(4)その時、叫び声が…「ひ、人殺しだ!」
目暮啓司はカレーをがっつきながらも、空き巣としての習慣で、クルリと居間を見回した。
居間の一角に――上等そうなスーツで決めた、年輩の男の写真が掛かっている。
――おや? 遺影っぽい感じだな? この家の主人だろうか?
日暮の婆さんが、すぐに目暮啓司の視線の意味に気付いた。
「あ、あれね、うちの夫なの。死んでから、もう十年……十年以上になるかしら。定年退職する直前だったから、しばらくは大変だったのよね」
「そうっすか」
目暮啓司は口の中でカレーをムグムグとやって、ゴックンと飲み込んだ。
空き巣として学習した知識が告げている。典型的な、旧世代のサラリーマン一家。妻の方は、間違いなく専業主婦。この家は、旦那の稼ぎで、もっていたようなものだったのだろう。
「この現代、ずーっと不景気が続いているから、大変だったんじゃ無いっすか」
「それが、うーん……そうでも無かったの」
首を傾げた目暮啓司に、日暮の婆さんは、控えめな笑みをして見せて来た。
「かなりの額の生命保険が掛かってたから。年金みたいな感じで定期的に入って来てたから、生計の方は何とかね。私が死んだ場合でも、その辺の用意は抜かりは無かったりするから、何とかやってたんじゃ無いかしら。息子の方は、仕事とか色々何か上手く行かなくて、今は『プータロー』状態になっちゃったけど……まぁ、何とか養えているから」
目暮啓司は無言で相槌を打った。相当に至れり尽くせりの生命保険だったらしい。高度経済成長期やバブル時代の恩恵ではあるのだろう。
実のところ目暮啓司としては、内心、『あの息子の方は、重度のパチンコ中毒のようだし、身の錆が出た形で、上手く行かなくなったんじゃ無いのか』という直感があるが、それは言わないでおく。
――そろそろ、潮時だろう。
ホワイトな定時帰宅組の、ビジネスマンとビジネスウーマンが到着する頃だ。下手に長居して余計な目撃者を増やすのは、目暮啓司にとっては都合が悪い。
――それに、あの……『だらしねぇ』とは言え、一応、婆さんの息子ってのも、そのうち帰宅する筈だし。
「ご馳走様っす。旨かったっす」
如何にも『マジメ百点のサラリーマン』らしく、律儀に一礼する。婆さんはニコニコ顔だ。とりあえず、今日のところは、上手く切り抜けた――しかも、食費ゼロで――と言える。
だが。
そこで、目暮啓司の幸運が尽きたと言うべきなのであった。
「ひ、ひ、人殺しだ! 火事だ! 叔母さんが死んでるーッ!」
夕闇に沈み始めた住宅街の中――近所の家のひとつから、パニックに陥った男と思しき、ただならぬ叫び声が湧き上がって来た。声が裏返っている。
それに応じて、近所の家々から、暇を持て余していそうなジジババたちが、ドヨドヨと湧いて出て来た。
ご丁寧に、『火の用心』回りをやっている地元のジジババ消防団も、騒ぎを聞きつけて集まって来ている。
勤め先から帰宅したばかりの三々五々といった人々も、いきなりの騒動に仰天して、足を止め始めた。
――火事に殺人だと?! 冗談じゃ無い!
目暮啓司は硬直した。日暮の婆さんも目を見開いている。
ジジ眉毛のテリア種が、ただならぬ空気を感じ取ったのか『ギャンギャン』と吠え始め、住宅街の騒ぎにいっそうの彩りを添えた。
――焦げ臭い空気が流れている。確かに、何処かでボヤが出ている。どの家が、この騒動の発火点なんだ?!
目暮啓司が、近所の人々に紛れて、道路に出てみると――
「三軒先の……鈴木さんが……」
目暮啓司の後ろにくっついて道路に出て来ていた日暮の婆さんが、早速、回答を提供して来た。
――三軒先。確かに、そこに人だかりが出来ている。ボヤらしき煙も漂っている。
「警察を呼んでくれ! 救急車だ、救急車!」
「消防ー!」
近所の野次馬と化したジジババたちが、その家の前で盛んに騒ぎながら、手元のケータイやスマホを振り回している。揃って、『老人優待プラン』サービスのものだろう。
ジジ眉毛のテリア種は、婆さんの足元で相変わらず『ギャンギャン』と吠えている。そんな犬の隣で、いつの間にか再び姿を現した金色の目ピッカピカの灰色ネコが、毛を逆立てていた。『間に合わなかった』とでも言うかのような表情をして、金色の目をキッと吊り上げているのである。
間もなくして、その家から噴き出していた焦げ臭い空気が、だんだん薄まって来た。先ほどの『火の用心』消防団が、その家に素早く飛び込んで、消火などの対応をしたに違いない――
目暮啓司が、ジジ眉毛のテリア種を引っ張りつつ通過していた、あのルートの脇の、家。
――何てこったい。あの、魚のしょうゆ煮を作ってた家じゃ無いか!
「叔母さんが……叔母さんが……」
その『鈴木』という表札の付いた民家のドアの前で、情けなく鼻水を垂らしている貧相な中年男。
デロンとした緊張感の無い服装の、明らかに無職の中年男だ。色あせたグリーン系と思しき、シワだらけのハワイアンシャツ。グレーの安物ジップパーカー。ファッショナブルなボロと言うには余りにも貧相すぎる、ボロすぎるジーパン。
――何となく、人相と着衣に見覚えがあるが……
行き掛かった手前とは言え、結論を見ずに帰れる訳が無い。目暮啓司は野次馬の隙間を縫って、そのデロンとしたハワイアンな中年男の後ろに見える光景に、目を凝らした。
何処にでもあるような単純な造りの、狭っ苦しい間取りの、中古のボロ家だ。玄関のドアが全開になっていて、その奥に台所が見える。
中年男が、呆然としたように玄関の段差の下にしゃがみ込んでいるので、なおさら台所が丸見えだ。先程までボヤを出していた台所は、ススで真っ黒になっている状態だ。焦げ臭さの名残が漂っている。
目暮啓司は、息を呑んだ。
――ありゃ、死体じゃ無いのか?!
先程の消火作業で、水浸しになったと思しき、台所の床。
年配のちょっと太った女が、そこに、ゴロリと不格好に横たわっている。
目玉をひん剥いているが、明らかに死んでいる。間違いなく死体だ。苦しんで死んだと見える――台所の電灯に照らされた、あのどす黒い顔色は……
――毒、じゃ無いだろうな……
首筋に沿って、チリチリとした感覚が上がって来る。目暮啓司は、嫌な予感を覚えていた。こういう予感は、余計な事に、たいてい当たっていたりするのだ。
程なくして。
不意に、『空き巣』としての本能が、目暮啓司の首筋にゾワッとする感覚を与えて来た。
――警察がやって来た!
早いところ、ずらかるべきだ。目暮啓司は、周囲の野次馬騒ぎを良い事に、ジワジワと逃走を図った。
「ぐるうぅ~、がるうぅ~」
――何だ? 妙に足を引っ張られているような……
目暮啓司が、足元に目をやると――
「いい加減、離しやがれ!」
なんと、犬と猫が協力し合って、目暮啓司の逃走を邪魔しているのだ。吹けば飛ぶような小型犬と小型猫のくせに、よりによって、こんなところで、ビックリするような底力を発揮している。
ジジ眉毛のテリア種が、しつこくズボンの裾をガジガジとやっている。金色の目をした灰色ネコが鋭い爪でもって、ズボンの裾を地面に縫い付けている。
――やめろ! 商売道具のズボンが脱げる! 破れる!
目暮啓司は焦りまくった。
婆さんに美味なカレーをご馳走してもらった手前、婆さんの目の前で、この犬と猫を荒っぽく放り投げる訳にもいかない。
すぐに、通りの向こう側から、パトカーのサイレン音が近づいて来た――