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天涯孤影

「……アキ……?」


 血だまりができるほどの血を流し、目を閉じたままピクリとも動かないアキ。そんな彼女を腕に抱いて今の状況が夢か現実かを確かめるように名前を呼ぶトキ。血液が静かに滴り落ちる。何が起きているのか、自分の腕の中に何があるのかも頭が認識しきれない。思考は停止している。


 まだそばにはアキを血まみれにしたモンスターがいる。だが真っ白になったトキの頭はそんなことはどうでもいいことのように意識の外へと投げ捨てていた。しかしそれはゴブリンにとっても同じこと。恐怖によって五感を支配され、カタカタと歯を鳴らすトキを背後から強い衝撃が襲う。意識が一気に遠ざかる──。アキを襲ったゴブリンは棍棒に塗られたアキの血を舐め回していた。薄れゆく意識の中、背後にニ匹目のゴブリンの姿が視界に入った。背後から襲ったそいつを視界に収めながらゆっくりと地に伏す。


 二匹のゴブリンは言語は解せずとも意思疎通はできるようだ。一匹のゴブリンが倒れたアキの片足を掴み引きずり去っていく。引きずられるアキはピクリとも動かない。だが耳をすませば彼女からうめき声のような声が聞き取れた。トキは何もできない自分を恨みながら、薄れる意識の中で引きずられるアキを見つめた。離れていくアキの口元が微かに動くが言葉になることなく消えていく。


(トキくん……助けて……──)


 トキにはアキがそういったように思えた。相変わらず言葉にならないうめき声だが、トキにははっきりとそう聞こえた。アキの頬を透明な雫が血と混ざり流れ落ちた。自分の弱さを恨み、たった一人の友だちも救えずに奪われることの悔しさと絶望に怨恨を抱いた。

 

(全部、僕が弱いせいだ……──)


 このとき彼は知った。弱ければ奪われるという自然ではごく当たり前な摂理を。弱さは罪だと言うことを。弱い自分の存在が罪であり、罪な自分はこの世界では一人なのだと悟されるようであった。


(……嫌だ……一人は嫌だ──!)


 この世界で自分の運命はそう定められているのだと、こうして得たものは奪われながら生きるしかないのだと。周りにある者は全て奪われる運命にあるものでしかないことを。



(もう……一人の世界なんて……アキがいない世界なんて嫌だ……─!!)



 自分が一人では生きていけないものだということを。それが遥か昔から決まっている宿命であるように強制され、生きることを否定される。そんな自分が生きる世界は無であり存在しないものなのだと。


(そんなの……)

 

「死んでいるのと同じじゃないか──」


「……!?」


 トキを中心に辺りの空気が変わった。二匹のゴブリンたちもそれを野生の感というべき鋭い感性で悟ったようだ。さっきまでの痛みも、流れ出る血も、まるで自分のものではないもののように、ありふれた日常のありふれている些細なことを忘れるように忘れた。いや正確には少し違うかもしれない。確かに痛みと言える不快感が彼の傷口を舐め回している。だがそれ以上の痛みを恐れるような、まるで次に訪れるのは死かそれ以上の何か。体はそれを恐れ、痛みを痛みだと認めることをやめたのだ。大切な人を失う痛みを恐れて──。


 アキをの足を掴んでいたゴブリンはそのままアキを引きずりながら逃げ出した。掴まれた足はミシミシと音を立て、体は地面を跳ね何度も叩きつけられた。残るもう一体のゴブリンは目の前の少年をじっと見つめて動かなかった。勝てるとは思っていない。ただ、自分にできることが今はこれしかないと理解していたのだ。というよりも、他に何ができるのかわからない、考えられないと言ったほうが正しいだろう。唯一閃き縋ったこれさえも、己の手に余ることに思えていた。今目の前に立つ、ボロ雑巾のような傷だらけで朧気な視線を向ける小さな少年は、本来一魔物ごときが逆らうべきではない存在なのだと思い知らされるようだった。少年は目の前に立ちはだかるゴブリンを前に、今ならすべてのことが容易くできるような気がしていた。


「無駄なことを……時間稼ぎのつもりか……」


 ゴブリンごときが自分の足元にも及ばないということを、すでに承知していたのだ。障害とさえも思われない。ただ目の前にあるだけの、石ころや草木と同じ認識なのだ。周りの木や動物、空気さえも自分に力を与えてくれるような不思議な感覚。拾い上げ優しく握ったナイフはメキメキと悲鳴をあげていた。そして徐々に熱を帯びはじめたそれは、赤い輝きを放つ小さな剣となった。様子をうかがっていたゴブリンはこの異様で押しつぶされそうな空気に耐えきれずに少年に襲いかかった。大きな混紡を振りあげ、勢いを殺さぬよう全力で振下ろす。──そしてそれは少年の小さなナイフによって切り刻まれ消滅した。


 少年と目が合う。武器を失ったゴブリンは感じた。認識が間違っていたと。ただの人間のガキではない。まるで災害だ。自然の力を暴力的に、制裁的に、敵対した自分に対して行使するつもりだ。まるで神を相手にするような気分だった。魔物特有の嗅覚で、自分たちが今まで過ごしたこの森が、山が、大地が全て敵であるということを悟った。少年の小さな剣は大きな炎を纏い、一瞬のうちに獲物を灰燼と化した。その一撃は大きな炎の柱を作り出し、あたりを真っ赤な火の海にした。


「塵の1つも残すな……」


 小さく吐きすてた少年の目は更に遠くを見据えていた。トキの研ぎ澄まされた感覚は、もう視界に映らないアキを攫ったゴブリンさえも捉えていた。


「必ず助ける……」


 しかし突然、激しい目眩がトキを襲う。思ったように体が動かない。研ぎ澄まされた感覚が薄れていく。


「……だめだ……意識……が……」


 意識と感覚とともに、アキは遠くいなくなってしまった。

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