二話 気になるあの人
燃えるような赤毛は、夏の盛りには本物の炎のように見えるのだな、とマルセルは感心した。日が昇ったばかりの訓練場の、宿舎側の壁際に整列した教官たちを見比べていると、指導役でも数少ない女性であるエンゲルス教官の髪の毛は非常に目立つことが分かった。それが一際大きく膨らんで見えたのだから、その存在感はどれほど強烈だったことか。
「エンゲルス組ィ! 集合しろ! 外回り行くぞ!」
「はい!」
準備運動を終えたアディは、慣れ親しんだ担当教官の咆哮に鋭敏に反応した。特に敏感な方でなくとも、彼女の吠え声を無視できる者はそういないだろう、と新人たちにもすぐに分かった。アディは隣で足の筋を伸ばしているベルに視線で挨拶を残し、日陰で仁王立ちしているエンゲルス教官のもとへ駆け寄った。小柄で細身のアディと比べると二倍はありそうに錯覚してしまう大柄で筋肉質な彼女は、猛獣のような明るい茶色の鋭い眼光を少しだけ和らげて教え子を見下ろした。
「よしよし、今日もお前が一番乗りだ。おら野郎共! 早くせんか!」
次の瞬間には、すでに怒号が飛んでいる。気性の激しさは養成所随一と言われるエンゲルス教官は、すぐ隣で同じように腕を組んで訓練場を眺めていたプロイス教官のなんとも言えない表情にはまるで気付いていなかった。
「教官、プロイス教官が頭が痛そうです!」
アディは咄嗟に声を控えめにするよう進言したが、当のプロイス教官は「余計なことを言うな」と視線で訴えるにとどめていた。エンゲルス教官は隣の同僚には一瞥もくれず、訓練場中を睨め回しながら応えた。
「気にするな。ディートリヒのはただの二日酔いだ」
その声が大きかったのか、ベルの非難めいた眼差しがプロイス教官に刺さった。いたたまれなくなったらしく、彼もまた集合の号令をかけることにした。
「僕、ちょっとだけ分かってきた気がします!」
集合するなり宿舎から離れた位置に移動させられたプロイス教官担当の訓練生たちは、新人マルセルのやる気みなぎる嬉しそうな顔に揃って目を丸めた。
「プロイス組は頭が良い訓練生が多いっていうの、教官をサポートするためですね!」
「サポートなんてしたくもないけど」
ベルの冷たい物言いは今に始まったことではないのだが、プロイス教官の二日酔いの頭には余計にしみた。年長のハイノとフェリクスが揃って顔を背けながら肩を震わせているのを見て、教官は威厳を取り戻そうと一番年若い少年の頭に掌を乗せた。
「お前らはなぁ、教官に対する敬意が足りんぞ! クリーガーが妙な誤解をしてるだろうが!」
「ええ、全くの誤解ですね! だめだぞマルセル、いくら怖い先輩から逃げるような教官でも、頭脳でサポートなんておこがましいこと言っちゃ!」
「……は、はい! すみませんでした!」
ハイノのわざとらしい言い種に、ベルの眉間のシワが深まった。それを見たフェリクス・マルツは、フォローを試みようと静かに口を開いた。
「まあ、座学の成績が優秀な訓練生が多いのは事実ですよね」
フェリクスはプロイス教官の担当訓練生ではハイノより一歳下で、ベルから見ると一歳上の先輩にあたる。緑の瞳と珍しいストロベリーブロンドの髪の持ち主で、養成所内外の女性から密かな人気を集める美少年だった。大人びて理知的な少年だが、落ち着いた見た目の割に子供じみた一面をもつハイノと一緒になると気まぐれで悪ふざけに加担することがあり、その度にベルを呆れさせていた。
「はい! 僕、昨日の試験も満点でした!」
大喜びで挙手した明るい茶髪の少年は、マルセルが来るまでプロイス教官の担当訓練生で一番年下だったリヒャルトである。直属の後輩ができたことがよほど嬉しかったようで、高慢な性格がやや丸くなった、というのがベルら先輩訓練生たちの共通意見だった。とはいえ、まだあどけない少年には変わりない。ハイノは得意の意地の悪そうな笑みを浮かべながら片手でリヒャルトの髪をかき乱した。
「おおー、さすがリヒャルトは賢いな!」
「まっ、また子供扱いして! もう十一歳だぞ!」
茶番劇には慣れているのか、ベルは微動だにせずに教官に視線を送っていた。プロイス教官はベルがストッパーになることを切に望んでいるのだが、それは教官の仕事だろう、と少女の利発そうな瞳が語っていた。多少のんびりしすぎたようで、アディを含むエンゲルス教官が指導する訓練生の一団が、教官を先頭に養成所の門を抜けて外周のランニングに出ていくのが見えた。担当教官一名につき、訓練生はおよそ五名が割り当てられる。全員揃っての教練や科目履修式の座学の他に、規定の時間内であれば訓練の内容は教官の自由裁量に任せられることがあり、今がその時間なのだ。養成所時代の先輩後輩の仲とはいえ、エンゲルスに負けてばかりはいられない、とプロイス教官は背筋を伸ばした。彼が真面目な顔をすると、気楽に騒いでいた訓練生たちもすぐにその気配を察して口をつぐみ、姿勢を正した。
(こりゃ、本当に俺の方が助けられてるのかもしれんな)
若い彼らの敬意に応えるべく、教官は胸を張って訓練開始を告げたのだった。
昼食時の訓練生用食堂は、ほぼ全員の訓練生が詰め掛けるだけあって、祭りのような賑やかさだった。盛夏には身体を冷やす新鮮な野菜が重宝され、サラダボウルの内容の鮮やかさを見ても、中央養成所がいかに優遇されているかが窺えた。配膳の終わった長テーブルに着くなり、よほど午前中の訓練が過酷だったのか、フランツは使い込まれた木の天板に突っ伏した。
「ああー……エンゲルスに絡まれるとは思ってなかった……くそー……」
フランツの担当であるユング教官は穏やかな人物で、つまり熱血が売りのエンゲルス教官とは正反対なのだった。ユング教官の丁寧で優しい指導を気に入っているフランツにとって、熱い激励はこの上ないありがた迷惑ということらしい。彼の同期であるフェリクスは、行儀の悪い隣の友人の背に眼を落としてから、向かいの席に腰掛けたもう一人の同期生とその連れ合いに片手を上げて無言の挨拶を交わした。フランツは向かい側に人が来ようとお構いなしで、相変わらず怨嗟の声を上げていた。
「エンゲルス組のやつら、なんであんなクソ暑苦しいのに平気でついていけるんだよ……なあ、フェリクスもそう思うだろ……」
「コメントは差し控えるよ、そのエンゲルス組の方がいるのでね」
「は――?」
肘をついたまま顔を上げたフランツの視界に、ムッと唇を尖らせたアディと、その隣で不快そうな表情を隠しもしないベルの姿が飛び込んできた。フランツの頭に急に血が上ったらしく、顔がみるみる真っ赤に染まっていった。次に口を開いたのはアディだった。
「なに、エンゲルス教官の悪口? 聞き捨てならないな、受けて立つから決闘する?」
「バカ言え、お、お前、剣投げ捨てていきなりブン投げにくるだろ……じゃなくてだな! さっきの、撤回します……」
ベルの視線に晒されているからか、フランツの言葉は歯切れが悪く、眼は落ち着きなく泳いでばかりだったので、ついにアディが吹き出した。静かに微笑みをたたえていたフェリクスも、アディの笑顔につられて喉の奥から笑い声を漏らした。ベルは入所年次では三人の一年後輩に当たるが、養成所内で唯一同い年で同性のアディと一緒に行動しているからか、ちょうど今のように自分の同期生よりもアディの同期生と交流を持つことが多かった。照れ隠しか悔しまぎれにか、フランツが後ろに向かって撫でつけた短い前髪をクシャクシャにしていると、食事開始のラッパが鳴った。
「フェリクス、どんどんエッケルトさんに似てきたよね」
「ん、そう? 具体的にどのあたりが?」
無言でサラダをかきこむフランツと、粛々と食事を進めるベルの隣で、向かい合ったアディとフェリクスが和やかな雰囲気で話し始めた。アディはおかしそうに笑い、木のスプーンでイモの冷製スープをすくった。
「意地悪そうに笑うところ!」
「アディはなかなか鋭いからなあ……うん、尊敬する先輩だし、影響は受けてるだろうね。一緒にいると、少しずつ似てくるんじゃないかな?」
意味ありげな視線を感じ、丸パンをちぎっていたベルは怪訝そうな目を向かいのフェリクスにやった。ベルは、彼は彼で侮れない観察眼の持ち主だ、と密かに認めていたので、まっすぐに見つめられると内心を見透かされているように感じた。
「ベルも、アディから影響を受けてるでしょ?」
「そんなことはないと……思いますが」
ベルのフェリクスに対する敬語は、同じ担当教官に付く先輩への敬意と、警戒心の表れである。フェリクスは、無心にパンを頬張るフランツを横目に眺めながら続けた。
「そう? アディといるときの君、いつもよりムキになりやすいよね」
その場の空気が凍った気がして、アディは思わず食事の手を止めた。ベルは普段と変わらない仏頂面のまま、黙ってフェリクスを見据えていた。
「なにかにつけて文句を言うのも、アディに対してだけだし。ああ、アディにだけは遠慮がないってことかな?」
ベルは無言である。代わりになにか答えるべきか、とアディがベルの方を窺った瞬間、それまで口を開かなかったフランツがジロリと隣人を睨んだ。
「おい、あんまりベルをいじめんなよな」
「別にいじめられてないから」
助け舟を出したつもりが本人に反論されてしまい、フランツはばつが悪そうに肩を竦めた。
「……そっか、ならいいや。けどアディ、なんでお前が『そうだったの?』みたいなツラしてんだよ」
「えっ、だって……ベル、誰に対しても同じ態度だって思ってたから……」
「君はもう少し自信を持ちなさい」
フェリクスの声音が冗談めかしたものだったので、アディは内心で安堵しながら苦笑いを浮かべた。
「自信ってなにに?」
「親友に大切に思われてるってことだよ」
ベルの眉がつり上がった。
「マルツさん!」
あまり大きな声ではなかったが、アディとフランツは思わず持っていたものを取り落としそうになった。ベルはアディの手元を見てからフェリクスに向き直り、声のトーンを落として告げた。
「……親友ではありませんので」
「それは知らなかったな」
フェリクスは涼しい顔で水を飲み干した。アディはベルの言葉を気にしているのかいないのか、ちぎったパンにチーズを乗せながら一言だけ付け加えた。
「私は親友だと思ってるよ」
言い返さないまでもベルが苛立っていることを察し、フランツがフェリクスに目配せすると、彼は何も言わずに首を竦めて見せた。
しばらくして、ベルとアディは午後の学課訓練の予習をすると言って連れ立って席を立った。昼休みの時間は残り半分といったところで、食事を終えた訓練生たちは、それぞれ次の訓練に向けて移動する前に食堂で談笑することも多く、自主訓練を共にする約束をしていたフランツとフェリクスももう少しの間この場に残ることにしていた。並んで歩いていく少女たちの後ろ姿を見ていると、どうやらベルが何事かアディに不満を漏らしているようで、ベルの軽い肘鉄砲がアディの肩口に打たれる場面だった。フランツはすっかり気疲れした様子でテーブルに頬杖をつき、遠い目で離れていく背中を追った。
「俺が好きなのはああいう自然体のベルなんだけどな……」
「彼女、自分より強い人にしか興味ないみたいだけど?」
「お前はっきり言うよな!」
隣からの恨めしげな眼差しを受け、フェリクスは笑みをこぼした。悪気があるわけではなく、素直な感想だった。
「ベルがアディにこだわってるのは、座学とか槍とかで互角なのと、格闘技であまり勝てないからだよね。全部ベルの勝ちになったら……」
「は? アディにも興味なくなるってのか?」
フランツの疑わしげな面持ちに、フェリクスの表情はあくまで涼しげだった。前途多難な恋路を行く友人を応援するつもりが、つい回りくどい言い方になっていたらしい。
「ううん、もしかしたら心に余裕ができて、フランツにもチャンスが来る……かも?」
「疑問形なわけな! けど……ベル、よく『アディがいないと養成所に来る意味がない』って言ってるよな。あー、俺がアディだったらなあ……」
突っ伏した隣人の背中を、フェリクスが軽く叩いた。
「お前が好きなのはアディといるときのベルなんだろ。アディがいなかったら魅力が隠れたままだったかもしれないんだし、彼女に感謝するんだね。さあ、俺たちも行こう」
先に立ち上がって見下ろしたフランツの表情には、未だに悔しさが滲んでいた。自分が余計なことを言ったからか、と珍しく反省したのか、束の間考え込んでいたフェリクスは、フランツが完全に立ち上がる前に名案を思い付き、指を鳴らした。
あくる日、アディは養成所本部の事務受付にいた。先日送られてきた故郷の友人リリーからの手紙に返事を書いたので、養成所外へ郵送してもらう手続きをしに来たのである。受付の若い女性職員は、数少ない女子訓練生に愛想良く笑いかけた。
「シュッツァーさん、お友達とこまめに手紙のやり取りをしているのね。こうしてたくさん手紙をくれる仲良しのお友達がいるって素敵だわ」
「ええ、訓練中の励みになっています」
郵送料金の精算を終え、アディは封筒を女性に手渡した。ちょうどその時、背後の壁を一枚隔てた先には、ベルが静かにアディが戻ってくるのを待っていた。手紙の手続きには慣れたもので、すぐに用事は済んで、アディは機嫌良く会釈して受付から離れた。封書を棚に仕分けながら、事務職員たちは開け放たれた扉の向こうで肩を並べて立ち去る二人を微笑ましく見守った。
「シュッツァーさんは本当に爽やかね、男の子だったらすごくもてるんじゃない?」
「ホフマンさんと並ぶとまるで美少年と美少女って感じよね」
職員たちの噂の一部が耳に入り、ベルは不機嫌そうにアディの手首を掴んで宿舎への渡り廊下へと足を速めた。
「え、どうかした?」
「アディが調子に乗るといけないから」
困惑した様子のアディに、ベルはぶっきらぼうに返答した。アディは女性に弱い、というのはベルの再三の指摘だが、実際アディは女性からの頼まれごとはなんでも引き受けてしまうようなところがあった。確かに、伝統的な本来の騎士は女性に奉仕するものである。将来のために受けてきた教育の成果と言えば聞こえはいいが、面倒ごとに巻き込まれてもアディが姿勢を改めようとしないことは、ベルの機嫌を損ねる一因となっていた。ここで少し褒められたからといってさらに気を大きくしてはいけない、と判断したのだ。それに、一応他の理由も用意してあった。
「お祝いパーティーの買い出し、手伝うってマルツさんに約束したでしょ」
「あ、そうだね! 急がなきゃ」
所内では式典時にしか見ることはない、養成所の制服たる赤茶色のサーコートは、訓練期間中の外出時には着用が義務付けられている。着替えなくてはいけないので急げ、という理屈だった。後付けの理由にも拘らず大真面目に頷くアディの単純さが、今は幸いに思えた。
夏の終わりが近くなり、今期の養成所生活も終盤に差し掛かったある夕食後のことだった。この夏に中等学校を卒業した後、晴れて騎士候補生である従騎士の仲間入りを決めたハイノのささやかな祝賀会が開かれた。発案はフェリクスで、ハイノの同期生やプロイス組の後輩訓練生たちの他、個人的に親しかった訓練生や教官が食堂に招待されていた。訓練で一緒になる機会が多かったアディら一期違いの後輩たちは、過去にほぼ例外なくハイノの悪ふざけの餌食になっていたので、自然にベルとフランツが同じ空間に訪れることになった。その場の思い付きにしては大したものだ、とフランツは友人を大いに讃えた。職員のはからいで、食堂の配膳台の前に普段は使われない大きな丸テーブルが用意され、つまみ程度の軽食が並んでいた。一同はその周りを囲んでいた。
「いやー、皆さんにお集まりいただけるなんて恐縮しますなあ!」
炭酸水の入ったグラスを片手に後ろ頭を掻きながら、芝居がかった口調で主役のハイノが挨拶した。
「前も言ったがな、俺の弟子なら必ず行けると信じてたぞ!」
満足そうな笑顔でプロイス教官が言うと、年少の後輩たちが嬉しそうに頷いた。親しい先輩の祝いの席とあって、ベルの表情はいつもより格段に柔らく見え、それを見たアディが嬉しそうにフランツに目配せしたほどだった。ハイノは訓練着の腰に空いた手を置くと、天井を仰ぎながら照れ笑いを見せた。
「えー……あ、今日くらい真面目に喋ります。俺がここに来たのは七歳の時で、年上の同期はもう学校卒業していなくなっちまったけど……そうだな、俺らの期のやつらは変なやつというか問題児が多いって言われてて……ま、主に俺が悪いんですが……」
彼が完全なるアドリブで話していることは明らかだったが、聴衆は静まり返って一言一句を聞き漏らすまいとしているのがベルにも伝わってきた。今日ばかりは途中で横槍を入れる者はいないだろう。多くの訓練生は、中等学校の卒業に伴い従士として職に就く。養成所での在籍年数は、入所時の年齢によって大体決まっているのだった。
「十年一緒にやってきたのに、未だにフルネーム言えないやつもいますし……えー、ピア……?」
「僕のことはいいじゃない!」
聴衆の一人から控えめな野次が飛んだので、主役は「そっか」と話を戻した。
「けどまあ、おかげで十年間ずっと楽しかったです。みんなありがとな。それと、後輩諸君には多大なるご迷惑をおかけしたっつーか、俺らの一期下の辺が優秀すぎるから俺が結構とばっちり食らったんだけど! ……や、からかったりして悪かったです。プロイス組には賢くて素直なイイ子が揃ってるから、先輩すっげえ助かりました」
ハイノは手元でグラスを傾けながら、演説を続けた。
「あと、教官の皆様、特にプロイス教官には長いことお世話になりました。プロイス教官、俺がいなくて寂しくても飲み過ぎないでください、それと奥様とお幸せに。従騎士になっても時々遊びに来るんで、よろしくしてやってください。最後に、この会を企画してくれたフェリクスにはほんとに感謝してます……終わり、乾杯!」
湧きかけた拍手は、唐突な乾杯の音頭にかき消された。一足先に夢を叶えて多くの仲間に囲まれているハイノの屈託ない笑顔は、ベルの瞳に眩しく映った。
「おう、フェリクス……は行き先別だったな。ベル、先に行って待ってるな!」
「はい、すぐに追い付きます」
ベルが思いのほかにこやかだったので、順に乾杯を求めにきたハイノが意外そうに瞠目した。ベルは相手の反応を見て、自分の顔がなにかおかしいのだろうか、と目を伏せた。ふと肩が触れる距離で主役と乾杯を交わしたばかりのアディの方を窺うと、穏やかな微笑みと目が合った。
「ベル、今日は楽しそうで嬉しいな」
「……なんでアディが嬉しがるの」
ベルの口調には多少棘があったが、その面差しには照れが見え隠れしていたので、アディは笑みを深くした。否定しなかったということは、本当に楽しんでいるということなのだろう。
アディが用意された軽食をつまんでいると、視界の端で何かが素早く動いた。ベルの肩越しに確認すると、数人を間に置いた位置のフランツが必死の形相で「ベルと話させろ」と言葉もなく主張していた。まもなくフェリクスが彼の背後から現れ、何事か耳打ちした直後にごく自然にアディとベルの間に割り込んだ。
「やあアディ、楽しんでるかい?」
「うん、おかげさまで! ……なんていうか、すごいね」
「なんのこと?」
フェリクスの意味深な笑顔の背後では、フランツとベルが軽食の感想を並べ合っていた。アディはふと心配そうに眉をひそめたが、今夜のベルならフランツを落ち込ませるようなきつい物言いは避けるだろう、とすぐに思い直した。フェリクスはそんなアディを興味深そうに眺めていたが、一方のベルは背中合わせの彼を気にしていた。
「……ねえ、フランツ」
「あ、このハムもうめ――っと、なっ、なんだ?」
ベルの顔が思ったよりも近い位置にあったので、フランツは思わず後退りそうになった。急に心臓が跳ねた気がしてハムをつまんでいた手を無意識に胸に添えた時、ベルが低い声で耳元に囁いた。
「マルツさん、あんなにアディと仲が良かった?」
「は? ベル、ま、まさかフェリクスのこと……」
「そうじゃなくて、アディの方! なんだかニヤニヤしてない?」
もしかすると、己の恋路に立ちはだかっているのは同期の女子なのではないだろうか。真剣に聞いているふりをして額に手を当てながら、フランツは心の底で嘆いた。
楽しい祝賀会の夜から約十日後、今期の訓練は全て終わり、訓練場で全訓練生が集められて修了式が行われたが、それももう三十分前のこととなった。基礎自治体の各種学校の新学年が始まるまで、いつの間にかあと数日となっていた。まだ学校生徒である訓練生の多くがペステリアから一斉に各々の故郷へと戻るため、養成所の門前には長距離馬車がひしめき合う状況だった。これも毎年二回の風物詩である。中央養成所の建つ首都出身者はリヒャルトを含めた十人弱であり、残りは地方へと散っていくのだ。
砂埃が舞うなか、ベルは一般的な女性の私服であるディアンドル姿で、革の鞄を抱えて門外の壁際に立ち、同じブルームガルトに帰郷するフランツと一緒に乗るはずの馬車を待っていた。隣にはチュニックに膝下までのズボンを合わせた少年の服装に身を包んだアディが、トランクを抱えて砂が目に入らないよう瞼を半分閉ざして立っていた。二人の前を通過した馬車はまだ数台で、御者が銘々の行き先を告げると、それに応じたわずかずつの訓練生を乗せて走り去っていくのだった。手持ち無沙汰のアディが話しかけようとしたのと、ベルが口を開いたのは同時のことだった。
「……そうだ、戦史Ⅲの試験の成績、まだ聞いてなかった」
「え? 一だったけど……」
ペステリア国の学校の成績は五段階で評価され、一が最優秀、五が不合格といった具合で、数が少ないほど良いことになっている。砂埃のせいもあって、ベルは苦虫を噛み潰したような顔になった。
「私も一。また同じか……」
「えー、コリント! コリント行き!」
御者の声が、ベルの呟きに重なった。マルセルが小さな体に不釣り合いな鞄を引きずって馬車に乗るのを見送ると、次に門前に進み出た馬車に見覚えがあったらしく、アディがそちらを注視した。
「ヘンペル行きの馬車だよ! ……お、そこにいたのかアディ!」
ブルームガルト行きより先にアディが乗る馬車が来ることは珍しかったので、ベルが不思議そうに目を瞬いた。御者の中年男性は、帽子を上げて少女の二人組に挨拶した。アディは慣れ親しんだ彼の姿に安堵したらしく、顔を綻ばせながら御者にトランクを渡した。
「お世話になります! 今年も暑いなかありがとうございます」
「ああ、訓練お疲れさん。アディ一人なら軽いから馬もそんなに疲れんで済むさ。ベル、何年か見ないうちに一層美人になったなあ!」
ベルは精一杯の愛想笑いを返したつもりだったが、不自然さは否めなかった。御者は気にする様子もなく続ける。
「ブルームガルトの方じゃ昨日大雨が降ったそうでね、郵便屋に聞いたよ。道が悪いだろうから、もう少し待たないといけないかもな」
アディが表情を曇らせた。
「えっ、ベル……フランツもだけど、早く帰れるといいね」
ベルは肩を竦めた。ヘンペルの方がずっと首都から遠いのは、よく知っていることだ。アディを見送る機会はそう多くはないので、この期に「小憎らしいライバル役」の去り際を眺めるのも悪くないか、と思い込むことにした。アディは身軽な動作で馬車に乗り込み、窓からベルに手を振った。
「じゃあベル、また冬に! 元気でね!」
「風邪なんか引いたら許さないから」
「……えへへ、ベルだって」
鞭が空を切る音がして、四頭立ての馬車はゆっくりと車軸を軋ませ、そして走り出した。アディはいつものように、見えなくなるまで窓から手を振っていた。肩口で小さく手を振ってから空を見上げたベルの瞳には、昼前の青空が映っていた。