(5)密室の窓を金魚と泳ごう
ささやかな路地裏の一角にあった金魚の釣り堀は、ほぼ全滅という有り様だ。
赤、黒、白、オレンジ……色とりどりの金魚の死体が、そこかしこの水面の上をプカプカ漂っている。
釣り堀の周りで、鑑識メンバーが忙しく動いていた。
「……ひでぇな」
立派な白い眉を逆立てている香多湯出翁の隣で、目暮啓司は顔をゆがめる。
セレブ風の中年刑事・伊織が、あらかじめ部下に指示していたため、釣り堀の中をうかがえるフェンスの傍に陣取ることができたのだが。
積極的に見たいとは思わない光景である。
次に、目暮啓司は目をパチクリさせた。
――忍者よろしく『隠遁の神通力』絶賛☆発動中の、猫天狗ニャニャオが居る。
全身、完全に透明になった状態で、そこだけ見える『目・鼻・口』が、いつもの『ニヤニヤ笑い』とは違う生真面目な表情をして、フワフワと釣り堀の上を漂っていた。
「七尾?」
神猫にして猫神、猫天狗ニャニャオが、釣り堀の暗い水の中を棒で探り続けている鑑識メンバーの背後に、ふわりと陣取る。
その鑑識メンバーは、即座にトランス状態へシフトした様子だ。集中力が高く、霊感も、それなりにある人間なのだろう。
釣り堀の端近くまで位置を変える。巫女が箒を持って神社の境内を清めているような所作が始まった。
鑑識の棒の先端が、釣り堀の底を左右に移動する。
「オッ?」
水の中で、何らかの手応えがあったようだ。
その鑑識メンバーは、ハッと息を呑むと同時に、トランス状態から戻った様子。そのまま、棒をゆっくりと引き上げる。
ほかの鑑識メンバーたちが首を傾げながらも、注目し始める。
夕陽にきらめく水の中から、引き上げられたのは……ナイロンバッグだ。
見覚えのある、ボロいカバンだ。
ギョッとする目暮啓司。
香多湯出翁の額に、次第に青筋が走り始めた。
「若いの。我々は、だいたい同じ結論に到達したようだな?」
「そう思うっす」
「おおい、伊織くん。金魚の大量死の原因は、間違いなく、そのカバンだ」
「何ですと?」
セレブ風の中年刑事・伊織が、驚いた顔で駆け寄って来た。部下も付き添って来ている。
「新しい情報が得られたんでな。金魚の死因は、ほぼ界面活性剤による窒息だろう」
「界面活性剤?」
「家庭の洗濯用洗剤じゃ。それに、あの『某Z国』の男が早まった死を遂げたのもな……倉庫の面格子窓に残っている成分をトコトン調べれば、同じ界面活性剤の成分が出て来る筈じゃ」
伊織・ド・ボルジア・権堂に付き添っている部下が、唖然とした顔をしている。
「つまり、どういう訳です?」
「例の男子高生が、あのカバンを『きたない』と思って、前もって洗剤だらけにしていたのじゃ。話を聞く限り、すすぎも適当だったのは間違いない。カバンには大量の界面活性剤がこびり付いた状態だった……あの夜、雨に濡れて、当然ヌルヌルになった筈じゃ。黄金スカジャン男は、ウッカリ、面格子窓からヌルリと手を滑らせ、あんな不慮の死を遂げたと言う訳じゃな」
セレブ風の中年刑事・伊織が「ふーむ」と思案を始め、血気盛んな若い部下は、燃え上がった。
「それでは、そのフザけた男子高生を……!」
「早まるのはダメじゃぞ、若いの。不幸な偶然が連鎖したという状況じゃからな」
「日暮夫人の御子息の容疑も、不幸な偶然の連鎖という要素が、大いに出て来ると……」
「カバンの金具に残っている指紋の中に、日暮の息子のものが無ければ、確実じゃろう」
やがて鑑識メンバーたちの方から、声が掛かって来た。
「例のカバン、重石のための小石を詰めて、沈められてましたよ。その辺の小石で間違いないでしょうが、分析に回しておきます」
……次第に目が据わって来る目暮啓司。
「あの鑑識の棒、それ程、しなってなかった……あんまり重さが無かったんだな」
「何か思いついたのか、若いの?」
「小石を詰めたカバンを、フェンスの外から投げ入れたんだ。投げ入れて……あの金魚の倍速プンプン野郎、どこまで性根が腐ってんだ」
いつしか、目暮啓司の足元で、灰色ネコが顕現していた。
せまり来る逢魔が時の中、神々しい金色の目をランランと光らせる神猫にして猫神、猫天狗ニャニャオ。
《毎度、猫なみに真相を嗅ぎ当てる素晴らしい鼻センサーだニャ、相棒ケイ君》
*****
逢魔が時の後半。
あたりは急速に宵闇の暗さを増している。
金魚の釣り堀屋の路地裏を挟んだ隣、海外エスニック系の服を扱うアウトレット店の奥。
ヒゲ面をした無国籍風の魔法使いのような男が、「おぉ、神よ」と呟きつつ、エキゾチックな礼拝をしていた。
うやうやしく特殊なポーズをとる。
楽とは言えない姿勢を戻し、狂信者そのものの眼差しで、目の前に掲げられたポスターのようなものを仰ぐ。四〇センチメートル大。オマジナイの印でいっぱいだ。魔法の力を与える奇跡の宗教画。
偉大なる神は、蛍光レッド色に見えるほどの真紅色の光背を背負う。この世を滅ぼす偽の神にして大魔王とされる怪魚を、退治しているところである……
そして、この世のものならざる驚きに、男の目が、グワッと見開かれた。
――金色の目のピッカピカ、いとも凛凛しき三角耳ぞ――
――風切る黒き烏羽、末になびくは、奇しき七尾――
宇宙のような漆黒の翼を持つ猫が、虚空に浮かんでいる!
神々しい銀色をした、神猫にして猫神。
七本の尾が、火焔型の光背さながらに純白に輝き燃えている。あまりにも清らかな純白の雪が薄青い光をまとうように、ほのかな青い光が取り巻いていた。
不吉なニヤニヤ笑いを浮かべた金色の目は、恐ろしいほどにピッカピカだ。
「おおぅ、ニンジャ・キット、デビル、ラーフ、ダイモーン、ジャボ!」
ヒゲ面の男は『ビョン!』と飛び上がるや、ツンとした奇妙なにおいを放つ香炉を投げつけた。
あのカバンに染みついていた刺激臭。
アウトレット店の空気の中を漂っていた、奇妙なブレンドの、スパイスのような……
投げつけられた香炉が、偉大なる銀色の猫を襲う。
超能力の忍者さながらに、スッとかき消える七尾の猫天狗……いや、目にも留まらぬ神速で、ゆうゆうと、かわしていた!
相応に重量のあった金属製の香炉は、そのまま、背後にあったベニヤ板の仕切りをブチ破る。
ばりーん!
派手に吹っ飛んだ、ベニヤ板の奥。
更に多くのベニヤ板でもって厳重に隠蔽されていた、秘密のスペースが現れた。
完璧な暗室となってしまった中で、二十四時間ずっと灯りつづけている数多の太陽光タイプ電球。日光の代用だ。
その数々の人工太陽の光のもと、みっしりと、植木鉢が並んでいる。
植えられているのは、全部、違法ドラッグを生産する植物だ!
ヒゲ面をした男は、激怒のままに追い回す。ヒラリヒラリと飛び回る七尾の怪異な猫を。
がっこぉん。
角にぶつかった拍子で、そこに設置されていた機械が横倒しになり、ほぼ精製の済んでいたドラッグの粉が舞い散った。
凶悪なニヤニヤ笑いをした『七尾の猫天狗』が、背中から生えている烏羽を、バサリとあおぐ。
天狗の団扇が生み出したかのような凶暴な突風が荒れ狂い、方々のベニヤ板が、一気に破れ飛んだ。
べりべりーん!
ベニヤ板で隠してあった裏口ドアも、異様な風圧を受けて、勢いよく開く。
冬の宵闇。
急速に気温を下げてゆく空気が、ドッとあふれた。
開き切った、裏口ドアの先に見えるのは。
路地裏を挟んだ隣の、金魚の釣り堀屋の……あの備品倉庫にハマっていた面格子窓。
猫天狗の金色の目ピッカピカが、サーチライトでもあるかのように、いっそう『ピカー』と光る。
「お、おぅ!」
ヒゲ面の男は、信じがたいものを見た。
あの面格子窓から……無数の金魚が、悪魔の軍勢か何かのように、ウオウオと、あふれ出して来る!
逢魔が時。
ゾンビ金魚の大群。
大いなる邪悪のしもべ、忌まわしき怪魚の群れ。
瞬く間に、ヒゲ面の男を、金魚の大群が取り巻く。
赤、黒、白、オレンジ……
不吉な童謡のような、地獄の底から湧き上がってくるような、ダークファンタジー風の音程とリズムの歌声。
密室の窓をぉお♪ 金魚と泳ごうぅう♪
――あの窓に魔界が! 忌まわしき魔界へ連れて行こうとしている!
不世出の天才としての評判を欲しいままにしていた魔法使いは、死にもの狂いで、香炉に手を伸ばした。
退魔パワーがあるとされている、祖国伝来の香炉に……