(3)空腹は最高のスパイス
そんな訳で――
目暮啓司は、婆さんから犬のリードを預かり、近所の川の堤防――犬の散歩コースを辿っていた。
犬は、先ほどの敵意も好意も忘れたかのように、堤防に生える雑草に鼻を突っ込んだり、灌木と一緒に生えている背の高いヤブの各所各所でマーキングをしたりと、ワンコ社会の営みに余念がない状態だ。
目暮啓司は、ふと背後に気配を感じて振り返った。
後を付いて来る奇妙な灰色ネコが居る。そのピッカピカの金色の目は、目暮啓司をシッカリと注視している様子だ。
奇妙な灰色ネコは、普通のネコらしからぬ、高度な知性を感じさせる振る舞いや表情をする。晩い昼下がりの陽光に照らされて、毛皮が不思議な色合いを見せていた。見ようによっては、神々しい銀色にきらめいているようにも見える。
ネコに詳しくない目暮啓司でも、『コイツを捕まえてペットショップに持って行けば、相応に儲かるだろう』という事くらいは見て取れたのであった。
――だが、コイツ、タダのネコじゃねぇ。何故なのかは分からんが、人間の手には余るような気がする。
灰色ネコのピッカピカの金色の目が意味深にきらめくたびに、目暮啓司の首筋のあたりの毛が、妙にジワジワと震えるのだ。
目暮啓司の直感――ヤマ勘は、大きく外れた事は無い。実際、学生時代の頃は、これで定期テストや受験を切り抜けて来たし、空き巣をやる時も、このヤマ勘が素晴らしく役立っているのだ。運よく、一種の天賦の才能を授かったと言っても良い。
目暮啓司はブルブルと頭を振って、ジワジワと来る奇妙な予感を振り払った。
――やっぱり、犬や猫と言うのは、分からん。
「そろそろ、いい頃だろ。おい、ジジ眉毛、婆さんの家に戻るで」
サラリーマン衣装と同じく商売道具のひとつである、真面目な顔をした腕時計は、一時間が経過した事を、律儀に目暮啓司に知らせている。
手元のリードをヒョイヒョイと引くと、『トップスター』などというご大層な名前をもらっている、ジジ眉毛のテリア種は、モノを分かっているかのように、大人しく身を返して付いて来た。
――聞き分けが良いのは、散歩をした後にエサ・タイムになるからに違いない。
目暮啓司は、常識的な結論を下した。久し振りに、子供の頃、田舎で飼っていた『可愛くねぇ犬』の事を思い出したのもある。
――犬ってのは、自分のハラ具合の事となると、途端に聞き分けもお行儀も良くなるんだよな。
目暮啓司の脳内に、田舎の家の情景がパッとよみがえった。
就職を機に、学生時代の思い出をまるごと置いて出て来た田舎。今は亡き両親。
家の裏山にあった、由緒不明のボロッちい神社。覚えている限りでは、もはやボロボロの祠しか残っておらず、タヌキやキツネが怪しげな儀式をして遊びまわる廃墟と化していた。今じゃもう、祠すらも朽ち果ててしまっているに違いない。
――あのクソ犬と来たら、『お手』『お座り』の芸なんか出来ねえよ――なーんて顔をしておいてよ。お楽しみのエサ・タイムとなるとバーッとやって来て、芸人、イヤ、『芸犬』並みの『お手』『お座り』の芸を披露して、余分にエサにありつくという、超・フザケた犬だったんだ。
「いかんいかん。昔の事を思い出して、ちっと感傷的になっちまった」
目暮啓司は気合を入れると、改めてジジ眉毛のテリア種を引っ張った。
住宅街に入る。夕食時間の早い家では、もう夕食のおかずが出来ている頃だ。
目暮啓司は、再びチラリと後ろを確認した。
あの金色の目ピッカピカの灰色ネコが、相変わらず後を付いて来る。まるで『送り狼』、いや、『送り猫』だ。秋の日暮れはあっという間である。陽射しがいっそう浅くなって来た事もあって、その灰色ネコは、いっそう化け猫の気配を発散しているところだ。
目暮啓司は一瞬は怪しみながらも、『そんな筈はねぇ』と、直感から来る結論を打ち消した。勿論、目暮啓司は後になって、この決断を悔やむ事になるのだが……
目暮啓司とジジ眉毛のテリア種と灰色ネコは、あの婆さんの家に近づいて行った。
今しがた、通り過ぎた家からは――魚の煮物の匂いがして来る。
――みそ煮……じゃ無いな。ありゃ、しょうゆ煮だ。しょうゆの入ったシンプルな煮汁の匂い。
目暮啓司は、ブツブツと小声に出して、独り言をつぶやいた。
「家庭の味ってヤツだね。フン」
目暮啓司の後を付いて行く犬と猫、すなわちジジ眉毛のテリア種と金目の灰色ネコが、一斉に目暮啓司を注目する――と言う不思議な反応を見せた。
しかし、目暮啓司の方は自身の考えに沈んでいて、その奇妙な現象に気付かなかったのであった。
婆さんの家に近づくと、定番のカレーの匂いが漂って来ているのが分かる。灰色ネコは、いつの間にか姿をくらましていた。
目暮啓司がドアベルを鳴らすと、婆さんがニコニコ顔で出て来る。ジジ眉毛のテリア種が、早くもクンクンと鼻を鳴らして、エサをオネダリし始めた。
「トップスターを散歩に連れてってくれて、ありがとうございますね。カレーが出来てますよ。一杯、食べてってね」
――遠慮なく。
目暮啓司は居間のテーブルに着くなり、湯気を立てているカレーをがっついた。
――実に旨ぇ。五臓六腑に染みわたる。
元々、学生時代の目暮啓司は、カレー好き男子の一人だったのだ。
勤め先をクビになり、生活資金が底をついて、やむなく空き巣稼業を始めてからは、まともなカレーを食べていなかった。だからこそ、久しぶりに腹いっぱい食べられる『まともなカレー』の旨さが、実に感動的なのであった。
――何か、こう、じんわり来るんだよなぁ。普通に、ニンジン、玉ねぎ、ジャガイモを切って、豚肉の切れ端の数々を放り込んで、スーパーなんかで売ってるカレーと一緒に、ナベに放り込んだだけのレシピなのにな。
婆さんが、カレーのお代わりをよそいつつ、目暮啓司に声を掛ける。
「そう言えば、お名前は?」
「目暮啓司っす」
一瞬の間を置いて――目暮啓司の目が、テンになった。
――はッ! しまった! カレーに釣られたせいか、本名を言ってしまった! しかもフルネームで! ゲホ、ゲホッ!
「大丈夫ですか? 喉に何か詰まって……」
「いや、その、お気遣いなく」
婆さんは目をパチパチさせていたが、何とか納得した様子だ。そして、ちょっと吹き出した様子である。
「お宅は、うちと一文字違いというか、一本違いなんですねぇ。縁でしょうかね。うちは『日暮』だから」
目暮啓司は無言でヒョコヒョコと曖昧に相槌を打った。無言だったのは、再びカレーをがっついていたからだ。
――まぁ、こちとら、先刻ご承知ではあるさ。数日前に下見した時に、ちょっとだけ『おや』と思った表札だったからな。
婆さんは次に、思い出し笑いをしたらしい。脇を向いているが、何やら「フフフ」という忍び笑いが聞こえて来るのである。『まさか、何か、企んでいるんだろうか?』とギョッとする目暮啓司であった。
「ゴメンナサイね、外国の警察の……ナントカ警部とか、ナントカ警視……というのを思い出していましたから」
――知らねぇヤツだが、そういうのが居るんだな。こちとら、警察じゃ無くて空き巣なんだが……
中身は空き巣の目暮啓司、とりあえず、この『マジメ百点のサラリーマン』の変装が、ナニゲに効いたらしいと、ホッとするのであった。