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あやかし海中通り店

作者: 百門一新

 日野宮幸司(ひのみやこうじ)が帰路につけたのは、午後十時を回った頃だった。


 住宅街の細い夜道には、街頭の明かりだけが灯の人の姿はない。風も全くないため地面に残る真夏の熱で蒸し暑く、スーツの内側も癖のない黒髪の中だけでなく全身汗だくだった。


 六年前に田舎から上京し、大学を卒業したのち大手のIT企業に就職した。忙しい仕事の毎日を送り続けて早二年、残業で帰りが遅くなることにも慣れた。


 とはいえ大学時代から、海もない内陸地の暑さには慣れないでいる。思わず一度足を止めると、前が開けられたスーツを掴んで内側に風を送った。


「夜なのに、ちっとも空気が涼しくない……」


 中に着ているシャツと肌着が、水分を含んで張り付き心地悪い。会社は冷房が効いているので、外が余計に蒸し暑く感じるのだろう。


 頬を伝って落ちる汗を拭った時、ふと、違和感を覚えて数メートル先に目を向けた。夜道にぽつりぽつりと街灯はあるものの、それはやや細めの鉄柱に明るめのランプが下がっていた。


「…………こんな街灯あったっけ?」


 日野宮は、その変わった街灯まで向かった。


 見上げてみると、それには夜行虫が集まっている様子もなかった。いつも見慣れている物とは違い、柱部分は黒い鉄で細くランプの部分には綺麗な装飾も付いている。

 まるで外国風の街灯だった。辺りを見回してみると、他は見慣れた風景が広がっていた。昔の面影の残る狭い道には、相変わらず見慣れたいつもの街灯がちらほらとある。


 不意に、足元を照らし出しているランプ風の灯りが揺らいだ。


 つられて目を戻した。風がないのに、それはきぃきぃと音を立てて小さく揺れる。変だなと思って首を傾げた際、ふと、その向こう側に細く道が続いていることに気付いた。

 先程まで目に止まらなかったのに、そこには覚えのない中道があった。新しく出来た道なのだろうか、それとも毎日が忙しくて気付かなかっただけなのか?


「近道だったら嬉しいんだけど」


 少し考えて、日野宮はそちらへと向けて歩き出した。


 入ってみたその道は、車が一台通れるくらいの幅だった。白に近い灰色のコンクリートは滑らかで、両側には地面と同じ色の高い塀が続いている。先程の風変わりな街灯が等間隔で並び、とても清潔でキレイという印象を受けた。


 やはり最近出来た道なのだろう。そう思いながら歩き続けていると、ふっと道がワントーン明るくなった気がした。


 蒸せるような暑さが消えるのを感じて、疑問を覚えて足を止める。どこか冷房の効いたような空間を訝って目を向け――「え」と声が出た。


 月明かりに照らし出された道の上を、魚達が優雅に泳いでいる。色とりどりの小さな魚達は、尾びれを揺らしてゆったりと宙を浮いて進んでいた。


「な、なんだこれ……」


 まるで自分が海の中を歩いているように錯覚した。肌に感じる冷たさとその光景に動揺してしまい、日野宮は鞄を胸に抱えて恐る恐る歩き出す。


「…………俺、疲れているのかな」


 こちらに触れる直前に、すいっと離れていく魚達を見回しながら呟いた。彼らは全く警戒する様子がなくて、噛み付いてくる感じもなく害はなさそうだった。


 少し歩いた頃には、驚きも『涼しくて心地がいい』という感想が上回っていた。こんなにも警戒しない魚というのも珍しい。一匹の太った魚が目の前に来た時、そろりと指を向けてつついてみた。


「うわっ、鱗があると思ったらめちゃくちゃ柔らか――」


 子猫の腹をつついたみたいな感触だ。

 そう感じた時、そのデブ魚が大きく膨れて睨みつけてきた。その膨らんだ顔が、なんだか愛らしい蛙みたいにも思えて面白かった。


「ごめん、もうしないよ」


 言葉が通じるはずもないのに、気付いたらそう詫びていた。そうしたら、魚が元の体積に戻って再びゆっくり宙を泳ぎ始める様子を、日野宮は不思議に思って眺めながら足を進めた。


 しばらく歩くと、小さな一軒の店が見えてきた。


 それは、赤い二つの提灯が掛かった古風の店だった。美味しそうな料理の匂いが漂ってきて、夕飯もまだだった胃が空腹を訴えてぐぅっと鳴ってしまった。


 日野宮は、宙を泳ぐ魚達がいる店前の道で立ち止まった。少し斜めにずれた看板を見上げてみると、そこには『海中通り店』と書かれていた。


 こんな場所にあるのだから普通の店じゃないのでは、とも思えた。しかし、空腹には勝てなくて、ここまできたら突撃してくれるという勇気も起こって店の戸を開けた。


「いらっしゃいませ」


 足を踏み入れてすぐ、どこからか若い男の声がした。


 店の中は少し小さめで、目の前にあるカウンター席の他は、入口の壁に椅子が五つ並んでいるだけだった。まるで、おでん屋といった屋台のような雰囲気だ。一人の黒いマントを羽織った大柄な男が、中央の席を陣取るように腰掛けている。


 カウンターの上の方には、白い紙に手書きで『カツ丼』や『ハンバーク』などありふれたメニュー名があった。種類は豊富で、一般的な家庭料理がほとんどだった。


「おや。人間の、それも大人の(かた)ですか」


 またしても声が聞こえたかと思ったら、カウンターの奥から無地の着物衣装をした若い男が姿を現した。

 紫かかった灰色の長い髪を、後ろで一つにまとめた色白で長身の男だった。女にも見えるくらい端整な顔立ちをしていて、穏やかに微笑む瞳は濃い灰色だ。


 料亭で見掛けるような格好だ。それでいて美男子だなぁと呆気に取られていると、店主らし気その男ににっこりと笑いかけられた。


「こちらへどうぞ、お客様」

「へ? ああ、どうも」


 促されて椅子に腰掛けると、先客がこちらを振り返った。真っ黒いしっかりとした短髪に、小麦色に焼けた肌をした男だった。


 その男は、つり上がった目で凶悪そうにジロリと睨み付けてきた。片頬とマントから覗く筋肉のついた腕からは、古傷らしきものが白く浮かび上がっていた。


 そのまま店主らしき男が、「どうぞ」と言っておしぼりを差し出してきた。隣から痛い視線を感じながら、日野宮は足元に鞄を置いてそれを受け取った。


 冷蔵庫から出して来たのだろうか。おしぼりは、ひんやりとして気持ちが良かった。思わずほっとして汗で汚れた両手を拭っていると、彼がカウンターに戻ってこう訊いてきた。


「落ち着いていらっしゃるようで、少し意外でした。ここへ来る途中、怖くはありませんでしたか?」


 そう尋ねられて、日野宮はそういえばと思い出した。


「えぇと、あの、魚が宙を泳いでいたんですけど…………先程あなたは『人間の大人』と俺のことを言いましたよね……? 一体ここって何なんですか……?」

「ここは海中通りと言いまして、どこからでも入れる異空間になっています。子供達が迷い込んでくることは時々あるのですが、大人はあなたが初めてですね」


 男はそう言うと、ふふっと笑う。


 日野宮は、ますますわけが分からなくなったような表情をした。


「じゃあこの店、実際は存在しないとかそういう感じだったりするんですか?」

「この店は実在していますよ? ただ、人間が見つけられないだけです。本来なら人間以外の方しか来店しないものでして」

「はぁ。つまり人間の利用がない通りと、その店……?」

「その通りです。私だって人間ではありませんよ。人の姿をしていますが、精霊の一種です」


 日野宮は「なるほど……?」と疑問形で言って、首を傾げた。


「ああ、申し遅れました。私はこの海中通りの『責任者』で、店主を勤めさせて頂いているオウミと申します」

「あっ、俺は日野宮です」


 日野宮は、丁寧に挨拶されて慌てて会釈を返した。


 すると、隣の男が顔を顰めて「おいコラ」と言った。


「何馴染んでんだよ。普通はもっと驚くもんだろ。嘘だとか、騙されているんだとか思わないのかい」

「うーん、なんというか、信じられないくらいびっくりしているんだけど」


 日野宮は言いながら、思わず苦笑いを浮かべた。


「実際、目の前を魚が泳いでいるのを見たら、他にそんなことが起こっても不思議じゃないかもなぁと思いまして。人間じゃないと言われても、いまいちピンとは来ないけれど」


 正直に打ち明けたら、何故かオウミが上品に笑った。男が仏頂面で姿勢を戻して、水の入ったグラスを手に取る。


「けっ、都合のいい頭をしたヤローだぜ」

「まぁ、落ち着いてください鴉丸(からすまる)さん。時々迷い込んでくる子供達と同じくらい、日野宮さんの心が綺麗な証拠でしょう」


 疑い深い嫌な人間の大人とは違いますから、とオウミが言う。


 鴉丸と呼ばれた男は、何も答えないまま無言で水を飲んだ。ふっと微笑みかけた彼が、日野宮へと目を向けて尋ねた。


「さて。ご注文はどうします?」

「あっ、そういえば普通のお金で大丈夫なんですか? 注文したいのは山々なんだけど、ここ、俺の知っている店とは大分違うみたいだから……」


 ポケットに入れている財布を取り出そうとして、ハタと気付いて不安になる。問い掛ける彼の表情と目は、どうしよう、かなりお腹は空いているんだけど、と物語っていた。

 オウミと鴉丸が、きょとんとして顔を見合わせた。それから、二人揃って唐突に笑い出した。


「え……? あの、なんで笑っているんですか?」


 おろおろと二人を交互に見やっていると、隣にいた鴉丸にバンっと肩を叩かれた。


「あんた面白ぇな!」

「何が面白いのか、俺にはさっぱり分からないんだけど……?」

「馴染むのが早いっつうかなんつうか。まぁとりあえず人間のお金も大丈夫だから、ちゃちゃっと注文しな。さっきから腹の虫が鳴いてるぜ」


 鴉丸に指を向けられて指摘され、日野宮は顔を少し赤くして自分の腹に手をやった。小さな音だったから気付かれないと思ったのに、とじわじわと恥ずかしくなってしまう。


 ちらりとカウンターの上にあるメニューを見やった。何を食べようが悩んですぐ、ふと、『母の味』と書かれているメニュー名が目に留まった。それには料理の種類や説明は載っていない。


「あの、質問してもいいですか……?」

「はい、なんでしょう?」


 戸惑いがちに小さく挙手した日野宮は、訊き返してきたオウミにこう続けた。


「――『母の味』って、どんな料理なんですか?」


 すると、普通の人間に見える店主の彼が微笑んだ。目元をふんわりと優しく細めると、女のように細くキレイな白い手を上げて説明する。


「『母の味』は、『母の味』ですよ。記憶に残っている母の手作り料理の中から、一品を私が作ります」

「そんなこと、出来るんですか?」

「はい。記憶を調味料にしますから、出来ますよ」


 そんな味付け方法なんて聞いたことがない。よく分からないなと思いながら、日野宮は再びそのメニュー名へちらりと目を向けた。


 大学を卒業して以来、忙しい毎日で実家には帰っていなかった。時々、海の匂いがする故郷を思い返しては、とても恋寂しい気持ちになる時もあった。母がよく作っていたベーコンの入った野菜炒めと、薄いけれど甘みのある味噌汁の味だって今でも覚えている。


「……じゃあ、『母の味』をお願いします」

「はい」


 そう答えたオウミが、そっと手を伸ばして日野宮の頭に触れた。そして、ぱっと何かを掴んだように手を握ると、足早にカウンターの奥へと消えていってしまった。


 例の、不思議調味料というやつだろうか……?


 疑問を覚えながらも、いつの間にか出されていた水に気付いてコップを手に取った。氷が入っているわけでもないのに、それはとても冷たくて美味しかった。


 しばらくすると、懐かしい匂いが鼻をかすめた。


「美味そうな匂いだな」


 ふっと少しだけ顔を上げて、鴉丸が呟いた。


「そうだね」


 相槌を打つ日野宮は、彼と同じくずっとカウンターの奥の方を見つめていた。


 匂いに意識を向けていると、料理を作る母の姿が脳裏に浮かんだ。いつも大雑把に材料を切り、手際よく調理していたものだ。腹をすかせて帰ってくるたび、畑から急いで戻ってきて短時間で料理を作り上げてしまう、とても優しい母親だった事を思い出した。


 知らず手を握り締めてしまった。オウミの「お待たせしました」の声が聞こえて、ハッとして顔を上げると、湯気のたつ料理皿を載せて戻ってくる姿が見えた。


 鴉丸が無言で見つめる中、彼がそれを日野宮の前に置いた。


「どうぞ」


 そう言うと、にっこりと笑って再びカウンターの奥へと戻っていった。


 片付けのためだろう。日野宮は、目の前に視線を戻した。そこには米茶碗に盛られたふっくらとした白米、醤油の香ばしい匂いがする野菜炒め物、それから温かな匂いを漂わせて湯気を立ち昇らせる味噌汁……――。


「……いただきます」


 まるであの日と同じメニューだった。ゆっくりと軽い箸を持ち、記憶と違わないその『夕飯』に手を伸ばした。


 味噌汁は、味が薄くてほんのり甘さがある。いつも適当に味付けされているのに美味しく仕上がっていた野菜炒めも、柔らかくて白いご飯も母の水加減そのままだった。


 あの頃の夕食が再現されたような料理を見下ろして、何もかも一緒だ、と涙腺が緩みそうになる。なんで、どうして、思う言葉が込み上げるのに声にならなかった。

 懐かしい味と匂いを噛み締めながら、ただただ一口一口を味わって食べた。それでもどんどん思い出してしまって、涙が出そうになり、最後は夢中でそれを口に運んで皿を空にした。


「…………ご馳走様でした」


 日野宮は、最後に箸を置いて手を合わせた。声が少し震えてしまっていた。


 奥の方からオウミが出てきて、空になった食器を見てにっこりと笑った。けれどこちらの様子を察してか、何も言わないまま食器をさげて一旦戻っていく。

 隣から、鴉丸が首を伸ばしてきた。


「美味かったか?」


 そう尋ねられて、日野宮は目を向けられないまま静かに頷いた。溢れかけた涙を拭ったら、彼が黙って水を差し出してきたので受け取って飲んだ。


「オウミ、美味かったそうだ」


 言葉が出ない日野宮の変わりに、鴉丸が奥へ声を投げた。すると出てきたオウミが、「それはよかった」と言って、カウンターのテーブルに氷だけが入ったグラスを置いた。


 日野宮は、それが何を意味するのか分からなくて首を傾げた。思わず目で追いかけてみると、オウミは鴉丸の前にも同じグラスを一つ置いていた。


「いいのかよ、俺まで」


 鴉丸が嬉しそうに言う。


「今夜は特別にサービスですよ」


 ふふっと上品に笑ったオウミが、そう答えた。

 二人のやり取りを不思議に思っていると、鴉丸が氷だけが入ったグラスを持ち、まるで水を飲むように口を付けてぐいっと傾けた。そして、「やっぱ美味いなぁ」と満足げに笑った。


「あの……、これって?」


 困惑して尋ねたら、オウミが穏やかな笑みを浮かべてこう言ってきた。


「お酒ですよ、とても美味なお酒なんです。サービスですから、どうぞ」


 どうぞと言われても……日野宮は、氷だけしか入っていないグラスに目を落とした。そんな彼の様子に気付いて、鴉丸が声を掛ける。


「人間の目でも、酔えば見えるようになる酒だ。滅多に咲いてくれねぇ『とある気紛れ花』からしか取れない霊酒で、飲めるのはかなり貴重なんだぜ」


 だから飲んどけ、そう言われて勧められるままグラスを持ち上げた。


 ちょっと揺らしてみても、やっぱり何も入っていないようにしか見えなかった。けれど彼らが『在る』というのなら、今の自分に見えていないだけなのだろう。


 二人が見守る中、日野宮はグラスを口に当ててゆっくり傾けた。喉がひやりと潤って、冷たくて甘い味が口に広がり「あ」と思う。


「……すごく、美味しい……」


 すうっと胃に染み込むのを感じながら、びっくりして吐息混じりに呟いた。鴉丸が「そうだろ」と自慢げに言い、オウミがふふっと上品に笑う。


 再び見下ろしてみたグラスには、桃色のとろりとした水が入っていた。少しグラスを傾けてみると、甘い香りが漂い、中の氷がカランと音を立てて移動する。隣の鴉丸のグラスにも、同じような色の水が半分入っているのが見えた。


 これまで飲んだことのある酒とは、かなり違っているような気がした。どう違うのかと問われれば難しいけれど、アルコールで酔っぱらう、という感覚がまるでないのは確かだ。


「こちらは時間の流れが遅いですから、そろそろ戻った方がいいかもしれません。人間世界では、そろそろ〇時前頃くらいでしょう」


 オウミにそう声を掛けられて、日野宮は「そうですね」と答えてグラスの中を空にした。最後は喉に流し込んでみたものの、やはりカッと熱くなる事もなくひんやりと喉を滑り下りていった。酔っている感じはない、でも気持ちはどこかすっきりとしていた。


 そのまま、グラスをカウンターテーブルに戻し、足元から鞄を拾い上げて立ち上がった。


「今日は、色々とご馳走になりました。本当に美味しかったです――お代はどのくらいになりますか?」

「ふふふ、いいんですよ。今日は私の奢りということで。次いらっしゃる時には、通常料金を取りましょうかね」

「また来られるかも分からないのに……」


 恐らく、自分がここへ来られる事はもうないだろう。


 ここは、人間の大人が出入りする事はないという摩訶不思議な『海中通り』だ。たまに子供が迷い込むだけの場所であるという説明を思い返して、日野宮は小さく苦笑を浮かべてそう言った。


 オウミが答えないままにっこりと笑って、続いて「鴉丸さん」と隣へ声を掛けた。


「彼は『出入り口』が分からないと思うので、『通りの外』まで連れて行ってあげてください」

「おう、そのつもりだ」


 そう言いながら立ち上がると、鴉丸は日野宮を見た。


「さぁ、行くぜ」

「よろしくお願いします」


 立つとますます大男に見える鴉丸に促され、日野宮はオウミに再び会釈をしてから店を出た。




 外は先程と変わりなかった。宙を泳ぐ魚達を眺めながら、真っ黒い大きな鴉丸の後ろをついて歩いた。

 しばらく真っ直ぐ行ったところで、彼が街灯の細い柱を三回叩いた。


 不意に、ワントーン視界が暗くなってくらりとした。目が慣れるまで瞬きを繰り返した日野宮は、住み慣れたアパートの通りにいると気が付いて「あ」と言った。


 本当に摩訶不思議な通りだ。そう思いながら礼を言おうと振り返ったところで、ハタと動きを止める。つい直前まで大きな彼がいたはずの位置には、誰も立っていなかった。


「あれ……? もしかして俺だけが出てきてしまったのかな」


 あたりをきょろきょろとしたら、随分下の方から鴉丸の声が聞こえてきた。


「どこを見てる。俺はここだ」


 そちらに目を向けてみると、大きなカラスが立っていた。話しかけたのは自分だぞと主張するように、鳥らしからぬ様子で右の翼だけを広げて振っている。


「……鴉丸さんて、カラスだったんですねぇ」

「驚きが浅い、もうちょっと他の反応の仕方はなかったのかよ?」

「なんか顔付きとか、普段見るカラスより強そうな感じが『鴉丸さんっぽい』」


 思ったことを伝えたら、彼が「ふうん?」と言ってニヤリとした。バサリと大きな翼を広げると、目の高さまで飛んできた。


「俺、お前のこと気に入ったぜ。また店に来いよ。俺は常連客だからいつでもいる」

「うん、きっといつか行くよ」


 行き方なんて分からないよ、とは答えなかった。満足げに一声鳴いた鴉丸が、あっという間に空を飛んでいくのを見送った。


 魚が宙を泳いでいる通りがあって、喋るカラスと言葉を交わしたなんて、まるで夢みたいな時間だ。日野宮は、美味な酒の甘い香りを覚えながら、気持ちがいいまま背伸びをした。


 明日になったら、忘れてしまっていたりしないだろうか。


 そんな物語の寂しいオチを思って、微笑む口の中に「――俺は覚えていたいなぁ」と酔い心地みたいに呟いた。それから、自分の住んでいるアパートへと向かって歩き出したのだった。

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