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癒し効果を実感しましょう

予想外には予想外。対抗してどうするんだと言いたくなるのはまともな証拠だと私は信じている。

というか、そうでも思わないとやっていけないと諦めを含んだ何処かが叫んでいる。




腕を伸ばし目標物()を目がけて突貫。扉を開くことに力を使っていた体はその予想外に即座に反応する事叶わず、抱擁という名の体当たりがクリティカルヒット、アンド学園内へとバックオーライ。

折角開いた扉がギイィッと閉じていく様子に切なすぎて涙が出ちゃいそうなのに、出て来たのは一応令嬢にあるまじき「ぅぐっ」なんてくぐもった声。

どすりと思い切りぶつかって来られたのだから珍妙な音を発したのは致し方ないことだ。胸部に衝撃を受けて無理矢理空気が排出させられては蛙が潰れるような音もする。


というか、いま問題なのは外に出られなかったことでも異音を発したことでもなく、突然の攻撃とも言えるだろう抱擁に身構えられなかったことである。

上半身が後方へと押されて後頭部から無防備に床へとダイブする危険極まりない未来予想。全力で御免被る痛みしかないむしろ痛みを感じなければ非常にまずい未来をカッカッカッと軽やかとは言い難い必死な音を立て、二人分になった重みを支えながら受け流そうと不可思議なステップを踏む私の足よ、死ぬ気で頑張れ。


「っ、ぅっ!」


それでもぶれて整わない後方に傾いた重心だったが、ぐっと何かが押し留めてくれ、それを支えに大きく片足を下げて踏ん張れば、どうにかこうにか足の裏を床につけての立ち姿は確保出来た。セーフ。


「タカネちゃんタカネちゃんタカネちゃんっ!」


ほぉっとあわや後頭部強打からの昏倒 オア 昇天を回避して一息ついている私の焦りを理解する気はまったくないだろう駄犬が、アンナより高い身長プラスヒールの高さを無視して、それなりにある我が胸の上を顔面ローリングさせている。


現実にこのお馬鹿のお尻のあたりに犬の尻尾が生えていたなら、勢い余って千切れて飛んで帰って来なくなりそうな程にぶんぶんと振り回されているだろう喜色全開の勝手に歓迎モード。両脇の下を通って背に回された御令嬢に相応しい細腕が、苦手なものには不気味にしか思えないオイルにテカる褐色の肌に白い歯を輝かせ笑いながらポージングをするボディビルダーのゴリマッチョを思い浮かばせるのはどうしてなのだろうかと疑問に思う余地もなく、絞め殺す気なのかと抗議したくて堪らない。

そんな遠回しなようで直接的なことを私が考えているなどと気付く訳がないのだろうなこの駄犬。


「タカネちゃんタカネちゃんタカネちゃんタカネちゃんタカネちゃんタカネちゃんタカネちゃあぁあーーーんっ!」


「っぅ、くっるし……っ」


ミシリと軋んではいけないところが軋みそうな感覚に、抱きつきに巻き込まれなかった自由な腕を持ち上げ手を握った私のこの行動は間違いなく正当防衛である。

御誂え向きにごろごろと顔面ローリングしていたのを我が胸に顔を埋めたそれもどうかと思う状態で静止したので、狙いが定めやすくなった。

確か、後頭部は急所だったはずだ。やれる。

そんな物騒極まりないことを考えながら拳を振りかぶろうとした矢先、がばりと胸に埋めていた顔を持ち上げられた。ちっ。


目と鼻の先、この至近距離ならば釣り目がちの悪役令嬢マルティナの顔には迫力がありそうなものなのに、眉がキッと凛々しく持ち上がっていても目が涙目では情けない印象しか与えない。頬を膨らませ唇を尖らせているのだから尚更だ。


「もおっ、なるべく早く戻って来るって言ったのにタカネちゃんの嘘吐き!何時間経ったと思ってるの?約束を破った悪いお口は塞いでもいいって素敵なお約束が乙女の世界にはあるんだって知っててやってくれるの?だったらお仕置き抱擁じゃなくって情熱的な熱い抱擁に変えて大歓迎するんだから覚悟して受け入れてねタカネちゃん。私、頑張っちゃう!」


情けなく見えたのは見かけだけでした。予定外の物事で遅くなったことへの前半の文句がまさかの絞め殺し未遂だったことはともかく、後半は何を言っているのか理解してはいけない危険物。放置をした瞬間に大惨事へと雪崩れ込みそうな発言には冷静な待ったをかけましょう。

ええ、具体的にはうっとりしているのにキラキラ期待に満ちた顔を、ただでさえ近い距離にあるのにそれでは足りぬと我が顔面へと近付けてくるお馬鹿に。


ひとまず片手をカタネの肩にかけて押し留めようとしてみるが、微動だにしねえなこの野郎。どうなってんだこのお嬢様は。公爵令嬢の肉体は、実は脱いだらすごいんですな細マッチョとか言わないだろうな。


「っ何を頑張ろうとしてるのよ暴走超特急!顔を寄せてないできつすぎる腕を緩めなさいこの駄犬っ中身が出るわよ!」


「タカネちゃんから生まれたものならどんなものでも愛せるよ!遠慮なくどうぞ!」


「救いようがない頭かち割られたいのあんたはっ!」


どこが冷静なのかとか思っても突っ込んではいけない。返って来たとんでも発言から察して欲しい。

吐き出される臓物という名の衝撃的スプラッタでも本気で愛しそうな無駄にキラキラさせたイイ顔での異常発言に握った拳が震えたのだが、視界外にあるためお馬鹿が気付くことはない。幸せなことだ。そのおめでたさ、異常成分を念入りに濾過してからほんの少しだけ分けて欲しい。


とかなんとか現実逃避をしたいらしい脳がそんなことを一瞬考えていれば、キラキラ興奮した様子を伏し目がちに恥じらうへと変化させているカタネ。


「やさしくしてね?」


出て来た言葉は残念一択、まともな答えを期待した私が馬鹿でしたと口角を引くつかせて振りかぶった拳を落とす。


「いい加減にしろっ!!」


「きゃうんっ!」


何とも言い難い発言しか出て来ないお馬鹿の所為で、力が入ったようで脱力した一撃に人畜無害そうな子犬の如き悲鳴をあげる駄犬。

恐ろしいのはそんな打撃を受けてもしがみ付く力に心なしか緩んだような程度の変化しかもたらさない一度掴んだものは力尽きても離さないカタネの執念である。

厄介なことこの上ない。


「はうぅ~、タカネちゃんの愛が痛い」


「そんなものは籠ってないわよ」


何だっていいから抱擁と呼べば耳によく聞こえるかもしれない拘束を解け。

本当に痛がっているのかどうかすら怪しいカタネに冷たく返せば、やや俯いていた顔をがばりと持ち上げ寄せてくる。言っても訴えても無駄だろうからせめて心の中でだけは繰り返そう。近い、苦しい、放せ。


「そんなことないよ!タカネちゃんは無自覚な愛を振り撒いて私はそれにとってもジェラシー。溢れる愛を独り占めしたくていつでも恋する乙女は必死なのです」


私はチャラ男かふざけんな。いくらあんたが恋に恋する妄想夢見がち乙女だとしても、まさかのチャラ男扱いはひどく心外である。

そもそも私の性別は男じゃないし愛なんて振り撒いた覚えはこれっぽっちもない。


「愉快にぶっ飛んだ脳内物質吐き出すのは結構なことだけれど時間と場所と場合を選んで行いなさいと耳のタコが生まれただけでなく生き長らえて御免なさいと土下座するくらい繰り返したわよね」


「私を差し置いてタカネちゃんに構って貰えるなんて許し難く罪深い存在は排除しました!」


それはつまり「何のことですか?」ってしらばっくれていると言いたいのかしらねこのお馬鹿ったら。きっぱりはっきりそんなこと知らないよ発言とはいい度胸だ。

まずは右の頬を差し出せ。


「タカネちゃんの言葉はぜーんぶ私が独り占め。タコになんて取られてなるものですか妬ましい」


「おいこらそこのどうしようもなく本気で言っている真正の阿呆、話が混沌に落ちて戻って来なくなるからお座り」


「ご褒美は何ですか?」


ちょーだいと期待に目を輝かせるカタネに示す握った拳。


「愛のない物理言語」


「えー、愛が欲しいよぅタカネちゃあぁーーん」


「そもそもそんなものに取り扱いがないわよ。一昨日きやがれ」


「可能ならタカネちゃんが生まれたところへ戻りたいよー。見た目だけがちっちゃくって中身はツンツンツンデレの甘要素少なめのタカネちゃん。想像するだけで愛おしいよね!」


「……あんたの脳内で私は一体どうなってんのよ」


「タカネちゃんはタカネちゃんだよ」


どれだけ辛辣な態度と言葉を向けてもにこにこしているが、一応私に刺々している印象を持っているようで重畳。

だがしかし、一体全体私のどこにデレ表現される甘え要素が存在しているのかと呆れたのに、返ってくるのがこれとかねえ。


「え?どうしてそんな当たり前のこと聞くの?」と聞こえてきそうな真理を告げる子供の純粋で純朴そうな答え方はやめてくれないだろうか。

他に何も問えなくなるじゃないか。間違っていないのがまた何とも言い難い。

私は私。アンナであって、タカネでもある。変わったようで変わらないその事実をさも当然と言い切るカタネに苦笑する。


「そうね……私じゃなかったら吃驚するわね」


「うふふ、おかしなタカネちゃん」


あんたに言われたらおしまいだと思う。激しく不本意な単語にほんの少し弛んだ顔面の筋肉が引きつったのは仕方のないことだ。

落ち着けタカネ、深呼吸でもしようじゃないか。がっちりと胴体に巻き付いて離れる気がないカタネの腕と体が邪魔をしてくれて上手く肺が膨らむ気がしないが、芥子粒くらいの効果はあると思いたい。

ああ、けれど深呼吸の前に一つ溜息を吐いてもいいだろうか。はあっと盛大に。


「ん~~、タカネちゃんの匂いがする~幸せ~~」


僅か数秒のごく短いこの時間、握った拳を下ろすべく思考しているところ、人の首筋に顔面を寄せて何をしているんだろうかこの馬鹿者は。

躾を敢行するべきだと判断し、下ろそうとしていた拳を再び掲げるべきか否か実に悩ましい。


一応早めに戻る予定であると告げて出て行っていたのに、予定外が続きすっかり遅くなってしまった。その所為で待てを言い渡したカタネが私の元へ来てしまい、寮室へ戻る約束を反故した状態になった。

意図して現状況を起こした訳ではないが、いらぬ心配をかけてしまったのは事実。

そんな負い目で巻きつかれているのを許容しているのだが、もういいだろうか。

言ってやりたいことと問うてやりたいことがこの場にカタネが現れた瞬間に生じているだが、我慢せず実行に移していいだろうか。


「ねえ、カタネ。ちょっと聞いてもいいかしら」


「はぁ~い、なんでしょうかタカネちゃ~ん」


私の首筋にすりついてご機嫌な上にご満悦なところ御免なさいね、お馬鹿さん。

私の疑問に答えて頂戴。


「何であんたはこんな場所にいるのかしら?」


「そこにタカネちゃんがいるからだよ」


私は山か。高かったら登るのかこの大馬鹿者。私が聞いているのはそういうことではない。

すりすりなんて首筋に頬ずりをしているカタネをくすぐったく思いながら、そろそろ出番かと活躍を待ちわびている我が指先。いつでも動けるよう準備をさせていたら、首筋から顔を持ち上げて私の視界に入ってきたカタネの顔面。

その自信満々のキラキラした表情に嫌な予感しかしない。


「タカネちゃんがいるところにカタネありっ。いつでもどこでもお傍を離れず私は貴女について行きます!例え火の中水の中?いえいえそんな危険なところになんて行かせません!火がお湯でお風呂、水がプールというのであれば応相談。水着という下着と変わらないいかがわしい布面積の衣装で私の視界を奪うタカネちゃん。それだけでは足りないと僅かな布地さえ取り払って一緒に入る?と湯船へと私を誘う無防備なタカネちゃん。何にも隠されていない生まれたままの姿が神々し過ぎて私には想像したくても出来ません!なんて罪な(ひと)なのタカネちゃきゃうんっ」


指先に待機命令を出して急遽(きゅうきょ)握った拳をカタネの頭へ再度見舞ったのは正しい判断だと私は信じて疑わない。

ゴンッて良い音がしたわ。……私の拳からも。あー痛い。


「直ちに会話出来るところまで戻ってきなさいバカタネ」


「ふぅうぅ~、痛いよタカネちゃ~ん」


「あんたを殴るのに私の手も痛いってわかってるの?」


「私だけじゃなくてタカネちゃんも痛いところに愛を感じるふぇ」


目にうっすら涙を浮かべて訴えるお馬鹿を睨みつけてやったというのにすぐさま笑顔へ変わったその顔に、反省がまったく見られないどころか輪をかけて行こうとしているのが見て取れた。

なので、待機命令を解除。私の指先はついにターゲットを捉えた。

滑らかで柔らかい頬をやさしく摘んだのはほんの一瞬で、次の瞬間には摘んでいる私の爪が白くなる程の力が加えられている。


「ほ~らお望み通り痛いのはあんただけよお馬鹿さん。よかったわね~」


「いひゃいいひゃいいひゃいっ」


ぎゅうぅっと力を込めた指先によってもたらされる痛みでも私に巻きつく腕を放す気はない様子に感心したくなってきた。必死過ぎるだろう。ここまで離れることを拒否されると何かあったのかと逆に不安になるじゃないか。

そう思ってしまうと指先の力もなくなるもので、解放するのはカタネではなく私の方になってしまう。


「ふえ~~ん、痛いよタカネちゃ~ん」


「まったくもう……。わかったわよ、離れなくてもいいから答えなさい」


「ふぇ、何に?」


目尻に浮かんだ涙を指先でやさしく拭ってやれば、それだけで頬を摘まれていたことなど忘れたかのように嬉しそうに微笑むカタネ。喜怒哀楽の忙しいことだ。


「昨日の今日でいろいろ問い詰めて来るかもしれないから安全な部屋に籠ってろと言ったでしょう。予定より遅くなって心配させたのは悪かったわ。でも今日一日は寮室を出ないと約束したのを破ったのはどうしてなの?私との約束を破っても伝えないといけないような何かがあったの?ここに来るまでに何かあったり誰かに会ったりしなかったの?」


口にしてしまうと段々不安が増してきてしまうのが言葉の不思議なところ。

摘んだ指先の痕がほんのり赤く残る頬を指の腹で労わり撫で、そのまま頬を掌で包み込み顔を覗きこむ。

直前の行動からすれば手のひらを返した様子の私にきょとんとなったカタネ。

その目に映る私の顔は、情けなく眉が下がって見えた。


そんな私の一転した心配にカタネは笑みを浮かべる。内臓が出て来ると危ぶんで放せと訴えても放さなかった腕を片方解いたかと思えば、カタネの頬を包んだ私の手の上に自分の手を重ね、掌へと頬を寄せる。

浮かべる表情は蕩けるように甘い甘い笑みで、嬉しくて堪らない正しく幸せと書いてあるものだ。


「心配してくれるの?」


「……しないとでも思うの?」


私はそんなに薄情ではないとむっとしながら答えるのに、溶けてなくなるのではないかと思う程に幸せ全開に微笑んでいるカタネ。大丈夫か。


「えへへ、タカネちゃんのそういうところ可愛くてだーい好き」


「あっそ。それはどうもありがとう」


「うふふ、照れてるタカネちゃんも可愛くてだ~い好き」


「何だっていいから答えなさい。何もなかったの?それともあったの?」


「ん~、もうちょっとこの甘い空気を堪能していちゃ、ダメ?」


「カ・タ・ネ」


「はぁ~い。心のタカネちゃんアルバムにしっかり記録したから後でたっぷり堪能し直しま~す。タカネちゃんのデレは威力が高くて私の理性はいつだって試されているのです。はぁあ……今日も良いタカネちゃん日和だね」


「カ・タ・ネッ」


人様を訳のわからない表現で表しているお馬鹿に一文字ずつ強調して名前を呼ぶことでいい加減にしろと示せば、伝わっているのににっこり笑顔が返る。

一応怒って怒鳴っての剣幕のはずなのに何がそんなに嬉しく楽しいのかわからない。そう疑問に思っている間にもにこにこ笑顔は絶えることなくここにある。


「何もなかったし誰にも会ってないよ。貴女のカタネはこそこそするのが得意なのです。えへん!」


「社交界に輝かしく咲き誇る公爵令嬢がこそこそするのが得意とかどうなのよ」


巻き付き密着を変えたくないらしい。おいと言いたくなる発言内容だけでなく、わざわざ擬音を用いて胸を張る演出をするのに突っ込みを入れずに何とする。

受け取り様によってはきつく聞こえるかもしれないすっぱり言い切る我が発言。

今更この程度でご機嫌なカタネの笑みが引っ込む訳など無いとは思っていたが、何故か笑顔はにこにこからにこりの悪戯に艶を帯びる笑みへと姿を変える。


「マルティナは目立ってなんぼの公爵令嬢だもの。カタネはタカネちゃんの為なら本気を出すよ。白い薔薇を紅く染めて見せよとおっしゃるならば、私は貴女の為にこの身を捧げてみせますよ?」


上から手を重ね、頬を寄せていた私の手を芝居がかった動作で取ったかと思えば、まるで童話の王子様の如く恭しく、けれど自信たっぷりな目で私を見つめながら指先に口付けるカタネ。

その発言と動作に呆れていいのか笑っていいのか迷うところである。


「誰が病んでる某キャラの台詞を披露しろと言ったのかしらね。血(なまぐさ)い薔薇なんて好みじゃなくてよと返すのは高飛車なお嬢様キャラでしょうに」


まさかの砂吐き乙女ゲームの台詞とスチル絵をこの場面で適用してくるカタネには呆れが正しい選択だったのかもしれない。

苦笑溜息まじりに続いたやり取りを口にしたら物凄くはしゃいだ顔になったカタネを見てそう思った。らしくないことをするものではない。


「文句を言っても興味なさそうにしててもちゃんとクリアして感想を言って覚えてお茶目なやり取りに応えてくれるタカネちゃんは神様だよね!」


「あーはいはい。もう何でもいいから話をお花畑に連れて行かないで頂戴。何もなくて誰にも会ってないならどうしてあんたはここにいるのカタネ?」


妄想蔓延(はびこ)る浮かれたお花畑に手を引かれて行くというより激しく恐ろしい熱量の何かに押し流されて強制お花畑って感じなんだけど。

掘り下げてはいけない話をぶちりと引き千切って問いを戻せば、にこにことご機嫌な笑みを浮かべて至極当然といった様子で言い放った。


「タカネちゃんの危機を察知して貴女の(つがい)は風になったのです」


始めからぶっ飛んでいるが本気で意味がわからない。私の危機とは何だそれと突っ込みかけたのだが、それよりも早くカタネが言葉を重ねてきたので無理だった。


「お父様との語らいできっと疲れているだろうタカネちゃんに安定安心のブレないカタネの御提供。癒しの効果は他の誰でもないタカネちゃんお墨付き。さあ、心置きなく私を愛でていいんですよ旦那様!」


期待に満ちて無駄にキラキラした目で、巻き付き体勢は変わらないのに今度はちゃんと胸を張って言い切るカタネに脱力した。

突拍子もないことを言わせたら右に出る者がいないと思われる迷走したお馬鹿発言に呆れれば、あまりに突き抜けすぎてて笑いが浮かぶのだから……不思議で仕方ない。


宰相閣下から始まった怒涛の言葉でバトルに疲弊しきって荒んできていた思考と心に、なんとも緩くて阿呆らしい会話ばかりのやり取りが余計な力を抜いて行く。

変に力んで軋んでいたところが解放されてほっと息を吐く。


「お馬鹿」


そんな感じで浮かんだ笑みにカタネは笑う。


「格好いいタカネちゃんが大好きだけど、こんな風にやわらかく笑ってくれるタカネちゃんは愛おしくて堪らないよね」


幸せそうにではなく幸せに目を細め、言葉通りに愛おしいと顔中に浮かべて微笑むカタネは、恋に恋するお花畑の住民なのに時々ドキリとすることをして言うから油断ならない。顔が熱い気がして頬を撫でてみる。……うん、熱いな。


「そろそろ口を挟んでも構わないか?」


そんな何だか甘酸っぱい感じの雰囲気が漂っている気がしていたのだが、背後から聞こえた笑いを含んだ男の低い声にはっとなる。

魔法使い殿が、いたんでしたね。すまない。ちょっと空気どころか本気で存在を消失させていた。というか……声、随分近い位置から聞こえた気がするのだが、気の所為か?


「あら、夫婦の語らいに割り込んでくるなんて随分無粋な真似をなさいますのねケルファン様。わたくしのアンナに軽々しく触らないでくださいませ」


「わぷ」


バチン、なんて鈍い音が聞こえ、巻きつかれていた体がぐいっと引かれた。

あっという間もない。抱きつかれていた私の体は一瞬でカタネによって抱き締められるへと変化させられていた。

強制的に体勢を変えられた私の顔は望んでもいないのにマルティナお嬢様の立派な胸の感触を味わっている。柔らかいのに適度な弾力があってほんのり花の香りがするカタネの胸は実にいい枕になりそうだ。

そういえば、後頭部強打を阻止してくれたものは何だったのだろうか。

いつのまにやら背、丁度肩甲骨付近に感じた支える何かの感触はなくなっている。

気にはなるがそんなことよりも、だ。一体何が起きているのだろう。


そしてカタネ、我が耳の不具合かと疑いたくなる程に刺々しくかつ冷ややかなこれぞ悪役令嬢と呼べる声を何処から出した。

生憎抱き寄せられている腕の力は先程同様強くて身動ぎくらいしか出来ない。

頭部を動かすことまかりならぬという意思表示なのか首筋を押さえられてしまった頭の位置は胸の谷間に完全固定。視線の移動すら難しい狭められた視界では、逆ハーエンドを迎えた相手からの極寒吹き荒ぶ冷ややか対応をされた魔法使い殿の様子は窺えない。


というか、わたくしのアンナって間違えてはいないが微妙な言い回しだ。

それにしても、私に軽々しく触れるなって相変わらずねあんたは。どうしてか私が誰かに触られるのを極端に嫌がるのよね。担任教諭やクラスメイトとの会話中に割って入られたことは数知れない。その度に助けてくれと視線で訴えられた実に面倒くさい記憶だわ。


「必要に迫られて、なんだが。そもそも必要に迫らせたのはアンナにぶつかってきたマルティナ、君が原因だろう」


「あら、これは驚きですわね。口にするのも憚られます虫に対する如く冷ややかな対応を当然となさっていらっしゃる御方が、個人の名前まで口になさるなんて一体どのような心境変化なのでしょうか。馴れ馴れしいですわ口を噤みなさい」


きっと文字に起こせば丁寧に見える文章なのだろうが、その響きにあるのはやさしさや親しさのある温かさではなく真逆の温度。チクチクトゲトゲではなく荒いやすりでごぉ~りごりとゆっくり擦っていくようなそれ。特に最後の一言の冷酷さ。

私はあんたにこそ問いたい。どうしたカタネ。


攻略対象者であった彼らとの甘かったかもしれないやり取りなんて興味もなければ知りも聞きたくもないが、急に手のひらを返されたと思われるこの塩を通り越して激辛な対応に魔法使い殿はきっと面白い顔になっているに違いない。

散々苛ついてドン引きさせられたので出来ればその面拝んでやりたいのに、それを許してくれないカタネの膂力が口惜しいわね。でも、カタネを怒らせると面倒なんてものじゃないから下手に口は挟まないわよ私。飛び火なんぞ御免だ。


見捨てる気満々で見ることは出来ないが傍観者の立ち位置を決め込んだ私の予想は、ショックを受けて戸惑うご様子なのだが。


「これはまた随分はっきりした敵対応だ。君が何かに執着するのは初めて見るな」


「では希少なものを拝めたと満足して早々に立ち去って頂けますか。ああ、訂正します。こちらが立ち去りますのでついてこないでくださいませ。しつこい男は嫌われますのよ」


「しつこい女も嫌われるだろう。嫉妬で喚く女なんて害悪以外の何ものでもないぞマルティナ」


「あらあら、必要な言葉を惜しんで不必要な言葉を惜しまないなんて無駄な機能を備えた無駄によく回る舌ですわね。噛み切ってくださっても結構ですのよ?」


「魔法行使に差し障ることはしない主義だ。断る」


「では馬に蹴られてくださいませ」


「そう邪険にするな。君と俺の仲だろう」


「その台詞を口になさるのであれば恋愛劇の鑑賞でもなさって抑揚の勉強をなさるべきですわね。大根すぎて笑う気も起きませんわ」


「笑わせる気はないからな」


何だこのやり取り。本当に寒風が吹くなんてものではない極寒が吹き荒んでるぞ。

甘い?馬鹿言うな。塩など始めから眼中になく、辛いに一点集中激辛上等じゃないか。淡々とした感情の起伏が聞き取れない声なのに、読み取る機能から想像される表情が社交辞令ここに極まれりの顔面貼り付け笑顔なんですけどどういうことなのやら。逆ハーレムに到達出来る程の甘い空気は幻だったのか?

聞くことしか出来ない傍観者は驚いています。


「不快な思いをさせたいとのことでしたら謹んで辞退させて頂きますわ。ごきげんよう」


巻き付きから抱き締めへと素早く変化させた手腕を再び発揮し、踊るように優雅に身を翻したカタネ。その腕は私の腰を抱き、その手は私の手を取りエスコートする位置にある。ちょっと待て、それは私の立場で立ち位置じゃないのか地の番(よめ)


「何をそんなに気分を害されているのかどうでもいいが、君の寮室に用がある。ここでさようならとはいかないな」


そんな一見どうでもいいことを考えカタネを見ようとしたのだが、背後から何ともひっかかる言葉が多い魔法使い殿の引き留めが入った。

すでに足を踏み出そうとしていたカタネだったが、足先に力を込めて立ち止まり、けれど振り返ることなく静かに言の葉を紡ぐ。


「わたくしには用がございません。招かれざる客人として公爵家のメイドに排除されることをお望みでしたらどうぞご勝手に。ですが」


振り返ることはしない。だけど予想通りに張り付けられている外面用の笑顔の下、一見麗しく微笑んで見える目は鋭く不機嫌に背にした魔法使い殿を睨み据えている。


「いま、このままついて来るなんて愚かな真似はなさらぬよう願いますわケルファン様。重ねて申し上げます、無粋ですわ」


…………本当にどうしたのカタネ。逆ハー達成と同時に恋愛劇はもう結構とまともな価値観があれば幸せには決してなれない将来の約束をダムの放水威力をもって等しく袖にし水に流した所詮は乙女ゲーの攻略対象者共とはいえど、攻略対象キャラに対する愛情フィルターすらかかってなさそうな様子に驚かされているのだが。

説明は受けられる、いや聞き出せるだろうか。


「無粋で結構。俺に他者との距離感を察しろというのがそもそもの間違いだ。そんなもの学んだところで魔法の役に立たない。無益なものに何の意味がある?」


円滑な人間関係を結ぶことで得られる自分一人の価値観では思いつかない目から鱗な情報ってものがあるだろうが。急がば回れって素晴らしい格言を進呈してやりたくなるなこの自発的コミュ障。長い目で見れば完全に無駄なんてものはないものなんだよ。


「効率重視のいかにも魔法使いらしい価値観ですわね。貴方にかかれば世の中は可否の二つに分別されて随分とすっきりなさるのでしょうね」


「人のことを言えたことかマルティナ。権力、武力、情報、保険と次世代の必要物件に効率よく食指を動かし得た手腕は見事だが、そのツケがあんたの番に伸し掛かっている現状をどう処理するつもりだ?」


「――――」


挑発としか取れない物言いとわかっていても、無視出来ない発言があってはいくら不機嫌で私以上にこの場を立ち去りたいらしいカタネも振り返らざるを得なかったようだ。それでも首だけなのが如実に心境を表している。まったくもう。

悪役令嬢ここにあり。そんな釣り目がちな目がいい仕事をしている鋭い眼光を追い、私も視線を後方の魔法使い殿へと向ける。

……自信満々のドヤ顔とかいらないわ。


「わたくし以上の為になるお話を貴方がお持ちであるとでも?」


「魔法を担う者にしかわからない話は聞いて損がないと思うがな。己が番を保護する為に鉄壁の防護を捨てさせる程度の実力しかない公爵家の御令嬢」


魔法の素養については比べようにも比べられない格下になるのは事実だが、明らかな喧嘩を売りに行った魔法使い殿に何事かと問いたい。

カタネが邪険に扱うのはわかるが、どうして愛してるまで到達したはずの魔法使い殿まで喧嘩腰なんだ。私一人が蚊帳の外とかどういうことなのよカタネ。

ものすっごく問い質してやりたいけど、どうにも交渉中の場に下手な石を放る訳にはいかなくてだんまり継続するしかない。


「何が目的ですの?」


これを聞くのは心外である。そう言いたげな目に私の耳には苦々しく聞こえる声音でだが、カタネが条件によっては譲歩する姿勢を見せた。

これから察するにカタネはカタネなりに情報を持っている。けれどそこには懸念が残っていて、それがもしかすると魔法関連でなら埋められるかもしれないといったところだろうか。もしくは公爵令嬢のマルティナとは別方向を向いているだろう侯爵家令息の立場と伝手、とか。見ているものが違えば得るものにも大きな差があるものだものね。庶民目線でしか見えないものを拾い上げる私みたいに。


バチバチと火花が見えてもおかしくない一戦を交えている一時は将来を誓い合う約束を出来たはずの二人の間に流れる愛なんて欠片も入り込めない寒々しい交渉。

眺めているだけの傍観者になっている私だったのに、夜空の藍が私を捉えて目を細めた。


「っ」


ぞくりと背を走り駆け抜けた寒気に震えた体。触れているカタネがそれに気付かない訳はなく、落ち着かせるように抱き締めてきたのに反射的に身をすり寄せる。

その所為でカタネの目つきが悪役ではなく悪へと傾いた感じになったけど、後でちゃんと役をつけ直してあげよう。うぅ、魔法使い殿は苦手なんだよ私。


「それは興味対象であり役立つ助手なんだ。独り占めはやめろ」


「お断りですわ」


刹那の即答、そこに迷いは塵の入る隙間もない。流石カタネ。これこそカタネ。


「一考する余地もないとはな。それで本当にいいのか?」


「そのような交渉条件、のめる訳がありませんわ」


煽ってくる魔法使い殿に怒気が殺気に変わりかけているカタネが浮かべる苦虫を噛み潰したその表情で、察する。足元見られたと怒っているのと、マルティナにとってのアンナの価値を測られているのとでひどく苛ついている裏にひっそりと隠れている嫌悪。余裕顔で試してきた魔法使い殿の持っている情報、欲しいんでしょう?私が関わるとどんな損失を受けても平気な顔するお馬鹿さん。

そこまでしてくれる程っていうのは嬉しくもあり、同時に腹も立つものなのに。


「カタネ」


「嫌」


普段ならどれだけ小さな声で呼んでも必ず私を見てキラキラにこにこご機嫌な様子で返事をするのに。ちらともこちらを見ず、魔法使い殿への即答と変わらぬ速さで返された否定に私はどうしていいのかしらね。


「カタネ」


宥めすかす目的で緩く間延びさせて名を呼べば、口元をぐにゃりと不本意とやだで歪めたカタネが、恨みがましく泣きそうな目を向けてくれた。

それはちゃんとわかってる証拠。魔法使い殿の手札が有益である可能性を理解しているのに、私が交渉の天秤に乗せられたから問答無用で斬り捨てようとしている確かな答え。

だからエスコート用ではなく、縋る力で握り締められた手を空いている手で包み撫でる。浮かんだ笑みは恐らくこんな感じだ。仕方のない子ね。


「私を誰だと思ってるの?」


「でもっ」


やだ、なんてくしゃりと泣き出しそうな顔で反論を試みた可愛いお口を人差し指で閉じてしまう。潤み出すカタネの目に映る自分の顔は、自信もないのに不敵で虚勢を張るには十分な顔。


「あんたのタカネは後生大事に箱にしまって守られることを良しとするか弱いお姫様みたいな女に見えるのかしら?」


答えて御覧なさいと唇を解放したのに、きゅうっと唇を噛んで首を横に振る。

あぁあぁ、そんなことしたら傷つけちゃうじゃない。お馬鹿さんね、本当に。


「よしよし、いい子ね。私が弱気なところを見せたから守ってくれようとしたんでしょう?可愛い子。そういう気遣いが出来るカタネ、私は好きよ」


柔らかくて、でもサラサラとした触り心地の良い髪を撫で梳き宥めるのに、カタネはより顔を歪める。


「タカネちゃん、狡い」


ぷくりと頬を膨らませたりもせずに不満を述べるなんて、これは何を言っても効果がないかもしれないわね。どうしようかしら。

困って笑みを浮かべ、私の為に嫌がってくれている可愛いお馬鹿さんを何とかしようとしているなんておかしな光景。それは頭を撫でた流れで頬を撫でようとした私の左手にカタネが触れたことで終わりを告げる。


「ぃっつ!」


手を取り頬を寄せようとしたのだろうけれど伸ばしたその手、正確にはその手首は負傷しており、力が加えられますと痛みを訴えます。

そんな理由で顔を歪めて小さくとも苦痛を訴える声を上げてしまった私に、もう少し突けば泣いちゃうぞなんて様子のカタネが消失した。代わりに驚きに目を見開かれ、ちらりと見える左手首の赤色に気付いたカタネの目の色が変わる。


慎重に左手を取りながらも腰へ回していた腕を持って来た素早さそのままに制服の袖を引き下げれば、目障りなくらいはっきりと浮かぶ男の手形が晒される。

真っ赤だったそれは徐々に青黒く痣として変化し始めており、非常に醜く尚且つ事件性すらも匂わせて禍々しく映る。


「タカネちゃん、コレ……何?」


愕然とし、震える声を絞り出したカタネの姿にちーんと音が聞こえる気がした。

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