1話:現世界
「ん……」
視界を広げるといつもの風景が広がっていた。
窓から照りつける太陽。そこから視線を内側に向けると教科書のみが立てられた本棚のある勉強机が目に入る。
一通り辺りを見回したところで上半身に力を入れて起き上がる。
また同じ夢を見ていた。
目覚めてから最初に思うのはいつもそんなことだった。
不可解な夢。ずっと同じ夢を見続けていた。それをいつから見ていたのかは定かではない。
ただ、今回の夢は違っていた。少しだけだが、変化があった。それはただの夢の変化だけに過ぎないのか、それともこの先の未来の暗示をしてくれているかはわからない。だから迷うことをやめ、動き出していった。
マンション暮らしであるため俺の部屋からドアを開けるとそこにはリビングと食卓が広がっている。
「お兄ちゃん、おはよう」
リビングに入ると制服姿の妹の『千尋』が声をかけてきた。黒髪ショートボブ。丸い目に潤った瞳が彼女の爽やかさを引き出している。
「千尋、おはよう」
「私、今日は日直があるから先に行くね。ご飯はテーブルにあるからちゃんと食べてね。それじゃ、行ってきます!」
「ああ、気をつけてな」
千尋は笑顔を向けることで承知の意を示し、カバンを持って出かけていった。
母親は仕事の関係で現在は遠方で暮らしている。
父親は俺が幼い時に亡くなってしまったため今この家にいるのは俺一人。
家にテレビがないからか部屋は閑散としている。テレビは母親が家を離れる時に持っていってしまった。
もう一つ買う手はあったが、母子家庭であるため金銭的に余裕がないと言う。
起きて早々騒がしい雰囲気には慣れていないので、この空間は落ち着くものであった。
テーブルを覗くとご飯と横に二つの封筒が置かれていた。遠方の母からの仕送りだ。
一つは家庭用で、もう一つが遊び用らしい。
ひとまず、キッチンにある味噌汁を茶碗につぐ。それをテーブルにあるご飯と一緒に頬張っていった。やっぱり朝はこの組み合わせに限る。ご飯を味噌汁で流していくことによって、食べやすくなっている。そのため気分が悪い日でもこの組み合わせならば、エネルギーを摂取することができた。
速やかに朝食を食べ終え、学校の用意を始めていった。
****
「おお、龍。今日も早いな」
「おはよう。相変わらず、うちらは暇してるな」
学校に着くと、いつもいる面子が挨拶をしてきた。
最初に挨拶してきたのが、『甲斐谷 充』
赤髪ぱっつん頭。爽やかな表情が似合う容顔はクラスの女子にも高い人気を誇っているらしい。惜しいのは、スポーツ万能にもかかわらず帰宅部ってところだろうか。
そして、もう一人が『千丈 可奈』
金髪ロングヘア。目はやや細く、一見すると怖いようにも見えるが、心優しい人物だ。
「おはよう。二人とも何時に来たんだ?」
別に家に居てもやることのなかったため少しばかり早く学校へとやって来た。少しばかりと行っても、朝の時間が始まる40分くらい前なのだが。
「俺たちもさっき来たばかりだよ。それより聞いてくれよ。可奈のやつがよ……」
「ちょっ! やめてってば」
突発的に喋り始めた充の言動に可奈は頰赤らめながら止めようとする。どうやらよほど恥ずかしいことがあったらしいな。
「いいじゃねえか。それでな。今日可奈のやつ、歩いている時にさ、腕時計忘れたとか言って取りに帰ろうとしたんだよ」
必死に口を塞ごうとする可奈を抑えながら充は俺に事の真相を教えてくれる。
「それで可奈の方を見たらさ。いつもとは反対の方に腕時計しててさ。慌てて止めたよ。ほんと可奈さんは天然なんだからさ」
「仕方ないでしょっ! いつもの癖で左腕見たら腕時計なかったんだからさ。それは忘れたと思うでしょ」
「いや、今左につけてるブレスレットを右につければよかっただろ」
可奈の方を覗くと銀色に光るブレスレットが左にかけられていた。それはきっと昨日の可奈の誕生日に充があげたものだろう。可奈のプレゼント選びで充に付き合わされたからよく覚えている。
「う、うっさい!」
充から顔を背ける可奈。昨日もらったものを今日つけて来て、それも自分がいつも見ている腕の方につけてくるなんて可愛らしいもんだ。
「そういえば、龍も昨日はありがとう。早速今日使わせてもらうよ」
「使ってやってくれ。結構書きやすいと思うよ。試し書きもしっかりしたから」
俺がプレゼントしたのは多色ボールペンだ。試し書きできるところで書いてみたら思った以上に綺麗に書けたことにときめいたのが決め手だった。正直なところ、私用で買いたいと思ってしまったくらいだ。
「よしっ! トランプやろうぜ。まだ時間はありそうだしな」
充は自分のカバンからトランプを取り出す。
俺たちは朝の時間が来るまでいつもトランプやウノなどのカードゲームをして時間を潰している。これが予想以上に楽しいものだから俺は早く学校に来てしまっているのかもしれない。
「まあ、オーソドックスにババ抜きでいいか?」
「いいよ。今日こそ勝ってやる」「ああ、大丈夫だ」
「決まりだな。じゃあ、配っていくぜ」
取り出したカードをシャッフルしていき、それを一人一枚ずつ回して配分されていく。
三人でやるババ抜きは最初に受け渡された札が大幅に減っていく。最初は数十枚ある札はペアを捨てることによって、四枚へと減っていった。
「よしっ。それじゃあ、賭けな。最後までババ持ってた奴は勝った二人に明後日の遊びの時に何か奢るで決定」
全員が自分の持つ札のペアを捨て切ったところで充は突如と賭け事を仕掛けて来た。そんな充の手札は三枚。相変わらず、汚い手を使って来るな。
「ちょっ! 充、あんたずるいわよ。自分がいい手札だからってそうやって賭け事して」
「あら、可奈さん。まさか始める前から『もうわたし負けました』みたいなノリになっているの。それじゃあ、何をやっても勝てやしないよ」
「うっ。わかったわよ。やってやろうじゃない。絶対負けないんだから」
一回は止めようとしたものの充の挑発に乗っかって、勝負を受ける決意をする可奈の手札は六枚。本当にその手持ちで受けてよかったのか。
「龍はどうだ?」
「俺は構わないよ。充との手札差は一枚だし、そんなにアドバンテージを取られていないと思うから」
それに、充に負けたとしても可奈に負けることはなさそうだしな。
「決まりだな。じゃあ、じゃんけん、ぽいっ」
結果、充、可奈、俺の順番で引くことになった。
差が一枚だから挽回できると思っていたが、順番がこれだと正直怪しいな。でも、これはこれで少しばかし安堵のようなものもある。
充が賭けを言い出したってことは充の手持ちにババはないのだろう。そういう俺も手持ちにババはない。
ということは可奈が持っていることは自明なわけで。ほんと、かわいそうだな。
「えっと、これがジョーカーかな!?」
どうやらそのことを充のやつも知っているらしく、煽るような目で可奈のことを見る。
「……さ、どうでしょう?」
図星だろうな。可奈のやつはわかりやすい態度を示していた。
「ほい、よし。これであと二枚」
充はペアを揃えたらしく、上がりに王手をかけていた。序盤でその展開が起こるのが三人ババ抜きの特色だ。
「うーーーーーーーーーー!」
可奈の番が回って来ると大きく見開いて俺の手持ちを見て来る。
「言っておくけど、可奈がジョーカー持ってるんだろ? なんでそんなに必死に探そうとしてるんだ?」
「べ、別にわたしジョーカー持ってないしー。そんなフェイク通じないんだから!」
いや、フェイクかどうかは自分の手持ちに聞いてくれよ。なんでこんな行動をとっているんだろうか。充へのフェイクなのか。あからさま過ぎて逆に裏目に出ているのに気づいていないのか。
「ほい。よし、ペア揃った」
喜びながら捨てる可奈だが、可奈が捨てられるのは必然的に近い。
「俺だな」
別に充の手持ちにジョーカーがあるわけではないので、適当に選んでとる。
「お、あった」
とった札は持っているものとペアになれたので、俺も二人に続いて場に捨てることができた。
「よし。俺だな。ほら、可奈ちゃん、これがジョーカーか?」
充はまた、煽るような目で一つ一つ札を手にとって可奈を見る。
可奈は今回無言という戦法をとったのか、充の言葉に全く反応する気配を見せない。それでも、表情にやや現れてしまっているのは俺から見てもわかった。
「これだな。おっ、ラッキー。上がりだな」
持っている札ととった札の両方を場に捨て、充は朗らかに笑った。やっぱり、一枚のアドバンテージは大きかったな。
「龍には絶対負けないから」
気を取り直し、可奈は俺の札を凝視する。絶対に負けられないという気迫は伝わるが、
なぜだろうか。全く負ける気がしない。
「おっらー、よしっ。ペア揃った」
気合を入れての札とりは見事に成功したらしく、場にカードが落ちていく。ここまでの過程で一回も躓かないなんて奇跡的だな。
残りは俺一枚に可奈が二枚。ジョーカーは可奈のところにあるのが確実となった。
可奈の札の一枚に手を乗っける。充の戦術を使うわけではないが、それでも表情を気にするのはババ抜きの基本だ。
行動に対する可奈の行動はやはり無言だった。でも、表情は明らかにさっきと違った。ポーカーフェイスを使っているのだろうが、表情があからさますぎてバレバレだった。
「ごめんな、可奈。はい、上がり」
持っていた方向と逆の札を取り、難なく上がっていった。
「ま、負けた……」
手持ちのババを持ったまま床に倒れこむ可奈に隣にいた充が吹き出した。
「やっぱ、可奈さん弱いわ。てことで日曜はよろしくな」
「わかってるわよ。ったく、女に気を遣えない男ばっかりだなー」
「勝負に気遣いなんてもんはねーよ。いつでも、真剣勝負だっていうの」
「ぶー、それでも気を遣うのが優しさなのよ。二人とも辛辣ー、昨日の誕……」
床に倒れこみながらも反論を続ける。その声はどんどん小さくなっていき、何かしゃべっているのはわかるが、全く内容が聞こえてこない。
「可奈さん、闇期突入かな」
「その闇、洗浄してやれよ」
「千丈可奈だけに、洗浄かなってか」
「何上手いこと言っているのよ。人の名前使って遊んでるんじゃないって言うの」
「どうやら、洗浄されたようで何よりかな」
「龍も見た目に似合わず、かなり辛辣だよね。はー、どうして私周りはこう優しくないのかね」
「それは可奈をいじめると可愛くなるからな」
「か、かわ……そんなこと言われても何も思わないからね!」
ほんと、普段からポーカーフェイス苦手だな。
二人との会話を楽しんでいると続々と他の生徒が教室へと入ってきた。時刻を見ると朝のSTが始まる五分前になっていた。
「とりあえず、朝はこれでお開きだな。じゃあ、俺はトイレでも行ってきますかね」
充の一言により、俺たちは一度解散することとなった。俺は窓側の後ろから二番目の自分の席へと歩いていく。
席についたはいいものの特にやることもないため窓から見える風景へと目をやった。
二年の一学期が始まって約一ヶ月半。桜は完全に散り、殺風景な景色が辺りに広がっていた。だが、少し空を見上げれば景色は一変。雲ひとつない青空がこの世界を包み込んでいた。
光り輝く太陽の光はこの席では直接的に当たることとなり、昼休み明けは毎回睡魔と戦うことを余儀なくされる。
俺以外にもそういう状況に立たされているやつは少なからずいるが、ほとんどのものは敗北して机に突っ伏している。この位置からだとその様子をはっきりと観察できるため見ていて少し面白い気持ちになったりする。
「よーし、席につけ。出席を始めるぞ!」
担任の先生からの一言により、ボーっとしていた気持ちに意識が足されていく。教室を見渡すと生徒のほとんどが席についていた。たったひとつ俺の後ろの席を除いて。
「今日の休みは……また美湖瀬か。どうせ遅刻だろ」
先生は呆れながら出席表のところに記述する動作を見せる。
「セーーーーーーーーーーーーーーーーーフ!!」
すると、大きな声を出しながら一人の生徒が教室前の扉を強く開ける。
赤髪ポニーテール。パッチリと開かれた丸い目に、何にも染められることない純白の瞳。放たれる笑顔は照らす太陽にも負けないくらい明るかった。
「何がセーフだ。完全にアウトだぞ。いいから早く席につけ」
「ご、ごめんなさい!」
先生の呆れ口調に謝罪しながら慌ててこちらへと歩んでいく。その姿にクラスの生徒たちは笑いながら彼女に挨拶したりしていた。
慌てつつも、彼女はしっかりと挨拶を返している。天然なところがありつつもしっかりしたところがあるからみんなから愛されているのだろう。
「おはよーー、龍くん!」
目の前へとやってきた彼女は俺の前に来るとより一層笑顔を膨らませてきた。
名前は『美湖瀬 碧』
彼女は幼馴染の関係にあり、今では彼氏彼女の関係にあるらしい。
推定の形になっているのは俺にその記憶がないからだ。
俺は中学時代に事故を起こし、脳の一部を損傷してしまった。それによって、中学時代の記憶の一部は消えてしまっている。と言っても、消えたのはエピソード記憶であり、学習面に影響は出なかった。
せっかくの大切な記憶をなくしてしまったため碧には申し訳ない思いしかない。
「おはよ。相変わらず、朝は弱いのな」
「えへへ、今日も全く起きることができませんでした」
俺の言葉に返事をしながら碧は自分の席へとつく。
「あとね、今日ちょっと変な夢見ちゃって」
「変な夢? どんな夢だったんだ?」
「えっと、最初はね……自分の身がシャボン玉に包まれていてね。色々な世界を旅していたんだけど、最後にシャボン玉が割れちゃって、地面に落下する夢だよ。おかげで今日の朝はベッドから落ちる形で起きました。ははは」
「それは災難な夢だったな」
「龍くんは最近何か夢見たりした?」
「俺か……いや、最近は見ないな。気づいたら朝になっていることが多い」
さすがにここ数年、迷宮を彷徨い歩いている夢を見ているなんて不気味で言えるわけがなかった。
「そっか。きっと、毎日ぐっすり眠ちゃってるんだね。ねえ、今日はどこにいく?」
「んん……駅前の商店街で食べ歩きかな」
「いいね、それ。そういえば、そこで新しく『唐揚げ屋さん』ができたんだって。食べてみようよ」
「そうだな」
「やったーーー」
話していると前の席からプリントが回って来る。受け取り、後ろの席の碧に渡そうとする。
碧は首を上下に揺すり、今も寝そうになっていた。目を離したのは一瞬だったんだが、本当に朝には弱いらしい。
仕方がないので、プリントは俺が保管することにしておいた。
『五月病について』のプリントは今この場に相応しく少しおかしな気持ちになった。