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双葉の従士  作者: 日辻
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四話 長い手紙

 その手紙の差出人の名前を見た時、アディは目を疑った。まさか、地元に帰ってからもあれこれと文句を言われるのだろうか。送り主が自分で選んだのか疑問の残るピンクの封筒はたやすく折り曲げられそうにない程度には分厚く、何枚の便箋を納めているのか想像も付かないほどである。庭先に立ち尽くして神経質そうな親友の顔を思い浮かべながら、封筒の表と裏を見比べることしばし、少女は茶目っ気のある老人の声に飛び上がった。

「お嬢様はずいぶん熱心な恋人をお持ちなのですなあ」

「へっ……あ、先生!」

 気が付くと、すぐ側に武道の師匠の顔があった。老爺はアディと大して変わらない小さな体で朗らかに笑いながら伸びをすると、丸顔の顎に蓄えた白い髭を撫でつつ、再び封筒を覗きに戻ってきた。

「小生など、恋文を頂いたことは一度もありませんでな。まったく羨ましいことです」

「いえ、残念ながらラブレターではないようなのですが……」

「では、情熱的なご友人ですかな」

 小言を言うことに関して情熱的といえば、確かに情熱的な相手である。どう説明したものか、とアディは首を傾げた。進級して二度目の休日は、体が鈍らないように稽古を付けてもらう予定だったのだが、朝から集中力を完全に削がれてしまった。体を動かせば集中できるだろうか、と封筒を郵便受けに返したアディに、老人は驚いた様子を見せた。

「お読みにならぬのですか」

「稽古の方が重要でしょう」

 老人はニッコリと笑んで見せた。両手を後ろに回して腰の辺りで組むと、武術の達人というよりも白いローブの僧侶のように見える。

「せっかく超大作をお受け取りになったのです、読んであげなされ。うわの空ではじじいの相手も大変でしょうしな」

 見透かされているあたり、よほど動揺していたのだろう。アディは申し訳なく師に頭を下げると、手紙を手に自室へと舞い戻った。


 シュッツァー邸二階の日当たりのいい一部屋が、アディに与えられた自室である。歩き回れる程度には広いものの、内装は養成所の寝室ほどではないにしてもシンプルで、木製のチェストと本棚、ベッド、机と椅子が置かれている。壁には学校の制服などを掛けておくフックが取り付けられているが、他に装飾の類はなく、部屋の様子もどちらかといえば男性のもののようだった。

 窓を開けたままにしていたので、アディが部屋に戻った時、風にあおられたカーテンが机にかかっていた。窓を閉めると、やや白濁した窓越しに秋の柔らかな陽射しが降り注ぎ、ちょうど良い明るさになった。椅子に腰掛けて大切に持っていた封筒をもう一度確認し、アディは封筒の蓋を開いた。パリ、と心地よい音がして封蝋が砕け、封筒の中から紙の匂いに混じって微かに花の香りが漂った。

 二つ折りの便箋の束の上には、一枚だけ一筆箋が重ねられていた。おそらく、送り主が後からこっそりと足したものなのだろう。

『始めに書いておくけど、これは決して私が書きたくて書いたものではないから。同じクラスの子たちに養成所の話をした時、偶然アディのことを話すことになって、興味を持った子がいただけ。みんなあなたのことを「強くて情熱的でかっこいい女の子」と思い込んでいるみたいだから、養成所の名誉にかけて将来の従士に相応しい返事を書いてくれることを望んでいる。無論クラスのみんなが、よ』

 情熱的との評判に、先ほどの師の言葉が蘇る。手紙を読んで苦笑したのはこれが初めてのことだった。一筆箋を机上の封筒に重ねて分厚い束を開くと、同じ筆跡が並んでいた。

『親愛なるアディへ。もうそろそろ紅葉の季節ですが、いかがお過ごしでしょうか。私の素敵なお友達があなたとどうしてもお話ししたいそうなので、こうしてペンを取りました。――』

 この変わり身は、どうしたものか。一筆箋の前書きから察するに、こちらは「書かされている」もののようだ。書いているのは差出人本人のようだが、冒頭の挨拶以降はとても普段の彼女からは出てきそうにない単語が並んでいて、アディは都会の少女趣味にカルチャーショックを受けた。それは『炎の如き赤薔薇の君』であり、『伝説の火の山を駆ける勇猛な角ウサギのような貴女』であり、『空想の城に住まう男装の騎士様』だった。どれも想像上のアディを指しているのである。よほど年頃の女の子らしいと感じていたリリーも、送り主のペンを借りた手紙越しの彼女らと比べると、実に田舎の娘らしい素朴な少女に思えてならなかった。これがペステリア乙女の最先端なのだとすると、自分たちは猿山の猿かなにかに違いない。

 ……と、混乱しかかった頭を横に振って、アディは止めていた目を神経質そうな文字に向かって再出発させた。アディから見ると詩的すぎる表現の数々の後ろにいるのは、同年代の好奇心旺盛な女子生徒に違いない。華美な装飾を頭の中で取り払いながら読み進めるうち、見知らぬ令嬢らに向けていた畏怖は解け去り、次第に口元が緩んでいくのが分かった。つまり、手紙の向こうにいる彼女らは皆『あなたのことを知りたい』と言っているのだ。そして、長い長い手紙の最後に、送り主本人の言葉が添えられていた。

『――それと、最後は私から。ヘンペルの秋は寒いって聞いてるけど、体調を崩してない? 次に会ったら絶対に徒手でも勝つから、怪我しない程度に稽古しておくこと。あと、リリー何某の前でニヤけないように気を付けて。かなり間抜けに見えるから。返事は無理に急がなくてもいいけど、みんな待ってるからそのつもりで。愛を込めて。ベルティルデ・ホフマン』

「……ベルも待ってくれてる?」

 便箋に向かって囁きながら、アディの表情は穏やかだった。便箋から香っていたのは、ベルと親しいヨハンナという女子生徒の香水とのことだった。自分の知らない一人の女学生であるベルを知っている香りだと思うと、どこか嬉しいようで、寂しかった。手紙を丁寧に畳み直して封筒に収め、アディは軽快に階段を降りていった。

「さて、やりますかな?」

 老爺は相変わらず、庭先に佇んで日向ぼっこしていた。弟子は力強く頷いて、短く答えた。

「よろしくお願いいたします、カイン先生」

 戸惑いの消えた真っ直ぐな瞳をいつものアディのものと確認し、師は静かに構えを取った。


 ここ数日、ベルは落ち着かない日々を送っていた。認めるのは非常に癪に障るが、アディからの手紙の返信が気にかかっているのだ。訓練期間中のアディも同じ気分でリリーからの手紙を待っていたのだと思うと、輪をかけて癪だった。始業前、ヨハンナはお下げ髪の毛先を弄りながら教科書に釘付けのベルの横顔を眺めていたかと思うと、親しげに肩に触れてこう指摘した。

「ベル、お節介かもしれないけれど、さっきからずっと同じ箇所を読んでない?」

「……そう、でもない」

 実際は、読んですらいなかったのである。ベルは苦々しげにため息をついて、教科書を閉じた。級友たちに請われるがままにアディへの手紙を送ってから一週間強、そろそろなんらかの音沙汰があってもおかしくはないと思っていた。そんな内心を察したのかそうでないのか、ヨハンナも手紙の件を日に一度だけ尋ねるようになっていた。

「昨日はどうだった? お返事、来なかったかしら」

「来てない。筆まめな子だけど、今度のはちょっと――長かったし」

 ベルは自分の右手を見つめた。あれほどの長文を書いたのは初めてだったので、指にタコができたのだ。級友たちに囲まれて彼女らの一人曰く「とっておき」の封筒と便箋を突き付けられ、名前のアルファベット順に語り聞かせられるままをひたすらに認めた放課後を思い出す。昨日まではこれだけで終わっていたはずのやり取りだったが、今日のベルは珍しく自分から手紙についての話題を投げた。

「みんなが書いた手紙を、同じ封筒にまとめて送るのではいけなかったの?」

「それだと、お友達が三十回ずつ『初めまして』と『さようなら』のご挨拶を受けることになるでしょう? ベルがまとめてくれてすごく助かったわよ」

 ヨハンナのおっとりとした笑顔は、普段と変わらない。自分だけが苛立っているように思えて、ベルは無意識に視線を下げた。

「……まあ、紙の節約にはなったかもね」

 本当は、そんなことを言いたいのではない。アディとリリーのやり取りを横目に見ていた頃は「たかが手紙」と気にも留めなかったのに、今では自分がこの有様なのだ。子供じみていて恥ずかしいとさえ感じていた。俯き加減のベルに、ヨハンナは優しく語りかけた。

「本当はみんな、ベルともっと仲良くなりたいのよ。手紙はそのきっかけだったんだと思うわ。普段のあなたは物静かで、気軽に話しかけていいのか分からないもの」

「……そんなこと」

「だからね、みんなアーデルフリートさんがうらやましいはずよ。彼女の前でなら、ベルも本気で怒ったりできるんでしょう? 本当のお友達、なのよね」

 反論しようとしたが、ベルはグッと唇を噛み締めた。言葉が出てこないほど、心が乱れているのだろうか。教室の中にはさざめくような話し声が溢れていたので、沈黙もそれほど目立たなかった。ヨハンナは、机の下でベルの手を握りながら笑顔を見せた。

「お返事、楽しみね」

「……」

 黙って握り返した手はふっくらとして柔らかく、ベルの気持ちを少しだけ鎮めてくれた。今思ってみると、稽古や試合以外でアディの手を握ったことは一度もなかったような気がする。骨と皮しかない小さな手だったと記憶しているが、感触はほとんど覚えていない。気に食わない相手だから、と意図して避けていたのかもしれない。ベルは眉間にシワを寄せた。

(またアディのことなんか考えて……アディが早く返事を送らないのが悪いんだ)

 ヨハンナは黙ってベルに寄り添っていた。本日最初の授業は、ベルの得意な幾何学である。始業時間まで、残りわずかだった。


 ベルの憂鬱は、三日後に打ち砕かれることとなった。帰宅してすぐ見覚えのある封筒と封蝋、そして几帳面な文字が母の手にあるのを見たとき、形容しがたい興奮がベルの胸を満たした。ひったくりそうになる手をなだめて受け取ると、こちらが送った手紙ほどではないにせよ、それなりのボリュームを感じさせる感触だった。

 ベルの実家は、ブルームガルト郊外の閑静な住宅地にあった。それほど大きくはないが平均的な都会の住宅で、首都に建っていてもおかしくないそれなりに洒落た外観は、ベルも気に入っている。ベルの部屋は三階で、限られたスペースに机と椅子、花紋様の装飾が施されたチェスト、天蓋の付いたベッドが配置されていた。中等学校の進学記念に祖母と母から贈られた鏡台とスツールのセットは特に大切にしていて、朝は鏡の前で猫っ毛と格闘するのが日課になっていた。自分だけの空間ともいえるこの部屋に入ってようやく、ベルはホッと一息をついた。手紙は鞄とは反対の手に、しっかりと持っている。

 制服から部屋着に着替え、鏡台に置いたアディからの封筒に何度目かの視線をやった。認めたくはないが、これだけ胸を焦がして待ったのだから、と先に一人で読んでしまいたい衝動に駆られた。しかし、開封するときは他の級友がいる前で、と約束していたので、そういうわけにもいかなかった。ベッドに寝転んで封筒を見つめていたベルは、急にハッとして手紙を鞄の中にしまい込んだ。手紙を読まずに見える場所に置いておくなんて、アディの態度そのものではないか。必死に忘れようと努めた結果、明日の授業の予習にかかった時間は普段の倍ほどにもなっていた。

 次の朝、ベルはヨハンナの顔を見るなり口を開こうとして「来たのね!」と先手を打たれ、羞恥心に転げまわりそうになった。なにが顔に表れていたのかは確認するつもりになれず、ただ「放課後にみんなで」とだけ告げることになった。


 ここのところ、女子生徒の一部が放課後の教室に集まっている日があることは教員たちにも知られていたが、その詳細な理由は伏せられていた。あえて伏せたのは、ベルが説明を嫌がったためである。発起人のヨハンナが問題を起こしたことのない生徒だったので、この秘密の集会は教員らからは黙殺されている。もっとも、「学外のお友達」と手紙をやり取りするだけのために、一クラスが丸ごと結託しているとは考えられにくいだろう。

 「噂のあの方」からの返信があったことは、密やかに、かつ速やかに教室中に広められ、昼休みまでに全級友の知るところとなった。本日の集会場は最後の授業があった代数学教室と決まり、女子校舎の一部には不思議な熱気がこもっていた。放課後、ベルが鞄から取り出した一通の白い封筒に、集まった約三十人からささやかな歓声が上がった。ベルは教室の中心付近に座り、向かい合うようにヨハンナが、二人を取り囲むように他の生徒たちが、待ちきれない様子で席に着いていた。西陽の当たる教室だが、やや白濁した窓石越しなのでそれほど気にならず、むしろ夕陽がムードを盛り上げるのに一役買っていた。公平を期して封筒を捧げ持ち、封蝋を全員に見せてから、ベルはようやく手紙の封印を解いた。

「……じゃあ、読むわ。『親愛なるブルームガルト第一中等学校、四年女子二組の皆様。ヘンペルからお返事を差し上げます。まずは、素晴らしいお手紙をありがとうございました。ブルームガルトの名前の通りお花のいい香りがしましたから、まだ見ぬ皆様は美しい花のようなお嬢様方なのだろう、と思いを馳せながらペンを握っています』」

 アディの手紙を読むのは初めてだったので、ベルはこの場で好敵手の新たな一面を知ることになった。文面だけなら「小さな紳士」もあながち大げさではないのかもしれない。一瞬目を上げると、周囲の女子生徒たちはうっとりとしているように見えた。焦らす意味もないので、すぐに先を読むことにした。

「『せっかくのご縁ですから、お一人ずつお返事させていただきます。最初はアガーテさん。ヘンペルのチーズがお気に召したそうで、とても嬉しく思います。私の好物でもあるのですよ。ご存知のように、高地で採れるミルクはとても濃厚ですから、美味しいチーズが作れるのです。私が次にチーズを口にする時、きっとアガーテさんのことを思い出すでしょう』」

 ベルに名前を呼ばれたアガーテが、両手を握り合わせながら顔を輝かせた。ベルも驚いたことに、アディは手紙に名を連ねた全ての人物に向けて、丁寧に親しみを込めて返事を書いていた。

「『次にアライダさん。残念ながら剣術は不得手でして、私はご想像のような男装の剣士ではありません。剣はいつもベルに負けてばかりなのですよ。ですが、従士たるもの、剣は誇りそのものと心得ています。叙任までには、アライダさんがご覧になっても恥ずかしくない剣技を身に付けておきたいと思います』」

「まあ、アーデルフリート様ったら!」

 アライダがバラ色に染まった頬を手のひらで挟むのを横目に、ベルは手紙を読むことに注力した。

「『クラーラさん。美しい押し花をありがとうございました。ピンク色のバラはヘンペルにはありませんから、母と祖母にも見せて一緒に楽しみました。――』

『ヨハンナさん。あなたこそがベルの隣に咲く花だったのですね! 素晴らしい香りを届けてくださりありがとうございました。そして、ベルにお手紙を書くよう勧めてくださったことに最上の感謝を。これからもベルと仲良くしてあげてくださいね。ですが、私がベルの特別の興味を惹いているのかどうかは分かりません。自分のことには疎いと、よく友人から言われます』」

 自分への返事を読み進めるにつれてベルの表情が険しくなっていくのを見て、ヨハンナは微笑みをたたえながらベルの眉間を指先でツンツンと突いた。ベルはばつが悪そうに首を傾げ、気を取り直して続きを読み上げていった。自分の名が読まれた女子生徒は、それぞれに嬉しげな反応を見せる。ベルは最後だったので、長い手紙の一番最後に返信があった。

「『――最後に、ベル。こんなに長くて嬉しい手紙は、間違いなく初めてだったよ。本当にありがとう。ベルが私に『愛を込めて』なんて書いてくれたのも初めてだよね。こっちは少しずつ寒くなってきたけど、私は高地出身だから平気だよ。心配してくれるのは嬉しいけど、徒手では私だって負けられないな。リリーといえば、この前ペステリア土産のお礼にクッキーを作ってくれたんだよ。お母様が職人さんなだけあって、すごく美味しかった! ベルにも食べさせてあげたかったな。そうそう、もし負担じゃなかったら、また手紙を書いてね。郵送代はかかるけど、文通もいいものでしょ?』……」

 ふと、ベルは読み終えてから「自分宛の箇所を音読する必要があったのだろうか」と渋い顔になった。しかし、気さくな文体は級友たちには新鮮だったようで、興味深げに、また嬉しそうに聞いている姿が映ったので、あまり考えないことに決めた。

「『――それでは、皆様秋風に負けぬよう、お身体に気を付けてお過ごしください。秋深まるジーメンス郡立中等学校より愛を込めて。あなたの友人、アーデルフリート・シュッツァー』……これで終わり」

 どこからともなく、拍手が湧き起こった。読み終わったばかりのベルがため息をついてから周囲を見回すと、誰もが笑顔を浮かべていて、その光景もベルに不思議な感慨を与えた。

(ただの手紙……なのに)

 級友は次々と感想を投げかけているのに、ほとんどベルの耳には入ってこなかった。かろうじて耳に届いたのは、ヨハンナの「ベルもアーデルフリートさんも大変だから、これからは数人ずつお手紙を書いてもらいましょう」という宣言だった。再び手紙に目を落とすと、自然と視線が『ベル』の文字に吸い寄せられていき――アディの声が聞こえたような気がして、首を振ることになった。


 高地特有の濃い朝霧の向こうに浮かんだ黒い影は、幼馴染のケヴィンのものだった。ペステリアでは珍しい黒髪の下から陰気そうな青い瞳がチラリと覗き、表情が分かる距離まで近付いたタイミングで、彼は「よう」と気だるげに片手を上げて挨拶した。登校時に会うのは久しぶりなので、アディは目を見開きながらしっとりとした土の地面を蹴って駆け寄った。足元の草は朝露に濡れ、眠っているかのように葉を地へ垂らしているものもあった。

「おはよう……えっと、ケヴィン、どうしたの?」

「どうしたもこうしたもない、あなたを待ってたの」

 特になにもなくてもケヴィンが憂鬱そうな顔をしているのはいつものことなので、アディは気にする様子もなく首を傾げた。

「……それはありがとう?」

「どういたしまして。この間、うちの婆さんがアディさん家の前で腰抜かして、おじさんに助けてもらったんだって。それで、お礼」

 つっけんどんに差し出された紙袋を受け取りながら、アディは気遣わしげに少年の顔を見上げた。色白で細長い体型の少年は養成所では数が少ないので、彼を見ると地元に戻ってきた、という実感が深まった。

「ありがとう……でも、そうだったんだ! お祖母様、大丈夫だった?」

「ご心配どうも、ピンピンしてるよ。だから俺は一人で出歩くなって言ったんだけどなあ……道端でぽっくりいかれたら近所迷惑だっていうのに……」

 何かと言葉には皮肉や棘が混じりがちだが、彼が祖母の身を本気で案じているのはよく知っていることなので、先に歩き始めたケヴィンの隣に並びながら、アディは困ったような微笑みを浮かべた。ケヴィンの次の言葉は、随分唐突だった。

「ファンレター」

「えっ、なに?」

「届いたんですってー? ツィスカさんから聞いたよ。しかも都会の見知らぬお嬢様方から。従士様の人気に俺びっくりです」

 わざとらしい敬語は、ケヴィンがふざけている印である。アディは恥ずかしそうに隣の彼を睨んだ。霧の道はヒンヤリとして、行く手になにがあるのかほとんど見えなかった。

「た、たまたま友達が私のことをクラスの人に話したから、って……」

「妬けるなー、うらやましいなー……」

 アディは頭の高さにあるケヴィンの肩を叩いた。普段は口数があまり多くない彼だが、アディのことはからかって遊ぶ対象として認識しているようだった。しかも、こうしてアディが怒った素振りを見せない限りは延々と続くのである。

「いてっ……はい、ごめんなさい……けど、女子からで安心したというかなんというか……お兄さん本気でビビったよ?」

「お兄さんって……私の方がお姉さんだってば! 誕生日私の方が先!」

「ええー、こんなにちっちゃいのに?」

「もう!」

 アディが平手を振り上げたので、ケヴィンはニヤニヤと笑いながら駆け足でその場から逃げ出した。脚の長さが全く違うのですぐに引き離されたが、霧の中に消える直前で少年は唐突に足を止めた。なにかあったのか、とアディが足を速めると、ツィスカがケヴィンのタイを掴んでいるのが目に入った。霧に隠れて気付かないうちに、先に出た彼女に追い付いていたようだった。

「声がすると思ったら……おはようアディ! ケヴィンは捕まえといたよ。どうせまた意地悪されてたんでしょ?」

「おはよう! ケヴィンがね――」

「俺は事実を言っただけ……」

 渋い顔を見せるケヴィンの肩を、今度こそアディが拳骨で叩いた。「痛え!」と悲鳴を上げる少年を笑って眺めるツィスカも加わり、幼馴染の三人は揃ってごく緩やかな坂道を下っていった。ツィスカはケヴィンを諌めようと、肩をポンポンと叩きながら話しかけた。

「ケヴィン、アディが本気出したら骨折られちゃうよ?」

「骨は勘弁だな……」

 体を鍛えることのない彼の悲愴感は冗談ではなさそうで、アディとツィスカの笑いを誘った。太陽が昇るにつれて霧は少しずつ晴れ始め、中等学校の建っているジーメンスに差し掛かる頃には大分遠くが見えるようになってきて、ちらほらと同じ制服の少年少女の姿が道に見られ始めた。遠い背中の一つがリリーのものであることに真っ先に気付いたのはアディで、次にアディの視線を追ってケヴィンが「あ」と口を開けた。

「……オスカーの彼女」

「え、リリー? もう、まだ付き合ってないでしょ、というか相手にされないんじゃないかな……」

 ケヴィンとツィスカが囁き合う声を耳に、アディの心はざわついていた。この場にいないもう一人の幼馴染は、あの背中を追う多くの少年の一人なのだった。三人が見つめていることなど露ほども知らず、リリーは先に校門をくぐって塀の向こうへ姿を消した。次に言葉を発したのもまたケヴィンだった。

「……俺、あの人苦手」

 アディが振り向いた時には、ツィスカが既に驚きの声を上げていた。

「そうなの? リリーって、男子全員に好かれてるのかと思ってた……」

 ケヴィンはいつもの陰気な瞳で校門を眺めつつ、吐き捨てるように答えた。

「なんか、キラキラしすぎというか……まあ、可愛いって騒がれるのは理解できるし、俺らくらいの男にはもてると思うけど……」

「ケヴィン、もしかして女の子に興味ないの?」

 ツィスカの声音が心配そうに聞こえたからか、ケヴィンは迷惑そうに顔をしかめた。

「そうは言ってないけど……」

 曖昧な返答に、ツィスカは怪訝そうな顔をしていた。ケヴィンは渋い表情でツィスカを見返していたが、ふとアディの戸惑った顔に瞬きをすると、平然と言葉を継いだ。

「俺はアディも可愛いと思うよ」

「なっ――」

 絶句するアディの代わりに、ツィスカが大いに驚いた様子を見せた。ツィスカは掴みかかる勢いでケヴィンの制服の袖を掴み、興奮を隠さず問い詰めた。

「え、もしかして……アディが好きなの?」

「黙秘します」

「えええ! ちょっとアディ、なにボーっとしてるの……って!」

 ツィスカがアディの方を見ている隙に、ケヴィンはできる限り優しく少女の手を振り払い、恐るべき逃げ足の速さを発揮して校内に突入していった。ツィスカは慌てて呼び止めようとしたが既に遅く、校門の前には呆然としたアディとツィスカが取り残された。二人は互いに顔を見合わせたが、しばらく言葉は出てこなかった。

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