なかったことには出来ません」

 「――チッ。では、一生、その餓鬼を匿うつもりか? どこに、どうやってやる。不可能だ、諦めろ」


 ルーヴは、非情だが、正しいことを言う。


 (それでも……)


 リリスは逡巡するように瞑っていた瞳を開けた。

 リリスが今、手を伸ばさなければ、この小さな命は近いうちに消えてしまうだろう。


 「……諦めきれません!」

 「……お前は、まったく……」


 ルーヴは深い深い溜息を吐いた。


 「じゃあ、どうする? 本当にどこかに匿うつもりか?」

 「…………わたくしの屋敷で、働いてもらいます」


 リリスはどうするか考えあぐねた結果、小さく声を絞り出した。


 「それこそ、不可能だ。お前は、父親に黙ってここに居るんだぞ。どう説明するつもりか?」

 「うっ……」


 ルーヴは、容赦なく痛いところを突く。

 せっかく、父に黙ってこっそり行動したのに、これではバレてしまう。


 「ど、どうにかしますわ! と、とにかく、エリオットはもう、うちの子です!」


 猫の子を抱きかかえるように、リリスはエリオットを抱いた。


 「チッ」

 「ルーヴ、舌打ちをしないでくださいませ! さっきから、エリオットが貴方に怯えているのをわかっていてやっているでしょう⁉」

 「ふん。そうだったのか? それは気が付かなかった」


 ルーヴは白々しくそう言って、不機嫌にそっぽを向いた。


 「……ほ、本当に……? 僕、教会から離れられるの?」

 「……ええ。一緒に魔界のわたくしの屋敷へ帰りましょう」


 リリスがエリオットにそう微笑みかけると、彼の瞳から一滴、涙が零れ落ちた。


 「……はい……!」

 「はぁ……じゃ、もう帰るぞ。のんびりしている暇はない」


 ルーヴは呆れ果てながら、立ち上がった。

 ルーヴの言う通りだった。夕刻までには屋敷に戻っていなければならない。今は、昼をとうに過ぎている。残り時間はあと二時間程か。しかし――


 「まだですわよ!」


 リリスは言った。


 「まだ、町の皆さんに薬草を届け終わっていませんわ!」


 仁王立ちをするリリスを前に、ルーヴは眉間を揉みながら、もう何度かわからない溜息を吐いた。





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