七話 真夜中の侵入者
夕暮れ時の宿舎の談話室には、ノートをめくる音だけが響いていた。小さな机を挟んで、目に涙を溜めながらノートを睨むリヒャルトと、それを渋い表情で見下ろすベルの他は、まだ自主訓練の途中なのだろう。それもそのはずで、もうじき冬期訓練の中間試験ともいえる体力測定および武技の練度判定会――通称教官対抗戦が始まるのだ。
この通称の由来は、体力測定と練度判定で好成績を収めた訓練生を多く受け持つ教官に対し、特別な給金が与えられるという出所不明の噂だった。ただ、成績順位が高ければ高いほど担当教官が喜ぶのは当然のことで、訓練生の士気を高揚させるために「クラス三位以内ならなにか褒美をやるぞ」などと言い含める教官も少なくはないのだ。成績を競う集団は、入所年次も考慮されるが概ね年齢別で「八歳以下で入所当年」「八歳以下で入所二年目以降」「九から十一歳の訓練期」「十二から十四歳の訓練期」「十五歳以上の練成期」のクラスに分けられていた。
――と、このような訓練に熱の入る時期にベルとリヒャルトが早々に宿舎に詰めているのは、リヒャルトの膝や腕に巻かれた包帯のためだった。少年は下唇を噛み締めながら唸りを上げていたかと思うと、何度も繰り返したはずの泣き言をもう一度漏らし始めた。
「……うう、訓練中に怪我なんかするから講義の時間に遅れたんだ! せっかく次の試験も満点取ろうと思ってたのに……!」
「リヒャルト、ちゃんと今日の範囲は理解できてる?」
先輩訓練生の冷ややかな物言いに、リヒャルトはギョッと丸めていた背を伸ばして無傷の腕で涙を拭いた。
「は、はい……えっと、テオト歴二百二十三年に第三次東西戦争が勃発、翌年にペステリアの敗戦により終戦。ヒルチアとの不平等条約は二百五十四年まで――」
「第三次東西戦当時のペステリア国王は?」
「デニス二世!」
「三世よ、暗愚王。強いて言うなら、デニス二世の時代には戦車は既に廃れていたことも合わせて覚えておいて」
リヒャルトが「そうだった!」と頭を抱えた。自国の近代史は幼年学校や中等学校でも習うことだが、養成所では戦史としての側面を重点的に扱っていた。
ペステリア国の歴史は、約三百年前に始まる。東隣の国であるヒルチアとは元々一つの国だったのが、東西で独立国家として成立したのがペステリアの始まりである。それから現在に至るまでに、この隣国とは度々戦争を繰り返してきたが、いわゆる先の大戦、第三次東西戦争終結後は大きな戦いもなく、ベルたちは平和な時代に生きているのだった。
「東西分離戦争がテオト歴元年だから、今から三百四年前で――」
リヒャルトがノートを前に眉尻を下げた次の瞬間、談話室の扉が勢いよく開かれた。ドアを開けたのはマルセルで、砂で汚れた訓練着は、真冬でも汗でかすかに湿っていた。マルセルの後ろにはフェリクスが続いており、ちょうど談話室にプロイス組が全員集合した格好になった。
「シュタインフェルトさん! 怪我は大丈夫ですか?」
「ま、マルセル……! 平気に決まってるだろ、僕を誰だと思ってるんだ!」
後輩の前では情けない表情を見せられないらしく、リヒャルトは精一杯強がって膝の包帯を叩いて見せた。フェリクスはベルの方をチラリと見て少女の微妙な笑みに問題のないことを察すると、扉を後ろ手に閉じてテーブルへと歩み寄っていった。比較的年の近いリヒャルトとマルセルはすっかり仲が良くなり、本当の兄弟のようにじゃれあうようになっていた。恐々とリヒャルトの腕の包帯を撫でるマルセルを微笑ましく見下ろしながらテーブルに手をついて、フェリクスはようやく口を開いた。
「大したことはないみたいだね、リヒャルト。勉強は順調?」
少年の表情が曇りかけたので、ベルが最大限のフォローを試みた。
「リヒャルトは基礎がちゃんとできているし、問題ないと思う。ペステリア近代史初級も一が取れるわ」
「本当⁉︎ ホフマンが言うなら間違いないな、さすが僕!」
生意気な物言いは裕福な生まれのためでもあるが、フェリクスは同じ教官に付く最年長の訓練生として注意を怠らないことにした。
「リヒャルト、『さん』を付けるように。無理を言って勉強を見てもらった甲斐があったみたいだね……けど、うかうかしているとマルセルに実技で追い付かれるよ? さっきまで頑張って特訓してたんだから、ね」
「はい!」
先輩に背後から頭を撫でられ、マルセルは照れたような人懐こい笑顔を満面に浮かべていた。他の訓練生と比べるとあまり運動が得意な方ではないリヒャルトは、思わぬライバルの出現に顔色を悪くしてしまい、フェリクスが思わず「ちゃんと訓練していれば大丈夫だよ」と言い添えなくてはならなくなった。
賑やかすのが好きだったハイノがいなくなったため、プロイス組の雰囲気は随分落ち着いてきたとベルは感じていた。しかし、例外を除けば入所当時からの先輩がついに一部の同い年と一歳上の世代だけになってしまったことを思うと、自分たちももっとしっかりしなくては、と身が引き締まる。冬の訓練ももうすぐ前半が終わる、そんな日のことだった。
深夜、先に目を覚ましたのはアディの方だった。確かに窓石が割れたような音が聞こえたのだ。同時に水が飛び散ったような音もしたので、おそらくランプが落下したのだろう。ベルは、素早く暗がりに目を凝らした。寝室の扉の上の掛け時計は、二時頃を指している。起き上がった時には、アディは既に室内履きを履いて駆け出していた。
「アディ!」
ベルが小声で呼ぶと、アディはドアノブに手を掛ける寸前で振り返った。感覚を研ぎすまそうとしている真剣な目付きから、アディが戦闘中の集中状態にいることが分かった。
「階段の方! 何人かいる!」
アディの耳は、きっと正しく状況を捉えているだろう。ベルもベッドから静かに飛び降りると、室内用の柔らかな短靴を履いてドアに張り付いているアディに寄り添った。ヒンヤリとした扉に耳を近付けると、階段の方向から数人の男がなにやら言い争っているような声が届いた。しかも、ペステリア周辺で話されているエアマン語とは明らかに異なる言語である。眉をひそめるベルと顔を見合わせ、アディは険しい面持ちで囁いた。
「外国人の――若い男性かな。とりあえず誰何……ああ、エアマン語通じそうにないのか! なにか武器になりそうなものは――」
当然ながら、宿舎への武器の持ち込みは禁じられている。剣や弓矢などもってのほかで、よくてペーパーナイフといったところである。しかし、今はそれらを探す時間さえ惜しまれた。胸に手を当てて覚悟を決めようとしたベルの側から離れ、チェストの上に置いていた洗いたてのシーツを掴んで、アディは一息にドアを開けて廊下へ飛び出した。ベルもその後を追って室内から出ていき、二人は寝巻姿のままランプの灯りに照らされた。
男たちの声は階下から聞こえているらしく、廊下に人の姿はなかった。目が覚めてしまったのか、不安げに扉の隙間から顔を覗かせる年少の訓練生に、ベルは黙って「部屋に閉じこもれ」と手を振って指示した。アディはスッと息を吸う音だけを残して足音を消したまま廊下を走っていき、ベルは二階に潜んでいる者がいないか左右を確認しながら早歩きでその後を追いかけた。
アディが廊下を曲がった次の瞬間、理解できない怒号が飛んだ。気のせいか、階下も騒がしくなり始めたようである。
(――アディ!)
ベルが駆け出すと、固いものがなにかにぶつかる音がして窓石が割れる気配がし、足元にランプの水が弾けた。曲がり角の向こうでランプが割れたらしく、少しだけ行く手が薄暗くなっている。心臓を落ち着ける間もなく角に背を預けて曲がった先を覗くと、どこにでもいそうな軽装の男性が一人、アディに向かって細身の剣を抜き放つのが見えた。
(ショートソード⁉︎ 武装してるなんて……どうしよう、弓矢があれば……!)
ベルは焦って足元に落ちていた割れたランプの破片を拾い上げたが、そんなものでは対抗すべくもないだろう。第一、初見の剣術だった場合に素手で挑めるほど格闘を極めている自信もない。アディの声は聞こえてこないので、まだ攻撃はされていないはずである。しかし、悲鳴を上げる間もなかったとしたら――。
(だめ、アディは殺させない! でも、どうやって……!)
ふと、ランプの石が転がっているのが目に入った。気を逸らすことができれば、アディが逃げる隙を与えられるかもしれない。ベルはしゃがみ込んで小石に持ち替え、意を決して廊下を曲がった。
「アディ、こっち――!」
しかし、アディはベルの方を向かなかった。狭い廊下では得意とする縦横無尽に飛び回る格闘術の真価は発揮されないはずなのに、アディは退くどころか謎の侵入者に向かっていった。左手には中途半端に広げたシーツを握ったまま、右手を顔の前に立てた徒手の構えを取って、敵の一挙手一投足を逃さまいとしている気配が小さな背から伝わってきた。
「……!」
ベルが息を飲むのが早いか、男性がアディの胸を狙って一直線に剣を突き出し、アディの持っていたシーツがバサリと翻った。布の切り裂かれる音に「だめか」と立ち竦んだままのベルの血が凍ったその時が、アディの本領発揮だった。
突かれた瞬間、アディは一歩左に移動した、ただそれだけだった。目の動きを見て敵の狙いを察すると、左手のシーツを広げて相手の視界を遮りつつ、剣身を布地で巻き込んで右脇に挟み取り、右脚を軸に身体をコマのように回転させて持ち主の手から剣をもぎ取ったのだ。蹴り出した左足はそのまま相手が踏み出した足を蹴飛ばし、手を床について両脚で相手の腰を挟み、勢いのままに体全体を捻って男をその場に倒すという荒技を見せると、一階で新たな叫び声が上がった。
「お前ら大丈夫かぁ!」
それは、慣れ親しんだプロイス教官の声だった。宿舎には必ず一人は宿直の教官が詰めることになっていて、今夜は彼の番だったのである。下階から聞こえていたのは他の訓練生と侵入者が戦う音だったようで、そちらもなんとか制圧に成功したらしい。何語かは分からないが、悲鳴のような声が漏れ聞こえた。仲間が捕らえられた気配で観念したらしく、仰向けに倒れていた男も、自分の剣を少女の手で突き付けられながらそれ以上抵抗する素振りを見せなかった。階下からまた声が届く。
「教官、二階にも一人逃げました!」
「なにっ――よし、俺が行く! お前らはそいつらを見張ってろよ!」
乱暴な足音は、目的地を前に小さくなった。廊下の角で棒立ちになっているベルと、階段のすぐ側で床に寝転んだ男、肩で息をしながら破れたシーツと剣を男に向けているアディを目の当たりにして、プロイス教官は驚きに目を見張った。
「お前ら、二人だけでこいつにかかったのか!」
「いえ……あの……」
息も切れ切れのアディを遠くに見ながら、ベルは未だに動くことができなかった。プロイス教官は男の腕を背後に引っ張って麻紐で手早く両手の親指同士を拘束すると、階段下から呼び寄せた二人の訓練生に引き渡してアディに駆け寄った。
「シュッツァー、平気か⁉︎ おいホフマン! お前も怪我はしてないだろうな!」
呼ばれてようやく我に返り、ベルは慌てて二人の元に走っていった。アディは剣を教官に渡しながら頷き、シーツを右脇に挟んで肩を上下させていたが、ベルの顔を見て安堵したように弱々しく笑って見せた。
「……ベル」
「アディ、あなた――」
よくもあんな無茶を、などと言うことは、今のベルにはできなかった。なにもできなかったどころか、命を救われたようなものなのだ。ベルはアディから目を逸らしてプロイス教官に向き直り、簡単に状況を報告した。
「少なくとも、二階に来た不審人物で私たちが見たのはさっきの男一人だけです。他の訓練生は部屋にいるはずですが――」
「分かった、念のため全ての部屋を見てくる。お前らはここにいろ」
ベルは、プロイス教官が通り過ぎた時にアディがかすかに顔を歪めたのを見逃さなかった。なにもなかったように振舞っているが、やはり無理をしたのだろうか。アディの身体を観察していたベルの目に、生成りのシャツの一部に小さな赤い染みができている光景が飛び込んできた。ベルはハッとしてアディからシーツを奪い取り、その右脇に血がにじんでいるのを確認した。男性が殺すつもりで放った突きを受け止めたのだから、無傷とはいかなくても不思議ではない。ベルの眉間に寄ったシワを見て、アディはばつが悪そうに下を向いた。
「……あれ、気が付かなかったな……」
「……教官が戻ってきたら、すぐ手当てしよう」
「大したことないよ、大丈夫だって……」
怪我をした本人に気遣われてしまい、ベルの胸中はますます荒れ狂った。下手をすれば本当に、二人とも怪我では済まなかったのかもしれない。穏やかでいられるはずもなかった。
プロイス教官は、すぐに階段の前まで戻ってきた。
「他のやつらも全員無事だ、賊どももアレが全部らしいな。よくやってくれたぞ、二人と――」
「教官、アディが負傷しているようです。自室で手当てしても構いませんか」
「なに⁉︎ 分かった、すぐやってやれ。お前も本当に大丈夫なんだろうな」
ベルは頷いたが、プロイス教官はため息を返した。教官はベルの肩を優しく叩き、一言だけ残して階段を降りていった。
「……お前もひどいツラしてるぞ」
ベルは黙ってアディの手首を掴み、自分たちの部屋へと踵を返した。
「Mistä olet kotoisin(どこから来たんだ)?」
「Haista paska(クソ食らえ)!」
「……Mikset vastaa(なんで答えないの)?」
布団を挟んだ上と下で繰り広げられる外国語の応酬に、とある部屋の前に集まった訓練生たちは驚愕とも恐怖とも取れない表情で押し黙っていた。宿舎一階に侵入した男のうち二人は、最初に押し入った部屋で休んでいた訓練生たちに――より正確にはその中で最も年上で怪力の一人に布団とマットを投げつけられ、瞬く間に無力化されていたのだった。その怪力青年は、眠たげな目を擦りながら二人をまとめて巻いた布団の上に腰掛け、先ほどから夜中の闖入者たちにあれこれと問い質しているところである。年下の訓練生の一人が、ペステリア人に分かる言葉で恐る恐る青年に話しかけた。
「……ピ、ピアさん?」
「ん、なあに?」
「もしかして……知り合いですか?」
「En ole tehnyt mitään vä――(別になにもしてねえ――)」
侵入者の一人が急に声を上げたので、ピアは「うるさいな」と枕で彼の顔を押さえ付けた。それがあまりに自然な動作だったので、誰もが呆気に取られていた。当のピアは今にも眠りに落ちそうな顔のまま、ボンヤリと微笑んで首を傾げていた。
「まさか、夜中に挨拶もせずに遊びに来るような友達はいないよ。たまたま僕の知ってる言葉が通じただけ」
二階から引きずり降ろされた男は、ピアを見て震え上がっているようだった。もし一階に居座っていたなら、彼もあの白熊のような青年の椅子にされるところだったのだ。
しばらくして、寝巻にマントを羽織っただけのフェリクスとフランツ、プロイス教官が二人の護民官を伴って駆け戻ってきた。護民官は三人を縄で縛って連行しようとしたが、男たちから聞いたこともない罵声を浴びせられて面食らったように見えた。彼らと同じ言葉を話せるピアが通訳として同行することになり、慌ただしく護民官と侵入者たちが宿舎を出て行って、やっと張り詰めていた空気が緩んだ。
「あー、本気でビビったな……ピアさんがいてくれてよかったよ……」
走り詰めだったのか、フランツは中腰になって膝に手をついた。いつも沈着なフェリクスも、さすがに夜中に叩き起こされるとは思っていなかったらしく、未だに夢から覚めていないかのように友人を見つめていた。
「フランツもお手柄だったよ、真っ先にプロイス教官を呼びに行っただろ? 俺はフランツが窓を叩いてくれるまで寝てたんだから」
「や、最初に起きたのリヒャルトだぜ。変な声がする、って起こしにきたんだよ」
「……怖がり――じゃない、繊細なのがリヒャルトのいいところだね」
同室のフランツによれば、年少のリヒャルトは自室の布団に隠れているとのことだった。護民官らを見送ったプロイス教官が廊下に戻ってきたことで、他の訓練生たちも幾分か安心した様子を見せた。フェリクスですらホッとした顔をしたのだから、それなりの緊張を強いられていたのだろう。プロイス教官は年長の訓練生を残して集まっていた少年たちを自室に帰し、残った訓練生たちに大雑把に片付けなどの指示を出した。
「……はあ、どうやらアレらは壁を乗り越えてきたらしいぞ。ドアの鍵は針金で開けていやがった。全く人騒がせなやつらだ」
「怪我人が出なかっただけよしとしましょう……そういえば、二階に行った男は教官が?」
フェリクスの問いに、プロイス教官は「そうだった」と顔色を変えた。
「いや、上を片付けたのは女子の二人だ。シュッツァーがちょっとばかり怪我してるって言ってたな……」
「もしかして、ベルも――!」
血相を変えて走り出そうとするフランツを、プロイス教官が押し留めた。
「心配なのは分かるがな、今日は戻って休め! チビどもが怖がってるんだろ、お前が付いててやらねえと」
「……はい」
フランツの背中を、フェリクスがそっと叩いた。その場はそれで解散となり、廊下に置き去りだったピアの布団とマットが部屋に戻されて、一部の割れたランプ以外はすぐに元通りになった。そうして、宿舎は再び沈黙に包まれたのだった。
まだ不審者たちが布団に巻かれていた頃、ベルは自分のベッドにアディを座らせてチェストから救急用のケースを取り出していた。アディは不安げにベルの横顔を眺めていたが、消毒用の薬草抽出液と当て布や包帯を手にした友人が前に立つと、さらに顔を曇らせた。
「それ、しみるから嫌いなんだけどな……」
「文句言わない、これが一番効くんだから。動かないで」
ベルがシャツのボタンに手を掛けたので、アディは大慌てでその手を止めようと手首に触れた。
「じ、自分で脱げるよ。手当てだってできるから――」
「うるさい、邪魔しないで。……このくらいさせて」
ベルの声がいつになく弱気に聞こえたからか、アディは抵抗をやめて恥ずかしそうに顔を背けた。裾の長いシャツと半ズボンの寝巻なので、全て脱いでしまわなくてもいいのが救いだった。水鉢はベッド際まで寄せていたが、火の石を注いだばかりで、まだ室内は冷え切っていた。
ベルがボタンを外し終えて合わせ目をはだけた時、アディは俯いてヘッドボードの方を見ていた。普段間近でまじまじと見ることがないからか、生成りの布地との対比もあって、アディの素肌はやけに白く見えた。
「……あ、あんまり……見ないで……」
「なに恥ずかしがってるの、女同士でしょ……」
アディが頬を赤らめているせいで、ベルにもにわかに照れが伝染してきた。意識してささやかな膨らみから視線をずらし、隣に腰掛けながら厚手のシャツをめくって右脇を確認すると、滑らかそうな肌に引っかいたような跡が一筋引かれていた。それほど深くはないようだが、シーツを噛ませていなければより重症だっただろう。ベルの苦渋に満ちた表情に、アディは心配そうな視線を向けた。
「……ベル?」
「ううん……大した傷じゃない。消毒するから右だけ脱いでくれる?」
「うん……」
清潔な布に消毒液を含ませながら、ベルは横目でアディがシャツの右側から腕を引き抜く様を見ていた。華奢な肩と腕が露わになると、アディが小柄な少女であることを改めて思い知らされる。シャツの脇は小さく引き裂かれており、ポツポツと付いた血の染みはまるで赤いビーズを連ねたようだった。まだ恥ずかしさが抜けずに俯いているアディに、ベルが気遣う言葉をかけた。
「……寒い?」
「ううん、平気」
「そう。じゃあ、腕を上げてて」
傷口に布を押し当てると、消毒液が冷たかったのかしみたのか、アディが息を飲む音が聞こえた。
「……っ!」
「我慢して、すぐ済ませるから」
「……んっ、う……や、やっぱりしみるなあ……」
いたずらに痛がらせるのは気が咎め、ベルは血を拭き取る程度で素早く消毒を終わらせた。清潔な当て布を包帯で止めると、ようやく余裕を取り戻した様子で、アディが包帯の巻かれた自らの胸に触れながら「おお」と小さく呟いた。
「ありがとう、ベル包帯巻くのうまいよね。でも、これなんだか本当に男子になっちゃったみたい……」
「なに言ってるの、早く着替えたら?」
呆れた目を向けられてしまい、アディは苦笑しながら立ち上がり、新しいシャツを取り出してそちらを着用した。破れたシャツをシーツと一緒に洗濯物の籠に入れていると、足音が部屋の前で止まり、控えめなノック音が響いた。
「ホフマン、シュッツァー、大丈夫か?」
「プロイス教官! おかげさまで大事ありません」
アディの元気な声を聞いて、扉越しのプロイス教官は胸を撫で下ろした。この様子ならば、本当に大事ないはずである。しかし、近年見ることのなかった教え子の打ちひしがれた顔には思うところがあった。教官は扉に額を寄せ、室内の少女たちへと呼びかけた。
「よし、ならいい。だがな、大事をとって二人とも明日の訓練は休め。エンゲルス教官には俺から伝えとく。いいな!」
扉の奥から、一拍置いて「はい」と二人分の返事が届いた。プロイス教官は「よく休めよ」と言い残して引き返していき、室内には火の石が弾ける音だけが残った。
ひと段落するとすっかり気が抜けてしまい、ベッドサイドに立っていたベルはストンと寝台に腰を落とした。ずいぶん長い時間が経ったようにも、一瞬の出来事だったようにも感じる。惚けたように固まっていると、急に室内が暗くなった。アディがランプの灯りを消したのだ。教官の言い付け通り寝なくては、と室内履きを脱いでいると、アディの気配が迫ってくることに気付いた。アディはなにも言わずにベルの横に座り、暗闇に目を凝らすように親友の顔を覗き込んだ。
「ベル、……怪我してないよね?」
「してない。私は後ろにいたでしょ」
今になってみると、アディに助けてもらった礼を言っていなかった。目が慣れていないので、アディの顔はよく見えなかった。ベルが目を細めると、アディも靴を脱いでベッドに上がり、シーツの上に手をついて身を乗り出した。
「本当に? 怖い思いもしてない?」
「嘘なんかつかない。少しは……怖かった、けど……」
なにか、温かいものがベルの肩に触れた。ベルが見下ろすと、肩にアディの額が預けられていた。灯りを落として寄り添うことで、やっと心境を吐露することができるようになったのだろう。静かに困惑するベルに寄りかかりながら、アディが声を絞り出した。
「よかった、ベルが無事で。私、すごく怖かったよ。私があの人に勝たないと、ベルがひどい目に遭うんじゃないかって……」
「……アディ?」
「武装してる人と戦闘になったらやり過ごそうと思ってたけど、あの場で私が逃げたら、後ろにいるベルが――だから、絶対立ち向かわないと、って……」
絶句するほかなかった。では、この少女は友人を救うためだけに、危険を冒して武器を持った男とシーツ一枚で対峙していたというのか。ベルの心は大揺れに揺れ、目はまともにアディを見ることができなくなって、ただ宙を睨んでいた。肩に伝わる体温も、今では頼りなく感じる。
「私のせいでベルが怪我するなんて、絶対嫌だよ……ベルは大好きで大切な親友なんだもん……!」
「……アディ」
いつもより鼓動が速いような気がして、それを悟られないようにベルの方から体を離した。暗がりにうっすらと見えたアディの目はすがりついてくるようで、ベルの気持ちをさらに乱した。ベルは少しためらってからアディの額に額をぶつけ、聞こえるか聞こえないかの声で応えた。
「いつも言ってるでしょ、勝手に消えたら許さないって。私はなにもできなかったけど、そのせいでアディが怪我をしたんじゃ私がいたたまれない。私だって……アディが傷付くのは――」
結局最後まで言えなかったが、アディが嬉しそうに笑っているのが目に入った。ベルは自分が泣き出しそうなほど安堵していることに気付き、恥ずかしくなって額で額を押し返した。
「とにかく……ありがとう。全快しないと対抗戦で全力勝負できないんだから、もう寝よう」
「うん!」
至近距離の満面の笑顔が気恥ずかしく、そっぽを向いたベルのワンピースの袖を、アディが軽く引っ張った。ベルがジロリと視線を戻すと、アディははにかみながら再び顔を近付けた。
「……こっちで一緒に寝ていい?」
「……好きにしたら?」
「えへへ!」
アディは跳ねるようにベッドから降りて自分の枕を持ち、ベルの隣に舞い戻ってきた。枕を並べて眠るのも半年ぶりである。ベルはアディに背を向けようとしたが、アディの「こっち向いて」という囁き声が甘えているかのように響き、渋々向かい合って布団に入った。
緊張の糸が切れたのか、アディはすぐに眠りに落ちた。久しぶりに近くで見る憎きライバルの寝顔だが、今夜のベルは安らぎを感じずにはいられなかった。死地を脱したというのは多少大げさだが、紛れもなく自分を守ろうとして、彼女は怪我を負ったのだ。女として生を受けたが、戦地に騎士を送り出す姫君にはなれそうもないな、とベルは改めて騎士への思いを確かめた。今日のことで己の弱さとアディの本番強さを目の当たりにできたのだから、これを糧にしないわけにはいかない。身じろぎもせずに眠るアディの髪に手を伸ばし、ベルは言わずじまいだった一言を送った。
「……アディが無事で……よかった」
全くの無傷ではないものの、あの程度の軽傷ならすぐに治るだろう。この呟きが合図だったかのように、ベルも夢の世界に旅立っていった。