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双葉の従士  作者: 日辻
17/20

十六話 こぼれる雫

 ハイノの白いマントが目に眩しく、ライバルと二人で息を飲んだ日が約一週間前に遠ざかった。秋の始まりと共に、ベルは地元の中等学校で最終学年の五年生に進級した。アディの中等学校では各学年一クラスずつしかないため、一緒に授業を受ける面々はほとんど変わることはないというが、ベルらは三クラスの中で毎年成績によって組が振り分けられる。二年生の時からずっと同じクラスだったヨハンナとは進級後も一緒で、二人で顔を見合わせて喜び合ったものである。こうして、学生時代最後の一年は平穏に始まった。

 新学年で最初の授業があった日の放課後、どこからか昨年同じ組だった女子生徒たちがヨハンナのもとに詰め掛けてきて、ベルを唖然とさせた。夕暮れの音楽室は西陽が入り込まないよう暗幕が引かれており、ランプの明かりが煌々と室内の絨毯を照らしていた。少女たちはヨハンナの前に首を揃えるなり、次のように声を上げた。

「ミュールマイスターさん、お手紙の会は続けていただけるのかしら?」

「夏休み直前にお送りした分のお返事、まだ届いていないのかしら」

 なんのお話かしら、と好奇心旺盛な他の生徒たちが集まり始めた。一見分かりづらいものの、ベルが椅子に腰掛けたまま戸惑った顔をしていたので、ヨハンナは愛想よく新たな級友たちにこれまでの経緯を話して聞かせた。

 ――その結果がこれか、とベルは久しぶりにタコのできた右手の指を見下ろした。去年「手紙の会」にいた面々がこぞって熱烈にベルとアディとのことを語ったこともあり、今では新たなクラスメイトたちも約半分が新たに会に加わって、アディが手紙を書くべき人数が十人ほど増えてしまったのである。少女とは本当に「素敵な王子様」が好きなのだな、と身にしみて理解できた。夏の手紙に対するアディからの返信を読んだ後、新たに仲間に加わった彼女らからのメッセージも書き添えた便箋の束は久々に見る厚みで、アディの驚いた笑顔が目に浮かぶようだった。後は、明日にでも郵送の手続きをするのみである。

 ペステリア国に限らず、この地域の夏はそれほど長くは続かない。山脈を挟んだ北の隣国では、北部にツンドラの大地が広がっていると聞く。冷涼な気候は、夜風の冷たさにも表れていた。秋の冷気に当てられないよう、ベルは自室の窓を閉め切った。カーテンを引いて寝巻にカーディガンを羽織り、アディからの最新の手紙を手に取って、スツールにゆっくりと腰を下ろす。几帳面な文字は、ベルの頭にすんなりと入り込んだ。

『朝起きてアミュレットを付ける時、ヒンヤリしていて驚きました。もうすっかり秋なのですね』

 その文面から、アディも揃いのアミュレットに思い入れを持って大切に扱っていることが窺える。便箋を折って封筒に戻し、ベルはランプの石を水から引き上げてベッドに入った。住宅街の夜は静かで、星の瞬く音すら聞こえてきそうである。なにも不安などない、と平和に感謝しながら瞼を閉ざすと、すぐに眠りが訪れた。


 雨が降っている。昼前に美術の授業で写生に出ていた際には穏やかな晴れ模様だったというのに、秋の天気は気まぐれだな、とベルは校舎の玄関で雨宿りしながら雨雲の立ち込めた空を見上げていた。今日は授業が午前中で終わる日程なのだが、ヨハンナが女子校舎の鍵当番で新入生の指導をする係になっており、ベルはヨハンナの仕事が終わるのを待って昼食を共にする予定だった。冷たい雨のせいで気温は下がり、やや肌寒い。曇天の日も多く、秋には憂鬱になるという人が少なくないのも頷ける。校舎内に戻るか、とマントを脱いで片足を引いたのと、落ち着かない奇妙な違和感を覚えたのは、ほぼ同時のことだった。

 なにかが欠け落ちている気がする。まるで片足だけ靴を履いていないかのような。ベルは無意識に胸元に手をやり、制服と体の間になにもないことに気付いて、血の気が引く心地がした。――アミュレットがない。今朝も確かに身に付けて家を出たはずである。ひとりでに解けるような紐の結び方はしていないし、心当たりといえば――。

(そういえば写生の時に、画板の紐と勘違いして一度指を引っかけた……!)

 写生で訪れた場所は、学校から歩いて十五分ほどの場所にある丘である。いてもたってもいられず、ベルは鞄とマントを足元に放った。

「あら、ホフマンさん? ごきげんよう」

 なにも知らぬ優しげな声は、昨年同じクラスだったアガーテのものである。少女の親しげな笑みは、振り向いたベルの必死の形相を前に驚きに染まった。

「申し訳ないのだけど、ヨハンナに『忘れ物をしたかもしれないから、写生をした丘に行っている』って伝えて。彼女、一年生と校内にいるはずだから……お願い」

「えっ、ええ……?」

 言うが早いか、ベルは降りしきる雨の中を駆け出した。残されたアガーテは、オロオロと置き去りにされた荷物とベルの後姿を交互に見ながら、上げたこともない大声を張り上げる。

「ホフマンさん、マントくらい着ないと――!」

 聞こえているのかいないのか、少女の姿は立ち止まることもせずに雨に煙る街並みに消えていった。

 ベルの脳内は、焦りと恐れに支配されていた。足が震えるのは凍えているからではなく、あの小さな石を失うのが怖いからである。

(あれは――)

 濡れた石畳で足元が滑り、転びそうになって寸前で踏みとどまる。すれ違った何人かの大人に振り返られた気がしたが、なりふりに構ってなどいられなかった。冷静さを失っている自覚も持てないまま、靴と靴下を砂や泥まみれにして、ベルは息を弾ませながら走り続けた。家並みを抜け、低い柵の隙間をすり抜けて短い草の生えた土の地面を蹴る。額に張り付いた前髪を払いのけ、緩やかな傾斜を駆け登れば、午前中までは柔らかな陽光の下で美しい秋の景色を見せていた都会のオアシスが、今では鈍色の雲に囲まれて雨に打たれているだけの風景が広がった。ベルが選んだ場所は、丘を少し下った坂の途中である。心なしか雨は勢いを増していて、びしょ濡れになって脚に纏い付くスカートや、腕に密着するシャツの袖が、少女を縛り付けようとしていた。しかし、今のベルにはそれらも枷のうちに入らない。ベルは肩で息をしながら転がり落ちるように下り坂を走り出した。

 草地に膝をつくと、感覚がほとんどないことに気付いた。手も同様で、かじかんだ指は思うように動かなかったが、背の低い植物をかき分けるには十分だった。冷えた手は草で切り傷を作っても痛みを感じないので、むしろ助かるほどである。

(あれは――アディとの――)

 水滴が地面を叩く音だけが耳に届く。熱いのは胸と頰だけで、他は全て冷え切っていた。ふと、温かい雫が泥だらけの手の甲に落ちる。上気した頰を伝った雨滴だったのだが、ベルにはまるでそれが自分の流した涙のように感じられて、初めて体の動きを止めた。

 もう三十分近く探しただろうか、青い小石は姿を見せない。爪の間には泥が入り込んでいて、ヘンペルのお百姓はきっとこんな手をしているのだろう、と夢見心地に想像する。絶望に崩れそうになる膝に力を込めても、震えが止まらなかった。周囲は次第に暗くなり、雨雲がさらに厚くなったことを窺わせている。額から流れた雨水が目に入り、反射的に瞼を閉ざすと、彼方から快活な呼び声が聞こえたように感じた。

「……アディ?」

「――ベル! ベル! どこにいるの!」

 苦しげな叫び声は、ヨハンナのものだった。ベルが声を発することができずにいると、頭上で息を飲む音がして、おぼつかない足音が近付き、タオルがフワリと頭に被せられた。

「ベル、びしょびしょじゃない! ああ、こんなに泥だらけになって――きゃっ、て……手が傷だらけよ! ベル、しっかりして!」

「……どこにもないの」

「アミュレットね。大丈夫よ、ここにあるわ。私が拾ったの!」

「――」

 ベルが顔を上げると、マントのフードを被ったヨハンナが傍らにしゃがみ込んでいて、目の前にあの青い石がぶら下がっていた。瞬くだけのベルにマントを被せながら、ヨハンナは落ち着いて言葉を続けた。

「写生が終わって学校に帰った後ね、画板の片付けをしていたら、掛け紐に絡まっているのを見付けたの。すぐに渡そうと思ったんだけど、その前に鍵当番の子が来ちゃったから……ご飯に行く前に渡そうって、ポケットにしまっちゃって――ごめんなさい、私……ベルに不安な思いをさせて……」

 ヨハンナが涙ぐんでいる理由が分からず、ベルは黙って親友を見上げた。ヨハンナは自分のハンカチでベルの手をできる限り拭いてやり、血のにじむ掌にアミュレットを握らせた。雨に濡れた泥と草の匂いに混じって、花の香りがする。ヨハンナの香水の香りだろう。親友に抱き締められながら、ベルはじっとアミュレットを握り締め続けた。


 運動の授業時間は、女子のクラスにおいてはもっぱらダンスに費やされる。嫌いではないけれど少し退屈だな、と活動的なアディはいつも思っていた。もっとも、家に帰れば好きなだけ師と徒手の稽古ができるのだが。早く帰って修行に励みたい、と願うアディを、新学年のこの日は下級生たちが待ち構えていた。澄み渡った青空の下で花壇の世話を指導していると、少女たちの脇を下校する女子生徒たちが次々と通り抜けていった。その日の仕事が終わる頃には、校内に残っている生徒はほとんどいなくなっている。静かな校舎に普段と異なる雰囲気を感じたのか、後輩たちは意味もなく声をひそめて会話しながら後片付けをしていた。

「はい、後は私がやっておくね。お疲れ様、気を付けて帰ってね」

「先輩、ありがとうございます!」

「失礼します」

「お疲れ様でした!」

 去っていく三人の影を目で追っていると、新入生だった頃のことが思い起こされた。あれからもう四年も経ったのか、と鮮やかな記憶を懐かしみつつ用具庫の扉を閉めたアディの視界に、動くものが入り込んだ。なんだ、と振り向くと、校舎の影にこちらを窺っている人影があった。

「よかった、アディ!」

「リリー?」

 思わぬ偶然に胸を弾ませたのはごく短時間で、アディはその笑顔をリリーの不安げな表情に曇らせた。いそいそと駆け込んできた彼女から事情を聞くと、リリーはそっと耳打ちしてこう告げた。

「……男子に付け回されてるの」

「え⁉︎」

 慌ててリリーの来た方向に目を走らせると、男子校舎側の植木の影に引っ込んでいく人影を捉えることができた。文字通りリリーを狙う男子生徒だろう。一瞬しか確認できなかったが、見覚えがあることから察するに、おそらく同学年でジーメンス出身の――つまりリリーと同じ幼年学校を出ている少年なのだろう。リリーは倉庫の影に入りながら「気味が悪い」とマントの下で自身を抱き締めた。

「……ここ数日ずっとなの。今日は私、ランプの水当番だったんだけどね、カリーナはお家の手伝いで早く帰っちゃったし、他の子に残ってて、って頼むの忘れてて……一人で帰らなきゃいけないのかと思ってた。アディ、一緒に帰ってくれない?」

「そっか、今日は私がお家まで送るよ」

「うわあ、本当にありがとう!」

「任せて、私だって従士候補生なんだから!」

 大切な友人を守る、という使命感に燃えるアディ。その背中を、少年は遠くからじっと見つめていた。人気があるのは結構なことだが、美少女とは時にこのような目に遭うこともあるのだろう。並んで田舎道を歩きながら、アディは頭を捻っていた。

「『付け回すのはやめて』って伝える方がいいのかな?」

「やだ、怖いよ! あの人、幼年学校の時からなんだか変な子、って女子から嫌われてたんだよ?」

「……そうなんだ。でも、いつまでも放っておいたら――」

 行く手では夕陽が山脈に沈みかけている。いつもならその日の出来事を振り返りつつ心穏やかに眺めるところだが、今日はそうはいかず、暗くなることへの不安ばかりが募る夕暮れに感じられた。

 ジーメンス中等学校からリリーの家がある通りに着くまでは、しばらく放牧地や穀倉地帯の真ん中を突っ切るまっすぐな道である。隠れられそうな場所は道脇に点在する麦藁小屋程度のもので、誰が見ても見晴らしは最高である。そのため、リリーを尾けている少年も振り返ればしっかりと確認できてしまう、追われている身からすれば薄気味悪いことこの上ない通学路なのだった。

 追跡者は付かず離れずの距離を保っているかに思われたが、アディは距離を目測する訓練の成果から、リリーは恐怖心による過敏さから、彼が少しずつ二人に接近しつつあることを感じ取った。日暮れが近いからか、周囲には三人以外の人影はなかった。

「ねえアディ、あの人さっきより近くない?」

「うん、走った方がいいかも……」

 リリーの焦りがひそめられた声音から伝わり、アディは険しい表情で頭を悩ませる。リリーは、アディに目で合図をして一足先に駆け出した。ふと、牧場の柵の外側でたわわに実ったアカフサスグリの房がアディのスカートに当たった。それをそっと手で払った時である。

「……な、なんで逃げるんだよぉ」

 奇妙に甲高い声だった。リリーは「きゃっ」と悲鳴を上げ、振り返ったアディの背中側に回って、ちょうど追跡者の少年と追われている少女がアディを挟んで向かい合った格好になった。少年はおよそ十メートルほどの距離を不恰好な小走りで詰め、アディを警戒しているのか手が届かない程度の場所で足を止めた。茶色の髪と瞳の、色白で地味な印象の少年である。ケヴィンの身長を少し縮めたような感じだな、と改めて相対したアディは身構える。少年はやや興奮しているようで、おどおどした目付きでアディの顎の辺りを見ながらまくし立てた。

「き、昨日だって一緒に帰ったじゃないか、一昨日だって一緒に行って帰った! 逃げることなんてないじゃないか、僕、僕は――」

「あんたが勝手についてきてるだけでしょ! 一緒に帰ったりなんかしてないから!」

 アディの背にすがりながら、リリーも負けじと肩越しに気丈に言い返す。どうやら思い込みの激しい少年らしく、彼の中ではリリーと彼は登下校を共にする仲になっているようだ。少年は顔を真っ赤にして素早く首を振った。

「ぼ、僕とお付き合いしてくれるんでしょ。そうじゃなきゃ、こんな風に……一緒に帰ってくれないよね?」

「勘違いもいい加減にしてよ! 絶対付き合ったりなんかしないから!」

 リリーの声が震えている。アディは少年を睨みながら状況を静観していた。話の通じる相手ならば、今の言葉で自分の間違いに気付くはずである。しかし、そうはいかないようだった。

「そ、そんなはず……ないよね。なんだよ、昔は僕に笑いかけてくれてたのに! 他のやつの告白を断ってたのだって、僕が好きだからだろ! ぼ、僕を裏切ったな!」

 どうしてそのような理屈になるのか――手に負えない、とアディは内心で驚愕した。リリーも言葉を失っていて、彼にこれ以上の言葉は無意味だと揃って理解させられた。少年は赤らんだ顔のまま鞄に片手を突っ込み、マントの下から小振りなナイフを取り出して、二人に突き付けた。アディの肩に乗せたリリーの手に力がこもる。

「い、今謝ってくれたら、ゆ、許すから。そうじゃないと、僕……」

 リリーの恐怖は察するに余りある。ここからは自分の出番だ、とアディは全身に力をみなぎらせた。

「やめなよ、怖がってるじゃない!」

「な、なんだよぉ……邪魔するんだったら、き、君も……こ、こ、殺して……やるんだから……」

「あ、アディ……!」

 戦士同士の戦いにはそれなりに慣れているアディだが、真に恐ろしいのは必死になった時の素人であることは、師匠に教えられて知っていることだ。目の前の少年は刃物を持つ手もフラフラと頼りなく、こちらに危害を加えるつもりはないのかもしれないが、アディは落ち着いてその動きを注視し続けた。

「彼女は応じるつもりはないって言ったんだよ。刃物なんか持ち出して、怪我でもさせて護民官のお世話になりたい?」

「う、う、うるさい! なんだよぉ、お前なんかにお説教されに来たんじゃない!」

 少年はナイフで切りつけるふりをしたが、アディは怯まなかった。今すぐにでも少年を制圧することはできるが、ペステリア国民を守るための訓練を受けている者として、一般市民を武力で抑えつけることにはためらいがある。なんとかして落ち着かせ、この場を無事に収めたかった。背中のリリーを早く安心させようと、アディは少年に手を差し出した。

「さあ、ナイフを渡して。そんなのを振り回してたら――」

 しかし、それがいけなかったのかもしれない。無理矢理武器を奪われると思ったのか、少年は急に取り乱し、アディに襲いかかった。殺気を感じたアディは、鎖骨の辺りに突き出されるナイフを狙って左手の甲を打ち出した。

「う、うわぁあ!」

「――いたっ!」

 少年の声が上がる。アディが短く悲鳴を上げると同時に、アディの背後で少女が身を縮めた。小さな背中は一度大きく弾み、見えない位置から足をすくうように蹴飛ばされた少年が、わけも分からないまま尻餅をついて倒れ込んだ。リリーが咄嗟に固く閉ざした瞼を恐る恐る開くと、アディは左手の甲を押さえていて、赤い雫が土の地面に一滴落ちる光景が目に飛び込んできた。少年は地面にへたり込んだまま口をわななかせて、小柄な少女を恐怖に染まった顔で見上げていた。

「……う、う、うあ……」

「いい、今度リリーに近付いたらそれだけじゃ済まさない! 女子に怪我させたことが知れたらどうなるか――」

「うぁあああ!」

 全てを聞く前に、少年は一目散に逃げ去った。ナイフはいつの間にかアディの靴の下に収まっていて、リリーが足元に光る銀の刃に怯えの色を宿した目を向けた。アディは左手の甲を押さえたまま穏やかな顔でリリーに向き直った。

「リリー、きっともう大丈夫だよ。怖かったね」

「……アディ、手……怪我したの?」

「え?」

 リリーは凍り付いたままでいる。アディはハッと目を見開いた。左手に重ねた右手の指の間からは、まだ鮮やかな赤の雫が滴っている。リリーは泣きそうに顔を歪めながらアディの手を持ち上げた。

「見せて!」

 アディが右手を上げると、そこには生々しい切り傷――などではなく、潰れたアカフサスグリの実が二、三粒乗っていた。彼に声をかけられる直前、密かに摘み取っていたものである。流血だと思っていたのは、スグリの果汁だったのだ。言葉を失うリリーに、アディは安心させようとして精一杯明るい声で語りかけた。

「えへへ、フサスグリ(ヨハニスベーレン)だよ。あんなのには当たらないよ。血を見たら怖気付くかな、と思って。うまくいったみたいで――」

「……う」

 間近からの泣き声にギョッと顔を上げる。見上げると、リリーは大きな瞳に涙を溜めていた。気丈な彼女の泣き顔は初めてで、アディは大慌てでタオルで手を拭くことになった。

「ご、ごめんね、驚かせて! 私は無傷だし――ほら、これでもうあの人に付きまとわれないと思うから安心して!」

「……」

 突然リリーが踵を返し、近くの藁小屋に飛び込んだ。アディが慌ててナイフを鞄にしまってから後を追うと、小屋の中のリリーはアディに背を向けて顔を覆っていた。古くなった板の壁にはところどころ隙間ができていて、橙色の光線が漏れる中に少女がたたずむ景色は、まるで寺院に飾られた絵画のようだった。不謹慎なことだが、アディの目には神聖で美しい光景に見え、思わず足が止まった。リリーは肩を震わせていたかと思うと、ゆっくりとしゃがみながら小声でポツリと口にした。

「アディが怪我したのかと……思った……」

 次は、アディが言葉に詰まる番だった。もしかすると彼女は今、自分のために涙を流しているのだろうか。衝動的に駆け寄ると、リリーが急に「来ないで」と叫んだ。欺くようなことをしたからか、と顔を伏せたアディに、リリーは蚊の鳴くような声で理由を付した。

「……アディに泣いてるところ見せたくない……」

 矢も盾もたまらず、アディはリリーの前に進み出て膝を折り、華奢な体を抱き締めた。なにか抵抗しようとするリリーの耳元へ、アディが「目をつぶってるから」と囁きかける。押し返そうとする力はすぐに弱まり、腕の中で嗚咽が漏れ始めた。秋の冷たい風が隙間から吹き込んだが、寄り添う二人は温かな空気に包まれていた。アディはリリーの背中を撫でながら、律儀にじっと目を閉ざしていた。

(……もし許されるなら)

 「あなたをずっと守りたい」と口にすることすら、今のアディにはできなかった。未熟だからではない。小さな胸に秘めた葛藤は、今だけは安堵と暖かな高揚感の下に息をひそめていた。


 ヨハンナがホフマン家のノッカーを打ち鳴らすのも、これで四日目となった。ベルの母親は愛想よく、しかし申し訳なさそうにこの客人を迎え入れ、娘の部屋へと促した。少女はできる限り静かに階段を上っていき、すっかり通い慣れた扉の前で親友の名前を呼んだ。一拍置いて、かすかに室内から返答があった。

 アミュレットを探しに雨に打たれた翌日から、ベルは高熱を出して寝込んでいた。普段まったくの健康体であるベルが苦しげに胸を上下させている姿は見るからに痛々しく、ヨハンナの罪悪感を刺激した。

「ベル、具合はどう? ご飯は食べられているかしら」

「……ええ、おかげさまで……と言いたいんだけど、あまり。明日も休むと思う。……でも、手の包帯は取れたわ」

 白い指先が包帯に包まれていたのも昨日まで、ということである。かさぶただらけの手を握って、ヨハンナはベルの顔を見つめた。

「ベル、無理しないでゆっくり治してね。お手紙のことも、今は気にしないで」

 アディからの返信はあの雨の日に届いたきり、ベルの机の上で封蝋を割ることもなく読まれるのを待っている。ベルは他の同級生たちだけで先に読んでしまうようヨハンナに手紙を預けるつもりだったのだが、こうして拒まれ続けているわけである。それはベルが声に出して読むべきだから、と親友は答えた。

「みんな、ベルが元気になってくれるのを待ってるわ。そうそう、なにか食べたいものとか、他に欲しいものはある? 明日は午前で授業が終わるから、買ってくるわよ」

「……いいえ、どうもありがとう」

 弱々しい力で、指先が握り返された。長居は無用と察し、ヨハンナはベッドの側から数歩遠ざかった。ベルは友人の方へ疲れ果てた目を向け、感謝の意を伝えていた。

 「ここにアーデルフリート・シュッツァーがいれば」とも、「いなくてよかった」とも思える。一度見えただけの「手紙の従士様」にしてベルの長年の親友である彼女が、今のベルの姿になにを思うだろうか。それが自分の贈り物を一心不乱に探した代償だと知ったら、どれほど心を痛めるのだろう。それとも、「なんとバカなことを」と笑うだろうか。どちらにしても、ベルはライバルに弱った姿を見せたいとは思っていないことだろう。ヨハンナは階段を下りながら、なにかに耐えるように唇を噛んでいた。


 アディは女性の涙にめっぽう弱い。しかし、いつも自分を慕ってくれる下級生の少女が半泣きになっている顔を見ると、オロオロしている場合ではない、とこちらからも急いで駆け寄っていった。少女はアディを見下ろしながら腕にすがりつくと、「なんだかよく分からないんですけど、男子の先輩が呼んでます……」と涙声で訴えた。つまりは、これは単なる呼び出しの伝言なのだった。

 後輩には丁重に礼を言って最低限のフォローを入れ、昼休みの食堂から慌てて飛び出していくと、案の定男子校舎側の食堂の前に大柄な男子生徒が仁王立ちしていて、その隣には陰気そうな少年が面倒そうに控えていた。二人は明らかに女子用の食堂から見えるように立っているのだが、最上級生の男子が並び立つとそれなりの迫力で、多くの女子生徒が怯えている有様だった。幼馴染として二人を追い払おうと、ツィスカが先に彼らの前に飛んでいく姿が見え、アディも慌てて足を速めた。

「オスカー、ケヴィンまで! なにしてるの、みんな怖がってるよ?」

「……チビを待ってんだよ」

「すみませんねえツィスカさん、このアホは一度言い出すと聞かないもんで……お、来たぞアディさん。さっさと済ませろよオスカー、俺無事に卒業したいし」

 ケヴィンが顎で示す方向に、オスカーはキッと威圧的な視線をやった。これは彼なりの人払いで、アディたちのようにオスカー相手に怯まない人物だけが近付いてこられるのだった。ツィスカと比べるとアディは威勢がいい方なので、真っ先に叱責から入った。

「オスカー、また女の子を脅して!」

「ああ⁉︎ 脅してねえ、俺なりに優しく『五年のシュッツァーを出せ』って頼んだだろうが」

「……そう、誤解してごめん。でも白昼堂々女子を呼び出すのはどうかと思うけどな」

 人でごった返す昼休みでなければ、教師の目を盗むことも難しかっただろう。しかし、これは密会どころか正々堂々の対面で、しかも男女両方の食堂から丸見えの位置なのだった。いつ教師の怒号が飛ぶか、と不安げなツィスカを見かねて、ケヴィンがわざとらしく口元に手をやった。

「そのための俺なの。このワルが女子を呼び出そうとするだろ、俺は今それを一生懸命止めようとしてるわけ。幸いツィスカさんもアディさんも優等生だし、ほら、うまく口裏合わせりゃ見つかってもお咎めなしかも?」

「……もう!」

 自分から飛び込んでしまったのだが、禁じられている男女の接触の片棒を担ぐはめになってしまい、ツィスカは困った顔で拳を握り締め、諦めたように女子側の食堂出入り口を振り返った。

「私は本当に(・・・)止めたからね?」

 ケヴィンは「もちろん」と呟いたきりオスカーの制服の袖を掴み、止めているふりを決め込んで男子食堂の方を見張り始めた。これにて作戦会議は終了ということらしい。アディが見上げると、オスカーは真剣な顔を作ったつもりなのか、神妙な表情でこう切り出した。

「マイゼンブーク知ってんのか」

「マイ――なに?」

「タールベルクを追っかけてた野郎だよ」

 約一週間前の出来事が、鮮明に蘇った。あの少年は、マイゼンブークという姓だったようだ。アディの顔色が変わったことで大方の事情を理解したのか、オスカーは何度か頷いてから続けた。

「アレ、頭ん中が相当危ねえ野郎だったみてえだな。最近タールベルクを襲ったとかって噂で聞いて、本人に確かめたんだけどよ――」

 それがどのような尋問だったのかは想像に難くないので、アディはあえて確かめることはしなかったが、一方でツィスカは視線を泳がせていて、マイゼンブーク何某に多少の同情を寄せているようにも見えた。

「そうしたら?」

「鼻水垂らしながら『君も僕を蹴るのかぁ、ヘンペルのやつらは男も女も野蛮人だぁ』とかほざきやがってよ」

 オスカーの裏声を駆使したマイゼンブーク少年の真似がおかしかったのか、ケヴィンが急に吹き出した。他の三人は特に反応することもなく、どことなく張り詰めた空気は維持されていた。

「アレを蹴ったヘンペルの女がいるってことかと思ったんだが、テメエか?」

「うん、ナイフを出されたから。リリーに怪我なんて絶対させられないでしょ」

「……」

 オスカーは口をつぐんだが、そんな事件があったとは知らなかったツィスカは、驚いた顔でアディの横顔をチラリと見やった。四人の周りには他に人の姿はなく、一番近くにいると思われる人々は誰もが食堂の中だった。しかし、食堂にはこちらを窺い見ている生徒も多く、通報の恐れは会話時間を延ばすほどに増していく。アディは目を伏せ、できる限り早めにこの場を切り上げようと少年を急かした。

「聞きたかったのはそれ?」

「おう。一応、急に呼んで悪かったな」

「うん、それで、私からも聞きたいんだけど……噂って誰から聞いたの?」

「ジーメンスから来てる野郎だよ。そいつはホラントって女子から聞いたらしい」

「……カリーナさん経由か、ならしかたないな」

 リリーの親友であれば、ことの顛末を知らされていてもおかしくはない。あまり大事にはしたくなかったが、図らずも男子の側からも抑止力が生まれる結果となって、リリーの安全はより強固になっただろう。オスカーはオスカーで、不良少年のように見えても独自の正義感の持ち主なのである。アディがホッと息をつくのに合わせて、ケヴィンが「もういい?」と呟いた。そのまま解散となったが、互いの食堂に戻ろうとした矢先、オスカーがアディとツィスカを振り返った。

「おいチビ」

「ん?」

 足を止めたアディに、早く行こう、とツィスカが視線で訴えかけている。彼女が心配するまでもなく、オスカーの最後の用事は一言で済んだ。

「もっと派手にやってよかったぜ」

「……えへへ」

 拳を見せ合う挨拶はいかにも体育会系然としていて、少年同士のようにすら見える。ツィスカとケヴィンも、それぞれ含みのある微笑みを浮かべながら眼差しで互いを見送った。

 無事に女子食堂に帰ってきてみると、当のリリーとカリーナは出入り口から一番遠い席に掛けていて、なにも知らずに談笑しているところだった。そんな日常的な風景が、アディの心に春の木漏れ日のように喜びをもたらす。ツィスカと二人で歩み寄っていくと、ジーメンスの少女たちは楽しげな笑顔で迎えてくれた。

「あ……リリー、シュッツァーさんとカロッサさんだよ」

「え? あっ、アディ、ツィスカ! 遅かったね、なにしてたの?」

「えへへ、お待たせ!」

「ちょっとね、先生に呼ばれてたの」

 ツィスカは受験に関する用事で実際に呼び出されていたので、あながち嘘ではない。卓に並べられた食事に手を伸ばしながら、少女たちは平和な会話に花を咲かせた。

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