1.村のパン屋で働いています
ここはトミナガパン屋。村の中で生粋の美味しいパンを焼く店として伝えられている。
従業員は年老いたドワーフの店長とその奥さん、そして最近働き始めたエルフの看板娘とヒトの焼き係からの4人である。と言っても、奥さんはいつも裏方で店に入ることはほとんどなく、3人で回していることが主だ。
いつものように、焼き係が朝の仕込みをしていたところ、店長が何やら珍妙な顔をしながらやってきた。
「スイイ君や、ちょっといいかね? 少し話しにくいことじゃが……」
「どうしたんですか店長、話しを聞くことならできますよ?」
スイイは作業を行いながら耳だけを店長のほうに傾けた。
「ほっほっ、いい返事じゃ。その、話したいこととはな……ああ、そうじゃその前にハイコムギって知っとるか?」
「知っているというか、今まさに使ってるやつですね。これがどうしたんですか?」
「これが実はな、結構流通が難しかったもんなんじゃよ。コムギなら地上で育つんじゃが、ハイコムギはそうはいかん。ダンジョンの肥沃な土地でしか育たないんじゃ」
「店長、その話は働き始めの時に教えてくれましたよ。誰か名前忘れましたけど凄腕の冒険家がハイコムギが育つ土地と地上をポータルで繋げてくれたんでしょ?」
スイイは少し呆れていた。店長はぼけてきたのかまた同じ話であった。しかも、形成とか焼きとか、そんな忙しい時をわざわざ狙っているかのように話しかけてくるもんだから邪魔の一言。今日もまた、朝の仕込みで一番慌ただしいのに。
しかし、本人を前にしてさすがに愚痴をこぼすわけにはいかなかった。
「ああ、話しておったか、すまんすまん。なにぶん混乱しているもんでのぉ。ところでな、これは契約農家のスゾーンから聞いた話なんじゃ」
いつもなら、少し冷たい返事をしたらしょぼくれて引き返していたのに今日はなぜか話を繋げようとする。スイイにとってはいい迷惑だった。
「コホン、スイイ聞いておるか? そのスゾーンがな、昨晩大慌てでわしの所に来たんじゃ。なんでも、ワールドティラノっちゅう奴がポータルを破壊して、ハイコムギが育つダンジョンに行けなくなってしまったんじゃ」
「そうですか……じゃあ、ハイコムギ使えませんねぇ」
スイイは話を聞いていたら時間も間に合わなくなるので、左から右に受け流すように聞いていた。
ちなみに今、スイイがペタペタと生地をこねて作っているのはオーロライチゴパンである。これはオーロライチゴというダンジョンの低階層で生える植物の実で、手のひらにちょうどおさまるぐらいのサイズで紫色なのが特徴。これを練り込んだ生地は、火にかけると7色になることから縁起のいいパンとしてけっこう人気である。
しかし、その味はピーキー、もともと食用じゃないだけあって美味しくはないが、芯の部分が当たらなければ甘い。当たりを引いたらその日は幸運になるとかいう噂も人気に拍車をかけている要因である。
「もー、スイイ君、これは真面目な話だよ。君の、いやこの店の将来に関わる話だ」
「ちゃんと聞いてますよ。ハイコムギが採れなくなったんでしょ?」
さすがに注意されたらスイイも手を止めるしかない。今更だが、店長の顔を見ていたら冗談を言っているような表情ではなく、思いつめたような表情であった。
「そうそう、ハイコムギが採れなくなったから在庫なくなり次第店をたたむんじゃよ」
「へー、たたむんですか、店をねぇ……店を!? どうしてですか!?」
スイイは思わず叫んでしまう。こんな悠長にパンを作っている場合じゃない。
「そりゃ、ハイコムギじゃないと美味しいパン焼けないじゃろ。一度試したけど、コムギじゃだめなんじゃ。ほら、この村のもう一軒のパン屋、安くて不味かろう? あんなパンを作るぐらいなら店をたたんだ方がマシじゃ」
店長はパンに対してプライドがある、というよりもきっともう一つのパン屋にライバル心を持っているから同じパンは焼きたくないんだろう。
悲しいことにこんな店長の下でスイイは五年あまりも働いていた。もちろん店に対して愛着もあったが、まさかこんな呆気なく縁が切れてしまうとは思ってもいなかった。
ふと、スイイの中で一つ気になることを発見した。
「ちなみに奥さんはこれ知ってます?」
途端に店長の顔がパン生地のように白くなる。この顔からして、間違いなく言っていない。
「もも、もし仮にじゃよ。仮にわしがタツキちゃんにこのことを、仮に、言ってなかったらやっぱりまずいかのお?」
「まずいどころじゃないですよ、下手したらコレですよコレ」
スイイは親指を立てて首を切る動作。店長の奥さん、タツキちゃんは腕っ節の強いドワーフ。「店長が怖い奴に追われていると思ったら一目惚れでアタックされていた」というとんでもなエピソードがあるぐらいだ。
そんな怒るととてつもなく危険なタツキちゃんになぜ先に言わない、とスイイは心の中で嘆いた。
「つまりじゃな、ハイコムギがなくなったらみんなクビじゃ」
「なあにがクビですって?」
「ひっ、ひいいい!」
この聞くだけで体がこわばる声はまさしく奥さん。獲物を狩る魔物のような目から、今までの会話を盗み聞きしいていた様子だった。
「な、なななんでもないぞ!」
店長の目はリヴィアサンに引けを取らないぐらい豪快に泳いでいる。当たり前だが、嘘は一瞬でバレる。
奥さんは片手で店長の首を鷲掴み、そして軽々と持ち上げる。
「なあにをやらかしたの、私の愛しいあ、な、た?」
店長は水に上げられた魚のように必死にもがいている。あと数分したら昇天するんじゃないか、いや多分奥さんは手加減する気なんてない。むしろ余計に力を込めている。
「あなたが珍しく焼き場に行くから来てみたら、私にじゃなくてスイイなんかに大事な話をしてたみたいね」
店長は、死に物狂いでタップ。だが奥さんの手は緩まない。
「私に話したくないのはなんででしょうねえ?」
「じ、じにぞゔ……」
「お、奥さん落ち着いて。店長を呼んだのは僕で、その流れで聞いただけなんだ」
「あらそう、悪いことしちゃったわね」
本当にそんなことを思っているのかと疑いたくなるが、奥さんは店長を空中で優しく離した。
ドスンとひどい音を立てながら店長は落下したが、鼻血が出ている以外何事もないように立ち上がるんだから、きっと小慣れた夫婦喧嘩なのだろう。
「ちなみにだけどスイイちゃんはどんな話をしたかったのかなあ?」
ジリジリと歩み寄る奥さん、体から発する殺気にひ弱なスイイは耐え切れなかった。
「あ、やっぱ嘘です。店長かばおうとしただけです」
「へっ?」
「わかったわ、スイイちゃん。少し席を外してくれないかしら。ふ、た、り、で話をしたいの」
「は、はいー!」
我先にと店から出たスイイ。もちろん、外にも響き渡るぐらいの店長の悲痛な叫びが聞こえたのは言うまでもない。