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双葉の従士  作者: 日辻
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十四話 扉の向こう

 どうやら、夢を見ているらしい。夢でなくては嘘だ、とアディは声にならない悲鳴を上げた。

 目の前にはリリーがいた。が、アディは級友との再会を喜ぶことができずにいる。それもそのはずで、彼女はシャツ以外に服を着ていないのだ。倒れ込んだアディに擦り寄っていきながら、リリーは悪戯っぽく微笑んでいた。その声は、まるで直接耳の中に届けられているように確実に、しかしボンヤリとアディに伝わってきた。

『アディ、私のこと好き?』

(リリー、なんでこんな――!)

 目を閉じることもできなければ、身じろぎすることすらできず、アディは必死になって口を動かした。なんとなく分かってはいたが、声も出せなかった。リリーはアディのシャツのボタンを一つずつ外していく。

『ねえ、舞踏会の日に私の体を見てたよね』

 その言葉で、全身の血が凍った。素肌に触れられると、生暖かい手の感触で皮膚が粟立ち、飲めないはずの息が喉を通過した気がした。

『……アディってそういう子だったんだ』

(ちっ、違うよ! 近くにいたから偶然――)

『嘘つき。いつも私を見てるくせに』

 違う、と叫びたかった。リリーは友人で、自分は彼女を追う男子とは違う、と言い返したい。それなのに、胸の痛みがリリーの言葉を肯定しようとしていた。リリーの顔が目前に迫っても、アディは見つめ返すことしかできなかった。

『いいよ、私を見て。私も、ずっとアディのことが――』

 そんなはずはないのに。理解していても拒む自由は与えられず、アディは心の隅でリリーを受け入れたい、と思ってしまった。リリーはアディを抱き締め、口付けを交わそうと――。


「やめ――っ!」

 息苦しさと自分の声に、目が覚めた。弾かれたように握り締めていたなにかを手放すと、それはシーツだった。宿舎の自室には、ただアディの荒い呼吸と掛け時計の振り子の音だけが響いている。ベルはまだ帰っていないのか、室内はアディが娼館から戻って昼寝を始めた時のままだった。時計は夕刻を示しており、約一時間の眠りだったことを教えてくれた。アディは今しがたの光景が夢だったことに安堵しつつ、蹴飛ばしてしまった夏用の掛け布団に包まった。辺りは静かで人の気配はなく、開いた窓から微風が吹き込む音が聞こえるほどだった。

 脈は速く、体が熱い。まだ完全に夢から覚めたわけではないせいか、瞼にはリリーの姿が現実のもののように焼き付いていた。今にも耳元で声が聞こえそうな気がして、アディは小声で呻いた。

(ああもう、なんて夢……! あ、あんなこと、教わったからかな……)

 今日知り合ったばかりの娼婦は、アディの人生に突如現れた彗星、というよりも、むしろ隕石と呼ぶべき存在だった。姉のように頼りがいのある親しい友人のようでいて、アリジゴクのような底知れぬ恐ろしさを持つ彼女の前では、アディは全く無知の子供にすぎないことを思い知らされた。

 乱れたままの呼吸は、一向に落ち着こうとしない。頭は熱に浮かされているのに体はさらに熱く、横になって背を丸めてもむずついた違和感は消えなかった。アディは掛け布団を握り込みながら、ベッド上で聞いたローザの言葉を反芻した。

(……でも、あんな……自分で、なんて……)

 しかしこのままでは、夢に見たリリーの影はいつまでたっても脳内から出ていかないかもしれない。ベルがいないことを幸運に思いながら、アディは意を決して布団から手を離した。


 一度自室で訓練着に着替えた後、新たに手にしたばかりの模擬槍を武器庫に格納して模擬剣の手入れをしていたベルは、窓越しに武器庫の建物と養成所敷地を囲む壁の間から聞こえてきた、細い管から空気が抜けていくような音を不審に思い、倉庫裏を覗こうと訓練場の土を踏んだ。果たして武器庫の裏には、見慣れた少年の姿があった。

「……ヴィリ」

「お、ホフマンさん。お疲れ様です……」

 従士候補生だ、と紹介されても首を傾げたくなる痩身と、色白さが際立つ暗い茶色の髪の少年は、ベルらから見て二歳年下のヴィリバルト・デデキント、エンゲルス教官に付くアディの直接の後輩である。普段は生気に乏しい小声で話す彼だが、こう見えて起床や就寝、朝昼夕の食事開始等々を告げるラッパを吹奏する技能の持ち主、ラッパ手の一人である。その並々ならぬ肺活量を普段の会話にも活かせばいいのに、とベルは常々考えていた。

 そのヴィリ少年が人目につかない武器庫裏でなにをしていたのかは、ベルにも一目では判断できなかった。「エンゲルス組は変人」の例に漏れず思考を読みづらい彼だったが、本日は珍しくいつもの数倍の多弁ぶりで、この場所にいた理由を語り始めた。

「……練習してたんです、ラッパの。そしたらリヒャルト君に『うるさい』って言われたんで……場所を変えて……でも、やっぱりどこでやってもうるさいでしょうね……練習室がいっぱいなんですもん、今日。それで、ここまで来てラッパの唾抜き……してました……」

「そう、それはご苦労様。練習室がいっぱいなんて珍しいのね」

「新しく入った……オイラー教官のとこの……」

 ヴィリは、外していたマウスピースを本体に取り付けながら続ける。

「……名前は忘れましたけど……その子が、ラッパ手志望らしくって……」

「教官や他のラッパ手が付きっ切りなのね」

 ベルが代わりに続きを言うと、少年はうなだれるように頷いた。とにかく、練習室でラッパを吹いていても彼らの邪魔になると感じたのだろう。骨張った手で器用にクルリとラッパを回転させると、ヴィリはベルの背後を覗くように長い首を伸ばした。

「今日……シュッツァーさんは……?」

「……別行動よ。珍しい?」

「……ですね」

 それで気が済んだのか、ヴィリは会釈してラッパを片手に宿舎へと戻っていった。あの調子でエンゲルス教官の指導を受けているのだから、エンゲルス組はつくづく不思議な集団だ、とベルは黙ってその背を見送った。それよりも、あのヴィリの中でさえ、自分とアディはいつも一緒にいることになっているのか。ベルは靴のつま先で地面を打って苛立ちを鎮め、武器庫へと舞い戻った。

 それからの数時間、ベルは時間を忘れて武器庫の掃除に熱中していた。もともと完璧主義のきらいがある彼女だが、空いているところだけ、とうっかり使われていない棚の掃除を始めてしまったのがいけなかったのだ。誰にも邪魔されることのない休日は、徹底的に庫内を磨き上げるにはうってつけだった。開けっ放しの扉から差し込む陽光が眼に直撃したことで、ようやく時間が経っていることを知ったベルは、心地よい疲労感と共に武器庫を施錠し、鍵を返しに本部棟へ寄ってから宿舎の勝手口をくぐった。


 夏季は日照時間が長いので、ランプはもうしばらく点けなくてもいいだろう。もうアディは帰っているはずだし、運河南通りの様子を聞くのも悪くない。宿舎の廊下を歩いて階段を上り、ベルは二階の端に位置する女子の寝室へと近付いていった。一階の談話室付近は賑やかだったが、二階はしんと静まり返っていた。

 自室の前に到着した時、ベルはドアノブに手を掛けようとして、室内から物音がすることに気付いた。アディは大声で独り言を言うような人物ではないが、女子の部屋に入るような不届き者がいるとも思えない。今までになかったことなので、ベルは思わず動きを止めた。悪いことだとは思わなかったので、そのまま耳をそばだてると、扉の向こうからかすかに聞こえていたのは、荒い呼吸音だった。

(……アディ、なの? 体調は崩してなかったはずだし、怖い夢でも見てるのかも)

 なんにせよ、普通の状態ではないらしい。どうしたものか迷った挙句、ベルは扉に耳を近付けることにした。呼吸に混じって、なにかが聞こえたように感じる。

「……ん……」

 か細い声だが、確かにアディのものである。うなされているのか、と眉をひそめるベルの耳に、また声が届いた。

「……あ、っ……」

(……!)

 初めて耳にする上ずった声に心臓がドクンと鳴り、ベルは飛び退くように扉から離れた。握った掌には汗をかいていて、胸では今すぐにでも扉を開こうとする衝動と、中を覗くことへの恐れがせめぎ合っている。ただ、これ以上盗み聞きしようという気持ちは完全に失せていた。足音がアディに聞こえないようにゆっくりと扉から距離を取ると、ベルは「なにも聞かなかったことにする」という選択肢を採ることに決めて、逃げるように廊下を引き返した。

 早足で向かった先は、共用の洗濯物干し場だった。衝立で仕切られた女子のスペースから替えの稽古着とタオルを引ったくり、その足で女子浴室へと飛び込む。無心に冷水を浴びて髪から雫を滴らせながら、ベルは握り拳を浴室の壁に叩きつけた。

(なんなの、アディのくせに!)

 続けて冷水を被るうち、ベルに冷静さが戻り始めた。水風呂に浸かっていると体の粗熱が取れ、衝動的に壁を叩いた手の痛みを思い出す。体を丸めてホッと息を吐く頃には、焦燥感は収まっていた。

 あれは、そういうこと(・・・・・・)なのだろうか。落ち着いてしまうと、不可解な胸のざわめきに襲われた。アディが一人でなにをしていたとしても、それはベルにはなんの関係もないことである。ベルが思い乱れるいわれなど欠片もないはずなのだ。それなのに、心が揺れ動いてどうしようもなかった。ベルは体を冷やしすぎる前に浴槽から出てしまい、無人の脱衣所で体を拭きながら努めて理性的にこの後の行動について考えた。

 きっと、ライバルの思わぬ一面を知って驚いている、それだけなのだ。経験のないことなので確信があるわけではないが、アディも健全な年頃の少女だったということだろう。これ以上オロオロしていては情けないし、第一、相手はアディである――そう、これが最も重要な点だった。


 念入りに髪を乾かして元通りのシニヨンを結い、脱いだ服を抱えて平静を装いつつ寝室の前まで戻ってはきたものの、扉を前にすると少なからずためらいが生じた。室内は普段の静けさを取り戻していて、アディがいるかどうかも定かでないのだが。立ち竦んだままドアを睨んでいると、廊下の曲がり角から呼ぶ声が聞こえた。

「……ベル!」

 思わず体が跳ねた。ぎこちなく振り向くと、アディはいつも通りの穏やかな表情で駆け寄ってきていて、この場で殴り倒したい衝動と短い間戦うはめになった。

「帰ってたんだね……あれ、着替え? お風呂入ってたの?」

「……ええ、暑かったし……武器庫の掃除をしてたら埃を被ってしまったから」

「そっか、お疲れ様! 模擬槍は買えた?」

 取り留めなく話しながら扉を開ける、その姿はどう見ても普段のアディだった。ベルはその後ろから室内に移動し、籠に脱いだ服を入れた。チラリとアディのベッドを確認すると、シーツが新しいものに取り替えられ、布団や枕はきちんと決められた位置に置かれていた。気にしないふりを決め込んで無理やり視線を移動させたベルだったが、アディのチェストの上で光るものを見付けた瞬間、その不自然さについ指摘せずにはいられなくなった。

「その指輪、どうしたの?」

 アディが小さな体をさらに縮めたのが分かる。その口から出た声も、どこか頼りなく聞こえた。

「えっ、あ、あの、今日知り合った人から預かってて。明日返しに行こうかな、って……」

 明らかに挙動不審、その気まずそうな顔を見ずともアディがなにか隠していることは明らかだった。ベルの胸に不穏な影が去来し、それはアディの顔色にも伝染していった。ベルは指輪の赤い石を睨み、苛立ちをそのままにアディに歩み寄っていく。

「……女物ね。知り合ったって、街で?」

 アディは、ベルを見返しながらわずかに後退った。詰め寄られているように感じたのなら、なにかやましいことがあると言っているようなものである。ハイノ青年の言葉を借りれば「浮気を問い詰められる旦那」状態だが、ちょうど一年前にも同じようにアディを詰問したような。アディは目を泳がせながら何度も頷いた。

「あ、うん、そう。ええと……遠いから、明日も一人で行くね」

 ベルの瞳が鋭く光る。聞かれてもいないことを話すのはアディにはよくあることだが、この場面においては不自然さが際立っていた。

「一緒に行くなんて言ってないけど。どこまで行くの?」

 アディの顔には「しまった」と書いてある。親友の刺々しい声音が耳に痛いのか、少女はまた一歩後退した。

「あの……あー……そう、お花屋さん。お花屋さんだよ」

「花屋にこんな高級品を持ってる人がいるわけ?」

 すかさず畳みかけられる。アディは歯切れも悪く小声で言い返した。

「え⁉︎ まあ、いてもいいよね……」

 その一言で堪忍袋の緒が切れた――わけではないが、確実にベルの苛立ちが募った。腕組みをしながらため息をつくと、目の前のアディが身構えた。

「それで、アディはなにを隠してるの?」

「か、隠してなんか――」

「指輪の持ち主、花屋の店員なんて言わないわよね。本当はどこに行くの?」

「……」

 眼差しだけで念を押すと、アディは落ち着きなく両手を握り合せながら口を開いた。

「……しょ、娼館……」

「……は?」

 その一音節に、ベルの殺気の全てが込められている――そのように、アディには聞こえた。


 断じて関心があったからついてきたのではない、とベルは今朝から繰り返し視線でアディに訴えていた。最後に運河南通り西側を訪れたのは何年も前のことだったように思われるが、その時はこれほど不愉快な気分ではなかったはずである。

 一夜明けて、二人は運河沿いを並んで歩いていた。昨日と同じように涼しい朝のうちを選んだので、通りを行き交う人々の数も多く、首都の活気を感じる道中だった。が、二人の間には不自然な沈黙が続いていた。正装の少女らが連れ立って向かう先が娼館だとは、すれ違った誰も思わなかっただろう。

 さすがに正面から突入していく勇気はなく、アディは途中から裏道に入って前回と同じ「目立たない方」の扉を開けた。隣でベルがムッと目を細めた気配がする。扉の向こうは無人ではなく、昨日ローザに呼ばれてアディの前に顔を見せた娼婦の一人が煙管を片手に出てこようとするところだった。彼女はゆるく束ねた髪を片手で払いのけながらアディを確認し、二人を極上の笑顔で出迎えた。

「あー、アディくんじゃなーい! お連れ様も、黄金のツグミ亭にようこそ! うふふ、昨日は楽しんでくれた?」

「……」

 ベルの殺気がより濃密になった気がして、アディは挨拶もそこそこに本題を切り出すことにした。娼館の玄関先でベルを怒らせるわけにはいかない。

「おはようございます。え、ええと……今日はローザさんはいらっしゃいますか?」

「あら、ご指名? さては本気で気に入っちゃったわね、本当はローザは高いのよ?」

「いえ、今日は届け物がありまして!」

「そう。昨日の部屋で待ってて、呼んでくるわ」

 早口で用件を伝えたことで窮地が理解されたのか、察しのいい娼婦はアディの体に触れることなく二人を廊下へ引き入れた。その代わりに、さりげなく耳打ちして「彼女にばれちゃったの?」と尋ねられたので、アディは慌てて首を振ったのだった。少女たちはベッドと長椅子だけの部屋に入ったが、ベルは狭い室内で座ることもせずに扉の前に仁王立ちし、無言でアディの横顔に視線を刺し続けた。

 数分と待たず、ローザはもう一つの扉から劇的に登場した。本日はシンプルな紫色のドレスを纏っていたが、大抵の男性なら胸元に目が釘付けになるであろう、大胆なデザインであることには変わりなかった。ベルの視線が痛いのでできるだけ簡潔に用事を済ませられるよう、すぐさま立ち上がって真っ先に指輪を差し出したアディへ、ローザはためらいなく両腕を伸べる。

「やっだあ、わざわざ返しに来てくれたのぉ⁉︎ ありがとアディ、愛してるわ!」

 指輪を受け取るが早いか、両の腕は素早くアディの体を抱き寄せ、瞬きする間に唇が重ねられていた。恐るべき手際のよさに、ベルは思わず目を見張って口まで開けることになった。

「な――!」

 あまりの衝撃で言葉は引っ込んでしまい、ただ抗議の声だけが漏れる。アディは慌てに慌てて必死にローザを引きはがし、咳き込みそうに呼吸しながら腕の中でもがいた。

「……っ、ローザさん、友人が……いますので!」

 ローザの視線に晒され、気圧されたくないベルはハッと唇を引き結んだ。値踏みするような眼光は職業柄だろうか。しかし、彼女は一瞬で表情を明るくして腕の中に目を戻し、アディを抱き締めた。

「あら美人! ふふ、同伴なんてやるじゃない。ちなみに今のはサービスね! で、どう? ちゃんと一人で練習してみた?」

「えっ⁉︎ あ……あの、少し、だけ……」

「あらぁ、うふふふ、いい子! もっかいキスしたげる!」

「やっ、やめてください!」

 機嫌よく笑う狡猾な美女に、アディは完全に手玉に取られている。ベルの中で、女性に対して本気で抵抗できないアディが娼婦の毒牙にかかる図式が成立した。そうと分かれば、情けないライバルでも救ってやるに限る。ベルはしゃんと背筋を伸ばし、はっきりと口に出した。

「嫌がっています、離してください」

 アディの腕がビクリと震えたように見える。娼婦はあっさりと少女を解放し、アディはヘナヘナと長椅子に座り込んだ。ローザは乱れたアディの髪を撫でつけつつ、改めて初対面の少女に向き直った。

「ごめんね、あたし流の挨拶なの。ローザよ。怖い顔のお嬢ちゃんは?」

「……ベルティルデ・ホフマンです」

 敵対心とでも呼べそうな嫌悪感を隠しもしない少女に対しても、美女はその太陽のような笑顔を惜しみなく向ける。

「ハロー、ベル。敬語なんていらないわよ、娼婦あたしたちの身分なんてお百姓よりずっと低いんだから。アディにもそう言ったんだけどね、この子『年長のご婦人に対して失礼ですので』なんてお堅くってさあ!」

「そう、それなら遠慮なく」

 目が据わったままのベルからは、冷気が発せられているようにさえ感じる。なにかあったらどうにかして止めに入ろうと、アディは黙って二人の様子を窺っていた。ベルはへたり込んだアディを顎で示しながら問いを投げた。

「……ローザ、いつもそう(・・)なの?」

「え? ああ、挨拶のこと? アディ、キスはしたことあるって言うから」

 そんな新事実には毛ほども興味はない、と言い切るはずが、ベルは頭をフレイルで殴打された心地でなにも言えずに立ち尽くすことになった。当のアディはといえば、そんなベルを見て顔を曇らせたところである。ベルはしばし口をつぐんでいたかと思うと、そのままローザからアディへと苛立ちの矛先を向けた。

「……用事、済んだんでしょ」

「えっ、うん……」

「ええ、もう帰っちゃうの? せっかく遠出してきてくれたんだし、なにか飲んでいって!」

 すかさず引き留めようとするその様子は、いかにも客商売を生業にしている彼女らしい。ベルが「いらないから」と答えるより早く、ローザは「ちょっと待っててね」と扉の反対側へ消えていった。残された二人の間には、これまでにない重苦しい雰囲気があった。

 次に部屋の扉が開かれた時、美女は三人分のグラスにブドウの実が入った炭酸水を注いだものを手にしていた。この短時間で急激に精神力をすり減らしていたアディは礼を述べて素直にグラスを受け取ったが、ベルは断固として手を出さないばかりか、真っ先に口を付けたアディに立ったまま咎める視線を送った。ローザは気楽なもので、グラスの残るトレーをベッドに置いてアディの隣に腰を下ろし、静かに冷たい液体を飲み下す少女の腰に手を回していた。ギョッと吹き出しそうになるアディに、ローザは意味ありげにニヤリと笑んで見せる。

「それで、どうだった(・・・・・)?」

「あっ、あ、あの、ローザさん……」

「ちゃんと繰り返し練習しなきゃだめよ、なんなら今復習する?」

「いえっ、だ、だめです!」

 恥ずかしそうに身を縮めていたアディだったが、ローザの吐息が耳たぶにかかる感覚に慌てて体をよじった。その時である。

「やめてよ!」

 ことの成り行きを静観していたベルが、珍しく声を荒げた。アディはハッと口を閉じたが、ローザは興味深げな瞳をベルに移しただけだった。

 ベルは肩をいからせていた。ピンクのカーテンも、ローザの扇情的なドレスも、アディの頬を染めた様子も、その腰を抱き寄せるたおやかな手も、二人の間に交わされる秘密めいた会話も、爽やかな果実入りの炭酸水も、とにかくこの部屋の全てが不快だった。だが、わけ知り顔でこちらを眺める娼婦は特に我慢ならない。ベルはそのまま黙って踵を返し、入ってきた扉を乱暴に開けた。ローザの「ごめんね、冗談よ」という声が追いかけてきたが、聞く耳など持たなかった。

「ベル! ……ローザさん、申し訳ありません!」

 急いで立ち上がるアディが浮かべる、その心配そうな顔を見て、ローザは目を細めながら笑った。そして、ゆっくりと手を振って微笑ましい二人の少女を見送る。

「いいのよ、あたしもちょっとおいたが過ぎたかもね。早く追いかけてやんなさい。縁があればまたいらっしゃい――ってベルにも伝えといて」

 アディは頷きを残してトレーにグラスを置き、明るい午前の運河南通りへ駆け出していった。扉の隙間から束の間漏れていた真夏の陽光はすぐに遮られ、ほんのりと暗い室内は娼婦だけの空間に戻った。猫のような伸びをしながら、ローザは気だるげに笑う。

「んふふ、可愛い子たち! あー、若いっていいわねえ……」

 分厚い扉と壁に隔てられ、喧騒は遠い。「いいもの」を見られたので、仕事終わりの睡眠中に叩き起こされたかいがあったというものである。もうひと眠りするか、とローザは腰を上げた。


 飛び出していく時の勢いに反して、ベルは娼館のカウンターの前で腕組みをしてアディを待ち構えていた。アディが唖然として足を止めると、ベルは無言で好敵手役に歩み寄って手首を掴み、引きずるように通りに足を進めていった。どうやら、それほど怒っているわけではないらしい。アディは半分安心してしまい、ため息と共に本音を漏らした。

「一人で帰っちゃったかと思った……」

「……そこまで子供じゃない。寄るところはないでしょ」

 つまり、このまま養成所へ直帰ということらしい。アディが「昼食を食べて帰ろう」と提案すると、ベルは不満げに頷いた。少し早いが、歩いていれば腹も空くことだろう。

 アディが昨日の散策中に見かけたスープ屋へ立ち寄り、二人はそれぞれ肉団子入りのスープと魚介のスープを注文した。店内の長机にはすでに何人かの客がいて、二人は一番小さなテーブルの端で、向かい合って席に着いた。注文したものが届くまでの間、アディはベルが目を合わせようとしないことが気になっているのか、気遣わしげに顔を覗き込んだ。

「……ベル、あの……」

「なに?」

「なんというか、びっくりさせてごめんね」

 ベルはテーブルの上で拳を握り締めていた。アディはなぜ、娼婦の指輪を手にするに至ったのか。興味本位でサーコートを着たまま娼館に近付くような浅はかな人物ではないと思っていたが、見込み違いだったとでもいうのだろうか。色々と思うことはあったが、尋ねることは一つである。

「……どうやって知り合ったの?」

「ローザさんと?」

 アディは、目を丸くしていた。その顔色が明るくさえ見えたので、握った拳で鼻面を殴りつけたくなったが、ぐっとこらえる。アディは、照れたように俯いた。

「昨日、大通りの近くで男性に絡まれてるところを見て。男性に注意したら、お礼をしたい、ってお店に招待されたんだ」

 今の今まで、忘れていた。アディは正義感が強くお節介で、かつ女性に弱いのである。ベルは自身の想像がここまで回らなかったことを悔いながら、こめかみに指先を当てた。しかし、お節介の結果がこれでは文句の一つも言ってやりたくなる。まっすぐ睨み付けると、アディは背筋を伸ばした。

「人助けは結構なことだけど、相手の職業を知っててついていったの?」

「……ううん、分からなかった。寝る時みたいな格好だな、とは思ってたんだけど。分かってたらちゃんとお断り――」

「ついていく前に聞きなさいよ!」

 さすがに場をわきまえているのか、ベルは大声を上げるようなことはしなかったが、その剣幕にアディは情けなくうなだれた。

「だいたい、あんな服で外にいたならすぐ分かるでしょ! どこまで世間知らずなの! おまけに――人前であんなことして……」

 怒り散らしながらも、ベルの胸中は複雑だった。今日は自分が付いていたが、昨日はアディとローザの二人きりだった可能性もある。娼婦が指輪を外す状況とは、どんな――。

「……どこまで、したの?」

「どこまでって! なにも……あ、いや、キスはされたけど。女同士だし、他にはなにもされてないよ! さっきみたいに飲み物をもらって――」

 そこで、スープが届けられた。会話はそれきりで、二人は各々の食事に集中することになり、再び沈黙が流れ始める。

 キスなど大したことではない、と言わんばかりのアディの平然とした様子が、ベルの心をざわつかせている。昨日のことといい、もしやあの子供じみた外見の憎い少女よりも、自分の方が遅れているということなのだろうか。幼げな見かけとはいえ、奔放な田舎で育つうちに大人の世間を垣間見ているのかもしれない。しかしこんな時でも、エビや貝柱の味わいはベルの体に普段と変わらぬ安らぎを運んでくれた。

(……おいしい)

 きっとアディも、肉団子を頬張りながら同じように思っていることだろう。食事のおかげか、微妙な年頃の少女たちはそれきり食事前の話題を蒸し返すことはなく、新人訓練生や先輩訓練生のことを話しながら仮の住まいへと帰っていった。そう、夏は勝負と別れの季節でもある。来年にはついに自分たちが、それぞれの将来に向けて踏み出すことになるのだ。いつまでもこんな小事件にかかずらっているわけにはいかず、自然と二人は普段の様子に戻っていったのだった。


 それから、約一週間後のことである。少年は単身王宮に近い石造りの建物の中にいた。同じような赤茶色のサーコートを纏った同年代の少年たちも、彼と同様に緊張の面持ちで簡素な室内に並べられた椅子に腰掛けていたが、そのうちの一人が身に付けた外套を見てからは、さらに萎縮した様子だった。彼らが見たのは、所属養成所ごとに異なる紋章だろう。それほどまでに中央養成所の権威は抜きん出ているということなのだが、当のフランツはそれどころではない、とばかりに目の前の扉を凝視していた。ここは首都の護民官詰所、ペステリア国護民官の総本山である。本日はこの秋に採用される護民官を選抜する試験が行われており、フランツは父が勤める故郷ブルームガルトをあえて避け、首都ペステリアの護民官となるべくこの場所にやってきたのだった。

 護民官はいわゆる「お付き」や自治体の従士団員と比べると、騎士でない従士の中では社会的な地位においてやや格が落ちるとされており、中央養成所の訓練生はあまり選ばない進路と言われている。だからこそ、フランツの存在は他の少年たちに脅威として映ったのかもしれない。

 自費で購入して以来何年も握り続けてきた模擬剣は完璧に磨き、柄巻も巻き直してきた。いつでも来い、とフランツが気合いを送っていると、足音が近付き、扉が開かれた。若い護民官が羊皮紙を手に室内を見渡し、部屋の窓石がビリビリと震えそうな大声を上げた。

「それでは、これより実技試験を開始する! 一名ずつ呼ぶので、呼ばれるまで待機するように。一番、中央養成所、バウムゲルトナー・フランツ!」

「はい!」

 フランツが勢いよく立ち上がると、護民官はどことなく気弱そうな瞳で少年を確認した。もしかすると、彼もまた中央養成所に憧れた一人だったのかもしれない。注目の一人が去ったおかげで、控室の空気は幾分か弛んだ。

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