次は行動と参りましょう
ぐしゅぐしゅにくすんくすん。二種類の音を聞きながら文句を言わずに十分近く耐えた私は結構偉いんじゃないかと思う。
「いい加減泣き止んでくれたかしら、泣き虫お嬢様とそのメイドさん?」
「っく……はぁい」
「うぅ……申し訳ございませんアンナ様」
まだ完全に泣き止んではいないけれど、返事が出来たから良しとしましょう。
「では顔を洗っていらっしゃい、それから腫れた目元も冷やすのよ」
「はぁい…っ……タカネちゃん」
ちょいちょいと零れていこうとした涙を指で受け止めてやれば、へにょりと幸せそうに笑う見慣れたお馬鹿が戻ってくる。そうそう、カタネはこうでなきゃ。
「ぐすっ……ではお嬢様、こちらへ」
ハンカチで涙を拭っていたメイドさんに促され席を立つカタネ。そのまま二人してさっぱりしてくれればいいのだけど、多分無理だと思うから付け足しておこう。
「リズリットさん、貴女も顔を洗って目元を冷やすのよ」
「アンナ様、わたくしめのことはリズリットもしくはリズと……え?」
あら、公爵家に仕える為に厳しい教育を受けているだろうメイドさんの素の反応とは、なかなか珍しいものが見れたのではないかな?いや、お嬢様と一緒にボロ泣きするメイドさんの方がきっと珍しい。
「二人とも折角美人で可愛いのだから、そのまま放置して目元を腫らすなんて許さないわよ。カタネ、あんたがご主人様なんだからとっ捕まえて従わせなさい。痛々しい顔のまま戻ったら、わかってるわね?」
「承知しておりますタカネ様!愛のない鉄槌ノーセンキューです!」
がしぃっとメイドさん改めリズリットの手を掴んで先行し始めたお嬢様に「え、え?」と狼狽えながら引っ張って行かれるメイドさん。そんな珍妙な主従が浴室のある部屋へと消えて行くのを見送って、一人沈黙の落ちた室内で息を吐いた。
椅子に凭れて天井を仰ぐ、マナーの教鞭を執る方々に見られれば叱責確実の令嬢らしからぬ姿勢のまま、記憶の棚を漁る。
召されそうになりながらも『姦獄の白百合』はフルコンプしたが、その弊害で『看護の白百合』にはまったく手を付けられなかった。
とはいえ、借りたからにはゲームの感想を添えて返すのが好意で貸してくれた相手への礼儀だろうと思っている。本来こんなやり方は気が進まないのだが、今回に限っては相手が悪すぎる。姦獄を見て知った後に看護は無理だ。にこやかで甘いかもしれない物語の背景にあらぬものが透けて見えそうで耐えられない。
だから、誠に申し訳ないがゲームをプレイしなくても凡その内容を把握出来る情報化社会の中で調べることにした。そうしていくつか見つけたサイトの中、各ルート攻略方法とその選択肢、さらに話の概要をまとめてくれていたバレればゲーム会社にはきっと怒られるだろう個人サイトさんには大変感謝している。
お陰でこんな予想もつかない事態に陥っても生き抜くことが出来た。
顔も本名も性別すらも知らないサイトマスター、あなたは命の恩人です。本当にありがとう。
静かに心の中で感謝を述べながらその時得た情報と、つい先程カタネにさせた時系列説明、さらに念には念を入れて独自に調べていた情報の三点を照らし合わせる。
トラウマになるような過去と事情を持つ攻略対象者たちにとって一番治まりがいいのは、当然個別のトゥルーエンドだ。
何故かといえば、トラウマの主原因である問題に折り合いがつけられるもしくは解決する状態でエンディングを迎えられるので、後は快方に向かうばかりだから。
まあ、この時点ではあくまで攻略対象者たちにとっては、であるけれど。
逆ハーレムエンドはそのトゥルーエンドを五人分、同時に起こすことで迎えられるエンディングなので、節操はなく後々とんでもない落ちがついて来るが、攻略対象者たちの精神的にはトラウマ主原因解消の健全なエンディングとも言える。
とはいえ、逆ハーが原因で違う方向にこじれるので、万々歳とはいかないからこその姦獄なのだと思えば、あれはあれで流れ的には正しい気もしてくるのだから実に不思議なものだ。
内容は完全にアウトですけれどね。
節操のなさととんでもない落ちはともかく、彼らの将来を思えば現状はある意味ベストなエンディングを迎えているはずだ。三方向からの情報を照らし合わせても、ゲームと現実にそう大きなズレはない。
ただ、全くない訳ではない。
平民上がりの男爵令嬢であるアンナと生粋の公爵令嬢であるマルティナでは家格と立場に差があり過ぎる。
いくら物語通りを目指してカタネが行動し、誘導をしていたとしても、本来の、それこそゲーム画面越しに主人公のアンナを操作して、固定された物語の中に現れる選択肢通りに話が進んで行く訳ではないのだから、どこかでズレるのは当然なのだ。
そもそもの大きなズレである悪役令嬢役のマルティナが逆ハーエンドを達成したこと、ここはもうどうしようもない。この大きなズレに対していまのところ私に出来たのは、逆ハーエンド達成によるカタネの姦獄行きを阻止すること。
そのため監禁に失敗したダメンズ共に残っているマルティナへの執着は、今後個別にへし折って粉砕していかなければいけない。これは私の根性と底意地の悪さをフル動員すればどうとでも出来ることなので苦労はするだろうが問題はない。
問題なのは、捩くれ曲がった攻略対象者たち本人の歪んだ固定観念と捩れた性根をへし折り粉砕するだけでは解決出来ない物事だ。
私の情報が間違えていないなら問題が発生しているのは、五人の内のたった一人。
セオリーな文面だが、そのたった一人が大問題である。
繰り返すが、私にとって解決しなくてはいけない問題は、今後迫ってくるであろう攻略者たちの犯罪レベルに到達しているマルティナへの執着心である。
それを解消する為に立ち塞がるのが、このダメンズ共の身分だ。王族、公爵、侯爵、特権階級の庇護下と男爵令嬢如きがまともに勝負して勝ち目が見えない理不尽さ、それが貴族社会。
それ故に面倒極まりないが“ 家 ”に関与されることなく“ 個人 ”である攻略対象者本人を言葉巧みに騙し……んっんん、説得してマルティナを諦めて貰う必要がある。
そして、その諦めて貰う為に必須なのが、トラウマ主原因解決済みのトゥルー状況。
ここまで述べれば察しが付くでしょう。たった一人だけ、その主原因が解決していない攻略対象者がいるんでございますのよ。
男爵令嬢であるアンナであれば上手くいったはずの出来事が、公爵令嬢であったマルティナの高すぎる身分の為にほんの少し、ズレた。
物語の文面上では些細かもしれないズレが、現実では大惨事を引き起こしてくれそうなのだから頭が痛い。
トラウマの根本が解決していなければ、攻略対象者たちがマルティナに抱いている……これは私の主観になるが、恋情というよりも彼女だけは違うのだと心の拠り所にしていると受け取れる恋のようなもの、それをへし折って粉砕するのはどう考えても逆効果だ。最悪ゲーム上では起こり得なかった手に入らないのであればいっそ……が発生する可能性すら出て来る。洒落にならない。
看過することの出来ない問題、しかしその問題を解決するにはいままで通りの男爵令嬢の私の手持ちの札では、どうにも出来ない身分と立場が途方もない壁となり立ちはだかる。
この現状解決が急務である、そのことが現時点で一番の悩みどころだ。
ふうと一つ息を追加して姿勢を正したが、悩ましい現実は変わらない。
壁を隔てた先で交わされている聞き取れない音を耳にしながら独りごちた。
「さぁて、どうしたものかしらね」
最初の一手ほど、難解なものはない。
美しいデザインが施された壁にはめ込まれた透明度の高い硝子から降り注ぐ陽光を艶やかに返す石材の床の上、真っ直ぐに敷かれたワインレッドの濃い赤色。レッドカーペットと呼ぶべきだろうその長い通路は、広大な王宮の敷地内にある文官の長に許された執務室へと続く道程である。
そんな場所を歩く学園制服姿の女子生徒、場違いにも程がある。すれ違う人たちの視線で胃が痛い。
案内をしてくれている上から位を数えた方が早い文官の方から回れ右して全力ダッシュで逃走してしまえたなら……やましいことがあると判断されて少なくとも一日は地下牢行き確定なので愚かな考えが浮かぶたびに即始末する。
いくら私がぼっち環境も何のその我関せず涼しい顔して生きていきますな忍耐力を持ち得ているとはいえど、所詮鍛えられた場所は生温い子供社会だ。外側綺麗で内側ヘドロな魑魅魍魎が跋扈する貴族と政治の二重混沌、隙を見せれば喉元に食らいつかれる危険性が常に背後に付きまとう大人社会の頂点である王宮では、そんなもの付け焼刃にもならない。
それでも、最初に取るべきは恐らくコレだと思うから、私はこの場違いな場所を歩いているのだ。
「ライリック宰相、ベルフォード男爵令嬢をお連れしました」
見事な職人技ですねと現実逃避に使えそうな装飾が施された扉を前に足を止め、表面上取り繕ってはいるが緊張などでガチガチの私からすれば羨ましい程に軽い調子で扉をノックした文官殿。
入室許可を求める声に返ってきたのは「入れ」と短い声。名しか知らない宰相閣下のお声は低かった。
無論、性別故の低音ではない。
「失礼致します」
そう告げて扉に手をかける前、ちらりとこちらを振り返った文官殿が「御武運を」と憐れみの視線付きで呟いてくれたのが理由になるだろう。
文官相手に御武運をって何なんだよ畜生!
何ですか?言葉という名の矢で全身滅多刺しになるってことですか?そういう意味だというのであればもう少し真剣に祈ってくれよ文官殿っ。屍くらいはカタネの元へと届けておくれよ文官殿っ。
罵りプラスアルファの言葉を飲み込んで一人通された執務室は、紙とインクの匂いがする場所だった。
採光用の大きな窓のお陰で明るい室内には天井にまで届く本棚がいくつもあり、その全てにみっちりと本が詰まっている。
小さな書店規模の蔵書だが……これ、もしかしなくても仕事関連の書物なんですよね、宰相閣下の。
どっしりと存在感のある執務机の上にはいくつかの紙束が鎮座しており、どう考えても執務書類である一枚一枚は薄い紙切れが、宰相という職務に就くものの忙しさを訴えているように見えた。
そのように忙しそうな場所へと足を踏み込むこととなりました本日、卒業というエンディング確定日の翌日である。カタネと誓約して一日と言い換えても可。
悩ましい現実が幾重にも立ちはだかっているが、これを後回しにしてはいけないと思うが故の行動だ。
お義父さん、娘さんを私にください。(事後承諾)
ああ、まさか女の身の上で父親から大事な娘をかっさらって行く男の心境を味わうことになるなんて夢にも思わなかった。
やむにやまれぬ事情があったとはいえ、マルティナお嬢様はライリック公爵家の長女で、本来ならば第一王子の婚約者として次期正妃になる予定だったのだ。
それが、まさかの平民上がりの男爵令嬢とすでに誓約済み。何人たりとも邪魔することは許されないと夫婦神に認められている神様公認の夫婦になってしまっている状況。なので正しくは、
娘は貰った。不満があろうとこの誓約がある限りすべては無駄だ。諦めて娘を俺に寄越すがいい!
といった感じか。文面で考えるとひどく下種な野郎だな。私が父親ならば斬り捨て御免だ冗談ではない。
なんという最低野郎の毒牙にかかったんだ娘よっ、と嘆きながらも実際にスパッと殺ってしまうと娘も死んでしまうので汚泥を啜る心境で耐えねばならないと。
父親って辛いんですね。
って違う。こんな阿呆な想像で勝手にダメージを受けたい訳ではなく、今日の目的は一先ずマルティナお嬢様をアンナに縛り付けてしまった現状説明と、勝手に解除も出来ない誓約を結んでしまったことの謝罪だ。
事情も理由もない。突然現れて娘の人生どころか命まで手中に収めてしまった馬の骨であることをまずは詫びる必要がある。そしてそれは何よりも優先すべきことだ。
だからカタネに頼んで宰相閣下に謁見の申し出を願い出た。本来はベルフォード男爵家からライリック公爵家へと伺いを立てるべきなのだろうが、生憎我が養父であるベルフォード男爵は二大公爵家と名高いライリック公爵家からすれば路傍の石ほどの価値もない存在。伺いなんて立ててもぽいっと屑籠行きになる可能性が否めないほど後回しにされるであろう対応ランク。
そんな時間がべらぼうにかかりそうなことをしていい話ではないのだから、失礼とは思うが非公式の反則技で約束を取り付けさせていただく。
うっかり先延ばしになって、もっと早く言えやコラなどと恐ろしい状況にならないように多少はましな橋を渡りたい。急拵えで今にも壊れそうでも、綱渡りより遥かにましだ。
そういう訳で、カタネ経由で昨日の昼には手紙を届けて貰えたのだが…………まさかの即返信。
予想通りカタネの寮室へとやって来た攻略対象者共は「お嬢様はお疲れのご様子ですので誰ともお会いすることは出来ません」と無理矢理室内へと押し入ることの出来ない常套句でリズリットに排除して貰うことに成功した。
一仕事終えたと和やかにおやつを頂いていたところへ脅威の早さでお手紙が返ってきて心底ビビりました。
その返事の速さこそが宰相閣下の娘への関心の高さと愛情の深さに思えて寒気もした。
手紙には『ご息女のことで大事な話がありますのでご多忙とは思いますがわたくしめにお時間を頂けませんでしょうか?』的な超低姿勢での謁見願いしか書いていない。
こんな大事な話を薄っぺらい紙で知らせるべきではないと思うし、何より宰相閣下の娘への愛情の深さによってはその日の内に襲撃されそうな気がして怖かったからというのもある。
『看護の白百合』での宰相閣下なんて知らないけれど、攻略対象者が揃ってまともじゃないんだからちょっと偏った目で見たって仕方がないじゃないか。我が身と精神が可愛い、保険をかけて何が悪い。
いまならカタネの為でもあるって大義名分もあるんだから文句は言わせんぞ。
なんにせよ、なるべく急いで行動したらそれ以上の速さで返ってきて次を促された私は、正確な意味は伝わらないだろうが土下座も辞さぬ覚悟で宰相閣下の執務室へと足を踏み入れている。
……いるのだが、どうしようか。
様々な備品が置かれてもなお広々としたけれど無駄なものがない執務室。執務机にも、その前に設置されている来客応対用の落ち着いた色のテーブル&ソファにも、肝心の宰相閣下の御姿が見当たらない。
不在の言葉が脳裏に浮かぶが、確かに「入れ」と低いお声で応えがあったのだから、それが仮に宰相閣下本人のお声ではない可能性はあっても誰もいないはずはない。
色々と考えてはいたが、実際は文官殿が開いてくれた扉を潜って僅かに三歩の位置に立つだけの時間しか経過していない。
「っ?!」
パタンと背後で重そうな見た目に反して静かに閉じられた扉の音がした直後、ぞわりと背筋に走ったものに従って慌てて後ろへと跳び退る。
バンッと潜ったばかりの扉に背中を打ちつける鈍い音よりも先に、直前まで立っていた場所を走った銀の軌道が立てた鋭い風切り音が耳を打つ。
「ほぉ……いい反応だな」
感心するような響きを乗せた低音に反射的に紡ぎかけた防御魔法を放棄した。
騎士剣でもレイピアでもない短剣ほどの長さの得物を脅しでも寸止めでもなく、確かに私が立っていた場所へと勢いよく振り切った姿勢を何事もなかったかのように正した声の主。その誰とも知らぬ人物が、何らかの含みを感じさせる笑みが浮かぶ面差しと、胸元を飾る階級章によって誰であるのかを知ったから。
「ふむ。全力でいったつもりだったが、掠りもしなかったか」
大きな手の中で銀色に輝く短剣にしか見えない凶器を遊ばせながら、恐ろしいことに全力で振り切った発言がくっついてきた危険物が、掠りもしなかったことに口の端を上げる壮年と呼ぶには若く見える大の大人。
なかなか派手に背中から扉にぶつかったが、真面目に励んだ学び舎で身についてくれた技能のお陰で怪我もなく身構えた姿勢で固まった私は、あまりに衝撃的すぎる現実について行けずに声もない。
驚愕に目を見開いて見上げ続ける方こそ、この執務室の主であり、私が謁見を申し出た宰相閣下、つまりマルティナお嬢様の御父上であらせられるライリック公爵その人である。
「であれば、こんなものではなく真剣で試しても問題なかったか」
たぶんいまのは独り言だ。すたすたと無造作の中にも優美さが垣間見える様子で執務机へと足を向けた宰相閣下は手にしていた凶器をペン立ての隣へと置いた。
その動作と直前の問題発言で持っていた得物が短剣ですらない、まさかの装飾が施されたペーパーナイフだったと気付く。
いや、あの勢いで当たればいくら刃が無くても頭かち割れますからね宰相閣下。
運よく避けられただけであって常に避けられる訳ではありませんよ?真剣で試すとか冗談じゃないですからね!
とんでもない発言に体と一緒に固まっていた思考が回り出す。事前情報が欲しくて聞いて見たところ、娘であるカタネは言った。「お父様は、ちょっと変」と。
ちょっとじゃねえだろどうなってんだあんたの御父上様はよぉっ。入室直後に当てる気満々で元平民とはいえど仮にも淑女にペーパーナイフを振り切るとかどういう神経してんだ!文官殿の御武運をってのはこういうことだってか?ふざけんな!
扉に背中を張り付け身構え姿勢を維持したまま脳内で全力突っ込みしている私を余所に、文房具を武器扱いした宰相閣下はマルティナお嬢様と同じ色の目で私を見下ろして告げた。
「成程、面白い子のようだ。私はエラルド・ゲイン・ライリック、知っての通りこの国の宰相を務めている」
一体何に納得してどういう意味で人様を面白判定なさったのか是非ともお伺いしたいところでございますが宰相閣下。何事もなかったように自己紹介をなさった貴方様のおかしさには敵わないと思われます。
「……お褒めに与り光栄です宰相閣下、ベルフォード男爵が養女、アンナと申します。どうぞ、お見知りおきを」
どうにかこうにか令嬢の皮を引っ張り出し、扉に張り付いた身構え姿勢から淑女の礼を取り名乗ったが、取り繕った感が半端ない。
文官からは想像もつかない鋭さで繰り出された宰相閣下のペーパーナイフもおかしいが、完全不意打ちの一撃を避けきった一応令嬢の私も大概おかしい。
字面がおかしいのは仕方がないことだ。私は現実に起きた事実を述べている。
念の為に言っておくが、普通の令嬢に容赦なく鋭い一撃を避けきる技能はない。
むしろあったら怖い。きっと平民の女の子にも早々備わってはいない。
というか一般的な男にだって備わってはいないだろう。
同じことが出来るのはきっとそれなりに技量があるごく一部、騎士見習い及び候補生くらいだと思われる。
それが可能だった私の異常さはこの際空の彼方へと葬り去って頂いて結構だ。
どうしても気になるというならば、主人公役に生まれたが故の備えあれば憂いなしという言葉を頭に浮かべれば解決するだろう。
「掛け給え。いまお茶を淹れよう」
聞き間違えか?いまお茶を淹れるって聞こえた気がする。そして踵を返した宰相閣下が部屋の片隅にあるワゴンの上のティーセットへと向かっているように見える。
宰相閣下に茶を淹れさせる男爵令嬢?ないないないないないないっ!
「さっ宰相閣下っお茶であればわたくしが」
「座りなさい」
静かな低音で告げられた言葉は丁寧なのに、命令にしか聞こえませんでした。
切れ長の目はやや釣り上がり気味で娘さんは御父上に似られたんですね、と向けられた圧力に思考はマッハで現実から逃避した。
「畏まりました」
宰相閣下のご機嫌を損ねるのは話に来た内容が内容故に得策ではない。ここは可及的速やかに閣下のお言葉に従うべきである。
そう判断した脳より先に口と体は動いており、しっとりとした肌触りのどう考えても高価なソファに姿勢よろしく着席。
いま一番近い心境としては、体育会系もしくは軍人といったところか。上官の言葉は絶対です。
この世界風に言えば騎士なのだろうけれど、生憎騎士を目指してはいないので上下関係の厳しさまでは不明である。恐らく知らなくても困らない。
「…………」
座ったはいいが、落ち着ける訳など無い。何をしに来たのかだけでも十分なのに宰相閣下に、我が国で五本の指に入る権力者に、路傍の石ほどの価値もない男爵令嬢が、お茶を淹れて頂いているこの状況の、一体何処に落ち着ける要素があるのか。誰でもいいから懇切丁寧に教えてくれ、即行で代われと言ってやる。
とかなんとか思考が空回っている間に芳香が室内に広がり、思わず首を傾いだ。
「首を傾ぐようなものが何かあったか?」
「っ!」
記憶をたどろうとした矢先に作業を終えた宰相閣下が、輝くシルバートレイにこれまた高価そうなティーセットをお乗せになって、私とはテーブルを挟んで対面側になるソファへと腰を下ろされた。
無駄のない動作って素早くもあるんでした。……給仕の手際がいい宰相閣下って何それ。
アンナの人生で一番高位の貴族であり権力者に対面するとあって、話の内容を置いても緊張するとは思っていた。だが、初っ端の想像不可能域からの一撃でいろんな脳内武装が混乱から戻って来なくて取り繕いがまともに機能出来ていない。
だらだらと冷や汗と脂汗が流れてきそうな心に往復ビンタを繰り出して脱げかけた猫をかき集める。
「……先日ご息女の部屋で頂きましたお茶と同じ匂いがしましたので」
カチャリと差し出されたソーサーが音を立て、カップの中で琥珀色が揺れる。
「娘が茶葉を指示していたか?」
「いえ、わたくしが拝見する限りそのような指示はございませんでした」
否定、しなかった?昨日お茶を褒めた時にこの茶葉は自分がブレンドしたもので特別な時にだけ飲むお茶なのだとカタネは言っていた。
何かとこだわりが強いカタネは余程の例外がない限り自分で決めた決まり事を破ることはない。
家族がカタネブレンドの茶葉を持っていることは特段不思議なことではないし、渡された相手が何時如何なる時にその茶葉を使うかまでカタネは縛ることはしない。
ただ、渡すタイミングはカタネにとって特別な時ということになる。そしてそれは、カタネのことを良く知るものであれば、知らぬはずがないこだわりだ。
つまり、昨日のお茶はカタネにとって特別が起こったとリズリットが判断して淹れたもので、現在差し出されている茶葉がカタネの特別扱いと存じ上げている宰相閣下は、いまのやり取りで公爵家のメイドが特別茶葉を使用すべき状況であると自己判断したと察した訳だ。
カタネを経由した時点でアンナが娘のマルティナにとってどういう存在であるのかを宰相閣下は当然調べただろう。恐らくアンナ個人の目を引くものはない経歴を眺めただけで、ダメンズ共と同じく宰相閣下も親しくないと判断を下したはずだ。
事実、初対面以降マルティナとは共通学科以外での接点はなく、授業中にも関わりは持たなかったのだから他の判断は出しようがない。
なのに、メイド判断で特別茶葉を出していい相手であるとアンナの情報修正が入った。
その所為でしょうか。面白判定頂いた時と同じものが考えを読み取りにくい御顔に浮かんだ気がする。
「たった一日、それも数時間の間に二年の学園生活で証明した親しくない仲を覆したか」
芳しき紅茶の香りとナイスミドルの優雅なティータイムの図を見つめる私の鼓動が蚤と競り合えそうだ。
宰相閣下は品定め、私は可能な限り穏便に話を進めたいが為に水面下での情報戦を強いられているのだが、尻尾撒いて裸足で逃げ出したい。
国の中枢頭脳である宰相を相手に無謀なことをしている自覚はあったが、所詮あっただけだ。
沈黙の繋ぎでしかない会話で白旗挙げます。もう変な探り合いしないで全部ぶちまけて言い逃げすればいいんじゃないか?なんて考えがちらつく。
「さて、アンナ嬢」
ソーサーに戻されたカップが立てた小さな音、呼ばれた名。
前置きの二文字と共に空気が引き締められる感覚があり、無意識に手を握り締めた。
「利用されることを嫌う娘を通じてまで私に何の用かな?」
事と次第によっては容赦しないわよってことですよねそれは。切り出された本題に下手な言葉は許されないと知る。
昨夜ない頭をフル稼働してシミュレートしたものが、全く意味をなさないものと理解出来たら妙なことに力が抜けた。きっと、これは開き直りだとかやけになった状態なのだろう。
襟の高くない制服故に巻き付けた飾りのないチョーカーを外し、隠したものを晒す。
誓約の証、天の番を意味する蔦模様が刻まれた己の首に指先で触れながら、真っ直ぐに宰相閣下へと視線を向けた。
「ご息女のマルティナ様を地の番とし、誓約を交わしたことを申し上げに参りました」
しん、と落ちた沈黙。驚きに見開かれた目は一瞬。ふっと頬を緩め、口角を上げた笑みは、
「……そうか」
どうしてか、ひどく安堵したものに見えた。
珍しいものと化している誓約の印を見ても叫ぶことも狼狽えることもなく、ほんの一瞬だけ目を見張った宰相閣下。
いや、現状マルティナ専属ではあるが公爵家のメイドであるリズリットがマルティナお嬢様に一大事が起きていると雇い主である公爵へと報告、は今更ながら十分あり得るか。であれば現物を目にしたことへの驚き程度の反応しかないのは妥当かもしれない。仮に報告がなくて初耳であったなら相手に弱みを見せるような言動は慎むべし、とある貴族教育の賜物か政を為す施政者故の処世術といったところかもしれない。
にしても、どうして安堵?何処の馬の骨であるそれも同性に娘が一生涯縛られる羽目になったというのに、何故に安堵なのか。
「その、宰相閣下」
それこそ入室直後の不意打ちレベルの一撃をいまここで繰り出されても仕方のないことだとそのまま甘受しては最悪昇天するので致命傷は回避しつつも受け入れる他ない規模のことを告げたと思うのだが、どうして怒りでも憤りでもない安堵なのかがわからず、疑問を口にする。
「正直に申しますと、死なない程度の何かは覚悟して申し上げました。ですが、次期正妃殿下の道を閉ざしたことを咎めも、平民上がりの男爵令嬢風情がご息女を生涯束縛することにお怒りもなさらず、安堵なさる理由がわたくしにはわかりかねます」
開き直りのやけっぱちでも心臓乱れ打ちなのは自ら首を絞めろと差し出す発言をしているからですね。
馬鹿だと思います。でも、問わずにいられようか。
「愚直な問いだ」
ふっと吐息を吐きながら笑われた。返す言葉もないですわかってます。
「承知の上です。宰相閣下とご息女の家族関係の詳細をわたくしは存じあげません。ですが、特別な時にしか淹れない茶葉を存じ上げていらっしゃいます御父上であられる方が、ご息女の未来をお考えにならない訳はございませんでしょう。それ故に腑に落ちないのでございます」
脅威の一撃という名の品定めを躊躇いなく敢行なさったモンスターペアレントが、いきなり現れて油揚げをかっさらって行く鳶を黙って見送るとかありえないだろう。
私なら即座に猟銃構えて撃ち落しにかかる。誰のものに手を出したのかを脳髄へ物理的に撃ち込んでくれる。
至極物騒なことを真面目くさった顔の裏側で考えている私に、宰相閣下は応対の姿勢を崩してソファに深く身を沈めてしまわれた。……え?
「アンナ嬢から見て、娘はどのように見える?」
品定め圧力が薄れたくつろぎ姿勢で問われて戸惑いながらも答えを返すべく記憶をさらう。
最初に思い出されるのは情けない顔して泣くカタネで、そうでなければ締まりがない顔で笑うカタネだ。
タカネちゃんタカネちゃんと何がそんなに楽しいのか、何がそんなに嬉しいのか、人の名前を連呼して強引に引っ張って行って、楽しそうにしていたかと思えば萎れてめそめそしているのだから目が離せない。
コロコロと表情が変わり喜怒哀楽が激しくて、いつだって私を知らない場所へと連れて行っては振り回してくれる自由奔放なカタネ。
「愛すべきお馬鹿さん」
カタネを言い表すのは、この一言以外きっとない。
そう言い切った私の顔は、自信ありげでどうしてか誇らしくそれでいて……柔和に笑ってもいた。
今度こそ驚きをその顔に表して瞬いた宰相閣下だったが、その表情は数瞬で穏やかな笑みに変わった。
「薔薇の淑女とも呼ばれるマルティナを馬鹿呼ばわり出来るとはな」
くつくつと零れる笑い声にするりと出てしまった馬鹿発言に我に返る。
「それも……愛すべき、か」
慌てふためき訂正を、となるはずだったのだが、困ったようなけれど嬉しそうな宰相閣下の様子に申し訳ありませんと紡ぎかけた言葉は解けて消えた。
「好奇心旺盛でなんにでも興味を持って一つ所におとなしくしていない、そんなお転婆な娘が火がついたように泣き出したことがあった」
唐突に始まったそれは幼いマルティナの昔語りなのだろう。そして、物心ついた時にはカタネであったことを自覚していたと言っていたからには、宰相閣下の告げるマルティナはカタネでもある。
「タカネちゃんは何処?とね」
「え?」
思いもよらぬ言葉に思わず漏れた声。虚を衝かれた私に宰相閣下は笑みを浮かべたまま続ける。
「親の欲目かもしれないが、お転婆ではあっても分別のついた子供であったマルティナは無理な我が儘を言う子ではなかった。それが、前触れもなく突然泣き出し、タカネちゃんがいない、何処に行った、何処へ隠した、返せと手がつけられない程に騒ぎ立てた。屋敷中を駆け回り、叫び、通りかかるもの全てに憤り、最後には床に伏して嘆いた」
な、なりふり構ってない。好かれている自覚はあったがそこまでだったかカタネ。
「最初に気が付いた時には大騒ぎしちゃった、てへ」とか笑って言っていたが、御父上視点では大騒ぎなんてものではなくて半狂乱じゃないか。主観と客観に大きな隔たりがあるぞ。
「屋敷から出たことのなかったマルティナにそんな名の知り合いはいない。一体何処の誰かと問えば、私の全てだと言う。タカネがいないのであれば己に存在する意味はないと自害まで図られて気が触れたかと騒然となった」
………………聞いてない。いや、聞いたとしても何の意味もなさないが、この衝撃の事実にどうしていいのか私はいま困り果てている。
「流石にお手上げだ。感情的になっている以上話は出来ず進まない、落ち着かせようにもそもそもの原因がわからず解決策も打ち出せない。そのタカネという名の誰かを連れて来るのが一番の解決策ではあるが、顔も性別も何処の誰とも、まして本当に実在しているのかも定かではないものを連れ出すなど不可能だ。国一の頭脳ともてはやされようと、幼い娘の嘆きを理解も解決も出来ぬ愚か者と己を卑下したものだ」
いえ、如何に国が誇る頭脳をお持ちでも前世なんて精神を病んでいるのかはたまた電波かと疑い忌避されるような類のお話を何の説明もなく理解出来るはずもない。
むしろ出来たらご同輩、もしくは本当に理解不能な世界の住人だ。宰相閣下が己を卑下する必要は塵ほどもありますまい。どうにも出来ないのだから。
「嘆き続けるマルティナに必ず見つけるからそのタカネとやらのことを話してくれないかとその場をしのいだが……余計にわからなくなった」
ああ、きっと前世という大事な単語が行方不明になった全くもって説明にならない只管タカネ語りだったのでしょうね。一度私の何処をそれほど好ましく思えるのかと聞いて自滅した過去があるのでよぉくわかる。
強制停止をかけて十文字以内に纏めろとやり直しをさせたら「タカネちゃんだから」と意味不明な纏め方になってしまったが、再説明は地雷なのでそういうものだと諦めた。懐かしくも頭の痛い記憶だ。
「話しているうちに何らかの結論に達したらしくあまりの嘆きようが消え失せ、続いたのは学園で出会えるからそれまで我慢します、だ。流石の私も許容量を超えてただそうかとしか返せなかった」
胸中お察し致します宰相閣下。災難でございましたね。
生温い視線を向けてしまう私に何も言うこともせず、お疲れ様ですと労わりの言葉をかけたくなる様子で独白を続ける宰相閣下だったが、眉根を寄せて重く息を吐き出された。
「それ以降時折タカネ語りをする以外は公爵家の令嬢に相応しい立ち居振る舞いを身に着けたマルティナだったが、学園入学の翌日手紙が送られてきた」
学園入学というと、例の出会いイベントぶち壊し時か。
ああ、あの時何かを期待するような目でアンナを見たのは、アンナの中にタカネを捜していたからなのか。
「タカネのいない世界に己が存在する意味はない、今後公爵家の令嬢らしからぬ行動を取ることがあっても捨て置け、問題となった時には容赦なく切り捨てろと自暴自棄の絶縁状を叩きつけて来た」
そしてタカネがいないとやけになってゲームの物語に、それも一番忙しい逆ハーレムルートへと走って行ったと。なんて迷惑な現実逃避をしてくれたんだあの馬鹿。
「いつか娘を失う日が来ると覚悟していたその日が来たのだと思った。それでも諦め悪く方々へと手を回してはみたが」
「マルティナ嬢以外に知りようのない誰かを捜すことは不可能」
お馬鹿で暴走するが、頭は冴えているのだ。前世などと正気を疑われるような言葉を悟らせるような真似はしないだろう。それ故に、タカネを語ることをしなかった私の存在に第三者が気付ける訳などない。
「その通りだ。常ならぬマルティナの行動は噂と、自ら志願しマルティナに付き従ったリズリットからの定期報告で窺えた。そうして学園の卒業と共に娘を失うのだと、思っていたのだがな」
神妙な空気が最後の一言で霧散した。
にやりと笑んだ宰相閣下の表情が、釣り目気味の御顔立ちのお陰で悪どいったらない。
「どんでん返し、というのはこういうことだろう。昨日アンナ嬢の謁見申し出と共にマルティナが送ってきた手紙がコレだ」
深く腰を下ろしたくつろぎ姿勢から応対姿勢へと戻られた宰相閣下が、悪どい笑みを湛えたまま優美な仕草で懐から一枚の封筒を取り出した。見事な薔薇が描かれたその封筒は見覚えがあるもので、仰った通り昨日カタネが御父上宛てに私を紹介してくれた手紙が入っているはずのものである。
「家族に宛てたものとはいえ、いつもはまともな文面から始まるものなのだが」
丁寧な手つきで手紙を取り出された宰相閣下は、どうしてか笑みを苦笑へと変えて認められたカタネの手紙を広げて提示してくださった。
『お父様、タカネちゃんが見つかりましたので御紹介しますわね』
以上。
封筒と同じく描かれた薔薇が見事な便箋に、興奮冷めやらぬといった勢いで書かれた一文が全文である手紙とは名ばかり、何の説明にもなっていない物体と共に私の会って頂けないかという詳細を敢えて省いた謁見申請が同封されていた模様。
…………カタネ、その頬を洗って待っていろ。
「それで」
この場にいない大馬鹿者へと呪いの如き念波を送っていた視界から手紙が回収されて、再び悪どい笑みを浮かべられた宰相閣下が視界にいらっしゃる。
「マルティナが己を賭して捜していたタカネは、貴女で間違いないのかな?アンナ・ベルフォード男爵令嬢」
答えの提示された問いに一体どれほどの意味があるのか、と問うのはきっと野暮だろう。
理解不能領域に突っ込んでいると知れる娘をそれでも失うことを恐れたと語った父の顔をした宰相閣下に、私が答えられるのはこの言葉以外にはない。
「はい。アンナと申しますが、タカネであることもまた事実にございます」
早急に解決すべき大問題だけでなく、面倒以外の何ものでもない難題が新たに出来てしまっていると頭を抱えてしまいたい私の答えに、宰相閣下はほうっと安堵の息を吐き、目尻を下げられた。
「そうか……やっと、見つかったのか。…………そうか」
何かを耐えるように、目頭を押さえられた宰相閣下に告げられる言葉を捜していた私だったが、正直いま出て来るのはカタネがやらかした事への詳細疑問とそれに伴うだろうカタネが迷惑をおかけ致しましたとの謝罪の言葉だけだ。全くもって相応しくない言葉しか出て来ないので潔く諦める。
「アンナ嬢」
「はい」
ほんの数秒の沈黙から手を下ろした宰相閣下はにこやかに笑みを浮かべられていた。
「話を聞かせて欲しい」
その顔は、カタネが幸せそうに笑うのによく似ていた。