十五話 星と太陽
親友が手にした羊皮紙を見ても、フェリクスに特段驚いた様子はなかった。むしろ、それが自然である、とでも言うかのような調子で、涼しげな目元の少年はフランツに「おめでとう」と伝えた。
「なんだよ、もっと喜んでくれるかと思ったんだけどさ」
夏の訓練期間も折り返しが近付いた、ある午後のことだった。拍子抜けした様子のフランツに、フェリクスは笑いながら釈明した。
「喜んでるよ、当然だろ。俺はフランツが必ず選ばれると思ってたからね、予想通りだからホッとしてるんだ」
「お、おう、そっか……?」
と、二人の会話を遮るかのごとく、談話室の扉が派手な音を立てて開かれた。足音などしなかったのに、と扉に背を向けていたフランツが慌てて振り返ると、講義の直後なのかノートとペン類を抱えたままのアディが飛び込んできていて、その背後から冷ややかな顔のベルが顔を覗かせた。アディは靴で床板を踏み締めているはずなのだが、同じ空間にいて耳を澄ましていればやっと気付く程度にしか音は聞こえなかった。小さな身に染み付いた、カイン流の歩法というものらしい。アディは大股でフランツにまっすぐ突進していくと、荷物を片腕にまとめて空いた手で彼の肩を掴み、輝く瞳でなにかを訴えかけた。
「よう……って、なんだ?」
「フランツ! ……ねえフェリクス、フランツがね!」
「ああ、今聞いたよ。君も見せてもらいに来たんだよね」
「うん、そうなんだ! フランツ、ペステリアの護民官受かったんだよね! すごいよ、おめでとう!」
アディの勢いに圧されていたフランツだったが、今日の主役が自分であることをようやく思い出すことができた。年下の同期生に届いたばかりの採用通知を見せると、アディはますますはしゃいだ様子でそれを覗き込んだ。
「うわあ、やったぁ! フランツは本当にすごいよ!」
「ふっふっふ、すげえだろ!」
「うん! 本当におめでとう!」
「おう、俺だってたまにはやるっての。……見たかフェリクス、俺はこういう反応が見たかったんだよ!」
フェリクスが微笑みながら肩を竦めた、その時である。
「私は気に入らない」
ベルの声は落ち着き払っていて、喜ぶアディが思わず真顔に戻るほどだった。フランツが困惑した様子で目をやると、ベルは確かに不満そうな色を浮かべていた。
「フランツはもっと難しい試験にだって通れたと思う。せめて従士団に行ってほしかった」
率直な言葉で、ベルはフランツの才能がもったいない、と言ったのだ。フランツは眉を寄せて後輩を見つめ返し、それからフッと吹き出した。
「そっか、ありがとな。でもさ、護民官は俺の夢だったんだ。馬術を必死にやってたのだって、護民官の仕事で必須だからだしさ。実家から一番近いからってだけで中央養成所に来たけど、その方が間違いだったのかもな」
「間違ってはいないと思う。……誤解されるようなことを言ったけど、これでも祝いにきたつもりだったの。おめでとう、フランツ」
フランツの頰が染まる。フェリクスとアディは、フランツの背後で微笑みを交わし合った。
「マルツさんの方は、いかがですか?」
ベルが振り返る。フェリクスはといえば、今期で全課程を修了する訓練生の中で最も早く進路を決定していて、多くの訓練生たちから「さすが」と感心されていたものである。その内容もそうそうたるもので、第一報の直後、プロイス教官がただ頷くしかできなかったのを、ベルはよく覚えている。
「今朝、大学から入寮の許可が下りたって通知が来たよ。ここから出ても、またしばらく寄宿生活だね」
「フェリクスも相当だよね、王立大に行きながらお付きでしょ? ご主君がお許しくださってよかったよね」
「うん。主はたまに顔を出すように、としかおっしゃらなかったけど……姫様にはたまにと言わずお会いしたいからなあ、休みのたびにお屋敷通いかもね」
「……こいつ、サラっとのろけやがった!」
フランツに小突かれながら、フェリクスは楽しげに笑った。フェリクスは数年前に貴族のヘッドハンティングによってお付き従士への道を確定させた後、中等学校在学中に受験した国内最難関大学への進学まで決めていた。奉公先の当主は、騎士道物語から抜け出てきたかのような若く聡明な従士候補生をいたく気に入ったらしく、ゆくゆくは末の娘を嫁にやってもいい、とまで言い出したらしい。そんなこともあって、フェリクスは進学先に奉公先、さらには許嫁まで得た将来安泰の身となっていたのだった。ベルがなんとかして微笑みを浮かべようとしていると、アディがその隣に戻りながら呟いた。
「姫様にお会いしに……かあ、フェリクスはうまくいってるんだね」
「ん? アディの姫様とは仲良くできてないのかい?」
妙な引っかかりを覚え、ベルはピクリと片眉を上げた。フランツも両手を腰に置いてアディの方を窺っていたが、彼は事情を分かっている様子である。自分一人が蚊帳の外にいる気がしてアディを睨むと、相手は視線を感じたのか同期生への返答より先にベルのための説明を始めた。
「……あ、ベルは知らないんだっけ。冬に盗賊騒ぎがあったじゃない、その後で後援していただいてるヘルトリング伯爵のことを言ったでしょ。ヘルトリング家にも姫様がおいでなんだ」
「そう、そのお姫様とはうまくいってないっていうの?」
「そういうわけじゃないんだけど。私、ヘルトリング伯爵が少し苦手で……お屋敷では緊張してばかりだから、姫様とも打ち解けて話せてなくて。あ、もうこの話は終わりね! 今日はフランツのお祝いだし、明日はピアさんの従士団入りのお祝いの予定だから!」
室内の空気がまた少し弛み、少年たちは笑顔を取り戻したが、ベルはどこか釈然としない様子のまま、しばしアディらとの雑談に興じることとなった。
翌日は、アディの言葉通りピアの従士団入団決定の祝賀会が開かれた。一年遅れという事情もあって祝われる本人が送別会を遠慮したため、アディが今期最初の休日に運河南通り西側で発見した北方の猟師料理店を貸切にして、エンゲルス教官とその担当訓練生のみの、ささやかな食事会となった。夜の店内は、水を注ぐランプではなくペステリアでは珍しくなりつつあるロウソクの暖かな光に包まれていて、それが異国情緒を引き立てていた。白地に鮮やかな赤と青の刺繍が施された、カラフルなテーブルクロスの上には、ヘラジカ等の肉を焼いたものや、マッシュポテト、大麦のパン、トロリととろけるペースト状の乳製品など、素朴な料理が並んでいて、主賓のピアを「両親の田舎に帰ったみたい」と喜ばせた。
宴は進み、がっしりとした食卓を囲む少年らのうち、茶色の髪を短く刈り上げた一人が落ち着きなく牛乳の注がれたグラスを取り、卓上に掲げながら快活な笑顔を満面に浮かべて、唐突に大声で言い放ったた。
「はい! ゲッツ・トストマン、ミルク一気飲みします!」
「おおー……がんばれ、ゲッツ君」
「男を見せろトストマン!」
ヴィリとエンゲルス教官が発破をかけるなか、ゲッツ少年は宣言通り一息にグラス一杯の牛乳を飲み干した。アディから見ると五歳下の後輩で、新人のヤンから見ると同じ組で最も年齢の近い訓練生である。エンゲルス教官の担当にはピア、ヴィリにヤンと、見かけはおとなしそうな部類に入る訓練生が多い中で、ひときわ異彩を放つ元気印の少年だった。彼の前では、慌てているアディも落ち着いて見えるほどである。ゲッツは口の周りを白くしたまま、こちらを窺う店員に向かって勢いよく手を挙げた。
「あ、ミルクおかわりください! ヤンも飲む?」
ゲッツの隣でギョッと目を見開いた柔らかな金髪の少年が、新たな仲間のヤンである。アディは気弱そうな見た目だと思っていたが、内面はだいたい外見通りで、他の訓練生に向けられたエンゲルス教官の叫びにもいちいち身を縮めているような繊細さの持ち主だった。しかし、どれだけ厳しく指導されようとも泣かずに食い下がる妙な打たれ強さも備わっていて、先輩訓練生たちからの評判は悪くなかった。そんな彼のもっぱらの悩みが、ゲッツが悪気なく押し付けてくる無理難題というわけである。
「い、いえ、僕お腹痛くなっちゃうので……」
「そうか! だがミルクは成長に欠かせんぞ、気合いで乗り越えろ! ミルクもう一杯!」
なんとか切り抜けようとしたヤンに、エンゲルス教官の根性論が降り注ぐ。機嫌よくヘラジカの骨をボウルに積み上げるピアの隣で、ロールキャベツをつつきながら向かいに並んだ年少の後輩たちを注視していたアディだったが、これではヤンが不憫だと思い、そっと「私が代わりに飲むよ」と囁いた。ヤンは涙目で救世主たる先輩訓練生を見つめながら何度も頷いていて、泣かずにいられるのは訓練中だけなのかもしれない、と思わずにはいられなくなった。
なみなみと注がれた牛乳が二杯届けられるが早いか、アディはヤンの手元からグラスを奪い取り、ピアに向かって捧げ持った。
「ええと、ピアさんの従士団入りを祝して、私もミルク一気飲みします!」
「……ん、え? 今日って僕のお祝いだったっけ? 懐かしいご飯ばっかりで、つい夢中になってたなあ……じゃあ、はい、アディと乾杯ね」
とぼけた様子の主役と水と牛乳の乾杯を交わし、アディも一息でグラスを空にした。パラパラとまばらな拍手が送られるなか、エンゲルス教官はしきりに頷きながら「シュッツァーにももっとミルクが必要だな!」と呟いていて、まだまだ牛乳一気飲みの波は引きそうにないことが予感された。
ピアの「行き先」は、地元ウルケベルクやその周辺を管轄する従士団である。北方の僻地ということもあって中央養成所出身者は少ないらしく、ずいぶんと歓迎されたとのことで、エンゲルス教官の機嫌も上々だった。
「うん、お前ならたとえヒグマが大挙してこようと食い止められるだろうな!」
「さすがにヒグマは怖いですねえ。ところで、もう少しエルクを食べてもいいですか?」
「ああ、今日は特別だからな。どんどん食べろ!」
ヘラジカ丸々二頭分近く平らげたと思われる量の骨がテーブルの端に寄せられていたが、ピアはまだ食べると言い張っている。アディがデザートのベリーパイに舌鼓を打っていると、とっくに食べ終えた後輩たちが食卓の隅に注目してピアが積んだヘラジカの骨を指折り数えているのが目に入った。
「腿の骨……六本……七本……?」
「デデキントさん、これも腿ですよね! ねっ!」
ゲッツが勢いよく振りかざした太い骨に前髪を掠められながら、ヴィリがのんびりと頷いた。
「あー……ゲッツ君と合わせてぴったり二頭だね……」
「あのう、こんなに食べて大丈夫なんでしょうか?」
行儀よく膝の上に手を置いておどおどと声をひそめるヤンに、少年たちは揃って首肯する。
「平気……ピアさんだから」
「ピアさんだもんな!」
エンゲルス教官は、ピアの向かいで満足げにエールをあおっている。実に平和な景色だ、とアディの胸に穏やかな温かみが広がった。一年早いが、彼らを置いて養成所を去ることを思うと切ない気分にさせられる。入所当時から考えると、これほどまで養成所での生活に思い入れを持つことになるとは想像もつかなかった。彼らとの出会いは確実にアディを成長させている。そして、過去の自分に思いを馳せれば、必ず感じることが一つあった。
(でもやっぱり、ベルと会えたのが一番の出来事だったなあ)
「ボンヤリするなシュッツァー!」
「はい、教官!」
こんな時でも、従士候補生に油断している隙はない。エンゲルス教官をこれ以上怒鳴らせないため、アディは微笑みと共に姿勢を正した。
「……そう、楽しかったならよかった」
何度目かの食事会の話を聞かされながら、ベルは普段と同じ冷淡な調子で応えた。学科試験も慌ただしく終わり、ちょうどフランツとフェリクスの送別会もお開きとなった、その夜のことだった。消灯時間は過ぎているが、宴会の幹事は後片付け等の事後処理のため、例外的に消灯後も起きていることが許されていた。うっすらとランプに照らされた中庭で並んで夜風に吹かれながら、互いに口には出さないまま、ベルとアディは自室へ帰るのを惜しんでいた。
フランツとフェリクスは親友同士ということもあり、本人らの希望で送別会が合同で行われた。幹事は年下の親しい同期生であるアディと、フェリクスの後輩代表たるベルの二人で、アディらの期の訓練生たちのほか、ユング教官とプロイス教官のもとで指導を受ける訓練生らが養成所の食堂で一堂に会する賑やかな会となった。送別会が賑やかだったからか、余計に静かな中庭が寂しく感じて、このまま眠ってしまうとさらに心細さが募る気がした。先に宿舎へ帰る足を止めたのはアディだったが、ベルは文句を付けることなくそれにならっていた。気持ちが通じているのだと分かり、アディは訓練場と中庭を隔てる壁にもたれながらはにかんでいた。
「今日も楽しかったね! 色々買い込んだからかなり豪華な食事に見えたし! そうそう、リヒャルトも熱心に手伝ってくれたよね」
「ええ」
会話が途切れ、二人の髪が涼しいそよ風に揺れたが、気まずさはなかった。空を見上げると、星が瞬いている。アディは上を見たまま口を開いた。
「……あんなふうにお祝いしてたら、ピアさんもだけど、フェリクスとフランツが本当にいなくなっちゃうんだなあ、って。私の同期ってほとんど年上だから――」
ベルはなにも言わず、中庭の木を眺めている。感傷的な話題を出すべきではなかったか、とアディが別なことを口にしようとした時、ベルが視線を斜めに下げた。
「次は私たちでしょ。お祝いしてもらえるように努力を続けないと」
「あ、うん」
アディが隣を見ると、ベルはそっぽを向いていた。横顔を見ようと壁から背を離して、アディは思いつきを言葉にした。
「ね、私たちも送別会一緒にしてもらおうよ! ベルが嫌じゃなかったら!」
「……」
睨み付けられると、嫌だったのか、と前言を撤回したくなる。薄暗がりでよく見えなかったが、口の動きから察するに、ベルは声に出さずに「別に嫌じゃない」と答えたようだった。笑った顔が締まりのない表情に見えたらしく、ベルが黙って利き手を振りかぶった。咄嗟に避けようとするアディの前に進み出て、ベルは好敵手の肩を掴んだ。
「いい、絶対目標を達成するの。私もアディも。しくじったら絶対許さない」
向かい合ったベルの瞳に炎が見える。アディがいつもまばゆく見つめる青い炎である。真剣なベルに対して、アディは嬉しそうに頷いた。
「もちろん。大丈夫だよ、二人とも」
「気に食わない」とばかり、ベルがアディの額を指先で弾いた。そうして、ベルは細い手首を掴んで歩き始める。
いつでもそうだった。アディを引きずっていく時、ベルは手ではなく手首を握って歩く。特に理由があってそうしているつもりはない。ヨハンナは気軽に手を繋いでくるが、それを嫌だと思ったこともない。ただ、アディと手を繋ごうとは思えなかった。こんなことを意識してしまったのは、もしかすると別れを想像したからなのだろうか。
「あ、ベル、ホタルがいるよ!」
相変わらず夜空を見上げながら、アディが呑気に声を上げる。ベルは確認もせずに言い返した。
「都会のペステリアにいるわけないでしょ、流れ星よ」
「あ、そうなんだ……」
気の抜けた声で応えるアディに、ベルはいつものように小言をぶつけた。
「暗いんだから、ちゃんと前を見て歩く」
「大丈夫だよ、ベルが引っ張ってくれてるんだもん。ベルと一緒なら安心でしょ?」
肘打ちを入れようとして、ベルはなんとか思いとどまった。かすかに頰が熱を帯びているが、気のせいに違いない。
手を離してしまうと、アディは一人でどこかへ行ってしまうのではないか、と思うことがある。それはちょうど、星のようなもの。流星は星の海にようやくその姿を見付けても手に入れられるわけではなく、かといって視界に留まっていてくれさえしない。今晩見えている星も、明日同じように輝いている保証などないのだ。
(人の気を惹くだけ惹いておいて、勝手に消えたりしたら――)
ベルの歩みが止まった。アディの「ベル?」という声をよそに、ベルはむしゃくしゃしながら首を振った。
(違う、惹かれてなんかない!)
今期はどうも、憎きアディのせいで動揺してばかりいるように感じる。握った骨と皮ばかりの手首には、ベルの体温が馴染んでいた。無言で移動を再開すると、アディはなにも尋ねることなくそれに従ってくれた。
早くも秋が近い。宿舎のドアノブに触れて、その思わぬ冷たさにハッとした。
惜しめば惜しむほど時間は速く流れて、訓練が進むにつれて夏は終わりに近付いていき、ついに修了式の日が訪れた。今期は休日等の関係で修了式が例年より数日早いため、ベルとアディは帰郷を遅らせ、正式に叙任された騎士のハイノを訪問するついでに、騎士団の訓練を見学させてもらうことになっていた。
騎士団の見学は楽しみだが、その前に先輩訓練生たちを見送らなくてはならない。ピアはちょっと庭先を見てくるような調子で「またね」と残したきり長距離馬車に乗り込んであっさりと養成所に別れを告げてしまい、「すぐまた戻ってくるだろう」と油断して用意していた台詞を使うことができなかった後輩が続出していた。それもまた彼らしい、とは首尾よく挨拶を交わしたアディの言葉である。
ピアを除いた一歳上の彼らとは訓練や座学を共にすることが多かっただけに、ベルにも去年までとは違う特別な感慨があった。最後の昼食を共にした後、改めてフェリクスに長年の礼を言おうとしていたベルだったが、そのフェリクスから「間違って持ったままになっていた柄巻の布を武器庫に返してきてほしい」と頼まれ、すっかり静かになった訓練場の端に向かった。そこにはなぜか先客のフランツがいて、人気のない場所に二人きりになった。これが仕組まれた邂逅であることに、おそらくベルはまだ気付いていない。
少年と少女は、武器庫の陰で立ち話を始めた。養成所でなら、ベルはフランツを「バウムゲルトナー先輩」とは呼ばない上、敬語も使わずに対等に会話ができる。中等学校でなかば隔絶された男女が、ここでは人目を気にせずに交流することが許されるのだ。どちらかといえば、フランツにとって幸運なことだった。
ある瞬間、思い出を語り合っていた二人の間に沈黙が流れた。フランツの短い髪の毛に中庭から飛んできたらしい植物の綿毛が付いたのを、ベルが取ってやった時である。少年は、猫のような瞳が己にまっすぐ向けられるのを見下ろしながら静寂を破った。
「俺、ベルが好きだ」
「……」
相手が心底意外そうに目を丸めていなければ、少年はもう少し報われたのかもしれないのだが。綿毛は少女の手を離れ、風に乗って訓練場へ消えていく。ベルはしばらく不動でフランツを見返していたかと思うと、おもむろに口を開いた。
「……知らなかった」
「おう、うん、そうだろうけどな」
フランツは後頭部を掻きながら応えた。結局、予想通り清々しいほどの片想いだったというわけである。ベルは顔色こそ変えていなかったが、それなりに返事を考えているのか視線をわずかに下げている。いたたまれない気分になり、フランツの方がしゃべり続けることを選んだ。
「いいんだよ、別に。恋人になってくれなんて今更言わねえし。黙っていなくなるのは男らしくないって思っただけだからさ。ベルのそういうさっぱりしたところが好きなんだ」
一番肝心の部分を伝えてしまえば、驚くほどなめらかに舌が回った。負け惜しみのように聞こえたかもしれないが、偽りなき本心である。
「……ベルは護民官の男なんかに興味ねえだろうしさ。ま、俺は俺で元気にやるし……ベルもアディと二人でがんばれよ」
「ええ」
これにて、少年の初恋は砕けた。敗残兵は潔く去るのみ、と片足を引いたフランツを、ベルが呼び止めた。
「フランツ」
「ん?」
ベルは微動だにせず、直立の姿勢でフランツを見つめていた。教官に問題を報告する時さながらの真剣な様子は、傷心中でなければ笑いを誘ったかもしれない。ベルがフランツの前で言葉に詰まるなど、今までにないことだった。
「……ごめんなさい」
「いいって、俺のことなら気にすんなよ」
「全然気にしてないけど」
「あー……や、知ってる」
苦笑する先輩訓練生に向かって、ベルは静かに手を差し出した。フランツはキョトンとそれを見下ろし、すぐにそれが握手を求めるものだと悟った。しなやかな手を軽く握ると、ベルは複雑そうに目を細めつつ、はっきりと告げた。
「ありがとう」
これほどまでに手を離したくないと思ったのは初めてで、少年は歯を食いしばった。
正門を抜けた先には、アディとフェリクスが待っていた。フェリクスは一度実家に帰ってから奉公先へ行くとのことで、馬車を待っていたところだったらしい。フランツの表情から全てを悟ったのか、二人は揃って慰めの微笑みを浮かべ、フェリクスが黙ってフランツの背中を叩いた。一連の様子を見てようやく、ベルは自分が謀られたことを察した。こんな形ではあるが、フランツが友人に恵まれたことが確認されたわけである。
ベルは別れに際して言葉を尽くすような人物ではないが、人より早くに入所したために同期生の多くに先立たれるアディは目に見えて寂しそうで、ついにフランツまでがアディを慰める側に回った。アディの横顔を見ていると、年齢が上がるにつれ薄れていった一年の差が改めて思い起こされ、ベルは多少の疎外感を覚えた。
「ったく、アディがそんなんじゃ俺ら帰りづらいじゃねえか。別に今生の別れでもなし、一つ下の期も優秀なんだから心強いだろ?」
「そうだよ、これからはアディがエンゲルス組を引っ張っていくんだから。心配はしてないけど、ベルやみんなをよろしく頼むよ」
「……うん。また会えるよね」
「会えるさ。フランツは首都の護民官だし、俺も大学は首都なんだから。アディが一番首都から遠いよ?」
そこへ、迎えの馬車がやってくる。アディは、最後には笑顔で少年たちを見送ることができた。
少年たちが去った後、ベルは二人の乗った馬車が見えなくなったのを確認して振っていた手を下ろし、隣のアディを横目で見据えた。
「アディ、知ってたでしょ」
「フランツのことだよね。ベルは気付いてなかった?」
足元で砂利が鳴って、ベルが自分の方を向いたことが分かり、アディは首だけで親友の方へ振り向いた。ベルはムッとした顔をしていたが、思い直した風情で首を振って冷静な表情に戻り、目を落とした。
「……そうね。私が悪かったのかしら」
「悪くはないと思うよ。……フランツ、とりあえずちゃんと伝えられたみたいでよかった」
「……『ずっと好きでいる』って」
「え?」
ベルは、どこか戸惑っているかのように互いのブーツのつま先を見比べている。アディが聞き返すと、ベルは両手を握り合わせつつ続けた。
「フランツが最後にそう言ったの。『ベルが俺のことを忘れても、俺はずっとベルを好きなままでいる』って。……どうしてそんなふうに思えるのか、よく分からなくて」
「そうなんだ。私は――」
思い出したように、ベルは顔を上げた。アディは遠くに霞む山脈を眺めながら、西陽に手をかざしている。
「――なんとなく分かる気がするな」
「……」
急に腹が立ってきて、ベルはアディの横顔に手を伸ばした。頬をつねられたアディは情けない表情を浮かべながらもどこか楽しげで、それが余計にベルの不興を買った。一応理由を聞いてやる、とベルが視線で続きを促すと、アディはつねられた頰を撫でながら照れた様子で首都の街並みに目をやった。
「ベルは、私にとって特別だから。ベルがいない養成所なんて想像もしたくないし――そういう大切な人のことって、きっと離れても忘れられないと思う。なんとなくだけど、フランツもそんな感じなのかなあ、って」
言葉が出てこなかった。異性に寄せる特別な感情について理解しかねる、と口にしたはずなのに、返ってきたのは自分に向けての言葉だったのだ。フランツの思考回路を説明してほしいのであって、アディ個人の自分に対する思いなど聞いてはいない、といつものように一蹴すればいいだけのはずだった。だというのに、それができないのはどういうことか。ベルの頭の中はこれまでになく空っぽで、小憎らしいライバルに向けようと常日頃から用意していた闘志はほとんどこぼれ落ちていた。胸に残ったわずかな単語だけを繋ぎ合わせて、かろうじて口を動かす。
「……よく平気でそんなことが言えるのね」
「本当のことだからね」
それが分からない、とベルはアディから顔を背けた。すると、アディは意外にも真剣な顔になって、親友に追い打ちをかけてきたのだ。
「本当なんだよ。私にとってベルは――」
ところ変わって、首都から東へ向かう馬車の車中のことである。フェリクスは、女子の視線がなくなって盛大に落ち込むことができるようになった隣のフランツに優しく語りかけていた。
「いつか、アディと一緒にいる時のベルが好きだって言ったよね」
フランツががっくりとうなだれていた顔を上げると、親友はかすかに白濁した窓石越しの遠景を目にしていた。
「それって、アディが太陽で、ベルは月か星みたいだよね。そうだな、ベルの人柄なら、満ち欠けしない星の方かな? アディが側で照らしてくれたおかげで、フランツにも輝いて見えたんだよね、きっと。手が届かなくても、これからもずっと頭上に輝いていてくれるさ」
蹄の音が耳に心地よい。フランツは神妙な視線をおもむろに車内からフェリクスの横顔に向け、万感を込めて返答した。
「お前臭いこと言うな……鳥肌立ったぞ」
「……それは悪かったね」
詩作をする授業に真面目に取り組んだことのないフランツには、フェリクスの台詞も「無理」の枠に入ったようである。馬車はゆっくりとペステリアを離れ、二人を故郷へと運んでいった。
ガーゼの袋の中で、火の石が細かな泡を上げている。今夏最後の養成所の風呂に浸かりながら、ベルはボンヤリと夕方のアディの言葉を反芻していた。
(『ベルは私にとって太陽みたいな人』……? 真面目な顔でなにを言うのかと思ったら……)
一人きりの浴室は、考え事にうってつけである。まとめた髪が湯に入らない程度に浴槽へ体を沈めると、火の石を詰めた袋はフワフワと水中を漂ってベルの足元から逃げ出した。
(大げさなこと言うんだから。太陽について回ってるアディはなんだっていうのよ)
天井から降ってきた雫にふと視線を上向けると、開いた窓と窓枠のわずかな隙間から晩夏の夜空が目に飛び込んできた。そして、思わず納得してしまいそうになる。誰も見ていないこの場所で慌てて首を振って、浮かびかけた「私にとってのアディは」をかき消した。長湯したせいで、妙に暑い。
(……星、のような……)
早くアディを呼んでやらなければ、入浴する前に眠り込んでしまうかもしれない。風呂から上がって寝巻に着替え、髪を乾かしながら、ベルはほとんどの訓練生がいなくなった宿舎内を速足で歩いていった。
自室の扉を開くと、アディは机に向かってジーメンスのリリーに向けた最後の手紙を書いているところだった。「お風呂、入ったら」と声をかけると、アディは笑顔で「うん、じゃあ行ってくるね」と応え、今書き終えたばかりの便箋にインクの吸い取り紙を重ねて、着替えを手に機嫌よく部屋を後にした。アディが戻るまでは起きていようと、ベルは髪が乾いたら読書することに決めてベッド上から机に並べた本の背表紙を物色し始める。アディの机の上で乾くのを待つ便箋には『養成所の親友と話してて改めて思ったんだけど、リリーは私にとって星のような人です』と綴られているが、ベルがそれを知ることはないだろう。養成所で過ごす残り少ない夜は更けていき、少女らのはるか上空には満月が、そして数多の星が、祝福を与えるかのように浮かんでいた。




