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双葉の従士  作者: 日辻
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十三話 花を売る人

 アディの目の前には、妖艶に微笑む一人の美女が迫っていた。つい先ほどまでアディと彼女とは並んで長椅子に掛けていたはずなのだが、なぜだか今、アディは後ろ手をついた状態で倒れかかっており、女性がその上から覆い被さろうとしていた。女性の豊満な胸は、それを誇示するかのごとく大胆に胸元を開いたドレスの薄い布越しに、アディが抵抗するつもりで立てた半ズボンの膝に押し付けられている。その質量に少しでも恐れおののく素振りを見せたなら、たちまち彼女に襲いかかられるだろう。初心な少女は無意識に喉を鳴らしてしまい、それが美女の興をそそったようで、しなやかな指が抜け目なくアディの首筋に伸ばされた。きついピンク色のカーテンが掛かっているせいで、外からの視線は完全に遮断されている。長椅子とベッドしか置かれていない狭い部屋の外には何人もの気配があったが、声は出せそうもない。内心で必死に助けを求めながら、アディは長椅子の上で後退っていった。これではまるで、ヘビに絡め取られる哀れな小鳥である。どうしてこんなことになったのか、アディは沸騰寸前の頭で今までのことを思い返した。


 ペステリアの夏は空気が湿潤すぎず、それなりに涼しいと言われている。高地から首都まで下ってきたアディには暑く感じられたが、外出するのがおっくうになるほどでもない。養成所で夏期訓練が始まったのは昨日のことだが、曜日の関係で訓練開始二日目は早くも休日だった。養成所では新たな訓練生たちを迎え、アディを受け持っているエンゲルス教官の門下にもヤン・キップという七歳の少年が新たに仲間入りした。彼の歓迎会を行うのであつらえ向きの食事処に目星を付けてこい、とエンゲルス教官から指令を受けたアディは、涼しい朝のうちに一人宿舎を発ったのだった。ベルは昨日の訓練中に破損した模擬槍を新しく買い求めるべく、アディの目的地とは別方向のツンフト通りに出かけていて、珍しく別行動を取っていた。女子訓練生は相変わらず二人きりで、このまま来年も女子が入所しなければ、中央養成所の訓練生は男子だけになる予定である。

 高く登った真夏の太陽は眩しくてしかたないが、暑さは我慢できそうだ、と手を目の上にかざしながら、アディは冬にベルと訪れた商店街の近くを歩いていた。訓練期間中の義務として着用した赤茶色のサーコートの下は訓練着ではなく正装用のシャツと半ズボンで、これで帯剣さえしていれば一人前の従士に見えなくもない格好だが、王宮に近い首都で暮らす人々は「赤茶は訓練生である」と知っているので、特別の注意を払うこともなく周辺を行き交っていた。王宮から遠ざかる方向へ橋を渡った運河南通り西側には、王宮周辺よりも若干安価な宿屋や食堂が並んでいて、国内外の旅人が滞在するにはうってつけの地域だった。

 暑がりのアディは、建物の影を選んで運河から離れる方向――南へと進んでいった。養成所で寝起きしていればまず用のない場所ではあるのだが、出会ったばかりの後輩ヤンに、養成所で初めての楽しい思い出を作ってやりたい、と張り切る気持ちがアディを自然と遠出させていた。初めて足を踏み入れる通りには、道に沿って季節の花が植えられており、広い馬車道は石畳で完璧に整備されていた。

(……と、あんまり遠くないほうがいいよね。ヤンが疲れちゃったら悪いもん)

 これ以上は南下しないことに決め、アディは首都を南北に走る大通りに向かって歩き始めた。朝のうちに水がまかれたのか、しっとりとした冷気にはかすかに花の香りが含まれている。いい通りを見付けた、と気分もよく足を進めていくと、行く手には魅力的な食堂が立ち並んでいることが分かった。

(わあ、北方の猟師料理だって! ピアさんが喜びそうだなあ、送別会はここでもいいかも――あっ、こっちはケーキ屋さんか。女の子が好きそう、ベルにも教えようかな。わ、農村料理のお店なんてあるのか……ふふ、私はよく食べてるけど、首都の人には珍しいのかも)

 しばらく歩くうち、新しくできたばかりという食堂を見付けたアディは、ひとまずここにしよう、と即断し、もう少し辺りを散策することにした。大通りか運河に沿って行けば迷うこともないだろう、と大通りを北上すると、すぐに運河にたどり着いた。「ちょっと、やめてよ!」という女性の悲鳴に気付いたのは、その直後である。

 アディは素早く周囲を見渡し、運河沿いにそれらしい人影がないことを確認すると、直感に従って駆け出し、間もなく建物と建物の間にあまり身なりのよくない壮年の男性と、彼に手首を掴まれた若い女性の姿を発見した。詳しい事情は分からないまでも、女性が困惑していることはすぐに察せられた。アディが駆け寄っていくと、振り向いた男性は赤らんだ顔でギョッと目を見開いた。アディは持ち前の正義感と従士の精神に基づき、男性に注意の視線を向ける。

「どうなさいましたか? 女性に手を上げるなんて紳士にあるまじきことですよ」

「なっ……こ、こいつ……!」

 意外にも、男性は手を離すが早いか一目散に駆け去っていき、薄暗く細い裏道にはアディと女性だけが取り残された。いささか拍子抜けした風情のアディの前で、女性はさも迷惑だ、と言わんばかりの表情で男性の後頭部を睨みながら、手にしていた花の入った籠を腕に掛け、握られていた手首をさすり始めた。

 年の頃は、二十代中頃といったところだろうか。身長はベルよりも少し高い程度で、茶色い髪は一般の女性としてはやや短く、肩につく程度で緩やかに波打っている。額の中央で左右に分けた長い前髪は耳にかけられ、落ち着いた大人の雰囲気を醸し出していた。瞳も髪と同じブラウンだが、それらの落ち着いた色合いの割には、化粧のせいか華やいだ都会的な印象を受ける。有り体に言ってしまえば、かなりの美貌である。このような麗人はヘンペルの田舎ではもちろん、首都でもそう出会えるものではないのだろうが、アディは奇妙な既視感を覚えた。しかし、それ以上に少女の目を引いたのは、彼女の首から下だった。成熟した女性の豊満な肉体、それ自体は田舎も都会も関係なく存在しているだろう。問題は、彼女の服装だった。妙齢の女性が夏用のマントを身に付けていないことは、特別不自然ではない。彼女は一般的な普段着であるエプロンドレスのディアンドルではなく、貴族の女性が就寝時に身に付けるような、腕を露出する胸元や背中の開かれたロングドレスを着ていたのである。しかも、スカートにはサイドスリットが入っていて、女性が脚を動かすたびに太腿まであらわになっていた。アディは思わず彼女の身体を凝視しそうになり、さりげなく脇に視線を逸らした。女性をジロジロと眺めることこそ、「紳士にあるまじきこと」に違いない。

 もしも眠っているところを無理やり連れ出されたのであれば、人前に出る格好ではないことにも頷ける。私服であればマントを持っていたのに、女性に恥ずかしい思いをさせてしまった、とアディは間の悪さを嘆いた。ところが、花籠の淑女はアディが想像もしなかったような大声で、こんなことを言い放ったのである。

「ボク、どうもありがと! お姉さん助かっちゃったわあ。色ボケオヤジ、ざまあ見やがれってとこね!」

「……」

 この際「ボク」ですら大した問題ではない。たった今、彼女は淑女に似つかわしくない言葉を口にしたような。凍る顔を声の主へ向けると、美女は口紅を引いた唇をニッと弓形に曲げて、大胆な大股でアディに歩み寄ってきた。

「あのオヤジ、外国人だったわねえ。変な訛りがあってさ、何言ってんのかよく分かんなかったのよ。それに、君のことも護民官と勘違いしてたんじゃない? ほんと間抜けだったわあ、ああ清々した!」

 豪快な笑い方は、「女傑」と恐れられるエンゲルス教官にすら似ていた。なにかの間違いだろうか、とアディは恐る恐る女性を見上げた。女性は腰に手を当てたかと思うと、途端にたおやかな目付きになって腰を折り、親しげにアディの右手を両手で握った。香水の匂いが漂い、アディは思わず気圧されそうに相手を見返した。

「ねえ、ボク中央従士養成所の訓練生の子でしょう? 今日お休みよねえ、時間ある?」

「え、ええ……予定はありませんが……」

「そうなんだあ、じゃあ是非お礼させて! お姉さんね、お店で働いてるの。一緒に来てくれると嬉しいんだけどなあ……」

 蠱惑的な笑みに、頷くことしかできない。美女は「うふふ、それじゃあご案内!」と上機嫌で花籠を左腕に掛け替えると、アディの左腕を取って、運河にほど近い裏道を迷う素振りも見せずに歩き始めたのだった。


「訓練生さん、お名前は?」

「あ、アーデルフリートです……」

「やだあ、かっこいいお名前! んー、じゃ……アディ、かな? あたしはローザよ、ただのローザ。姓はないから好きに呼んでね」

 おそらく、西に向かっている。それよりも、ローザと名乗った彼女と出会ってからこのかた、陽の光を浴びていないのが気にかかった。よほどこの近辺に詳しいのだろう、アディと腕を絡めて離さないその歩みには、相変わらず少しの迷いも感じられなかった。

「ローザさん、お店とはどんな……?」

「ええ? ほら、見ての通り花よ、お、は、な。花を売ってるの。従士のお客さんもいっぱいいるのよ?」

「ああ、そうなのですね!」

 ローザは、左腕の花籠を軽く振って見せる。従士にも得意客がいると聞いて、途端にアディの不安が霧散していくのが分かった。従士候補生が怪しげな店に連れ込まれたのでは大問題である。それに、ベルに会わせる顔がなくなってしまうだろう。アディの足取りは思わず軽くなり、ローザはますます笑みを深めた。

 どれほど歩いたのだろうか、二人はついに陽光に晒された。運河は見えなかったが、水の流れる音はかすかに聞こえるので、ほとんど運河沿いに移動してきたらしいことが分かった。アディが誘われたのは、細い路地に面した白い壁が印象的な四階建ての建物で、看板もなく売っているはずの花もない、カーテンの掛けられた質素な木戸をくぐった時、アディは「ここは従業員用の裏口なのだろう」と内心で頷いた。扉の先は薄暗く小さな無人のカウンターがある空間で、長い廊下は反対側の通りまで続いているように見えた。ローザはアディの腕を引いてカウンターの前を素通りし、玄関とは対照的に頑丈そうな木のドアを開いた。

「はーい、到着よ。お疲れ様! 暑くなかったでしょう?」

「はい、汗かきなので助かりました。こんなところに花屋さんがあったのですね」

「ええ! 結構有名なのよ? 今冷たい飲み物を持ってくるわ、座って待っててね」

 「ありがとうございます」とローザを見送り、アディは示された長椅子に腰掛けた。

 狭い部屋だが、扉は二ヶ所に付いていて、ローザは入ってきた廊下への出入り口とは違う扉を抜けていった。長椅子の前には清潔な寝具が揃うベッドが置いてあり、壁掛けランプを除くと家具はたったそれだけだった。ベッドの上には小さな窓があったが、ピンクのカーテンが引かれているせいでわずかに差し込む光はピンク色に染まり、室内に不思議なムードが漂っているように見えた。

(不思議な部屋だなあ……お店の方の仮眠室……かな? なんだかちょっといい匂いもする、お花の匂いかも)

 窓の方を眺めていると、ローザはすぐにトレーを手に戻ってきた。グラスには炭酸水が入っているように見えたが、底に簡単に潰された様々なベリーが沈んでいるのを見て、アディは瞳を輝かせた。

「わあ……」

「ふふ、初めて見た? これね、今ペステリアで流行ってるのよ。おしゃれでしょ」

「はい! ありがとうございます、いただきます」

「どうぞ、召し上がれ」

 ローザはアディの隣に並んで座り、同じ炭酸水を飲み始めた。冷たく爽やかな中に甘酸っぱさが混じった飲み物は新鮮で、アディはこれだけで十分な礼をもらった気になった。ローザは微笑ましげにアディを眺め、飲み終わったグラスをまとめて長椅子の横に置くと、微笑みながらアディの顔を覗き込んだ。

「その格好、窮屈でしょ? これから暑くなるし、サーコートは脱いじゃって」

 その言葉に甘えてシャツとズボンだけの軽装になり、ついでにシャツの第一ボタンを開けてしまうと、ローザは手慣れた様子で壁のフックにサーコートを掛け、ニコニコと愛想よく笑いながらアディの腰に腕を回した。ドキリと身を強張らせるアディに、ローザは妖しげな笑顔で囁いた。

「ふふ、お守り(アミュレット)着けてるんだ。……そろそろ集まると思うわ、アディには特別サービスしてあげるわね」

「あ、あの、それって――」

 扉が開く音に慌てて振り向くと、にわかには理解し難い光景が飛び込んできた。ローザのような、もしくはそれ以上に肌をさらけ出す服装の女性たちが、次々と顔を出したのである。その誰もが例外なく美女であり、アディの脳内を大いに混乱させた。十人ほどの女性たちは狭い室内にひしめき合うように押し寄せながら、ローザの隣で硬直するアディを興味深げに眺め回していた。

「やーん、可愛い! ローザ、この子どうしたの⁉︎」

「んふふ、さっき運河を散歩してた時にね、嫌なオヤジに絡まれたんだけどさあ……この子が助けてくれたの! どう、この純な感じ! アディって言うのよ。可愛いでしょう、緊張しちゃってるから優しくしたげてね?」

「すっごーい、勇敢! 小さい王子様みたい。しかもそれ、従士養成所の服じゃない! 将来有望!」

「きゃー、こんな若い子本当にいいの? アディくん、お姉さんと遊ぼっか!」

「アディくーん、お姉さんにしようよ!」

「ちょっと、アンタしばらく客付いてないからって――」

「こら、静かにしな!」

 ローザの一喝で、かしましい騒ぎは瞬く間に収まった。事態が飲み込めず、すっかり逃げ腰になって震えているアディの顎に手を添えながら、ローザは耳元で恐ろしいことを口にした。

「ほらアディ、好みの娘一人選んでごらん? 今日は特別だからタダで遊んでいって。遊び方が分からなかったら教えてくれるわよ、すっごくいいこと――」

 その時になってようやく、アディはうっすらと自分の置かれた状況を理解し始めた。すなわち、ここでは花を売っているが植物の扱いはないということである。

「その子の年じゃ経験ないんじゃない? 大丈夫よ、怖くないよ!」

「ねえねえ、どのお姉さんが一番好き?」

「私よねえ?」

 アディは、顔を引きつらせながら目をさまよわせた。どの女性もそれぞれに魅力的だが、今はそれどころではない。頭まで完全に硬直してしまい、口八丁で逃げ出すことも不可能に思われた。約十人の誘惑の笑みからかろうじて視線だけを逃がし、アディは蚊の鳴くような声でやっと答えた。

「……ローザさん……がいいです……」

 すると、女性たちが各々落胆なり納得なりの色を浮かべる気配が伝わってきた。

「あー、ローザさん胸大きいもんね……」

「さすがぁ、二番人気は若い子にも人気なのねえ」

「ええ……アディくん、今度来たらお姉さんとも遊んでね?」

「じゃあ、ごゆっくり!」

 女性たちはアディの手の甲に口付けたり投げキスを送ったりしながら扉の向こうへ去っていき、ローザは満足そうに笑いながらアディを抱き締め、彼女らを見送った。再び二人きりになったタイミングを見計らい、アディはローザの柔らかな体を押し返しておずおずと顔を見合わせた。

「あの、ここって――」

「決まってるじゃない、娼館よ。往来で花籠を持ってる女は娼婦って決まってんの。覚えときなさいね」

(娼館――!)

 予感は確信に変わり、アディの顔から血の気が引いた。娼婦を助けた礼が「遊び」ということは、つまり――。

「あ、あのっ、私……!」

「遠慮しなくていいのよ、まだお店が開くまで時間はあるし。あたし昨日休みだったから、元気は売るほど余ってるもの。それにしても、そう……あたしかあ。嬉しいけど、もしかして気でも遣ってくれた?」

「いえ、そんなっ――⁉︎」

 さりげなく手首を取られ、そのままローザの胸に押し付けられて、アディは大慌てで手を振りほどいた。ローザは微笑ましげに吹き出すと、アディの頰を撫でながら顔の距離をゆっくりと詰めていく。

「うふふ、初めてなんでしょ。あたしに任せなさい、アディを大人にしてあげる」

「……」

 香水の香りに頭の芯がしびれそうになり、少し力を抜いた隙に優しく押し倒される。倒れる寸前に後ろ手をつくと、顔の距離が離れたことでわずかばかりの気力が戻った。ローザは獲物を追い詰める獣のように隙のない視線をアディの上半身に絡めつつ、余裕の表情でアディの靴を脱がせ、自分も靴を脱いで椅子の下へと次々に投げ捨てた。太腿に伸びた手にゾクリと目を細めると、美女はますます愉快そうに口の端を吊り上げた。

 ――そして、冒頭の場面に戻るのである。


 窮地に追い詰められて余計なことに頭が回り始めたのか、不意にローザにはリリーの面影があることに気付いた。だから親しみを感じたのか、とのんきに感心している暇などないばかりか、リリーに似た彼女と関係を持つようなことになったら、ヘンペルに帰ってからリリーと顔を合わせづらいどころの話ではない。友人のことを思い出した瞬間冷や汗が噴き出し、アディは苦しげに顔を歪めた。

「あら、そんなに嫌? お姉さん傷付いちゃうなあ、女性に恥をかかせるのは紳士じゃないんじゃない?」

「――」

 返す言葉もない。だが、それを言う表情があまりに楽しげだったので、アディの内側に小さな闘志の炎が灯った。

「だからと言って、今知り合ったばかりの女性……と――」

 ローザが唐突にドレスの肩紐をずらして胸部を露出したので、アディの闘志は早くも突風に消え去った。彫刻にでもなりそうな裸体だが、アディを怯ませるには十分な迫力があった。ローザは片手を長椅子の背もたれに置いて上体をアディの上に移動させ、空いた手で上気して震える頰を捉えた。

「そういう規範とか正義とか、今は捨てちゃいなさい。全部分からなくなったって、あたしはさっきまでの正しいアディを覚えてる。キスだってしたことないでしょ?」

 怯えた瞳で、アディは覆い被さろうとする女体を見上げた。ローザの瞳は確かにリリーに似ていたが、その眼差しは紛れもなく娼婦のそれである。心の中で、リリーとは違う、と必死で叫んだ。そして、口だけでむなしい抵抗を続ける。

「……あります、したこと」

「あ、そう?」

 ローザは涼しい顔で二、三度瞬いた、かのように見えた。重力に従って座面へと垂れていたアディの短い後ろ髪がなにかにすくわれたかと思うと、それが掌だと気付くより先に軽く引き寄せられ、瞼が閉じ切らないうちに唇が重なった。舌を絡め取られると甘酸っぱさが口中に広がり、同じベリーの炭酸水を飲んだことを思い出す。アディの腕から力が抜け、ガクリと肘をつく格好に倒れ込んだ。その拍子に唇は離れ、頭上には勝ち誇るように悠然と微笑むローザの顔があった。

「じゃ、しちゃってもいいわよね。もうしちゃったけど」

「……は、っ――」

 これで、もう逃げられない。たったこれだけのことで息は上がり、心臓は早鐘を打っていた。もしかすると、情けなくも涙ぐんでいるかもしれない。しかし、ことここに至っても、ローザの笑顔にはリリーの影が重なって見えた。

「ね、もう観念してお姉さんの前に全部さらけ出しちゃいな。なんにも恥ずかしくないわ」

「……だめ……」

 往生際の悪さも微笑ましく映ったのか、ローザは「ふふっ」と笑い声を漏らした。しかし、口ばかりで本気で逃げ帰ろうとする気配はない。さっさとなにも言えなくしてやろうと思ったのかは定かではないが、娼婦は嫌がる言葉を聞き流して首筋から鎖骨へと指先を滑らせていき、やがて左胸に――到達したところで動きを止めた。

「ん? あら? あらら?」

 素っ頓狂な声が上がる。息を荒げながら震えていたアディも、ローザの異変に顔を上げた。ローザは難しい顔でシャツの上から胸元を撫で回していたかと思うと、無言で膝を割り、問答無用でアディの股間を鷲掴みにした。

「わぁあああ⁉︎」

 驚愕の叫びもどこ吹く風で、ローザはキョトンと目を丸めると、長椅子の上に体を起こして毒気の抜けた満面の笑みを見せた。

「なーんだ、あんた女の子だったのねえ! やだわあもう、あたしてっきりさあ――ね、そういえばアディって年はいくつ?」

「じゅ、十六です……」

 ジリジリと後退りつつ起き上がるアディに手を貸しながら、ローザはカラカラと笑い始めた。初めに言っておけばよかったものを――アディはすっかり消沈して長椅子に座り直した。

「そうなんだ、それにしちゃ小さいのね! せいぜい幼年出るくらいの男の子だと思ってたわあ! あはは、ごめんね!」

「いえ……その……よく間違えられます……」

 ひとしきり笑った後、ローザはドレスの肩紐をきちんと直してアディの再び隣に腰掛けた。改めて振舞われた二杯目の炭酸水はオレンジとレモンが入っていて、爽やかな酸味が気分を落ち着けてくれた。他の娼婦たちもアディが女性だと聞いて「ローザが間違えるなんて」と驚いた様子を見せた。

「だって、ねえ! 服はともかく……髪は短いし、名前なんて男の子そのものなんだもの。凛々しい女の子も嫌いじゃないけど、まさかねえ」

「だからって、胸触るまで分かんなかった?」

「触っても半信半疑よ! アディったら超スレンダーだもの!」

 好き勝手な言われようだが、アディは苦笑いでやり過ごした。


 アディがようやく完全に落ち着きを取り戻した頃、ローザは長椅子の肘掛けに肘を置いて頬杖をつきながら小さく唸っていた。

「でもねえ、これで帰しちゃただの飲み物屋なのよね。せっかく遊んでもらってお礼しようと思ってたのに」

「いえ、お気持ちだけで――」

 その時、ローザがアディの方へ身を乗り出した。引き気味のアディに、ローザは姉のような親しげな眼差しを送った。

「ねえアディ、好きな人いる?」

「い、いえ……」

 ここで動揺してしまったのがいけなかったのか、ローザの目が再び妖しく光ったように見える。美女はアディの髪を撫でながら、気楽に笑っていた。

「別に隠さなくていいのよ。まあ……そうね、いないと思っとくわ。でもね、アディも女のたしなみくらい身に付けておいて損はないと思うわよ」

「いえ、私は――」

 ローザはアディの手を握った。緊張した様子のアディに寄り添うと、彼女は教え諭すように続ける。

「従士だろうとなんだろうと関係ないのよ、アディの体は女の子なんだから。好きな人がいるなら練習しやすいし、話は早かったんだけど……ま、いいわ。娼婦あたしたちからしてあげられることって限られてるし」

「……ローザさん?」

「安心して、もうアディが嫌がることはしないから。してあげてもいいんだけど、こればっかりは自分が覚えないとね」

 要領を得ない様子の少女に、ローザは娼婦の瞳で微笑んだ。椅子から立ち上がってベッドに腰掛けると、華麗な動作でドレスを脱ぎ去ってベッドサイドへ落とし、顔を背けようとするアディを手招きながらシーツをポンポンと叩き、歌うように誘惑の言葉を唇に乗せる。

「いらっしゃいお嬢ちゃん、お勉強の時間よ。いいこと、教えてあげる」


 コインの落ちる音に、ベルはハッと足元を見下ろした。そこに硬貨はなく、職人見習いの少年が火傷だらけの手で「ありましたよ」と背後から声をかけてくれて、やっとコインが遠くに転がっていったことに気付かされた。

 工業ツンフトの武器工房を回り始めて約二時間が経っている。女子用の槍は注文を受けてからでないと作らないので在庫がない、と言われ続けて、ようやく完成間近のものが倉庫に眠っていた一軒にたどり着いたのだ。親方によると、見習いが柄の長さを間違えてしまったので長らく倉庫入りさせていたとのことだった。ベルは素朴な作りの木の椅子に座り、冷めた紅茶を飲みながら武器の完成を待っていた。それが数分前までのことである。

 「模擬」と「正式の」武器の差は、刃が入れてあるか否か、たったそれだけである。代金を立て替えながら柄の付け替えを終えた完成品を待っていると、時折向けられる視線が気になり、ベルは見習いの少年に怪訝そうな目を向けた。二人は一瞬見つめ合うことになったが、すぐに親方が間に割って入ったので、ベルはそのまま顔を上げた。

「――待たせたね訓練生さん……ああ、すまんすまん。こんな職場にあんたみたいな美人は滅多に来ないからな」

「そうですか」

 同年代の男子に対しては、軽蔑するほどの関心すら持っていなかったので、ベルは一言で受け流して差し出された模擬槍を手に取った。柄は急造だが、手に馴染みそうな申し分ない出来だった。領収書を書いてもらって用事を済ませると、ベルは挨拶を残して昼間の通りに踏み出した。思ったよりも時間がかかったが、今から養成所に帰っても事務方に経理処理を頼んだり、ついでに武器の点検をしたりする時間は十分あるだろう。

(アディはもう帰ってるかな……)

 ふと、シャツの下のアミュレットに意識が向いた。今、石がじわりと温かく感じたような。特に呪いがかけられているわけでもなし、と気にも留めず、ベルは養成所へとまっすぐ帰っていった。


 昼過ぎになって、アディはようやく養成所の敷地を踏むことができた。恐ろしく長い時間を過ごしたように感じるが、半日にも満たない出来事だったらしい。今朝目星を付けた食堂について報告しようと、かすかにふらつく足取りで教官室を訪ねると、ユング教官からエンゲルス教官はもう帰った、と聞かされた。急ぐ用事ではないので問題はないのだが、気疲れが顔に出ていたのか、ユング教官に「大丈夫かい?」と声をかけられた。問題のない旨を答えて宿舎の自室に帰ると、ベルはまだ戻っていなかった。廊下に立っていると階下から少年たちの笑い声が聞こえ、ここは安全(・・)な場所である、と心から安堵した。

 部屋に戻ったアディは、下着以外の着ていた服を脱いで私服に着替えようとしたが、ふと手になにかが引っかかる感触にシャツの胸ポケットを確認すると、そこにローザの指輪が忍び込んでいた。そういえばベッドに誘われた際、「ちょっと預けさせて」と入れられたような。運良く休日が続いているので、明日にでも届けに行けばいいだろう。脱いだ服を洗濯物用の籠に放り込むと香水の香りがフワリと漂い、ベルに気付かれるのではないか、と思わず背筋が冷たくなった。しかし、冷静に考えれば、ベルが人の洗濯物の匂いをわざわざ嗅ぎにくるはずもないことは明白である。アディはため息をつき、靴を脱いでベッドに倒れ込んだ。娼館での出来事は従士候補生として禁欲的な生活を送ってきたアディには刺激が強すぎ、目を閉じればローザの姿が瞼に蘇って胸を騒がせた。

(なんだか、訓練より疲れた……)

 就寝どころか夕食のラッパにもまだ早いが、今日のアディは体力を使いすぎた。起きてベルを迎えられるよう祈りながら、アディは吸い込まれるように眠りに落ちていった。

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