(2)迷子の迷子のウサギちゃん
――はあ。全く今日は、朝っぱらから何という日だろう。
再び袖にたすきを掛けながらも、道照は、ため息が止まらない。
そろそろ朝ごはんが炊き上がる頃だ。
道照は納屋から雪かき道具を引っ張り出して来たものの、それをお堂の前に差し掛けておくと、母屋に戻り、かまどの火を始末した。
腹が減っては戦が出来ぬ。
道照は、味噌を詰めただけの簡単なオムスビで朝食を済ませた。ただし、かなり大きなオムスビであり、残りは昼食用に取り分けておく。
その後、道照は気合を入れ直し、再びお堂へと乗り込んで行ったのであった。
「格子戸は既に粉砕されているから、ゴザか何かで代えるしか無いかなぁ」
そんな目論見をブツブツと呟きながらも、道照はマメマメしく働き出した。師匠には妙な霊能力――ないしは神通力――があり、道照が怠けていると、何故か、すぐにバレてしまうのだ。
十二畳ほどの広さしか無い小さなお堂に入り、ご神体でもありご仏体でもある木像三体に向かって、うやうやしく一礼する。
三体の仏像は、いずれも三尺(一メートル)程度の小さな物でしか無いが、名のある仏師が彫刻したと云い伝えられているだけあって、精巧な出来だ。光の具合によっては、本当に生きているように見える。中央の阿弥陀如来像のご尊姿は別にして、両脇に控える立ち姿の仏像は、より人間に近い――童姿とも見える――親しみのある姿かたちである。
道照は、諸々の作業を始めようとして――すぐに違和感に気付いた。
――お供えの台に戻した筈の、干し柿が消えている。
「タヌキか。それともキツネなのか!?」
道照は取り急ぎ、お堂の外に顔を出し、それらしき獣の足跡の有無を確かめた。放っておけば、恐ろしいクマだって狼だってやって来るのだ。山の中の寺社というのは、案外、危険で一杯なのである。
――特に、獣の侵入の痕跡は、無い。
だがしかし、道照の直感を、しきりにつつく物がある。
明らかに、お堂の中には何かが居る――そんな気配がしてならないのだ。
――お化けとか、幽霊とか、人食い妖怪とか……?
道照の心臓は、早鐘を打ち出した。
まばゆいばかりの青空が広がり、太陽が既に空高く上がっている時刻にも関わらず、新たに妖しい闇が広がったような気がする。此処に来たばかりの見習い小僧だった頃、兄弟子に『肝試し』と称して数々の怪談を聞かされた末に、夜の便所に行けなくなってしまった事は、今だに道照の黒歴史だ。
竹箒を改めて構え――目をギュッと細め、暗がりを注目する。
確かに何かが居て、こちらを窺っている様子だ。床一面に散乱した雪玉の破片を踏み分け、そっと一歩踏み込んでみると、見知らぬ息遣いは、パッと後ずさったような気配を見せた。
――あそこか……
大胆にも、三仏像が乗っている台座の裏側に入り込んでいるのだ。罰当たりな奴だ。
その台座をぐるっと回った先にも、ささやかな階段になっている段差があって、後ろの壁との間に、隠れんぼに最適な空間が出来ているのだ――例えば、小さな子供が隠れるのに最適な。
不審者や大型動物にありがちな、ピリピリ、ジワジワと来るような、攻撃的かつ胡散臭い気配では無い――
見知らぬ侵入者も、道照と同じように、緊張で心臓をドキドキさせているらしい。
――こちらに分あり、らしい。
道照は、大きく息を吸い込んだ。
「――喝ッ!!」
「びゃあッ!」
叫び声なのか泣き声なのか良く分からない悲鳴が上がった。小さな人影が飛び上がり、物の弾みで、裏側の階段から転げ落ちて来た。器用に、一段ずつ、段差に頭を打ち付けながら。
道照は、すぐさま三仏像の裏側に駆け付けた。
その道照の足元を、灰色の野良ネコのような影がサーッと走り抜けて行く。
瞬く間の事であったが、そのネコは、お堂の入り口の向こう側に身を潜めた様子だ。
正午に近い陽光が降り注いでいるため、道照から見える所に、ネコの影が延びていた。その尾は、三本も四本もあるように見える。
――尾が何本もある? 化け猫……!?
一瞬、ギョッとしたものの――今は、三仏像の裏側の段差の下に落っこちた人物の正体を暴く方が、最優先だ。
身を伸ばして、段差の下の床に、素早く目をやる。連続打撲で朦朧とした小さな人影が、段差の下で、逆さまにひっくり返っていた。小さな藁ぐつをはめた小さな足が、天井を指している。
近寄ってみると、やはり子供だ。身にまとっている蓑は二枚重ねだ。一つは子供用の小さな蓑で、そこに大人用の蓑を重ねてある。厳しい冷気をしのぐためか、親が余計に重ねたらしい。外側の蓑は大き過ぎてブカブカしており、雪が不自然なまでに一杯張り付いている。
五歳か――六歳くらいの、それも、割と可愛い顔をした女の子だ。
転がり落ちた際にズレた蓑の隙間から、すり切れた藍染の着物が見える。そこには、女の子らしい赤い色の刺し子が施されていた。
道照は暫し首を傾げた後、少女の背中部分をむんずとつかんだ。
宙づりにされた格好になった少女は、真っ赤になって「アワアワ」と言いながら、ジタバタし始めた。元来お転婆な気質に違いない――隙を見て逃げ出そうと決心しているのは明らかで、道照に向かって時折、可愛らしい足を蹴り出して来る。
「お供えの干し柿、食ったな?」
ジト目で睨んでやる道照。
少女は不意に大人しくなり、『しまった』と言ったような顔つきになって、首をすくめた。その口の周りには、急いで口の中に干し柿を入れたに違いない、甘味の欠片がくっ付いていたのであった。
小さな少女は、防寒用のほっかむりでもって、おかっぱ頭を包んでいる。
確かに防寒用の、ドウという事の無い、染めすらしていない質素な手ぬぐいを利用した、ほっかむりなのだが――よく見ると、母親が面白がってそうしたのか、それとも少女のおねだりに応じての事か――頭のてっぺんに来る所に、詰め物をしたウサミミが縫い付けられていた。
――迷いネコ、と言うか、迷子のウサギ、いや、迷子のウサコだ。
やがて、奇妙な音が響いた。
――きゅう……るるる。
この音は、もしかしてウサコの腹から出ているのだろうか。道照はウサコをジロリと眺めた。
ウサコは次第に涙を一杯溜め、小さな身体をプルプル震わせ始めた。
睨めっこをしているうちに――道照は、遂にブハッと吹き出した。
「腹、減ってるんだろう?」
少女は、コックリと頷いた。そのほっかむりに縫い付けられたウサミミが、ピョコンと揺れた。
*****
母屋の囲炉裏の傍。
小さなウサコは、お腹が一杯になると、すぐに『うつらうつら』とし始めた。
舟を漕ぎ始めた頭の動きに合わせて、ほっかむりに縫い付けられていたウサミミが、ユラユラと揺れ始める。
――この『ウサミミ付ほっかむり』は、ウサコの母親が、養生所に入所している間に、ウサコ用の冬季の防寒具として作ってくれた物だと言う。素人目に見ても、なかなか達者な針仕事だと分かる。ほっかむりをした時に、頭のてっぺんの位置にウサミミが来るように、上手く縫い付けられてあるのだ。
ウサコ母は、少し前までは元気だったが、今は難しい病気にかかっているらしい。ウサコ母はお国の養生所に幸いに入れたのだが、月をまたぐ入所期間となっている。更に高価な薬代も必要となったらしく、父親は毎日、遅くまで仕事をしていると言う。
ウサコが、吹雪く夜の山道に耐えられたのは、母親の愛情のこもった、『ウサミミ付ほっかむり』のお蔭もあるに違いない――
道照は囲炉裏の近くにウサコを寝かせると、身体が冷えないように、ワタ入りのカイマキを被せた。
少女の眠りは、すぐに深くなった。
ウサコは――驚いた事に、ウサミミの付いたほっかむりが定番の格好だったせいか、隣近所の人たちにも「ウサコ」と呼ばれていたらしい――余程お腹が減って疲れ切っていたらしく、どうやって此処に来たのかについては、余り要領を得た説明になっていなかったのである。
――厄介なモノを抱え込んだので無ければ良いんだが。
小さなウサコの、要領を得ない身の上話を何とかして繋いでみると、こういう事らしい。
昨日、少女は、父親に連れられて城下町を歩いていた。何故、山に入る事になったのか、その理由までは分からない。少女は、いつの間にか父親から離れた――はぐれた。そして、城下町で迷子になっているうちに日が暮れ、更に道を外れて、吹雪く山の中に突っ込む羽目になったのだ。
間違いなく――ウサコは、相当の方向音痴である。
山に入って吹雪に巻き込まれた方向音痴の少女は、当然ながら、そのまま山の中で道を見失って、さ迷った。
お腹も空いて来て途方に暮れていたところ――金色の目ピッカピカの、尾が四本も生えている、不思議な『招き猫』が出て来たと言う。
不思議な『招き猫』に、「おいで、おいで」と言う風に招かれ、ウサコは山道を進み続けた。
そのうち、峠道の何処かで足を踏み外し、崖の下と思しき方向へ、ゴロゴロと転がり始めた――らしい。
雪玉に閉じ込められつつゴロゴロと転がっていた間は、都合よく失神していたらしく、余り記憶が無いと言う。
――かくして、雪玉ごとお堂の中に突っ込んで、雪玉がパカッと割れて、かの伝説の桃太郎よろしく、ウサコは外に出て来られた。
そして、今に至る訳だ。
「こんな事って、本当にあるのかねぇ」
散乱したお堂を片付けながらも、道照はボヤいた。
太陽は既に真南を過ぎていた。真冬ながら久々に好天に恵まれた、のどかな昼下がりである。いずれ二、三日も経たないうちに、次の荒天が到来するだろうけれども。
世に不思議な出来事は数多あるだろう。
しかし、あんな年端も行かぬ少女が、吹雪の日に山の中に放り出されて、それでも一晩生きていられたとは、これこそ『事実は小説よりも奇なり』で無くて何だと言うのであろう。
――吹雪の山の中に放り出された。しかも日が暮れる時間帯に、だ。
道照は、ウサコ父と思しき人物に対し、大いなる不審を抱き始めた。
「まるで、子捨てじゃ無いか」
この辺りは、貧しい土地が多い。貧しさに耐えられず、子供を売る親は居る。行く先は、女の子の場合は遊郭である事が多く、男の子の場合は鉱山労働などといった類の、キツイ仕事先である事が多い。それでも、子供の行き先がある分、なけなしの慈悲はあるとは言えよう。
だが、これから吹雪く事が分かっている山の中に、猟師の跡継ぎでも無い、普通の町育ちの女の子を追いやると言うのは――