表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
双葉の従士  作者: 日辻
18/20

十七話 「少年」は見上げられる

 傍から見れば、まったく意味の分からない動作に映るだろう。カイン流の徒手格闘はペステリア人には馴染みがないばかりか、格闘術をたしなんでいる人でも一見しただけでは「これ」が格闘の動きであるとは理解し難いものだった。前後に足を開いて立った姿勢から素早く伏せる様は、激しい腕立て伏せのように見えなくもない。そこから片脚と片腕を振り上げて身体を反転させると、背面跳びのような格好から再び俯せに戻り、弾むように立ち上がって元の立位へ――これがアディの得意とする「捻って転ばせる」技の、いわば型のようなものなのだった。

 シュッツァー家の庭は広く設置物もほとんどないため、アディが自由に走ったり宙返りしたりしていても危険のない、のびのびと修行するのにあつらえ向きの場所だった。それどころか、木や麦藁で作られた大きな人形や、弓射や投擲の稽古のための丈夫な的が取り付けられた一角もあって、まさに武人の屋敷といった風情である。シャツに半ズボンの軽装で同じ技を練習していたアディが何度目かの立ち姿勢に戻ったタイミングで、屋敷の離れから姿を現した小柄な老爺が声をかけてきた。

「お嬢様、今朝も励んでおられますなあ」

「先生! ちょうどよかった、ネンギの出来を見ていただこうかと」

「小さく速う回れておりますな、小生から申し上げることなどなにもありますまい。元々お上手でいらしたが、本当に上達なされました」

 砂の付いた手を叩き合わせながら、アディは嬉しそうにはにかんだ。カイン翁はペステリア人ではない。遠い東の国の出身で、本当の名は「カイン」ではないのだという。実のところ、アディは彼の年齢すら知らなかった。初めて会ったのは四歳の時だが、老人はその頃からなにも変わっていなかった。

「先生のおかげです。この家にいられるのもあと一年ですが、どうかそれまで――」

 と、アディの声を遮るように小鳥が舞い降りてきた。笛のような高く長いさえずりに目を丸めて雲ひとつない天を仰ぐ弟子に、老爺は片手を振って「気にするな」と合図を送ったが、少女の注意は完全に真っ白な小鳥に引き付けられている。カイン翁がローブの下から枯れ枝のような腕を差し出すと、小鳥は妙に乾いた羽音を立てながら小さな螺旋状の軌道を描いて降下し、シワだらけの掌に衝突して平らに潰れた。羽根の一枚も舞わない異様な光景に、アディはただただ唖然とすることになった。老爺が「小鳥」を拡げて見せると、ようやくそれが折り畳まれた一枚の紙であると理解できた。

「これは、旧い知音からの文でございます。お珍しいですかな?」

「あ、いえ……珍しいといいますか……」

 理解はしたが、納得できたわけではない。真顔で白い紙片を凝視していると、カイン翁は小首をかしげ、そして楽しげに口髭の下の唇をたわめた。

「もしかすると、これが鳥のなりをして飛んでおったのに驚いておられるのですかな。これも仙術のひとつでございます」

「……それはセン術というものなのですか?」

「左様でございます、お嬢様もいつも仙術の修行をしておられるではありませぬか」

「えっ、ええ⁉︎」

 朗らかに笑う師を前に、アディはうろたえた。広い世界のどこかには魔法使いもいると聞くが、短い人生で一度も見たことがなかったのである。こうも唐突に「本物」を見せられると人智を超えた奇跡の存在を信じさせられるが、果たして自分はそのような術を教わっただろうか? 年老いた師から学んだことは、徒手格闘と投擲がほとんどだったはずである。目を白黒させる弟子に向かって、カイン翁はこともなげに言葉を継いだ。

「お嬢様は稽古を始めるに当たってなにをなさいますか」

吐納トノウと調息を――」

「左様、簡単に言えば意識した呼吸ですな、それは仙術の一端でございます」

「そうだったのですか!」

 素直に驚愕する少女を、老人は微笑ましく見守った。「先生にもそれを飛ばせますか」と言われて元通りの鳥型に折った手紙に庭中を一周させると、半分開かれたアディの口から感嘆の声が漏れる。輝く瞳を目の当たりにして、老爺から微笑みが絶えることはなかった。

「本当にすごい技ですね! 私にはなにがどうなっているのか!」

「これはそれほど大それたことではありませぬが……いや、この年になってもまだ楽しみが残っておるとは幸甚の至りですな。お嬢様がこれほどお喜びになるとは存じませなんだ」

「ふふ、今のはとても楽しかったです。先生は不思議な技をお使いになるのですね……ああ、お手紙が届いたのに邪魔をして申し訳ありませんでした」

 カイン翁は首を横に振った。アディが視線を的の掛けてある方へ向け、静かに構えを取って徒手の稽古を再開したところで、師は手紙を読む時間を与えられたことを悟る。小さな背に頭を下げて離れに戻る途中、近所の子供たちが元気に挨拶しながら敷地の外を通り過ぎていった。ジーメンス郡の周囲を取り巻く山もすっかり紅葉に染まり、もうじき冬支度が必要になる頃のことである。


 幸い、始まったばかりの新学年の授業はベルがついていけないほど進んではいなかった。熱が引いて体調が全快してからのベルは、文武両道の秀才と呼ばれるにふさわしい勤勉さで多少の遅れを一瞬に取り戻し、元の「孤高の優等生」の位置に収まったのだった。アディとの文通も何事もなく続いていたが、手紙の中ではあの雨の日の出来事はまったくの瑣事としてベルの中で処理されて話題に上らず、風邪を引いて一週間近く寝込んだことさえ「少し体調を崩した」という程度の表現にとどめられた。ベルの意を酌んでか、ヨハンナもあれ以来アミュレットの件に触れることはなかった。

 最近のもっぱらの話題といえば、近付きつつある収穫祭についてだろう。騎士行列のない今年は、歌ったり踊ったりご馳走を食べたりといった精霊に感謝する「いつもの」祭の期間となる。アディからの手紙にも「例年通り衛士の務めを果たす」と書かれていて、ベルは一年ぶりに武門と一般家庭の差を思うこととなった。無邪気な友人たちは、そんなアディについてこんなことを語る。

「小説なら、ホフマンさんとアーデルフリート様は内緒で入れ替わるのよね。そしてアーデルフリート様は町娘になって、初めてお祭りを楽しむの!」

「どうせなら二人でお祭りの町に出かけないと」

「あら、衛士はお祭りの間はずっとお仕事なのではなくて? 自由に出歩くことなんてできるのかしら」

「そこはね、町娘になったアーデルフリート様がホフマンさんを無理やりにでも連れ出すのよ!」

「うふふ、お姫様と素敵な泥棒さんのようね。ね、ミュールマイスターさん」

 一応同意を求めておこうか、と周囲の声にも上の空といった風情のベルの顔を見て、ヨハンナは微笑みながら肩を竦めた。快復してからのベルは物思いに耽ることが増えたように感じていたが、ヨハンナの気のせいではないらしい。

(私、どうかしていたのかしら……)

「ホフマンさん?」

「――なにかしら」

 涼しい顔でベルが声の主に向き直った時には、他の数人の視線も集まっていた。どうやら、何度か呼びかけを無視してしまっていたらしい。ベルはすぐに「ごめんなさい、ぼんやりしていて」と付け足したが、こちらを見ていた級友たちが一斉に笑顔になったので、首をかしげることになった。

「珍しいわね、ホフマンさんでもそんなことがあるなんて」

「収穫祭のお話をしていたのよ」

 ベルはかろうじて薄い笑みを浮かべた。学校でたわいない会話に囲まれていると、まるで剣をどこかに置き忘れてきたかのような、物足りない気分にさせられることがある。騎士になって王族の側に侍ることになれば、こんな気持ちを毎日味わうのかもしれないと想像すると、少しだけ憂鬱になった。今はただ、無性に養成所での訓練の日々が待ち遠しかった。


 日照は日ごとに短くなり、それに従って気温は下がっていく。高地ジーメンス郡では霜が降りるようになった頃、その年の収穫祭が始まった。

 期間初日の日の出前、着替えを済ませたアディは自室のにいた。つまりは、屋根の上である。霧に包まれた東の空はほのかに明るくなっていたが、普段農村を他の都市から隔絶している山脈の稜線は真っ白に覆い隠されている。こうなると空が無限に広がっているように錯覚させられ、奇妙な落ち着かなさを感じた。

 静寂に包まれた霧の道を、確かな足音が近付いてくるのが聞こえた。アディが下界に目を向けると、若草色のローブを纏った顔見知りの若い僧が、雲を分けるようにしてシュッツァー邸に進んでいるところだった。僧侶が迎えに来たということは、そろそろ今年の役目が始まるということに違いない。彼はシュッツァー家の敷地を囲む柵に付けられた門の前で足を止めると、さもそれが決まりであるかのように、この近辺で一番大きな屋敷の屋根を見上げ、そこに腰掛けている少年のような衛士に手を挙げて挨拶した。

「若君、おはようございます」

「おはようございます! 今父を呼んで参りますね」

 僧侶はニッコリと微笑み、ローブの袖に手を引っ込めた。アディはマントの裾が引っかからないようにベルトに入れ込むと、フワリと屋根から飛び出して玄関の庇で一度跳ね、軽々と玄関先に降り立った。この軽業めいた移動術も、カイン師の教えの賜物である。カイン翁とアディを見慣れているからか、若い僧は今更驚こうとはしなかった。

 僧と並んで寺院を目指す父アウグストの後ろを歩きながら、アディは腰の剣帯から提げた剣の鞘を持って、こっそりと軽く持ち上げていた。シュッツァー家に先祖代々受け継がれてきた、年季の入った長剣だが、例によってアディには重すぎる代物なのである。長剣の稽古はほとんど養成所でしかしていないため、アディの主武装は初めから短剣の方――これも同じく先祖伝来のものだった。前を行く二人の大人は、そんな少女を一顧だにせず雑談を続けている。

「――しかし、若君も来年からはヘンペルをお出になって、衛士の任を一度解かれるのですね。衛士殿もお寂しいでしょう、時の経つのは早いものです」

「まだまだ子供だと思っていたんだが……まあ、我が家にはまだ次男・・がいるからな。婆様は下の子には甘いし、癇癪が減ると思えばかえって気楽だよ」

 公式には仕える家を失っていることになっているが、シュッツァーの家は今でもこうしてヘンペルの人々から敬意を払われる存在であり続けていた。だが、アディはそれを重荷だと思ったことはない。ペステリア中に広く募ったところで人が集まらないであろう辺境のジーメンス郡では、シュッツァー家のような古くからの従士の家が従士団員を兼ねるようになっていた。アディらが守るべきは、かつての領主一家からヘンペルの民に変わっていたというわけである。かつて領主と呼ばれていた者が領内の運営に心を配るように、農民たちが動物を育て畑を耕すように、アディの中にはごく自然に領民を守護する心が芽生えていた。

 シュッツァー家から東へ向かってジーメンスに近付いていった先に、ヘンペル唯一のゲニー教の寺院がある。昨年アディとアウグストが詰めていた天幕は、僧侶たちによって寸分違わぬ位置に張られていた。静かに薪木の炎に照らされる天幕を見ると、思い出さずにはいられない。

(去年はここに、リリーが来てくれて……)

 連なるのは、今思い返しても胸の棘が痛む記憶である。アディは努めて考えないように気持ちを切り替え、この場で最も身分の高い人物に挨拶しようと寺院の内部を覗いた。

「おはようございます! 僧正台下、シュッツァーのアーデルフリートです」

「おや、可愛いのが来たぞ」

 何人かの僧と共に振り向いたのは、もうじき八十歳になろうかというヘンペル寺院の首座、ヘルゲ・ウッフェルマン僧正である。彼はゲニー教の高僧であると同時に、長老としてもこの辺境の人々に親しまれていた。周囲の僧たちが若い衛士に遠慮して下がっていくので、アディは軽いお辞儀で謝意を示してから僧正に歩み寄っていった。白い石造りの寺院の中は薪を燃やす暖炉で暖められていたが、老齢の僧正が座る側にはさらに絵付けの施された美しい火の石の水鉢が置かれていた。僧正の足元に片膝をつき、アディは改めて挨拶を送った。

「ご無沙汰しておりました。今回もよろしくお願いいたします」

「はい、こちらこそよろしく。坊は大きくなったねえ、もうそんな長い剣が振れるのかい?」

 年老いた僧の短い白髪とシワだらけの皮膚の下では、茶目っ気のある青い瞳がキラキラと知的に輝いている。まるで幼児に話しかけるような声音がくすぐったく、アディは俯き加減だった顔を上げてあくまで真面目に言い返す。

「台下、私はもう十六です」

「ええ、知ってるとも。坊の親父殿が生まれる前からここにいるんだからね――さあ、お立ちなさい。顔を見せておくれ」

 とぼけているようにも見えなくはないが、これでも彼はヘンペル一の地獄耳を持つ識者として知られている。油断ならない老爺という点では、カイン翁を上回っているのかもしれない。僧正はしげしげとアディの顔を見上げながら、白いローブの下で座る姿勢を整えた。

「他のご家族やカイン殿はお元気かい」

「はい、おかげさまで――あっ、そういえば! 台下にもご覧いただきたいものが。慰霊祭の折はゆっくりお話できませんでしたから」

 アディがシャツの下からベルと揃いのアミュレットを取り出すと、僧正は懐からルーペを取り出して興味深げに観察し、穏やかな面持ちで頷いた。

「ほう、ほうほう、石の、か。本物は初めて見たな。これは坊によく合っているねえ。ご加護がありますよう」

「ありがとうございます。ブルームガルトで養成所の友人と一緒に選んだのですよ」

「ブルームガルトね。坊は遠くまで行けていいなあ」

 そこへアウグストがやってきて、アディと同じように僧正に半分からかわれながら挨拶を終えた。霧はまだ晴れないが、空はそれなりに白み始めたようである。そろそろ寺院の前に祭りの音楽を奏でる楽隊が現れる頃だろう。衛士の二人は厳かな空気の満ちる建物から出て、祭事の始まりを待つことにした。


 子供たちの笑う声が四方から溢れてくる。両脇に所狭しと屋台の並ぶ大通りは、香ばしい香りと広場で奏でられる賑やかな音楽に満ち、空気さえ収穫祭の喜びに輝いて見えた。花飾りをマントに付けて、ベルは通りの端をゆっくりと歩いていた。

 まだ午前中だというのに、周囲には早くもできあがった男性たちがおぼつかない足取りで肩を組んで歩いていた。ベルは近所の住人が出している焼き菓子の屋台で焼きアーモンドの糖蜜がけを一袋買い求め、大通りを抜けて細い裏道を通り、自宅から最寄りの寺院を目指すことにした。地元住民の土地鑑は人混みを避けるために抜群の効果を見せ、ベルはお祭り騒ぎに背を向けて住宅街の隙間を縫うように歩いていった。独特の浮き足立つ気分は自然と歩みを速め、ベルの注意力をほんのわずかに削いでいたのかもしれない。狭い交差点で家の陰から聞こえてきた小さな悲鳴は、ベルの後頭部に刺さったかのような驚きを与えた。

「……あいたっ!」

 傾聴していたわけではないが、同年代以下の少女の声に間違いはないだろう。ベルはアーモンド菓子の紙袋を小脇に抱え、急いで来た道を引き返した。

 果たして、ベルが素通りしたばかりの角を曲がった先には、茶色いマント、もしくはローブの後姿がうずくまっていた。小さな背中は丸められていて、なだらかな稜線の向こうに癖の強い亜麻色の髪がフワフワと跳ねているのが目に入る。ベルは背後から近付いていき、そのまま落ち着き払って声をかけた。

「……大丈夫?」

 亜麻色の毛玉にも似た頭が弾かれたようにビクリと揺れる。しゃがみ込んでいた体はあまり機敏には見えない動作で伸ばされていき、小さく「うわわわ」と怯えているらしい声が漏れた。そうして立ち上がってみれば、相手が身に付けていたのはゲニー教僧侶のローブであることが分かった。おずおずと振り向いた目前の人物の顔を真正面から見据えると、ベルは真っ先にこんな印象を持った。

(田舎臭い……)

 そばかすだらけの赤い頰とボサボサ頭に地味なローブを纏っているのだから、仕方のない感想なのかもしれない。身長はベルと同じかわずかに低い程度に見える。思わず睨んでしまっているらしく、尼僧らしき少女は怯えた目でベルを見返していたが、やがてケロリとした様子で口を開いた。

「なあんだ、あたし連れ戻されるんじゃないんですねえ」

「……」

 無言のベルに圧力を感じたのか、少女は首を竦めた。話を聞いてみると、この少女はベルが今向かっている寺院へ行く途中の尼僧見習いで、年上の僧侶から言伝の使いを頼まれていたのだが、その帰り道で石畳の出っ張りに足を引っかけたのだという。フラフラと屋台に寄り道していたことが露見したのかと思った、という旨の内容を語る彼女の表情は実に晴れ晴れとしていて、ベルを唖然とさせた。

「寺院に行かれますか! あたしが案内しますよ!」

「結構よ、迷わずに行けるから」

「あれ、観光客の人ではなかったのですか」

「私が観光客ならこんな裏道は使わない」

「それもそうですねえ」

 少女はニコニコと笑っているが、ベルは内心で大いに苛立っていた。少女の能天気ぶりが気に入らないとでもいうべきか、アディを相手にするときとは一味違った苛立ちは、尼僧には全く感じ取れていないようで、それがさらに苛立ちを誘った。

 道すがら、少女は聞かれてもいない身の上話を始めた。

「あたし、ヘンペルから母さんと二人でブルームガルトに来たんです。お金がなくて学校には行かれないから、こうやって尼の修行を」

 使いの途中であるはずなのだが、彼女に先を急ごうという意思は欠片もないらしい。のんびりとした歩調の尼僧を横目で眺めるベルだったが、聞き慣れた地名にはつい反応させられた。

「……ヘンペルから?」

「はい! あれっ、ヘンペルを知ってますか?」

「……知り合いがいて。シュッツァーというのだけど」

 尼僧が両眼を見開く。それで余計に幼げな印象が強調され、ベルに多少の不快感を催させた。

「へっ、シュッツァーって、あのシュッツァー屋敷のシュッツァーですか! ジーメンスの衛士の!」

「……ええ。有名なのね」

「有名もなにも! 昔と比べたら落ちぶれちまったみたいですけど、立派な武門のお家ですよ。ヘンペルのみんなを守ってくだすってるんです」

 「そう」とベルは小さな頷きだけを返した。アディに対して劣等感など覚えたことはなく、今この瞬間もそうあり続けていたが、出自の差に関してはいかんともしがたい。ベルはそれきり口を閉ざし、移動に集中することにした。

 裏道を使ったことで、寺院には十分と経たずにたどり着くことができた。参詣客の波に逆らってやってくる人影は、壮年の僧侶である。彼は若い尼僧へと一直線に進んでくると、呆れ半分といった風情で少女を叱責する。

「ドロテー! 早く戻ってこいと言ったろう!」

「ああっ、すみません、あたし――」

 ベルは静かに尼僧の一歩先に進み出た。日向の空気を蹴る脚にヒンヤリと乾いた裏通りの風が纏い付いたが、まったく気にならなかった。

「申し訳ございません、私が道案内をお願いしたもので。遠回りさせてしまったようですね」

「……へっ?」

 庇われているとも知らず、正直者の少女は怪訝な顔で栗色の後頭を見上げた。僧は参拝者には丁重な態度を取ることを知っていて、ベルが緩衝材となったわけである。

「ああ、そうでしたか! 当院へようこそ」

「あのう……」

「ご案内に感謝します」

 まさかこの程度の方便が理解できないわけでもないだろう、とベルはお辞儀の敬礼を残して歩き去る。尼僧は呆然とベルの横顔を見送っていたが、その姿が寺院の中に消えてようやく彼女の心遣いを察したらしく、急に瞳を輝かせた。

「ドロテー、早くしないか! 今年は選定会議が難航しているんだから――」

 苛立つ僧侶へ、こりた様子もなく少女がすがるようにして声を上げた。

「い、今の人はどうですか! 確かここらの人ですし、心清らかで優しくて、しかも……ええと、べっぴんさんです!」

「……ん、なに?」

 僧は初めてまともに尼僧の方を見た。続いて寺院を覗くようにしてとうに遠ざかった少女の背を探し、すぐに近くにいた若い僧を呼びつけたのだった。

 そして二日後、ベルの元にいかめしさすら感じさせる封書が届くことになる。奇しくもベルが尼僧ドロテーと出会ったことにより、僧侶たちの頭を悩ませていた問題が見事に解決されることになったのだが――今のベルにはそれを知るよしもない。


 農夫の息子は幼馴染の気持ちを知っている。知っていて見て見ぬふりをしているというよりは、むしろ冷めた目ではるか後方からじっと注意深く成り行きを監視している、と表現した方がより正確だろう。少年の幼馴染は同じ農家の息子で、隣町の菓子屋の娘に想いを寄せている。

 農村における収穫祭には、仕事の成功を喜ぶという意味で都会にはないある種の泥臭い現実味というべきか、実際の成果を目の前にした喜びや憂いが満ち溢れていた。鎌を握ったこともない人々の幸せな収穫祭を文字通り取り囲むようにして、国境に接したジーメンス郡でも連日のように安いエールをあおる農夫たちの機嫌のいい歌声が上がっていた。今期は天候に恵まれ、例年にない大豊作だったのである。

 そんな中、農夫の息子は賑やかな町の酒場を抜け出し、こうして隣町の屋台街の裏手で牧場の柵に頬杖をついて、少し離れた位置で幼馴染が意中の少女と言葉を交わすのを横目に見守ることを選んだ。酒の席ではめを外しやすい父親の見張りを家族から命じられてはいるものの、いつまでも律義に酒場にいては、やれ酒を持ってこいだのつまみが足りないだのと口うるさくこき使われることを知っているのである。

「――トーン、マイゼンブークのこと怒ってくれたんでしょ。アディももちろんそうだけど、ヘンペルの人ってみんな正義の味方なんだね」

「正義とか……んな大層なもんじゃねぇよ、男が女に手ぇ上げんのは最低っつーか……キレて当たり前だろ……」

 血の気が多い大柄な不良少年が頰を染めている様ほど気色悪い光景があるだろうか、とケヴィンは同じ柵に並んでもたれるオスカーとリリーに冷ややかな横目を流した。恋人でもない女子と二人きりになることを頑なに避けようとする幼馴染は、ケヴィンからすれば実に「アホらしい」ほど硬派に、そして純情に見えた。リリーは菓子屋の子としてひと仕事終えた後らしく、上半身の線がはっきりと出るディアンドル姿が余計にオスカーをどぎまぎさせている。

「そう? 私はすごいと思うんだけどなあ。それにとっても嬉しかったし! トーンってみんなに怖がられてるけど、本当は優しいんじゃないかな、って」

「お、おう、そうでもねえ……けど、ありが……とう……な」

「うん、私の方こそ! ふふ、照れてるトーンおもしろい」

 甘酸っぱすぎて見ていられない、とケヴィンは肉焼き屋台の香ばしい香りに意識を向けることにした。すると、不意にリリーが柵の上に身を乗り出し、オスカーの体越しに好奇心旺盛な瞳を覗かせた。

「ねえ、ツィスカに聞いたんだけど、アルブレヒトってアディのこと本気で好きなの?」

「……」

 ばかばかしい、と言わんばかりにケヴィンは顔をしかめた。普段愛想がないわりにダイナミックに嫌悪感を表す様が意外だったのかおかしかったのか、リリーは小さく吹き出しさえした。ケヴィンは遠く丘の向こうのヘンペル寺院を睨んだつもりで視線を逸らし、感情の乏しい声で応えた。

「……どいつもこいつも忘れてるんですけどね、アディさんと俺らは元々住む世界が、全っ然、違うんだよ」

 彼がなにかを諦めているかのように聞こえたのかもしれない。農村の少年と少女は、どちらもなにも言えずに押し黙った。

 農夫の息子は件の幼馴染の気持ちを知らない。本人すら正確に自覚できていない想いは、誰の唇にも乗せられないまま、農村の友人らと断絶されて剣を捧げ持つ少女の胸にくすぶっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ