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双葉の従士  作者: 日辻
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三話 花のようなお嬢さん

 ヘンペルは牧歌的な土地で、いかにも地方の農村といった風情の小さな町である。わずかな平地を取り囲むように低い丘が連なっていたかと思うと、西側には森を挟んで隣国との国境である険しい山脈がそびえ、人の行き来を阻んでいた。アディの実家は、ヘンペル南側の山際にあった。かつてはそれなりの名家だっただけあって、森を背にした古風な二階建ての屋敷と庭の広さは周辺住民の羨望の目を集める。

 約一日の旅路の後、ヘンペルを南下していた馬車はシュッツァー家の敷地を踏まず、平屋造りのごく一般的な一軒家の前に停まった。軒先で洗濯物を干していた老婦人は、思いがけない呼び声に驚いた様子を見せた。

「ばあちゃん!」

「あら! アディ! まあ!」

 受け取ったばかりのトランクを薪割り用の台に投げ出して、アディは祖母の首に抱き付いた。エプロンドレス姿の老婦人は穏やかそうな垂れ目の目尻をさらに下げて、帰宅直前の孫娘を抱き締めた。

「ただいま!」

「おかえりなさい! ……少し痩せたかしらねえ、怪我はしなかった?」

「してないよ!」

 御者が帽子を上げて挨拶すると、老婦人の代わりに玄関先から姿を現した髪の短い老爺が手を挙げて応えた。モーラー夫妻は、アディの母方の祖父母である。アディがモーラー夫人から体を離して笑いかけると、無口なモーラー氏もニッコリと笑顔を見せた。

「お爺さん、アディが帰ってきましたよ!」

「うん、うん。おかえり」

「ただいまじいちゃん!」

 アディが生家より先に母の実家に寄ったのは、ここに挨拶に行く、と言うと同居している父方の祖父母にいい顔をされないためである。モーラー夫妻もその点は承知しているので、特におしゃべりな夫人は孫と話したい様々なことをぐっと飲み込み、アディの肩を押して帰宅を促した。モーラー氏は腰から提げていた巾着型の財布から五十ティロン硬貨を取り出し、トランクと共に差し出した。

「ほれ。学校も頑張りなさいよ」

「わ、ありがとう! ……頑張るね。じゃあじいちゃんばあちゃん、また来るからね!」

「いい、今日はちゃんと休むのよ!」

「うん!」

 名残を惜しみつつ手を振って背を向けた孫娘を、夫妻もまた寂しげに見つめた。アディは御者に礼を言ってそのまま別れると、歩いてシュッツァー邸に向かうことにした。荷馬車や家畜の群れも楽に通行できる幅の舗装されていない田舎道の両脇には、秋の野花が咲き始めていて、自然を愛する少女の心を和ませた。標高が高いからか、首都ペステリアと比べるとだいぶ涼しく、日向を歩くのもそう苦ではなかった。両親と祖父母に弟、そして武術の師匠が待っているのであろう自宅までは、約数分といったところだ。


 進級したからといってなにか特別なことが起こるわけではないが、新学年という言葉にはアディの胸をときめかせる響きがあった。進級して最初の登校日の朝は、モーラー夫人の言い付け通りゆっくりと体を休めた甲斐もあって、隣町の中等学校に向かう一時間弱の道程は足取りも軽く、二学年下の弟との会話は、校門前で別れるまで途切れることがなかった。

「じゃあロルフ、またね!」

「校内で迷わないようにね、お姉様」

 ロルフの方が背が高く、年の割に妙に落ち着いた雰囲気を持っているので、よく兄と妹のようだ、と言われる姉弟だった。アディは制服でしか穿くことのないスカートの裾を揺らし、始業式前に友人との約束を果たすべく、大講堂に向かう大方の人の流れに逆らって校舎脇の一番大きな花壇に向かった。

 それなりに早い時間ではあるのだが、花壇のすぐ側には先客がいた。植え替えられたばかりの花々を間近に眺めようとしゃがみ込んでいるのは一人の少女で、艶めく茶色い髪を耳にかけた横顔には、遠くからでも一目で分かる、生命力に満ちた不思議な魅力があった。アディは遠目でその姿を確認した途端足が竦んだように歩みを止めてしまい、しばらく遠巻きに彼女を見つめるだけで時が流れた。が、そうしてばかりもいられない。彼女こそが、アディの内緒の待ち合わせ相手なのだ。アディは己を奮い立たせようと握った手を胸に当て、意を決して待ち人へと歩み寄った。

「リリー! おはよう」

「あ、おはようアディ! 久しぶり!」

 呼び声に応え、少女が立ち上がる。間近で見た彼女の笑顔は、アディには眼を細めなければ直視できないほど眩しかった。愛嬌のある整った顔を不意に近付けられ、アディはどぎまぎして足下に視線を落とした。リリーの悪戯っぽいヘーゼルの瞳は、アディの恥じらう様にキラリと輝いたように見えた。

「もう、なに照れてるの! アディは相変わらず可愛いなあ!」

 リリーの身長はどちらかといえば小柄な部類に入るのだが、それでもアディと並ぶと幾分か長身に見えるほどだった。気さくな調子で頭をポンポンと撫でられ、アディはくすぐったそうに小さく笑うと、革の鞄から平たい紙の包みを取り出した。

「これ、約束してたお土産。好みに合うかどうか分からないけど……」

「ありがとう! アディの好みでいいんだって、アディに送るためのレターセットなんだから」

「他の人にも送ってみる?」

 花のような、という表現がよく似合うリリーの笑顔に、アディもつられて微笑んだ。包みを開けたリリーは、嬉しそうにその内容と目の前の友人を見比べた。

「アディにしか送らないの。うわあ、やっぱりペステリアのは紙の質が違う! ……なんだかいい匂いもするし」

「あ、それはおまけ。香水を染み込ませた花びら、貴族の人の間で流行ってるんだって」

「……本当だ! もう、アディ大好き!」

 身構える隙もなく抱き締められ、アディはギョッと緊張の面持ちのまま棒立ちするはめになった。もしベルに見られていたら、問答無用で蹴倒されていたかもしれない。リリーはもう一度楽しげにアディの頭を撫でると、腕を取って歩き始めた。

「講堂に行こう! お土産のお礼、今度もクッキーでいい?」

「うん、その……お礼なんて気にしないでいいよ」

 控え目な言葉とは裏腹に、アディの気分は弾んでいた。学年一と噂される美少女が、自分のためだけに手作りのお菓子を振る舞ってくれるのだ。男子が聞いたらさぞかし羨むことだろう。

 大講堂には、すでに多くの生徒が集まっていた。入学式は二日後なので、この場にいるのは新二年生から五年生までである。どの生徒も一様に紺色の制服を着用していた。男子は丈の長いコートの襟から白の短いタイを覗かせており、女子は同様のタイを締めたジャケットと膝丈のスカート姿で、制服の上半身だけを見れば男女の差はほとんど分からないようになっていた。これらはペステリア国内の一般的な中等学校に共通の服装で、タイの色などが若干異なる程度で、学校ごとの差異はないに等しい。式典時にはこの正装でいなければならないが、暑がりの生徒は始業式が始まる直前までコートまたはジャケットを脱いでいるので、露わになった白いシャツが、そこだけ光を灯したかのように際立って見えた。

 アディとリリーが講堂西側の入り口をくぐって新四年生女子の列に加わろうとした時、東側に固まっている男子の一部が自分たちに注目しているのが分かった。リリーには、そこにいるだけで周囲を明るくする華やかさがあった。皆同じ制服に身を包んでいるのに到底同じ女子とは思えない、と話していた級友もいたほどである。アディは容姿の点では特段目立つ方ではないので、このような好奇の視線にはいつまで経っても慣れなかった。ただ、アディも全くの付属品というわけではない。新二年生の群れから飛び出してきたのは、下級生の少女三人組だった。

「シュッツァー先輩、おはようございます!」

「おはよう。今年もよろしくね」

 アディが手を振ると、三人組は喜色満面の顔を見合わせて互いに囁き合いながらいそいそと頭を下げ、出てきた時と同じように素早く列に駆け戻った。こんな時、リリーは頬を指先でつついてアディをからかうのだ。

「ふふふ、相変わらず『中央養成所のシュッツァー先輩』は女の子にもてるのね!」

「も、もう……違うよ、去年一緒に花の世話係をしたから……」

「舞踏会で女子の先輩方を取っ替え引っ替えしてたのは誰かな?」

「あっ、あれは養成所で騎士のダンスの方を習うから! 真面目に練習してる男子ってそんなに――」

「かっこいい、さすが未来の従士様!」

 容姿どころか、到底口でも敵わないな、とアディは情けなく俯いた。


 ペステリア国では中等学校からは男女別に教育を受けるため、異性と接触する機会は登下校時、学校集会または行事、一部の課外活動時等に限られる。多くの公立中等学校は男女共に入学を受け入れるが、入学式を終えると別々の校舎へと引き離されるようになっていた。初めから別学の学校と違い、同じ敷地内に男子と女子がいるにはいるので、積極的な生徒は異性の校舎に進入していくこともあった。当然ながら教員から注意を受けるので、真面目に過ごしている大半の生徒にとってみれば「バカな」行為である。しかし、本心では異性への興味を捨てきれないことに理解を示している生徒もまた、少なくはなかった。そして、そんな興味が強い生徒ほど異性の「お目当て」に対してきつく当たるのだ。

 アディはリリーのさっぱりとした人柄を好ましく思っている分だけ、一部の級友から猛烈に嫌悪されていることが気にかかっていた。理由は単純で、男子から非常に人気があるからである。表立って嫌がらせを受けたことはないと本人は語っていたが、陰口は常について回っている。ほとんどは「調子に乗っている」「男子に媚を売っている」という嫉妬心からくる益体もない内容なのだが、やや気の強い節のあるリリーは、身に覚えのない悪評が立つと、噂を流した本人たちに「言いたいことがあるならはっきり言えば!」と食ってかかるので、周囲を巻き込んで取っ組み合いの大げんかに発展したこともあった。そんな時、リリーはアディに黙って一人で行動に移すので、後からことの顛末を聞いて愕然としたものだった。

「だってアディ、優しいじゃない。絶対止めるでしょ? それに、これから従士になるんだから。変なトラブルには巻き込みたくないよ」

 そんな風に言われると、なにも言い返せなかった。本当は、アディが最も気にしているのは、リリーが人知れず傷付いていることだった。リリーの気丈な振る舞いは表向きのもので、実は心ない悪口を気に病んでいることは、時折見せる沈んだ表情に表れていて、アディの心配の種だった。なにもできずにいることが歯痒くても、それを口にすることもできなかった。

 ふと、細い指先に頬をつつかれた。今は確か、授業前の休み時間だったはずだ。教室の移動を済ませた後、いつの間にか物思いに耽っていたようだ。慌てて振り向くと、気付かないうちに隣の席まで来ていたリリーが笑いを隠しきれない様子でいた。

「ボーっとしてる! 従士候補生さん、素人の私に不意打ちされていいのかな?」

「リ、リリー……」

「アディが難しい顔してたから来てみただけだよ。じゃ、またね!」

 蝶のごとき軽やかさで、リリーは別の友人の隣へと舞い戻っていった。一言も反論できないでいたアディの顔を、隣に腰掛けていた背の高い金髪の少女が覗き込んだ。幼少期から仲のいい、幼馴染のツィスカである。

「なにか悩みごと?」

「ううん、そういうわけじゃないよ。ちょっと前のことを思い出してて……」

「ふーん、ならいいわ。あ、そうそう! 夏休みに聞いたんだけど、オスカーがね」

 オスカーとは二人の幼馴染で、隣の校舎に通う同い年の少年のことである。今ではすっかり不良として有名になってしまったので、また喧嘩騒ぎでも起こしたのか、と言いかけたが、ツィスカはクスクスと笑いながらアディにそっと耳打ちした。

「卒業までにリリーに告白する、って息巻いてたらしいわ。リリー本当にかわいいもんね、ついにあの暴れん坊の心も射止めちゃったのよ!」

 それは、思いもかけない知らせだった。またリリーの悪口がひどくならなければいいが、という懸念で少しだけ気が重くなる。他にも複雑な感情が湧いていたのだが、アディにはそれを自覚できなかった。「そうなんだ」としか答えられないうちに教師がやってきて、教室を埋め尽くしていたおしゃべりは波が引くように静まっていった。


 始業式の日の帰り道、アディは校門を出る直前で後ろからリリーに呼び止められた。

「や、アディ! 途中まで一緒に帰ろ!」

「あ、うん!」

 リリーは小走りですぐに追い付いたが、アディは足を止めた。立ち止まったリリーをさりげなく確認すると微かに息が上がっていて、少し遠くから走ってきたことが窺えたので、その場に留まってしばらく休憩してもらうことにした。

「ツィスカは?」

「今日鍵当番なんだって」

「そっか。そういえばカリーナもだ」

 普段一緒に行動しているカリーナが当番の仕事で少し遅くなるが、早く帰るよう言い付けられているため一人で帰るところだった、とリリーは言った。アディの方は近所に住んでいるツィスカと帰ることが多かったが、今日は久しぶりに武術の稽古を師匠に見てもらう約束があったので、早めに帰ろうとしていたのだ。思わぬ幸運に、アディは浮き足立つ寸前だった。

 上級生の女子の一団が二人の隣をすり抜けるとき、その中の一人がアディに気付いて、すれ違いざまに優雅な微笑みを見せながら小さく手を振った。出会ったときはアップにしていた髪が下ろされていたので印象が変わって見えたが、去年校内で開かれた舞踏会で短い間ダンスのパートナーを務めた先輩だ、とアディにもすぐに分かった。咄嗟にお付きの従士になったつもりで右手を左胸の前にやって男性式に返礼すると、傍らで眺めていたリリーが「わあ」と顔を輝かせた。

「かっこいい! 今の、従士のお辞儀でしょ? その辺の男子より決まってたよ!」

「……えっ? あ、つい癖で……」

 先ほどまでの気の入りようはどこへやら、途端に情けない調子で目を丸めるアディに、リリーは愕然と声を上げた。

「あー! もう、声かけた瞬間いつものアディに戻っちゃうんだから……ううん、そのギャップもいいんだけどね?」

 素直に褒められるとくすぐったく、アディは恥ずかしそうに直立の姿勢に戻った。リリーはすぐに楽しげな顔になると、人差し指で自分の顎を軽く叩きながらアディを上から下まで眺め回した。

「んー、スカートじゃなくて男子のコートなら完璧だったなあ。まいっか、早く帰らなきゃ!」

 スカートが似合わないのは分かっているので、アディは黙って苦笑を返した。

 帰宅する道すがら、会話の内容は自然と今しがたの出来事に移っていった。それなりに裕福な家庭の出身でも、遠方の女子校ではなくできるだけ実家に近い学校に通わされている女子生徒がいるので、アディのように従士養成所でいわゆる「お作法」を身に付けている生徒はそのような「お嬢さん」に好かれる、とリリーが主張した。アディがなんと答えたものか、と思案している間に、リリーはさらなる追撃を加えた。

「……というか、アディ男の子っぽいところがあるもんね! 女の子の味方というか……裏表ないし、嘘もつかないし。男子と戦っても勝てるんでしょ、かっこいいじゃない! だから女の子にもてるんだよ」

 リリーの力説に気圧されて、アディは困り果てていた。うまく言い返せないので、話題を逸らすことにした。

「……私のことはともかく、リリーは男子からすごく人気じゃない」

「あー、うん。そうかな」

 このように、当の本人はあっさりとしたものである。全く鼻にかける様子がないので、アディを含む多くの級友はリリーの男子人気を好意的に理解していた。言うなればみんなの人気者、学校のアイドルといった風情である。

「夏休み中に先輩に告白されたって……噂で聞いたけど」

「え? ……はあ、噂って嫌ね。断ったよ、当然」

 結果は予想通りではあったのだが、アディは不思議なほど安堵していた。アディにとっては断った理由などなんでもよかったのに、リリーは尋ねられる前に口にした。

「アディの方が強いし、かっこいいもん」

 息が詰まった気がしてリリーの方を向くと、ちょうど夕陽が彼女の頭で隠れていて、髪の毛がオレンジ色にきらめいて見えた。今の一言は冗談だったのか、リリーのこちらの反応を楽しんでいるかのような笑顔に、アディの思考が完全に停止した。心臓が掴まれているかのように錯覚して足を止めた場所は、奇しくもヘンペルとリリーやカリーナの住む町への分かれ道の手前で、二方向を示す立て看板の影が通りに長く伸びていた。リリーはフワリとスカートの裾を広げてダンスのターンをするように体の向きを変え、数歩遠ざかってから友人を振り返り、口元に手をかざした。

「クッキー、ちょっとだけ待っててね。また明日!」

「……気を付けてね」

 アディがやっとのことで絞り出した声は届いたのかどうか、リリーは弾む足取りで畑や牧場の間を抜けていった。放心状態でその後ろ姿を見つめていたアディだったが、一分も経たないうちに師匠との約束を思い出して大慌てで駆け出した。ヘンペルは夕日の方向である。西陽に腕をかざしても、アディの瞼に焼き付いたリリーの面影は消えてくれなかった。


 今、ベルの目の前には女子校舎に堂々と訪れる不届きな男子が立っていた。いくら先輩とはいえ侵入者には断固抗議するのがベルの信念なので、教室と廊下を分ける窓越しに非難の視線を浴びせることでもその態度を表明しているつもりだった。このつれない様子はさすがに効いたようで、フランツの表情はどこか引きつっていた。

「――だからさ、分かんねえところはベルに教えてもらえねえかなって……医術基礎、一だったんだろ?」

「先輩にお教えできることなどありません」

 思い出したように「僭越ですので」と付け足され、フランツは額に汗をにじませながら目を泳がせた。養成所で一緒に受けた学科の復習をしよう、と勇気を出して誘いにきたはずが、挨拶より先に「ここは男子禁制ですよ、バウムゲルトナー先輩」と取り付く島もなく、おまけに「先生を呼びますよ」ときたものだ。自称「こう見えて繊細」なフランツの心が折れるのも時間の問題だった。見れば、教室の中にいるほぼ全員の女子生徒が廊下から離れた方向に集合し、固唾を飲んで二人のやり取りを見守っている。誘いは諦めるにしても、この状況でもう少し粘らなくては男がすたる、とばかりにフランツは残り少ない気力を奮い立たせた。

「……あー、うん。もう少し一人で復習してみるな。あと、こっちでも敬語なんか使わなくていいぞ?」

「上級生に対して失礼ですので」

「そっか……ま、養成所は特殊だよな……」

 もうすぐ昼休みが終わる。時間的にはあと数分は余裕があるが、フランツの精神力はこれ以上保ちそうになかった。かろうじて「またな」と告げると間を置かず「もうこちらにはいらっしゃらないでください」と返ってきて、逃げるように教室から離れた次の瞬間、教室内で拍手が湧いたのが確かにフランツの耳にも届いた。

「ホフマンさん、毅然としていて素敵だったわ!」

「今の男子の先輩、ホフマンさんと同じ中央養成所の方だったの?」

 にわかに詰めかけてくる級友たちに、ベルはフランツに向けていたのと比べて格段に柔らかい面差しで臨んだ。ブルームガルトはペステリアに次ぐ都会だけあって、生徒たちも富裕層出身が多い。素朴な田舎者が大半のヘンペルとは対照的だった。

「従士候補生といっても、色々な人がいるから。ちゃんと規則を守る訓練生がほとんどだから、そう思ってくれると嬉しいわ」

「そうよね!」

「ホフマンさんは模範的な生徒だもの!」

「また養成所のお話を聞かせてくださる?」

 養成所の話、と聞いて真っ先に思い浮かんだのがアディの顔だったので、ベルの気分は急激に冷え込んだ。それが顔に出てしまったのか、級友たちの表情が一斉に曇ったので、ベルは慌てて視線を斜め下に向け、自分の髪を手で梳きながら頷いた。

「……ええ、私の話でいいなら」

 無邪気な女子生徒たちは、喜びをあらわにそれぞれの席に戻っていった。思わずホッと息をついていると、ずっと側に立っていた友人ヨハンナが、蜂蜜色の髪を震わせて笑ったのが見えた。

「ベルは人気者ねえ。うらやましいなあ」

「将来は護衛に従士を付けられる人もいるだろうし、興味があるんじゃない?」

 ヨハンナはやや幼げな茶色の眼でベルの方を見つめた。

「みんな、おっとりのんびりしてるもの。ベルみたいな子は少し近付き難いけど、かっこいいって評判よ」

 「あなたがそれを言うの?」と思わず口に出しそうになってしまい、ベルは自戒を込めて咳払いをひとつ残した。日々訓練に励む養成所の面々とは違い、この「おっとりのんびり」した少女たちは本当に傷付きやすいのだ。アディにするように思ったままを告げてしまえば、さめざめと泣き出してもおかしくない。できるだけ迂遠に、それが無理ならば責めるニュアンスをできるだけ排するように、考えたことを伝えなくてはならない。王宮には彼女らのような、否、より純粋で繊細な、鳥の羽のごとき女性が溢れていることだろう。騎士を目指すベルにとって、学校こそが最高の訓練場だった。例えば、ニコニコと機嫌よくこちらを見ているヨハンナに対する返事の正解は、こんな具合だ。

「……あなたもおっとりしていて……素敵だと思うわ」


 新学年になったばかりの放課後、まさか「ホフマンさんから中央養成所のお話を聴く会」が実現するとは思っていなかったベルは、空き教室の教壇に置かれた椅子に座っておよそ三十人の女子生徒の視線に晒されながら、内心で頭を抱えていた。同じクラスの女子でこの場にいないのは各種当番ややむを得ない用事のある生徒だけで、中には習いごとを休んでまで参加している者もいると聞けば、逃げ出すわけにもいかない。輝く多くの瞳を前にしてベルが顔を上げると、聴衆から拍手が起こった。

「ええと……このような会を開いていただけるなんて思っていなかったから……」

「堅苦しいご挨拶はいいのよ!」

 ベルと親しいヨハンナは、進行役に任命されたらしい。聴衆の最前列で彼女らの総意を代弁していると悟ったベルは、剣術や戦史について語っても興味を惹くことはないだろう、と素早く頭を切り替えた。

「そう。じゃあ、そうね……なにか質問したい人はいる?」

 それが間違いだった、とすぐに気付かされた。教室中で次々と挙手する生徒が現れ、ついには全員の手が挙がったのだ。自らも挙手しながら誰を指名するか迷っているヨハンナを見て、ベルは「全員手を下ろせ」と言うしかなかった。

「……誰からでもいいわ。オーレンドルフさん?」

「そもそも、ホフマンさんはなぜ養成所に入ったの?」

「兄が訓練生だったの。それで、私も養成所に行きたいと思って」

「お兄様に憧れているのね、素敵!」

 ベルが彼女の後ろの席に目をやると、そこに座っている少女から次の質問を投げかけられた。席順に質問すれば、不公平はないだろう。以降も同様だった。

「訓練生の方って、若い方ばかりなの?」

「下は六歳くらいから……上は大体十七歳ね。中学卒業後にすぐ従士の試験を受ける人が多いから」

「そんなに小さい子もいるのね。知らなかったわ……」

「同年代の男子と、恋に落ちたりしない?」

「少なくとも、私はしない。みんな家族のようなものだから……従士は主人に恋するものよ」

「まあ、なんてロマンチックなのかしら!」

「男の方ばかりなの? ホフマンさんはお一人でも大丈夫でしょうけれど……」

「中央養成所は入所基準が厳しいから、特に女は少ないわね。私の知る限り、一番多い時で四人だった。地方養成所ではもう少し増えるみたいだけど」

「ホフマンさんって、本当に優秀でいらしたのね!」

「……この先もそう評価されるよう努力するわ。今は私ともう一人、同い年の女の子の二人だけだし」

「もうお一方いらしたの?」

「どんな方なのかしら?」

 「もう一人」とうっかり口にしてしまったせいでアディのことを話すしかなくなってしまい、ベルは苦い気分で俯いた。

「……名前と見た目は男の子ね」

「男性的な方なの?」

「ううん、髪が短くてズボンを履いているから、幼年学校の男子とそう変わりがないというだけよ。背も低いしね。そうと知っていればちゃんと女の子に見える。性格は『小さな紳士』なんて呼ばれているのを聞いたことがあるけど、実際は女性の前で格好付けたいだけで、真面目な割にうっかりしているからほとんど台無しだし、やけに馴れ馴れしいし、思っていることがすぐ顔に出るし、いつもヘラヘラしていて気が抜けるし――」

 聴衆が呆気にとられていることに気付き、ベルはハッと言葉を切った。つい感情的になりかけていた。これでは以前フェリクスに指摘された通りである。冷静に、と自分に言い聞かせた。養成所全体の評価のために、癪ではあるが憎き相手のことも少しは褒めてやるべきだろう。

「……でも、どんな時も全力で物事に当たる姿勢は評価している……はず。戦闘中は恐ろしく冷静で、集中力も高くて、一瞬でも気を抜いたらいけないって教えてくれる……こともある。非力さをカバーするだけの技術と、それを身に付けるための努力は誰にも負けていないと思うし……一言で言うなら、見た目や普段の様子に反してすごく強い」

 級友の感動を誘うことには成功したらしいが、このまま終わらせるのはどうしても気に食わなかった。

「……私の次にね」

 無事に笑いを取ることもでき、ベルは胸を撫で下ろした。実際にはほぼ確実に勝てる分野もあればほとんど勝てない分野もあるので、一概にどちらが強いとは言えないのだが、そこは話の落ちとして許してもらおう。級友たちは口々に楽しげに感想を伝えた。

「きっと、情熱的な女の子なのね。お会いしてみたいわ」

「情熱は……そうね。ヘンペルの子だから、少し難しいかもね」

「ホフマンさんにそんな風に思ってもらえるんだから、きっとすごく素敵な方だわ」

「……そうかしらね」

「ベルがあんなに感情を込めて話すんだもの!」

 ヨハンナの台詞に、教室中が頷いた。そんなに感情が出ていたのだろうか、とベルが返事に窮していると、予想だにしなかった声が飛んできた。

「私その方とお話ししたいわ、ホフマンさん、お手紙を書いてもいいかしら?」

「……は?」

「『まだ見ぬ素敵なあなた』にラブレターね! 素敵!」

「私もお手紙を送りたいわ!」

 言葉もなく凍り付くベルを見て、ヨハンナがパン、と手を打った。静まり返る教室内で、ベルの目にはヨハンナの笑顔がフワフワと浮かんでいるように見えた。

「みんな一斉に書いたら、知らない人からたくさんお手紙が届いて、ベルのお友達が困っちゃうわよ。ベルが代表して書くのはどう?」

「ちょっと待って……」

 ところが、待ってはくれなかった。このような時のお嬢様の集団は、恐ろしく強いのだ。

「いいわね!」

「それがいいわ!」

「ホフマンさんが書くのなら、その方も安心ね!」

 きっと、頷くまで帰してはもらえないだろう。押し切られる、と覚悟したベルは、約三十人の期待の視線に不自然な笑顔を返した。

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