(2)そこは怪異な密室だった
美しい三角耳をビシッと傾けるや、灰色ネコは、金魚の釣り堀屋の角の平屋へと駆け寄る。
「この釣り堀の端っこに、何かあるのか」
三人の人類は、それぞれに驚きながらも灰色ネコの後を付いて行く。この妖怪じみた奇妙なネコが犯罪臭を嗅ぎつけるのは、全員、承知のうえだ。
その平屋の扉は、通常の玄関扉を二つ並べた風の両開き型。だが、フェンスに塞がれていないポイントだ。道路側から、大きさのある荷を運び入れるケースも想定してのことだろう。
平屋の扉に手を掛ける目暮啓司。
――ガチャ、ガシャン。
かつての天才プロフェッショナルな空き巣としての感覚が、その種別をキャッチする。
「鍵! 面倒なタイプのヤツだ」
「何だと」
「どきなさい、若いの」
老剣豪・香多湯出翁が、見事な居合抜きを披露した。白刃が舞う。
ガキンと音を立ててドアノブが斬り飛ばされ、その場所に穴が空いた。
「うへぇ」
目暮啓司は目を白黒しながらも、かつての空き巣の腕前でもって、穴に『空き巣ツール』を突っ込み、ロックの残りを手際よく解除する。
場末の平屋にしては、頑張っている方の鍵。その手のツールを使ってこじ開けるのに、数分は要するタイプだ。香多湯出翁のお蔭で、ものの数秒に短縮したところだが。
扉を開いて、押し入る。懐中電灯の光が躍り出す。
せせこましい空間の中……釣りの小道具がズラリと並んでいた。無造作に詰め込んだような雰囲気。
この平屋は、貸し釣り竿や釣り糸、日除けテント、諸々の大道具・小道具を収納するための備品倉庫なのだ。
グルリと見回すと――床の上で、一か所、場違いな程のギラリとした輝き。
「あれ、奴のスカジャンじゃねぇか」
セレブ風の中年刑事、伊織が懐中電灯をその方向に向けた。
「ややッ」
早くも飛び出した灰色ネコが、スカジャン男を嗅ぎまわり、ブワッと毛を逆立てている。
《遅かったニャ!》
目暮啓司もまた、スカジャン男の異変に気付いた。
「救急車!」
「死んでるぞ」
その男は、なかば万歳のような格好で横たわっている。
首元に、エスニックな首飾り。ペンダントトップが、鍵だ。倉庫の鍵に違いない。何かの機会に、ちょっと盗んで不正にコピーしたのであろうということが、ありありと分かる無刻印の品。
あおむけになって……死んでいた。間違いなく。
懐中電灯の光の中、床にジワジワと広がり続ける赤い血。近くに転がるのは、血痕が散ったコンクリートブロック石。
蛍光レッド金魚の刺繍を背負った黄金スカジャン男は、海外系のエキゾチックな顔立ちをしていた。二十代ないし三十代と見える若い顔面。その両眼は、ギョッとしたように見開かれたまま輝きを失っている。
死体と化した男の頭部は、深々と陥没し変形していた。
打ち所とタイミングが、最高に、かつ最悪に、悪かったのは明らかだ。
先ほど、聞こえて来ていた衝撃音は二回。
おそらく一回、何かがあって、あおむけに『ドン』と倒れ……少しの間、ショックで朦朧とした。
その直後、倒れた衝撃で近くの棚が揺らぎ、無造作かつ不安定に片付けられていたコンクリートブロック石が落ちて来て、男の頭部を直撃したのだ。それが二回目の『ドドン』だ。
*****
黄金スカジャン男は、頭部を陥没させた立派な死体となって、釣り堀の備品倉庫から搬送されていった。
セレブ風の中年刑事・伊織が、部下と共に付き添っているところだ。
病院へ緊急入院という形だが、夜明け前には『死体検案書』と共に退院して来るだろう。
香多湯出翁は、自身よりも若い世代の死を、生真面目に悼んでいた。
「彼は『某Z国』難民のようじゃな。あの首飾りは『某Z国』の伝統的なアクセサリーだ。最近の紛争の影響で相当数の難民が発生したと、この間のニュースでやっていたが、我が国はまだ正式に受け入れていなかったから、確実に、第三国からの不法ビザ入国だろう。大金を国元へ仕送りするか、生活費にでも充てるつもりだったのだろうが、頓死するとは、哀れな」
「犯罪に手を出したうえに、ろくでもねぇタイミングで、ろくでもねぇ死に方しやがって」
舌打ちをする目暮啓司。
《それよりも、相棒ケイ君、この事件は不可解なミステリーだらけだニャ》
灰色ネコの目が、神々しく光っている。金色の目ピッカピカだ。
先ほどから備品倉庫を隅々までチェックしていた老剣豪・香多湯出翁が、首を盛んに傾げている。
「この平屋、密室状態だった訳じゃ。明らかに殺人事件の可能性があるが、そうだとしたら、殺人犯は何処から出入りしたんじゃ?」
「……密室っすか? 殺人事件?」
「カバンが無い。あの男子高生、この件を依頼して来た大手会社の社長の――御子息でな。ポケットマネーは百万円をくだらない。それだけの札束が入っていた筈のカバンが、何処にも無い」
目暮啓司は、ハッとした。
黄金スカジャンの逃走姿を思い出す。
そう、確かに、あの派手な蛍光レッド金魚を背中に縫い付けた金ピカ男は、男子高生から奪い取ったナイロンバッグを持って、走っていたのだ。
「つまり、謎の殺人犯が、あの死体を作って、札束入りのカバンを持ち去った……?」
「そのように考えられるのじゃよ、若いの」
目暮啓司は改めて、備品倉庫の中を見回した。
灰色ネコが足元をするりと駆け抜けて、血だまりを飛び越えて行った。その突き当たりの壁を見てみると。
「……窓がある」
「うむ。状況的には、この窓から手を滑らせて、大の字に倒れたと見えるのう」
香多湯出翁が窓を観察し始める。かつてのベテラン刑事時代を思わせる所作だ。
唯一の開口部となっている、その窓は、天井に近い位置にあった。パラパラと降る雨が跳ねて、周りを濡らしている。
用途としては、明かり取り用と換気用を合体したようなもので、面格子がセッティングされている。到底、人間が出入りできるサイズでは無い。
――いや、普通の猫なら、余裕シャクシャクではあるだろう。
何処にでも居そうな姿・サイズをした灰色ネコが、ヒラリと窓に飛びつき、ヒゲをピクピク動かし始め……やがて「ニャッ」と鋭い鳴き声を上げた。
「なんだ、七尾?」
《ナイロンのクズ糸が引っ掛かってるニャ。カバンは、この窓を通って移動したのニャ》
「クズ糸?」
傍に、横倒しになった脚立がある。
目暮啓司は早速、脚立を立て直し、そのてっぺんに乗る。
「おっとっと。ネジがゆるんでるのか? バランス悪ぃな」
思わず、窓の面格子につかまる目暮啓司である。
窓に顔を寄せると、格子の一本を留めていたネジの周りに、フワフワした物が絡まっているのが分かる。ウッカリ引っ掛けた物に違いない。
「確かに、あのカバンの色っぽいな」
老剣豪・香多湯出翁が、感心したように呟いた。
「いやはや目暮くん、お蔭で、あの容疑者がどうやってあんな状況になったのか、臨終パートが分かって来たぞよ。カバンをそこに通した後、雨に濡れた面格子から手を滑らせ、脚立から落ちたんじゃ」
――冗談じゃねぇ。
目暮啓司の全身に鳥肌が立った。
「はてさて、その謎の殺人犯、どうやって窓へ哀れな男を導き、そして落としたのじゃろう。札束入りのカバンは何処へ行ったのか?」
目暮啓司は、そそくさと、ガタつく脚立を降り……それだけのことだが、足裏が不動の大地について、ホッとする。
クルリと後ろを振り返ると、すぐ傍に棚が迫っていた……
黄金スカジャン男が勢いよく頭を打ち付けてこさえたに違いない、不自然な変形と傾斜がある。
重力のゆえとは言え、一瞬、朦朧したのは確実だ。
よりによって棚の上にひとつだけ残っていたコンクリートブロック石が、朦朧として横たわった黄金スカジャン男の頭部を、劇的に凹ませたのだ。