あなたは3,000人に選ばれました。
冬晴れの昼下がりに帰宅すると、いまどき料金後納ではなく62円切手を貼ったDMチックな葉書がポストに投函されていた。
ダイニングのテーブルに葉書を放り投げ、うがい・手洗いを済ませると薬缶と大鍋に温水を満たしてガスコンロの火にかけ、くだんの葉書を手に取った。
――どれどれ?
スタンプにはロシア語の小さな文字ではなく、銀座郵便局の消印が押され、手書きの拙い文字で確かに自分の住所と名前が記されていた。
差出人は、一般社団法人 中央調査社
調査主体は、内閣府 政府広報室(世論調査担当)だそうだ。
裏面には、内閣府・世論調査ご協力のお願いとの見出しと、ありふれた協力要請の文言。
詳しくは中面をご覧ください、とのことなので寒さにかじかんだ指でそろそろと粘着面をはがしてみる。
『自衛隊・防衛問題に関する世論調査』
『HIV感染症・エイズに関する世論調査』
調査の概要として、左面には次の項目が記されていた。
【調査の内容】:みだしのとおり。
【調査の対象】:日本国籍を有する18歳以上の方
【調査の対象数】:3,000人
【調査の方法】:調査員の質問に対して、回答票(複数の回答例が書かれたカード)の中から口頭で選択
【調査の時期】:1月中旬から下旬にかけて調査員があなた様を訪問し、あらためて云々
右面には、調査に関するQ&Aが記されていた。
Q:どうやって選んだのか?
A:全国から210の町丁目を選択し、住民基本台帳の中から何人かおきに1人を選びました。
他には、住民基本台帳を閲覧したことに関する正当性と、回答内容の外部流出はないことが記されていた。
――う~む。このネタで対象者に選ばれるってことは、確かに無作為抽出なんだろうな。
でも、最初に選んだ町丁目が、例えば市川市二俣とかだったらどうすんのかね?
住んでるのはアレな公務員だけだろうに……。
でも、まあ全国から3,000人か。
ざっと四万人に1人?
そう考えると、何か良いことがありそうな気分になるのは、生来の気質がなせるわざだろうか?
とりあえず葉書をテーブル上に投げ出し、紅茶の支度を始める。
英国王室御用達の茶器、といっても家庭使い用の白無地のポットにお湯を注いで温め、すぐさま大きめのカップに湯を移すとともに残りをポットの蓋に回しかける。
残り少ない貰いものの茶葉を大きめのスプーンで山盛りに計り、ポットに入れると沸き立ち始めた薬缶の湯を注いだ。
立ち上る湯気でレンズが曇った眼鏡を左手で額に押し上げ、ポットに蓋をはめると、TVの電源を入れる。
冷蔵庫から卵一つとハーフカットベーコンの袋、それとピザ用のチーズを取り出した。
ボールに卵を割り、ピザ用のチーズ一掴みを入れて卵を少し端に寄せる。
ベーコンを5mm幅に切り、弱火で加熱したフライパンに投入。
ニンニク一片をみじん切りにし、ベーコンから出た油で炒める。
ニンニクを炒める香りとともに大鍋の蓋が踊りはじめた。
大量の荒塩を大鍋に投入すると、一気にお湯が沸き立つ。
火を止めたフライパンから、ニンニクとベーコンをボールに移す。
チーズの土手を使って、卵に触れさせないことが肝要だ。
沸き立つ大鍋に太めのスパゲッティーを入れるとともに、少し火を弱める。
あまり火が強いと、鍋肌を伝う炎でスパゲッティーが焦げてしまう。
冷蔵庫に貼りつくキッチンタイマーに12分をセットしているとインターフォンが鳴った。
――宅急便か? 娘がまたメルカリで服でも買ったのだろうか?
ダイニングの椅子に掛けていた上着を羽織りながら、映像を確かめることもなく玄関に向かった。
扉を開けると、見慣れた宅配業者ではなく、くたびれたおばちゃんが立っていた。
――やばい。宗教の勧誘だった。
普段使わない頭を高速回転させ、断る言い訳を探していると、おばちゃんが言った。
「内閣府からの依頼を受けて調査を行っております」「○○様でしょうか?」
交渉術の一つに、『ドア・イン・ザ・フェイス』というテクニックがある。
要は、高めの要求を最初に行い、断る相手に心理的な負い目を追わせて徐々に要求を引き下げ、当初の目標に導く譲歩的な要請手法だ。
宗教の勧誘だと思っていたため、この寒空の下でも世論調査に答えるくらいはいいかな、と思ってしまった。狙ってやっているのなら、このおばちゃんは侮れない。
室内はおろか玄関自体が散らかっているため、回答は必然的に戸外で行われた。
回答用の選択肢が綴られたA5サイズの紙束を渡され、読みながら回答する。
紙束には参考資料も添付されており、たいへん読みごたえがある内容だった。
――これを一読しただけで設問に答えるのは、素人には無理じゃね?
おばちゃんが持っているバインダーをちらと盗み見ると、10人以上の名前と住所が記されていた。
3,000割る210は14? 15?
どうやら、ひとりでこの地区を回ってるみたいだ。
大問その1は自衛隊と国家安全保障について
偽らざる気持ちを回答したが、どうも設問にバイアスが掛かっているような気がする。
上手く言えないのだけど、極端な回答例が選択肢に用意されている。
このため、その選択肢を回避すると中道右派か中道左派か、いずれかの選択肢しかないことが多い。
とはいえ、深い思い入れのある国際貢献活動については、確信をもって不要を選択しましたけどね。
選択した理由は、もちろん、国連が腐っている(笑)からです。
あと、戦争になったら自衛隊に志願しますか? という設問
これ、対象が自衛官だったらどうすんのかね? それに対応する選択肢はなかったけど。
もしくは、後期高齢者とか……。
大問その2はエイズについてだったけど、少しだけ勉強になりました。
謝礼のクオカード500円を受け取り、訪問確認書類にサインをしておばちゃんを見送った。
――選挙といい、世論調査といい、なんか無駄にお金が掛かってるな。
携帯のSMSとかで協力要請をして、適切なサイトに誘導して回答してもらい、謝礼は携帯で使えるポイントとかにすれば、同じ予算でも、もっと実施回数を増やせると思う。なにより、立派な資料を作っても、玄関先じゃ読んでくれる人なんかいないでしょうに。
まぁ、住民説明会とかと同じく、やったという事実だけが必要なのかもね。
そこまで考えた時、まだ調理中だったことに気がついた。
でも、タイマーは鳴っていない。間に合ったのか?
キッチンタイマーを確認すると、12分の表示は動いた気配がなかった。
どうやらボタンを押していなかった模様
慌てて大鍋を確認したところ、芯が残っている感じでもない。
一本取って食べてみる。
そのままザルにあけ、軽く湯切りをした麺を件のボールに投入し、待つこと10秒少々。
麺の熱でチーズが溶けた頃合いを見計らい、釜玉うどんの要領で、菜箸でひたすら混ぜる。
平皿を取り出してボールの中身を空け、黒胡椒をミルで挽く。
炭焼職人風スパゲッティーの出来上がりだ。
さすが英国王室御用達、濃くなりすぎてはいたものの、決して冷めてはいない紅茶に大量のミルクと砂糖を入れて飲む。
携帯電話が震えたので確認すると、娘からのメッセージ。
「よるはらーめんがたべたいです」
「そとで」
――晩御飯も麺、しかも外食かよ。
そう思いながらも「いいよ」と書き込むと、娘に甘い自分に訳もなく満足感を覚えた一日でした。
ベーコンよりもグアンチャーレかパンチェッタを使ったほうが味が決まります。