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双葉の従士  作者: 日辻
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六話 平和な休日

 ペステリア国の冬は、周辺国と比べると暖かい方だが、それでも油断できない程度には冷え込む。ベルは自室に両手で持ち運べる大きさの水鉢を持ち込んで窓の下に据えると、水差しから水を注ぎ込み、皮袋から一掴みほど光沢のある黒い砂利のようなものを取り出して、鉢の中へと沈めていった。小石のように見えた皮袋の内容物は、水の底で弾けるようにシュワシュワと音を立てて泡を吹きながらわずかずつ溶けていき、すぐに鉢から湯気が立ち始めた。効果は暖炉のない狭い室内に限られるものの、加湿と加温を兼ねた単純な仕掛けの家具である。人々は黒い小石を「火の石」と呼んでおり、液体を注いで使う水ランプと同じく、ペステリアを始めとした国々で親しまれている。夜のブルームガルトも、この水鉢を持ち出さなくてはならないほど冷え込み始めた頃だった。

 細かく砕いた火の石があれば、湯浴みに使う湯もすぐに用意できる。そのおかげもあって、ペステリアや近辺の国々では日々の入浴が生活の一部になっていた。夕方に専用のハンマーを持った「火の石砕き屋」が住宅地を巡るようになれば、冬の到来である。ベルは風呂上がりで温まった体を冷やしすぎないようにハーフブランケットに包まり、昨日届いて放課後に級友たちに読み聞かせたばかりのアディからの手紙を鞄から取り出して、鏡台の前のスツールに腰掛けた。手紙によると、衛士としての収穫祭はなんの問題もなく例年通りに終わった、とのことだった。ずっと寺院の前で祭の音楽を聞いているので、何曲もある祭の歌も習わずに覚えてしまった、とも書かれていて、友人たちからは笑い声が漏れたが、ベルはどうにも笑う気にはなれなかった。収穫祭について、あまりにもあっさりと書かれている気がしたのだ。思い入れがないのかもしれないが、日常の細かなことも楽しげに伝えるアディらしさが欠けている、そう思っていた。どのみち、冬の訓練で顔を合わせた時に話すことになるだろう。

 秋の収穫祭が終わると次のまとまった休みは年末年始で、その次は年明けから一月後の、学期を分ける冬休みである。冬休みには養成所で従士候補生の訓練が行われるため、また首都ペステリアでアディと寝起きを共にする期間がやってくるのである。手紙のやり取りをしていると、次に会うときに話したいことが増える――それが四年生に進級してからの新発見だった。

 ブルームガルトの少女たちが驚いたことに、ヘンペルの衛士もといアディの「特別な役目」は収穫祭にとどまらず、年末の行事である「精霊の日」や、年明けの祭祀にも忙しく駆り出されていた。全て手紙に書かれていたことだが、それらの役目について養成所でなにも聞かされてこなかったので、ベルには特にアディの多忙さが存外に思えた。ベルが祭日に実家の裏庭で剣術の稽古をしている間、アディは僧侶らのもとで儀礼用の剣を捧げ持っているのである。生まれとは不公平なものだと感じることがあったが、この件でますますその思いが強まった。自由な時間が多い自分はなおさらアディには負けられない、と苛立ちながら寒空の下で模擬剣を握る日もあった。ベルがさらに腹立たしかったのは、どうやらアディとは中等学校の成績も同程度らしいことが察せられたことだった。学校では少し近寄り難い優等生という立場に甘んじているベルに対して、アディは「意外なほどできる」と評価されているらしい。どこまでも張り合い続ける運命なのか、とベルは数々の手紙を読み返しながら嘆息した。

 そうして時は流れ、道端の水たまりも凍りつく季節がやってきた。


 ベルが乗り合い馬車から降りて玄関を入った時、養成所の宿舎内はしんと静まり返っていた。半年振りの宿舎は職員による掃除がしっかりと行き届いていて、まだ訓練が始まっていないため、靴の裏で砂利が鳴ることもない。ベルはこの時の清潔な廊下が一番好きだった。夏にアディと二人でランプの点検をして回った板張りの廊下を歩き、見慣れた表札の掛かった扉のノブに手を掛けると、驚くほど冷え切っていた。部屋の中も外と同じ気温なのだろう。一番乗りか、と特段の感動もなくドアを開けると、意外にもアディが使っているベッドの上に見覚えのあるトランクが鎮座していた。

(アディ、先に来てたのか……)

 冬期訓練の開始は三日後である。装備品の手入れや必要な物の買物をするため早めに来るのが習慣だったが、私服で首都に出かけられる貴重な機会でもある。アディも昼飯がまだなら連れ立って出るのも悪くないか、と脱ぎかけたマントを再び着込み、ベルは鞄を自分のベッドに着地させた。

 あるかなきかの足音は、すぐに部屋へとやってきた。荷物を整理していたベルを見て、室内に駆け込んできたアディは神妙な表情を驚きに染めた。

「ベル! 来てたんだ!」

「うん、今――なに、どうかしたの?」

「や、あの、ピアさんが!」

 アディの言う「ピアさん」とは二人の先輩訓練生で、アディと同じエンゲルス教官に付いていた青年である。ピアは本名ではないのだが、ペステリア人には発音の難しい外国語の名なので、正式な場を除いてそう呼ばれているのである。年齢は二人の二歳上なので、ハイノと同じくこの夏に中等学校を卒業し、従士としてなんらかの職を得ていてしかるべき、つまりは養成所の卒業生のはずだった。ベルはチュニックシャツとコートに半ズボン姿のアディを上から下まで眺めながら、怪訝な顔を見せた。

「ピアさんがどうかした?」

「やあ、ホフマンさんじゃない!」

「……」

 ベルは目を疑った。噂の「ピアさん」が、白熊のような巨体をアディの背後、扉の影から覗かせたのだ。足音が聞こえなかったため、全く気付かなかった。フワフワとした銀髪は雪のようで、見るからに温厚そうなアイスブルーの垂れ目や毛皮の帽子とあいまって、遠い北国の空気を感じさせていた。ピアは女子の部屋には入らないつもりらしく、ドア横でニコニコと人畜無害そうな微笑みを満面に浮かべたままベルを見つめていた。

「僕、もう一年訓練生やることにしたんだ。よろしくね」

 果たしてどう反応したものか、ベルは懸命に引きつった愛想笑いを返すにとどめた。

「ええ……はい……」

 曰く、夏の養成課程修了試験には合格したものの、勤め先を見付けることを完全に失念していたのだとか。このマイペースぶりは生来のものだが、彼は大柄な見た目通りの怪力の持ち主で、動けばかなり俊敏な部類に入る。のんびりとした様子で部屋の出入り口を完全に塞いでいるピア青年に、アディはせわしなくトランクの中から小さな陶器の容器を手渡した。

「ああ、ありがとうアディ! あかぎれがひどくってさ、薪割りもまともにできなかったんだ」

 容器の中身は、手荒れに効くクリームのようだった。アディの手から渡されると、容器はピアの手の中で半分ほどの大きさに縮んだように見えた。ピアはひとしきり両手を擦って満足そうに口元をたわめると、クリームをアディに返しながらゆっくりと頷くように頭を下げた。

「いい匂いがするねえ。本当に助かったよ」

「はい、お役に立てて嬉しいです……でもピアさん、エンゲルス教官はなんて――」

「んー? ええとね、『お前は本当にトロいな!』って背中を叩かれたなあ。でも、僕がいれば教官対抗戦で一つくらい順位が上がるんじゃない?」

 ベルから見ると、実に危なっかしい二人組だった。エンゲルス教官付きの訓練生は個性的で、優秀な割に何某か抜けた面を持つ、端的に言えば変人が多いというのがもっぱらの噂である。ようやく視線に気付いたのか、ピアはベルに円満な笑みを残し、足音もなくゆっくりとした足取りでどこかに歩き去っていった。

「ピアさん、相変わらずね」

「うん、さっき廊下でお会いしたんだけど、手が血まみれでびっくりした……ただのひどいあかぎれでよかったというか――」

 先輩を見送って扉を閉めたアディは、急に口をつぐんでベルを見つめた。ベルは訓練着をチェストにしまう手を止め、不機嫌そうにアディを見返した。

「……なに?」

「言い忘れてた。ベル、久しぶり!」

「……」

 不意の笑顔になにかが込み上げ、ベルは思わずベッドに置いてあった枕を片手で投げつけた。アディは笑いながらそれを受け止めると、ぬいぐるみのように抱きかかえて穏やかな微笑みを見せた。

「手紙、たくさんありがとうね! ベルの中学の人たちとお話できるから、いつもすごく楽しみなんだ!」

「……そう」

 妙な気恥ずかしさを覚え、ベルはそっぽを向いてチェストの引き出しを閉じた。アディは部屋を横切りながら通りすがりに枕をベルのベッドに置き、窓際に置かれた水鉢にジャケットのポケットから取り出した皮袋の中身を注ぎ始めた。皮袋からこぼれ出た火の石は、広い部屋用の大きな水鉢の中でパチパチと音を立て、ふんわりとした温かみがアディの手にすぐに届いた。遮光カーテンを開くと、冬の昼間らしい白っぽい光が部屋中に差し込み、透明な窓石のおかげで一般家庭よりもずいぶん明るくなった。一通りの必要な荷開きを終えたベルは、睨むような目でアディの方を窺った。少年のような後ろ姿は、窓越しとは思えない日差しに眩しそうに手をかざしている。ベルは話しかける前に無意識に深呼吸していることに気付き、なにをアディ相手に、とむしゃくしゃしながら鞄をベッド下の籠にしまって声を発した。

「アディ、お昼食べた?」

 アディは弾むように振り向いた。飼い主に呼ばれた子犬のようで微笑ましいと評判だが、ベルから見ればそれすらも気に食わなかった。

「ううん、まだ! ベルもまだだったら、一緒に食べに行かない?」

「……行く。すぐ出られるけど、アディは?」

「すぐ行けるよ。じゃあ、行こう!」

 マントを被りながら答えるアディに、ベルは「裏表が逆」と冷ややかな目を向けた。


 二人がよく出かけるのは、養成所を出てから王宮とは反対方向に歩いた先にある、首都ペステリアを南北に二分する運河沿いの通りである。運河と直交する大通りは王宮へとまっすぐ伸びていて、この大通りと運河をもって、ペステリアは大まかに四つの地区に分けられていた。中央養成所が位置するのは運河の北、大通りの東である。二人は大通りを南下して運河までやってくると、橋を渡らずに西に向かった。運河北通りの西側は、様々な露店や商店が立ち並ぶ活気のある場所である。

「やっぱりペステリアはあったかいね! 外を歩いてても気持ちいいくらい!」

「私には十分寒いんだけど……」

 高地出身者からすれば、低地のペステリアは温暖に感じられるらしい。ベルが渋い顔でマントの合わせ目を握っていると、アディが行く手の露店に目を付けた。パン屋の軒先に簡単な木組みの柱と梁、布の天幕からなるテントが張られていて、数人が落ち着けそうなテーブルと椅子が並べられており、屋台からは肉の焼ける香ばしい匂いが漂っている。店主と思しき小太りの男性が、アディの視線に気付いてニッと豪快な笑顔を向けてきた。

「坊ちゃん、一つどうだい? 今ならパンも焼き立てだからね! ライ麦パンロッゲンミッシュブロートのベーコンチーズ乗せが人気だよ!」

 名前もそうだが、紛らわしい外見であることは自覚しているので、アディはわざわざ彼の勘違いを正そうとはしなかった。屋台で売られているのは、丸いライ麦パンをスライスしたものにバターを塗り、肉類やチーズなどを載せた軽食だった。テーブルを挟んだ隣の屋台では暖かな紅茶を売っているようで、ついでの需要を狙っているのか中年の女性が黙って愛想笑いを浮かべていた。

「すごくおいしそうですね! ……ベル、どう?」

「ここにしよう」

「まいど! さあ、なんにする?」

 鉄板の上にぶら下げられている塊のままのハムとベーコン、焼き鶏、塩漬けの牛肉を見比べ、アディは「ベーコンとチーズをください」と答えた。ベルが「ハムとチーズ」と注文すると、店主は機嫌よくハムとベーコンを切り分けて鉄板で焼き始めた。鉄板の端では、既に豚肉の塊がジュワジュワと音を上げて焼き上がりを待っていた。

「すぐ焼けるから待ってな! 坊ちゃんも隅に置けないねえ、可愛い彼女じゃないか!」

「違います」

 すかさずベルが反論したが、アディは嬉しそうに店主の手さばきを眺めつつ首を傾げただけだった。隣の屋台の女性がタイミングを見計らって「紅茶一杯五ティロンですよ」と声を張り上げたので、アディは財布を手にそちらへと走り出し、軽食屋台の前にはベル一人が残った。

「あの子、彼氏じゃないのかい? 仲よさそうに見えたんだがなあ」

「……同級生です」

「お友達? さては――ははあ、分かったぞ!」

 上機嫌の店主を前に呆れ顔でいたベルの側へ、アディがティーカップを手に忍び足で戻ってきた。カップの中では淹れたての紅茶が湯気を上げており、アディの視界が白く染まりそうになっていた。

「ベル、私が払うから席を取っておいて。紅茶を置いておくね」

「分かった。後で払うわ」

 ベルがティーカップの置かれた席に腰を下ろすと、入れ替わるようにしてアディが鉄板の前に進み出た。アディが二人分の代金を支払うと、男性はパンにバターを塗って焦げ目のついたベーコンとハムを載せ、薄く切ったチーズを重ねて、皿に乗せてアディに渡しながらわざとらしく声をひそめた。

「紳士だね、あの娘にいいとこ見せられたな! 頑張れよ坊ちゃん!」

「ありがとうございます!」

 二人分の食事を手に屋根の下の席に着くと、ベルは食器を受け取りながらアディに目配せした。

「ありがとう。いくらだった?」

「二十ティロン。帰ってからでもいいよ。さあ、熱いうちに食べよう!」

「うん」

 硬そうに見えていたパンも、慎重にナイフを入れるとサクリと切り分けることができた。チーズは焼けたばかりの肉の上でトロリととろけ、パンの上に垂れて食欲をそそる見た目に仕上がっていたし、主役の肉も厚切りにされていて、フォークで刺した際の手応えからボリューム感が伝わってくる。一口食べて、ベルの唇からも思わずホッと息が漏れた。

「おいしい! やっぱり定番の味がいいね」

 言いたいことはアディに大体言い尽くされてしまい、ベルは黙って頷いた。紅茶は口にする頃にはいい具合に冷めていて、体を芯から温めてくれた。紅茶屋台の暖かな湯気に包まれ、軽食屋台の鉄板で脂が弾ける音を聞きながら食事を済ませた後、二人はペステリア北西区を散策することにした。

「封筒と便箋とインク――封蝋も、たくさん買わなきゃいけないもんね!」

 アディのはにかんだ笑顔に、ベルは恥ずかしそうに肩を竦めた。返す言葉はない。この冬休みが終わったら、またアディへの手紙を書く日々が続くのだ。しかし、隣人の横顔を見て、彼女が養成所では別の文通相手に手紙を書いていることを思い出すと、自然に眉間にシワが寄っていくのだった。


 陽が沈む前には、二人揃って無事に養成所の門を抜けることができた。正面の門を入ってすぐはちょっとした広場になっていて、常緑樹と石畳で飾られた先の本部棟が格調高く見えるように工夫が凝らされている。訓練場はこの本部棟と、向かい合って建つ訓練生宿舎および講義棟、講義棟に隣接した屋内訓練場に囲まれており、コの字の内側に位置している。食堂や事務受付等は本部棟内にあるが、訓練が始まるまではそれらがほとんど機能していないので特に用事はなく、二人は本部棟の周りを歩いて宿舎を目指した。宿舎内にも小さな調理施設があるため、自炊ができないわけではない。訓練開始までの残り数日間は宿舎に素泊まりという状態だった。

 宿舎内には、いくつか灯りの点いている部屋が見られた。部屋の住人は主に遠方からの訓練生で、移動中の思わぬ事故などで到着が遅れても大丈夫なように早めに出発した者たちである。ピアやアディもその一部だった。

「……ピアさんの同室の人、驚くだろうね」

 アディの囁き声に、ベルは「ふっ」と笑うことで応えた。二人の部屋は二階である。部屋に向かう道すがら、消えたままになっていた踊り場や廊下のランプの石を液体中に沈めなくてはならず、二階の住人はほとんどいないことを思い知らされた。

 二人だけの部屋は、出発前に水鉢に火の石を仕込んでおいただけあって、ホッとする暖かさを保っていた。アディは荷開きがまだだったので、買ったものを整理するついでにトランクの中まで片付けてしまわなくてはならなかった。ベルは悠々としたもので、壁のフックにマントをかけてカーテンを引き、大量のレターセットを鞄にしまってからは手持ち無沙汰になってしまい、「不本意ながら」仏頂面のままアディに歩み寄ることになった。

「アディ、マント」

「……え? あ、そういえば着けたままだった――けど、なに?」

「邪魔でしょ」

「うん……?」

 いつまでもボンヤリしているアディに無言で詰め寄ると、少女は慌ててマントを頭から引き抜いた。ベルはそれをひったくり、アディのスペースにあるフックに掛けて――それからは、馬車での移動中にすっかりグシャグシャになってしまったアディの訓練着を畳み直したりチェストにしまったりと、結局忙しい時間を過ごすことになった。

 夕飯はアディが実家から持参したヘンペル特産のイモのマッシュポテトに、ベルが持参したソーセージを添えたものになった。調理中に香りにつられて乱入してきた他の訓練生たちと「明日の夕食の食材を用意する」と約束を交わして食事を共にしたので、それなりに賑やかな食卓だった。ピアは見た目通りの大食漢だったのでマッシュポテトがすぐになくなってしまったが、彼が買い込んでいたビスケットを大盤振る舞いしたことで訓練生たちの飢えは回避されたのだった。


 入浴して一日の疲れを癒し、体を温めたベルとアディが部屋に戻った頃には、訓練中なら消灯ラッパ直前といった時刻だった。短い髪はすぐに乾くので、アディはすぐにベッドに入った。このベッドで眠るときは大概疲れ果てているからか、少女にとってこの寝台は実によく眠れる床だった。ふと反対側のベッドの方を見ると、ベルはタオルで長い髪を挟むようにして丁寧に乾かしているところである。じっと見つめているとすぐに気付かれ、鋭い視線を送られてしまった。

「……なに?」

「ううん、あのね……」

 アディは目を細めて同居の親友を見返した。見つめているうちに頭の中を占めていた気だるい眠気が少しだけ覚め、代わりに温かなものが胸に流れたように感じた。

「ここだと寝付きがいいんだけど、ベルがいるからかな、って思って」

「……は?」

 ベルが瞠目したのが視界に映り、確信と共にまた少しの幸福感が胸に湧いた。アディは肩まで布団を引き上げながら続ける。

「私、実家だとずっと一人で寝てるから……ここにはベルがいるから、安心するのかも」

 気のせいか、ベルの頬が風呂上がり直後のように赤いように見える。アディは思わず体を起こし、同時に顔面で飛来した枕を受け取るはめになった。目を白黒させるアディに対し、ベルはベッド上で背を向けて座っていた。

「……寝ぼけてないで。でも――それなら、寝ぼけついでに答えて」

「ぷはっ……うん?」

 ベルは壁を睨んでいた。ずっと心に引っかかっていたことだが、不思議と言葉にするのに時間がかかっていた。

「収穫祭の時、なにかあった?」

「なにかって? お祭りの踊りとか、奉納の儀式とか――」

「違う。もっと個人的なこと」

 沈黙が流れた。向かい合うこともなく髪を乾かすベルの背中に、アディはまっすぐ目を向けていた。無意味な質問をする彼女ではないと、アディはよく理解している。だから、こう問い返した。

「なんでそう思ったの?」

「アディが収穫祭の話を避けてる気がしたから。手紙でもあまり触れてなかったし、今日だって中学のどうでもいいことはあれだけペラペラ喋っておいて、イベントのことには話が行かないのが不自然なくらいだった」

「別に避けてるわけじゃないよ、収穫祭は衛士の仕事ばっかりで話しても退屈かと思ったから……」

 ベルは苛立って髪を拭く手を止めた。違和感が募るばかりで、頭の回転が鈍く感じた。なにか肝心なことを忘れている気がする。今までうんざりするほど聞かされてきた話題が、今日に限って一度も出てきていないような。

「そういえば、アディはジーメンス郡の衛士だったんでしょ。収穫祭の時にリリー何某と――」

「ベル」

 珍しく、アディがベルの言葉を遮った。なんの感情もない声音がかえって不穏に響き、ベルはベッド上で振り返った。見れば、アディは思いつめたような面差しでベルが投げた枕を手にしている。隣人がなにも言わないので、ベルは無言で枕を取りにアディのベッドまで赴いた。持ち主が枕を掴んでもアディは俯いたまま枕を離さずにいて、意表を突かれたベルはそのまま立ち竦んだ。やがて、アディはおもむろに結んでいた唇を開いた。

「ベルは、私が男子だったらよかったと思う?」

「なに、急に……」

 前髪の下から沈痛な表情が窺え、ベルは思わず膝を折ってアディの顔を覗き込んだ。その顔だけで、なにかあったらしいことは察しがつく。本人が言いたがらないことを無理やり聞き出す気にはなれず、ベルは素直に質問に答えた。

「全然思わない。アディは女の子じゃないと私が困る」

「……ベル」

「……今更そんなことが気になってきたの?」

「ううん、今までは男みたい……とか、あなたが男の子だったら、とか言われても全然気にならなかったよ。今だって、男子になりたいなんて思ってない。なのに……なんでかな」

 アディの瞳は戸惑いに揺れていた。

「なんで……こんな気持ちになったんだろ」

 アディの指が自身の右瞼に触れているのが気にかかったが、ベルにはそれがなにか意味のある仕草だと思えなかった。ベルはアディの頭に手を伸ばしかけて思いとどまり、枕を引き取って踵を返した。憎い相手を慰めるいわれはない、と自分に言い聞かせる。

「もう寝よう。疲れてるから気分が後ろ向きなのかも」

「……」

 ランプの石がベルの手で引き上げられ、部屋が暗くなった。もう振り向いてもアディの表情は分からない。ベルがベッドにたどり着いた時には、アディは布団に潜っていた。室内履きを脱いで布団に入ると、少し間を置いて闇の向こうから身じろぎの音が聞こえた。

「ベル、ありがとう」

 返事なんてしてやらない、とばかりにシーツを握り締める。結局、なんの解決にもなりはしなかった。こんな夜のことは、寝て忘れてしまうに限るだろう。互いの心に少しずつ棘を残して、二人は背中合わせで眠りに落ちていった。


 次の朝にはアディは実に「いつも通り」だったので、ベルは安心半分苛立ち半分で武器庫に向かうことになった。

「『アディ、馬車の旅お疲れ様でした。向こうに着いて落ち着いたら、また手紙書いてね!』……だって! えへへ、リリーがくれたビスケットの袋に書いてあったんだ、気付かずに捨てちゃうところだったな」

「ニヤニヤしない!」

 的確な肘鉄砲に、アディが「いたっ!」と肩口をさすった。ベルは自分の模擬剣の柄に滑り止めの布を巻き直しながら、やっと古いものを外し終えたばかりのアディの手元を不機嫌そうに睨んだ。

「あんまり浮かれてると手元が狂う。巻き直しになる前に気を引き締めたら?」

「……うん」

 こんな調子でも実際のアディの手付きは熟練のそれなので、なんの心配もいらないことは分かっているのだが。どちらかといえばイライラしているベルの方が、やや力が入りすぎているようでもあった。薄暗い倉庫の中から訓練場を見ると、宿舎に到着したばかりのマルセルが昼の陽光の下でリヒャルトと追いかけっこをしていた。ペステリア在住のリヒャルトは訓練前日に宿舎入りすればいいはずなので、今日はたまたま通りかかったのだろう。今はまだ、平和な冬休みの一日に過ぎない。アディの気楽な微笑みを横目に、少年たちのはしゃいだ笑い声を遠くに聞きながら、ベルはエプロンの膝の上で模擬剣の剣身を磨き始めた。

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