第3話 名前
少年が目覚めてから一日ほどが経過した。それから随分と進んだが相変わらず森にはこれといった変化が見られない。それほどこの森が広大だということなのだろうが、変化がないというのも退屈なもので一日という時間を永遠のようにさえ感じさせるのだ。
そんなこともものともせずに余裕の表情の少女は、相変わらず鉛のように重い足取りの少年の手を引いて歩いていく。足取りも慣れたものでこの森には詳しそうだし、彼女にはこの森の景色すべてが全く違う風景に見えているのかもしれない。
「ね、ねぇ。少し休まない?」
「あ、ごめんなさい。無理させちゃったかな」
限界を迎え息を切らす少年は、とうとうその場にしゃがみこんでしまった。そんな少年を少女は心配そうに顔をのぞき込んだ。
「あ、えっと、ちょっと休憩すれば、大丈夫だから」
「そっか、ならよかったよ」
突然顔を近づけられて驚いたが、少女には気づかれなかったらしい。
人と接したことのない少年には異性との距離感というものはわからないが、彼女の距離感が近すぎるのではないかと思っていた。特に彼女は誰が見ても美少女と言えるほどの整った容姿をしているのだから、耐性のない思春期の少年にとっては毒ですらある。美少女の自覚がないというのも考えものである。
「でも無理はしないで疲れたときは言ってね」
そんなことを考えているなどと知る由もない少女は、心配がいらないとわかるとほっと胸をなでおろした。
「そうだ、お腹好かない? 私そろそろお腹空いてきちゃったんだけど」
「そういえば、まだ何も口にしてなかったかも」
思い出すとわずかに空腹が押し寄せてくる。最後の食事がいつかはわからないが、いまだ限界が来ていないところから察するに最後の食事からは思ったほど時間は立っていないのだろうか。いや、ただ単にそれに気を配る程の余裕すらなかったのだろう。しかし今は空腹を感じる程度には心に余裕もできてきた。それもこれも彼女のおかげだ。
「じゃあ私が何か取ってきてあげるから、君はここで待ってて」
少女は立ち上がると自信満々に胸を張った。僅かな胸の膨らみが強調され、つい少年の目があちこちに泳ぐ。
「で、でも一人で大丈夫? また魔物が出るかも」
「私は大丈夫。この辺りはさっきに比べて魔物も少ないし。すぐに戻ってくるから」
そう言い残すと、少年の不安をよそに一人森の中へと姿を消した。しかし彼女のことだ。いざとなれば手持ちの弓矢でゴブリン程度ならば撃退できるだろう。
少年は少女の言葉を信じて彼女の帰りを待つことにした。
そしてしばらくすると食料探しに出ていた少女が両手いっぱいに食料を抱えて帰ってきた。
「ただいま! みてみて、大口魚に深森草! 他にもこんなに!」
満面の笑みで少年に成果を見せつける少女。その手に抱えられるたくさんの食材たち。大きな口の魚。おそらくこれが大口魚だろう。名前のまんまだ。深い山吹色の植物、これが深森草。小さな赤いきのみにくるくると螺旋を描くような葉を持つ植物もある。どれも美味しそうな食材たちだ。
「こんなにたくさん! これ、全部食べられるの?」
「うん、でもちょっと待って。せっかくだからちゃんと美味しく調理しないとね」
少女は抱えていた食材を下ろし腕まくりをすると、カバンから火打ち石を取り出し慣れた手つきで火を起こした。うまく火が着くと少年は思わず感嘆の声を漏らし、その様子を横目で見ていた少女がくすくすと笑みをこぼす。
こんな何気ないやり取りでも、少年は誰かと一緒にいることの心地よさを感じていた。
「そういえば、あとで聞こうと思ってたんだけど、名前なんていうの?」
少女の問に少年は一瞬黙り込んでしまった。というのも記憶喪失のせいで名前も覚えていなかったのだ。
だが少年にはこれが自分の名前なのではないかと思うものがあった。
「トキだよ」
それは夢の中の少女が呼んだ名前だ。根拠はないがこれが自分の名前なんだと、あの夢を見たときからそう思っていたのだ。
「トキくんか。私はアキア。アキって呼ばれることが多いよ」
「じゃあ、アキ…………」
人の名前を呼ぶことがなぜか妙に恥ずかしくてつい目をそらした。それだけ人の名前を呼んでこなかったということだろう。
それを見てまたアキが笑っていた。
「うん、改めてこれからよろしくねトキくん!」
「こちらこそ、よろしくアキ。アキ、アキ…………」
初めての友人、と勝手にいっていいのかはわからないが、少なくとも自分にとっては恩人の名だ。絶対に忘れないようにとトキは何度も口に出して名前を呼んだ。
「んもう、そんなに呼ばれたら恥ずかしいよ」
「あ、えっとごめん」
そう言いつつも満更でもなさそうなアキだったが、トキは気づいていないようだ。
「いいよ、名前を呼んでくれるのは嬉しいから」
アキは照れくさそうに満面の笑みで返した。
そんなアキを見ていると自分が受け入れてもらえたようで嬉しかった。目が覚めてからずっと孤独を感じていたというのに、自分を受け入れてくれる人がいるという安心感はそれだけで孤独の不安や絶望を全て払ってくれた。ずっと張り詰めていた緊張がほぐれ、いつの間にか全身の力が抜けていた。
「やっと笑ったね」
「え?」
「一度も笑ってくれないから、心配してたんだ。でも、もう大丈夫みたいだね、安心したよ」
アキはトキの手に自分の手のひらを重ねた。温もりが伝わってくる。人の温もりだ
「トキくんは笑ってる方がいいよ。私はそっちの方が好きだな」
「あ、ありがとう…………」
よくもまあ面と向かってそんなことを言える。そう思いつつ恥ずかしそうに視線を逸らすトキも満更ではなかった。
暗くなる森の中、炎の灯りと熱がトキの表情を赤く染めていった。
秋はもうしばらく先だろうか。