五話 秋の収穫祭
換気のために開け放っていた自室の窓から、突然冷たい風が吹き込んだ。ベルが急いで窓を閉じてしまおうとして通りを見下ろすと、白いローブ型の僧衣を着た男性が数人で歩いているところが目に入った。ペステリアの国教たるゲニー教の僧侶たちである。ゲニー教は自然や生き物など、自然の様々なものに宿る精霊を祀っていて、周辺国でも広く信じられている。秋が深まるこの時期はペステリア国の各地で収穫祭が行われるので、いわば僧侶たちの書き入れ時である。つい先日母が近所の寺院に寄進に行き、その礼として収穫を祝う小さなリースを持ち帰っていたことを思い出した。麦の穂とドライフラワーでできた美しい花輪は、秋の収穫祭の期間中、家々の玄関扉に飾られることになっていた。町中がリースで飾り付けられた華やかな祭りの日々は、同時に冬の始まりを告げる節目でもある。休日のこの日を買い物に費やそうとしていたベルは、買い物ついでに収穫祭の日に食べるお菓子も見繕っておこう、と心に決めて、今度こそ窓を閉じた。
アディとの手紙のやり取りはゆっくりと続けていて、今日の買い物も本来は新たな封筒と便箋を買うために予定していたものだった。夏には胸元が開いていて半袖だったディアンドルのブラウスも今では長袖で、もうすぐハイネックに換えなくてはならないだろう。コートハンガーから外出用のマントを取り、ベルは階下へと自室を後にした。
今年の収穫祭は、ベルにとって特別なものだった。なにせ、今年の収穫祭は五年に一度の騎士行列が首都で見られるのである。首都ペステリアまでさほど遠くないブルームガルトからであれば、日帰りで見物に行くこともできるので、ベルはこれまでの騎士行列を必ず見物に行っていた。前回、前々回は家族と一緒だったが、今年はある予定を立てていた。
『誘ってくれてありがとう。私もペステリアの騎士行列はいつか見てみたいと思っているんだけど、ヘンペルの収穫祭で毎年衛士の大役を仰せつかっているから、ジーメンスから出られないんだ。一緒に行けなくてごめんね。お友達と楽しんできて』
「……それで、お断りされたの?」
ヨハンナの意外そうな顔に、ベルは涼しい顔で頷いた。週が明けたある日、騎士行列を一緒に見よう、と誘った手紙に対するアディの返信には、ヨハンナはもちろんベルも初めて聞く事情が書かれていた。騎士を目指す者ならば誰もが必ず――そうでなくとも多くの人々が見物に訪れる一大イベントなのだが、地方には地方の重要な伝統があるのだ。落胆など微塵もしていない様子のベルに、昨日の会合に参加できなかったヨハンナはしょんぼりと肩を落としながら不思議そうな視線をやった。
「衛士って確か……騎士行列の騎士とか、収穫祭の時に剣を持って街を回る従士とかそういう、お祭りの時に出てくる従士の役よね? 他の人に代わっていただけないのかしら」
「アディの家って、昔ジーメンス領の領主に仕えていた従士の家系だったらしいの。もしかしたら、お祭りの衛士だけは代々続けられているのかも」
「アーデルフリートさん、武門の出だったのね! ……でも、お家の事情ならしかたないわよね」
ベルは肩を竦めた。周囲から誘ってみろと言われて誘ってみたのだが、思わぬ新事実が発覚しただけで終わった、それだけである。級友たちは「手紙の従士様」と直接会えるのを楽しみにしていたので、そのことだけは申し訳なく思った。文面から収穫祭の期間中はアディがジーメンス郡内に留まっていなくてはならないことが窺えたが、ベルはそのことに関して希望を持ってすらいた。
「騎士になればペステリアに住むことになるんだし、もうすぐ役目も終わりのはずよ」
「ああ、そうよね。確か弟さんがいらっしゃるのでしょう? きっと受け継いでもらえるわよね」
そう、騎士になりさえすれば。そうすればベルとアディは見る側ではなく見せる側として、騎士行列に参加できるだろう。もう何年か先の未来を思い浮かべながら、ベルは鞄の中の一番新しい封筒を確認した。
そのアディはというと、遠巻きにジロジロと自分たちを眺める視線を感じながら、学校の女子食堂でふんぞり返って椅子に腰掛けた目付きの悪い少年と対面する位置に座っていた。少年はがっしりとした腕を背もたれに預け、斜めにアディを見下ろしていた。茶色の短髪はいかにも腕っ節の強い不良といった雰囲気を引き立てていて、座っているだけでも放課後に食堂で談話しようとしていた女子生徒が思わず逃げ帰っていく迫力だった。アディは臆した風ではなく気を揉んでいる様子で、向かいのオスカーに話しかけた。
「話ってなに? ここ男子立ち入り禁止だって知ってるでしょ、早くしないと先生呼ばれちゃうよ」
「分かってんだようっせえな! 今話そうとしてんだろが!」
突然の大声で、運悪く食堂の横を通り過ぎるところだった下級生の女子生徒が逃げ去る足音が聞こえた。アディはムッと睨み返したが、少年は機嫌の悪そうな表情を窓に向けたままだった。
「オスカー! 大きい声出さないで!」
「黙ってろよチビ……あのよ」
「なに?」
オスカーは子供が泣き出しそうな強面であちこちを落ち着きなく睨み回し、脚を組み換え、ようやく小さな声で続きを口にした。
「リリーちゃん――じゃねえ、た、タールベルク、す、好きな男……いんのかよ」
「リリーの好きな人って……そんなこと聞きにわざわざ呼び出したの?」
オスカーが急に卓を叩いたので、上に乗っていたグラスが倒れそうになった。
「声がでけえんだよアホ! で、どうなんだよ! テメエ、仲良いんだろ……」
アディは呆れ半分でグラスを押さえていた手を離した。手の付けられない不良と評判のオスカーだが、幼馴染から見れば、今でも純情な一人の少年に変わりはない。アディを窺う目も、不安が隠しきれない純粋な少年のままだった。穏やかな顔をしていればそれなりに格好良く見える、と一部の女子が噂していたこともあった。
「……いないって言ってたのを聞いたけど。私とはあんまりそういう話しないから」
「使えねえなテメエ……いや、でもいねえんだな? 信じるからな?」
アディは大げさにため息をついた。オスカーは珍しく慌てた様子で、前のめりになってアディを睨め付けた。
「……おい待てよ、まだ終わってねえ。その、リ――タールベルク、どういう男が好みだか収穫祭までに聞いてこい」
「あのね、喧嘩ばっかりしてる男子なんて怖がられるに決まってるでしょ! 気弱で優しい人が好き、って言ったらそうなるの?」
「……や、優しくするに決まってんだろ、バカかテメエ、当然だよ……」
照れたように顔を伏せるオスカーに、アディは頭を抱えた。この乱暴者を途端にしおらしくしてしまうのだから、リリーの魅力は恐ろしくさえあった。
「前、優しくて強い人が好き、って言ってたかな。まずは喧嘩をやめて、人に優しくしなくちゃね」
オスカーは未だにアディを睨んでいたが、彼女の言葉を素直に受け入れているようだった。しばらく考え込んだ後、少年は両手で頭を掻きむしった。
「あー、クソ、なんであんなに可愛いんだよ……頭おかしくなんだろって……おい、今日の話誰にもすんなよ! したらテメエ、女でも校舎裏でブン殴るからな!」
「校内での私闘は禁止! それに一応、オスカーには負けないつもりだから」
アディが先に立ち上がったので、オスカーも渋々席を立った。早く立ち去らなければ、今に教師が飛んでくるだろう。帰る家は近所同士だったが、硬派気取りの少年は女子生徒と一緒に下校することを頑なに拒むことが分かっていたので、少し先にオスカーが校門を抜けることにした。オスカーはアディと別れる直前、険しい表情で目を逸らしながらボソリと呟いた。
「……ありがとな。気ィ付けて帰れよ」
「うん、オスカーも気を付けてね」
返事はなかった。乱暴な言葉遣いと血の気が多すぎることさえ改善できればもてるかもしれないのにね、というツィスカの言葉を伝え忘れていたことに気付いたが、広い背中は既に遠ざかっていた。アディは複雑な胸中で夕焼けに染まる雲を見上げていたが、オスカーに睨まれない程度に距離が開いたと確信が持てた時点で校舎を背に歩き始めた。騎士行列の見物を断った手紙に対するベルらからの返信は、おそらくまだ届いていないだろう。歩きながら、アディは再度空の紫とオレンジのグラデーションを見上げた。日が暮れるのが早くなるにつれて、収穫祭が近付いている実感が強くなり、期待と不安が胸に渦巻く。
(リリー、また誰かに告白されるんだろうな)
祭りの飾りを見に出かけたり、踊ったり歌ったりといった「普通」の楽しみ方は、衛士には許されない。誇りある役目のはずではあるのだが、収穫祭の予定を相談する友人たちの楽しげな会話に加われないことが、幼少期からのアディの憂鬱の種だった。しかし、中等学校に入って以来、一つだけ嬉しいことも増えていた。
『アディ、ヘンペルの衛士さんだったんだ! 絶対ジーメンスから見に行くから、会えたら話しよう!』
(リリーにいいところ見せなくちゃ!)
夕陽に手をかざすと、光の筋が小さな手を包み込んだ。
パチ、とすぐ近くで枝の爆ぜる音がした。
「――ん」
薄眼を開くと、手袋を着けた両手が棒のようなものを掴んでいるのがボンヤリと目に映った。景色は次第にはっきりしていき、儀礼用の剣の先端が地面に食い込んでいるのが分かったので、アディは慌てて柄を握る手に力を込めて引き抜いた。どうやら、眠ってしまっていたようだ。夕陽かと思っていた瞼の向こうの橙の光は、衛士の詰所で焚かれた薪木の炎だった。夢見心地が完全には抜けず、アディは自分の体を見下ろした。シャツの上から身に付けた、マントが付いた紺のサーコートの胸には、シュッツァー家の紋章――オリーブの枝を咥えたコマドリが描かれた楯にマントがかかった図柄が大きく付けられていて、公式の行事の途中だったことを思い知らされた。おもむろに椅子代わりの木箱から立ち上がると、天幕の外から薪木が燃える音に混じって祭の音楽が聞こえてきた。
薪木に近付こうと天幕を抜けると、炎に照らされた寺院の門の傍に立つ父のアウグストがアディに気付き、不思議そうに片眉を上げた。
「おい、まだ休んでいていいんだぞ?」
「……ううん、寝ちゃってたから……もう大丈夫」
アウグストは「そうか」とだけ答え、剣を腰の鞘に収める娘から寺院の前の広場へと視線を移した。真夜中の広場には人影もまばらで、土地の精霊に捧げる音楽を奏でる楽人が大きな薪木を囲んでいる以外は、酔いが醒めない男性たちが静かに夜風に吹かれているばかりだった。星は溢れんばかりに夜空を彩っていたが、薪木の側に立っていると火の粉と見分けがつかなった。
ジーメンス郡の「平服の衛士」は、収穫祭の期間中、こうして各町のゲニー教の寺院の門番や町の見回りを行う慣わしになっていた。もっとも、見回りは本来護民官の仕事なので、実際にはあまり意味のない儀式的なものである。火が焚かれている以上はその番が必要なので、ほとんど薪木の見張り役と化しているが、限られた家系の一族にしか務められない特別な役目とされており、シュッツァー家もその一翼だった。神聖な務めである上は同じ紋章のサーコートを纏う父の邪魔をするわけにもいかず、アディは無言で天幕の内側へと戻っていった。次の交代は夜明け前だが、まだ時間があるようだ。学校は休みになる期間とはいえ、夜通しの番もあることを考えると、体力は温存しておくべきだろう。
初日からうまく休めずにいたのでは先が思いやられるな、とため息をつきながら地面に無造作に置かれた椅子に掛けようとした、その矢先のことだった。天幕の背後から、草を踏み分けるような足音がかすかに聞こえた。アディは降ろしかけた腰を素早く持ち上げ、なにかあれば使おうと思っていた投擲用のナイフを腰のベルトから一本引き抜いて手元で回転させ、掌に隠し持った。
「何方ですか?」
夜中に迷い込んできた者には、まず誰何することになっている。姿の見えない相手は天幕のすぐ側で立ち止まり、予想していたよりも高い囁き声で楽しげに衛士の名を呼んだ。
「アディ? 私――えっと、リリー・タールベルクです! ねえ、アディだよね!」
「リリー⁉︎」
思わぬ訪問客に、アディの心臓がドキリと鳴った。リリーは隣町のジーメンスに住んでいるはずだし、第一に今は真夜中である。うら若き乙女が出歩くべき時間ではない。アディは焦って天幕から出ると、ナイフをしまいつつ速足で裏手に回り、そこでケープのフードを被って嬉しそうにこちらを見つめている少女の姿を認めた。
「えへへ、来ちゃった! すごい、その服……剣も差して、本当の従士さんみたい!」
「リリー、こんな時間に――一人でここまで来たの?」
「うん、だって昼間はジーメンスでお接待しなきゃいけなかったんだもん。今ならアディに……会えるかと思って……」
リリーはアディの真剣な面持ちにようやく己の軽挙を察したらしく、ばつが悪そうに俯いた。フードの下にあっても愛らしく綻んでいた表情が曇る様はアディの心を乱し、衛士は慌ててリリーに駆け寄ることになった。幸い、辺りに人の姿はない。アディは周囲に気付かれないうちにリリーを送り届けようと決心したが、当の彼女は違うことを考えていたようだった。
「……ねえ、今大丈夫? 少しだけ一緒に抜け出さない?」
「え、抜け出すって……どこに?」
リリーはアディの手を取った。手袋越しの感触でも緊張してしまう自分が情けなく、アディが硬直している間に、リリーは耳打ちしてこう告げた。
「……行きたいところ、あるんだ」
結局リリーに押し切られ、父にも言えないまま寺院の側から離れてしまった。休憩中で交代まで時間があるとはいえ、アディはヒヤヒヤして自然と足を速めた。黙って歩いていると落ち着かず、手を引くリリーをそっと見上げる。
「そうだ、もしあのテントに怖いおじさんがいたらどうするつもりだったの!」
「ジーメンス家の紋章があったから、衛士のテントだって思って……本当にアディがいてくれたし、なんだか運命みたいじゃない?」
「……も、もう……」
二人の少女は、草原の真ん中を進んでいた。道なき道を歩きながら、アディは不安げに周囲を見回した。月明かりしかない暗がりでリリーがどこに向かっているのか皆目見当がつかず、夜露に濡れる二足のブーツを一瞬だけ見下ろしたその時、リリーが行く手を指差した。
「あ、あそこ! あの樹の下……!」
それは、小高い丘だった。丘の上には一際目立つ大樹が一本立っていて、月の光を半分ほど覆い隠していた。気付かないうちに坂を登り、丘のふもとまでたどり着いていたらしい。アディには見覚えのない景色だが、ヘンペルからジーメンスに入り込んでいたのなら、リリーが迷わずに移動していたことも頷けないわけではない。早く登ってしまおうとしたアディの手を、リリーはツンツンと引っ張った。
「ここからは、アディが先に行ってくれる? 手はこのまま、引っ張ってほしいんだ」
「うん……?」
リリーがここにきて疲れてしまったのかは分からないが、とにかくアディが手を引く側になって、二人の少女は丘を登り始めた。鍛えているだけあってアディは平気で歩き続けることができたが、リリーは途中で苦しげな表情を見せた。アディが立ち止まろうとすると首を振って拒まれたので、足運びをゆっくりとしたものに変えて、二人は静かに丘を登っていった。
丘の頂上で、アディは息をするのも忘れて足元の光景に目を見開いた。町の明かりはまるで地上に星空を映したかのようで、水を入れるランプの仄かな光と薪木のきらめきが、平坦な盆地をグラスの中のシャンパンのように見せていた。隣で咳き込む声にハッとして振り向き、背中をさすってやると、リリーは苦しげな笑顔で「ありがとう」と呟いた。
「ここ、すごい景色でしょ。ヘンペルはあんまり灯りがないってツィスカに聞いてね、ジーメンスの収穫祭の夜をアディに見せたいな、って思ったの」
二人は、満月と大樹の間に立っていた。丘の上まで登ったことで月明かりを遮るものがなくなり、リリーの白い肌と赤い頰が照らし出されている。アディは必死にリリーから目を逸らし、ジーメンスの夜景を脳裏に焼き付けようとした。リリーはそんなアディの横顔を見下ろし、それから自分も故郷の景色を眺めた。
「……私ね、中学に入ってから一番仲良くなった子ってアディだと思ってるんだ」
「……え?」
アディの鼓動がにわかに高まり始めた。隣の友人はまだ手を握っていて、肩が触れていたことを今更のように意識してしまう。リリーは被っていたフードを片手で脱ぎ、首だけでアディに向き直った。
「優しくて、強くて、それに人を悪く言わないでしょ? 正直な子だって知ってるから、なんでも相談できるし」
「……そん、な」
「さっき、私を引っ張ってくれたでしょ? あれ、ちょっと憧れてたんだ。大切な人と一緒にこの丘を登って、それで、二人でこの景色を見るの」
心臓の音がうるさいほどで、アディは耳を塞ぎたい衝動に駆られた。それでも、心地よい少女の声がそれを許さない。アディが恐る恐るリリーの方を向くと、彼女ははにかんでいた。
「アディが男の子だったらよかったのにな」
「――」
途端に、アディの胸が締め付けられるように痛んだ。自分が男だったら、男ではないから、なんだというのか。足元が崩れそうな心地に視線を落とすと、リリーが向かい合う位置に踏み出した。顔を見ることができずにいるアディに、リリーは微笑んで囁きかけた。
「アディ、キスしたことある?」
「え、あ、あ……ある、けど」
それは見栄などではなく事実ではあるが、ずっと昔のことだった。自分でも理解できない胸の痛みに不安げな表情を浮かべているアディを見て、「そうなんだ」と目を丸めて瞬いていたリリーは、握っていた手を離し、両手でそっと小柄な少女の頰を包み込んだ。
「……目、つぶってて」
「……リリー」
救いを求めるように呟いて、アディは瞼を閉ざした。柔らかな月明かりは瞼越しにアディの視界を白く染めていたが、やがて暖かな気配と共に影が差した。アディは思わず手を伸ばし、リリーのケープの裾を掴んだ。甘い香りが鼻腔をくすぐったかと思うと右の瞼に柔らかなものが触れ、すぐに離れていって、再び瞼に白い光が届き始めた。アディは自分の唇が震えていることに気付き、ケープを解放しながら両目をゆっくりと開けた。リリーは微笑みながら一歩後退り、もう一度アディの手を取って、眼下の景色に向かった。空気はどこまでも澄んで、少し冷えていた。
その後の出来事は、アディの記憶には曖昧にしか残らなかった。しばらく会話もなく祭の景色を見下ろした後、どちらからともなく丘を下って花輪に飾られた牧場の柵を迂回し、別の丘のふもとにあるリリーの家の前で別れた。そしてアディは巨木を目印に一人で丘を登り、寺院に向かって草原を引き返して元の天幕へと帰ってきたのだった。戻った頃には、夜明けが近付いていた。リリーと会ってからの出来事は、もしかすると夢だったのだろうか。右手の手袋を外し、右瞼に指先で触れる。胸にチクリと痛みが差し込み、アディは黙って下唇を噛んだ。アウグストが「交代しよう」と天幕の下に呼びに来るまで、そう時間はかからなかった。
それから、アディとリリーが顔を合わせる機会は訪れなかった。数日後、アディが収穫をジーメンスの土地の精霊に捧げる儀式に衛士として呼ばれ、僧侶らの列の最後尾を歩いていたとき、ふと見物人の群れの中でオスカーが緊張しながらも一生懸命リリーに話しかけている姿が目に入ったが、よそ見は禁物、と自分に言い聞かせて捧げ持った剣に意識を集中させた。剣術が得意でないアディも、この時は手の中の武器を睨むことで気を紛らわせることができたので、それだけはありがたいと思えた。
(……重い)
重いのは剣だけではなく、足取りも、そして気分もだった。
首都ペステリアの騎士行列は、収穫祭の四日目の昼に音楽隊を伴って華々しく城門から現れ、大変な盛況のうちに王宮へと姿を消していった。馬に乗った白銀の鎧の騎士たちの姿を見るごとに憧れが募っていたが、順調にことが運べば、次回にはあの行列の中にいられるはずである。希望に胸を膨らませながら人混みから脱出したベルは、ふと一緒にいたはずのヨハンナとクラーラがいないことに気付き、血の気が引いたような心地を覚えた。マントの合わせ目を手でしっかりと握って踵を返すと、少しずつ散開し始めた群衆に向かい、うるさすぎない程度に声を張り上げる。
「ヨハンナ! オーレンドルフさん!」
たとえ返事があったとしても、聞き分ける自信はベルにはなかった。だが、相手方がこちらの方向を目指してくれれば再会できるはずである。人波に目を凝らしていたベルは、予想していたよりもはるか左側から腕を組んで飛び出してきた二人の友人を見付け、すぐに駆け寄っていった。
「よかった……ごめんなさい、はぐれてしまって」
「ああ、ホフマンさん……! ミュールマイスターさんがね、コサージュを落としてしまったって言うから……」
人混みでもみくちゃにされたのだろう、二人の髪はすっかり乱れていた。ベルはヨハンナの腕を取って級友たちを人の群れから離れる方向へ誘導すると、見覚えのある立派な壁の側までやってきた。
「……ふう、ベル、クラーラさん、本当にごめんなさい。すごい人だったわね……」
さすがのヨハンナも多少は疲れたようだったので、ベルは帰りの馬車が来るまで待合所で座って時間を潰すことを提案した。慣れた様子で先を歩き始めるベルの背中に、二人は髪を整えながら「頼もしい」と言わんばかりの視線を送った。
「ホフマンさん、随分この辺りに詳しいのね」
「ええ。ここ、私が所属している養成所だもの」
「ここ」と砂色の壁を指差され、少女らは同時に「まあ!」と顔を輝かせた。中央養成所は王宮からそれほど遠くなく、現役の騎士が時折訪れて指導していくこともあるのだ。今は特別の事情で預けられている訓練生と少数の職員や教官しかいないため閑散としており、ベルから見てもいかにも休日中、といった風情だった。壁の周囲を歩いて正門前までやってくると、養成所の門にも収穫祭の花輪が飾られていた。ベルが見知った門衛が立っていたので、通りかかるついでに声をかけることにした。
「こんにちは、祭日なのにお疲れ様です」
「――ん? ああ、ホフマンさんか! お友達と騎士行列を見に来たんだな」
「ええ」
ベルの後ろから、ヨハンナとクラーラがディアンドルのスカートの裾を持ち上げて挨拶を送った。従士候補生のベルはズボンを履いている際の頭を下げる男性式の礼が癖になっていたので、門衛の男性が微笑ましそうにそれを指摘した。
「君はすっかり従士のようだね……おや、シュッツァーさんはいないのか?」
ベルはムッと唇を曲げたが、すぐに平静を装って頷いた。
「……はい、アディはジーメンス領の収穫祭で衛士をしているのだそうです」
門衛は、手にしていた長槍を反対の手に持ち替えて頰を掻いた。収穫祭に特別な役目を果たす従士とは、得てして位が高いものである。訓練中のアディが既に従士がすべき仕事に就いていると聞けば、一人の従士としてそれなりに思うところはあるだろう。
「ああ、シュッツァーって本当にあのシュッツァー家だったのか……いや、私は武門の出ではないからね、決まった主君を持つ身が少しだけうらやましいよ。それじゃあお嬢様方、収穫祭をお楽しみください。気を付けて」
「ええ、失礼します」
「ごきげんよう!」
「ごきげんよう」
淑女らしい挨拶を残す友人らを連れて乗合馬車の待合所を目指しながら、ベルは今しがたの門衛の言葉を反芻していた。聞き返すことはしなかったが、「あのシュッツァー家」などと言われると若干の引っ掛かりを感じた。決まった主君とはかつての領主ジーメンス家の当主のことなのだろうが、なにか過去に問題でもあったのだろうか。祖国の戦史を学んでいれば必ずと言っていいほど目にするので、著名な従士の名は頭に叩き込まれているが、シュッツァー家のことは教科書には書かれていなかったはずである。アディはただジーメンス領で代々従士が継いでいる家、としか言っていなかったので、全く気にも留めていなかった。もしかすると、代々中央養成所に入所していて、養成所内では有名なのかもしれない。なんにせよ、今のアディは自分と同じように騎士になるために中央養成所に通っているはずなのだ。
(……そうじゃなきゃ、私がここに来る意味がないんだから)
騎士を目指す者同士だからこそ、アディを超えるべき目標とみなし、張り合う価値があると常々思っていたのである。そうでなければ、アディへの執着心は説明がつかないはずなのだ。
ふと、アディが今何をしているのかが気になった。ヨハンナとクラーラは楽しげに騎士行列やその他のペステリアで見てきたものについて語り合っていたが、ベルの気持ちは遠くヘンペルへと飛んでいた。収穫祭については手紙で尋ねればいいし、冬の訓練の時に話せばいいことだ。しかし、ベルの胸中はどこかすっきりしなかった。なにか胸騒ぎがしているような、そうでないような。そんな不穏な予感も、ブルームガルトに帰る頃にはすっかり消え失せていた。