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双葉の従士  作者: 日辻
13/20

十二話 卒業式の後に

 女子生徒に限れば、ジーメンス郡立中等学校のアディたちの学年では、リリーの幼馴染にして親友であるカリーナが、大抵の場合試験の成績で一番だった。アディは大概二番か三番だったが、従士はそれほど学業成績を重視しないので、躍起になって一番を奪取しようとするつもりもなければ、カリーナを妬ましく思うことも全くないという気楽ぶりだった。もしもベルが聞いたら、烈火のごとく怒り出しそうな話ではある。やや内気ながら真面目で思いやり溢れるカリーナは、この片田舎で「不動の一番」として尊敬を集めていた。

「次の試験もカリーナさんが一位かな。アディ、次は一位狙ってみたら? いけるんじゃない?」

「別にいいよ。カリーナさん首都に進学するんだもん、勉強を頑張るのは当たり前だよ。それより、ツィスカも進学でしょ? 今度の範囲は大丈夫?」

「……う、アディ、今度博物学教えてね……」

 少女たちがヘンペルを抜けて中等学校の建つジーメンスに踏み入れる頃には、すっかり日も昇って初夏の陽射しが周辺の深緑を絵画のようにきらめかせていた。高地の朝につきものの霧と朝露は上空に帰っていく途中で、牧草の香りがいつものように盆地に立ち込めている。制服もジャケットを脱いだ軽装に変わり、もうじき夏がやってくることを肌で感じられるようになった、ある朝のことだった。

 アディとツィスカが最初の授業が行われる教室で友人たちと朝の挨拶を交わしていたちょうどその時、教室の入口付近にいた級友の一人が、誰かに呼ばれて扉に近付いていった。二人はそれに気付くこともなく友人との歓談に興じていたが、背後から呼びかけられてようやく、誰かが用事があってこの教室を訪れていたことを知った。

「シュッツァーさん」

「ん? あ、おはよう。どうしたの?」

「これ、さっき五年の先輩が」

 シャツの袖をきっちりと捲った背の高い少女は、アディに一通の封書を差し出した。封筒には『アーデルフリート・シュッツァー様』とだけ書かれていて、その裏側には差出人の名として『コジマ・フォン・アイヒラー』とあった。

「ありがとう。なにかな……」

「一人の時に読んでください、って。じゃあ、確かに渡したからね」

 唐突な出来事だったので級友を見送る余裕もなく、アディは何度も封筒の宛名を確認した。コジマはアディが春の舞踏会で何度か踊りのパートナーを務めたことのある一学年上の女子生徒で、かつて首都に近い領地を治めていた貴族の親戚、つまりそれなりに裕福な家庭の出身である。平常時には大して交流があるわけでもなく、舞踏会以外で親しく付き合った経験もない、卒業を目前に控えた上級生からの突然の親書は、アディを妙に落ち着かなくさせた。ツィスカは好奇心に瞳を輝かせながら、封筒を控え目に覗き込んだ。

「え、先輩からなの? どういうご用事だろうね、もしかして……告白とか!」

「そんな、私が女子だってご存知だよ。舞踏会のお礼とか感想とか、そんな感じじゃないかな。きっとそれだけだって――」

 本当にそれだけなら、どれだけ心穏やかでいられたことか。その日の帰宅後、すぐに自室で封蝋を破ってみれば、中には『卒業式の後、女子校舎裏の花壇の前で待っています』と書かれた便箋がたった一枚待ち構えていたのだった。アディは頭を抱え、ベッド上で転げ回るはめになった。

 そういう(・・・・)こともあると、噂には聞いたことがある。中等学校からは同年代の異性との接点は急激に少なくなるので、思春期の熱は持て余され、仮初めの恋心を生むという。奔放な田舎町では生徒同士の男女交際もおおらかに見守る空気があったが、その陰に隠れるように想いを温める少年少女も間違いなく存在している。誰も大きな声では言わないが、この山奥の中等学校にさえ「逢引にちょうどいい部屋」があることが知れ渡っていたほどである。

 ただ、アディは幸いにしてというべきか、女性から――男性からも――表立って友情以上の好意を向けられたことはなかった。それだけに、今朝のツィスカの言葉は生々しく胸に刺さった。

(告白――告白? そんなわけない、だって私だし! ああ、でも……じゃあなんで校舎裏に……)

 ベルに相談する勇気など、当然持ち合わせがない。しかし、これ以上ない相談相手は身近にいたことに、アディはすぐに思い至った。


「んー、女の子からか……じゃあ告白はないんじゃない?」

 頼みの綱にしていたリリーは、実にあっさりとアディの悩みを断ち切った。拍子抜けした様子の友人に、リリーはいつもの悪戯っぽい笑みを向ける。

「だって、その先輩お金持ちの家の人なんでしょ? 女の子同士なんてお家の人が許してくれないだろうし、駆け落ちしようなんて言われても困るよね」

「……そ、そっか。そうだよね。変なこと相談してごめん……」

「ううん、私の意見が役に立ったなら嬉しいよ」

 窓を開け放っているとはいえ、扉をきっちりと閉めた放課後の天文学資料室は、その場にいるのがたった二人だけでも多少閉塞感を覚えた。ちょうど最後の授業が天文学だったこともあり、アディはこの小部屋を使った密談をリリーに持ちかけたのだ。リリーは快く応じてくれ、カリーナとツィスカは訝りつつも先に下校していて、周囲からは人の気配が感じられなかった。アディとリリーは星図の描かれた半球を脇にやり、その台である長机に腰掛けていた。

 明快な答を得てホッと息を吐くアディの隣で、リリーは興味深げに資料室内を眺め回していた。薄暗い室内には暗幕や数々の星図、資料としての書籍を満載した本棚等が所狭しと並んでいる。アディはすっかり元気になってリリーの方を窺った。

「ここ、普段入らないもんね。なにか面白いものある?」

「ううん、面白いものっていうか――」

 リリーが、不意にアディの方へ身を寄せた。思い出したように体を緊張させるアディの耳元で、リリーが楽しげに囁いた。

「逢引部屋でアディと二人きりだなあ、って思って」

「あ――⁉︎」

 顔に体温が集まる感覚がして、アディは思わずリリーから顔を背けた。確かに、暗幕と長机を完備した薄暗い密室なら、忍び逢いには適していると思えなくもない。リリーはアディにしなだれかかりつつ、悪戯っぽく笑った。

「なんだ、知ってて誘ってくれたのかと思ったのになあ」

「し、知らなかった。よかった、今日は誰もいなくて」

「ふふ、顔真っ赤。でも、そっか。実はこう見えて慣れてるのかな、って思ってた」

「いや……そんな……」

 冷静さはいつまで経っても帰ってくる気配がなかった。アディは観念したようにかろうじて正面を向いたが、二人きりの空間を意識してしまったせいで、心臓が騒いでしかたがない。今になって考えると、学年末の試験を直前に控えているにも拘らず、このような「逢引」を決行していたのである。己の無知のせいで思わぬ大胆さをリリーに見せ付けることになってしまい、アディはスカートの裾を握り締めた。

「……ごめん、試験前なのに。もう帰ろう」

「ええ、アディと話してる方が楽しいよ! ね、もうちょっといよう?」

 わざとらしく甘えたように腕を絡め取られ、アディはさらに狼狽した。気のせいか、背中に汗をかいているような。リリーは人に甘えるのがうまい、と前々から感じてはいたが、こんな甘え方をされてはきっぱりと断れるはずもないだろう。ベルがこの場を見たら、どうなっていたことか。アディが勇気を奮い立たせようと首を振った、その時だった。

「そうだ。アディ、キスしたことあるって言ってたよね。誰としたの?」

「え⁉︎ ……ええと、友達」

「私の知ってる人?」

「知らない人だと思うよ。遠くに行っちゃったから」

 今となっては、アディにとって遠い思い出の話だった。「なんだ」とリリーは机から立ち上がった。解放されてホッとしたアディに、すぐさま追撃が飛ぶ。

「私がアディの初めてを奪おうと思ってたのになあ――」

「な、ななっ⁉︎」

「あはは、なんてね!」

 動揺して尻餅をついたアディを横目に、リリーはさも愉快だと言わんばかりの無邪気な笑顔を浮かべていた。一つしかない扉が開かれ、爽やかな風が室内を通り抜けていって、アディは腰を抜かしたままリリーのスカートがはためくのを呆然と眺めたのだった。


 高山植物の押し花は、低地のブルームガルトでは滅多に目にする機会がなく、アディから届く手紙の「おまけ」として毎回評判だった。本格的な夏が近付いたその日も、アディからベルらへと送られた手紙には、黒の台紙に固定された白い野草が添えられていた。封蝋を破ったばかりのベルは首を傾げたが、植物に詳しい級友は一目で「まあ、エーデルヴァイス!」と歓声を上げた。

 手紙を読む際は、ベルを囲むようにクラスの女子生徒たちが輪になって着席するのが慣例になっている。今回は普段より少し便箋の枚数が多い気がしたが、ベルは何も思わずに挨拶の文句に続けて返信部分、その後の近況報告を声に出して読んでいった。

「『――学年末の試験では、また二位でした。とても優秀な友人がいて、いつも彼女が一位なのです。今回は宗教の出来があまり良くありませんでしたので、反省して復習し直しています』」

 ベルたちも試験を終えた後だったので、どの地域も同じような日程であることが窺えた。しかし、試験の話題に続いて卒業式の日の出来事が綴られていたので、ちらほらと「ジーメンスは早いのね」という感想が漏れ聞こえた。この中等学校では約一週間後が卒業式なので、およそ二週間ほど隔たりがあることになる。ベルは一旦手紙を読むのを止め、アディの代わりに事情を説明することにした。

「地方の人には、出稼ぎや進学で中央に来る人も多いらしいんだけど、その準備や引越しがあるでしょう。だから、早めに卒業させるのよ。夏休みもここより早く始まるみたいだけど、それは生徒が家の畑仕事を手伝うためだそうよ。じゃあ、続きを読むわ。『――そして式が終わった後、私はお手紙で秘密裏に校舎裏に呼び出されました。白百合の咲き誇る花壇の横に立っていたのは、舞踏会でお相手を務めたことのある女性……卒業生のアイヒラー先輩でした』」

 思わぬ展開に、教室中が息を飲んだ。そんなことがあったとは知るはずもなく、ベルですら微かに動揺した。目ばかりが焦って先を急ぎ、舌がようやく追従する格好で、ベルはやや声のトーンを落としつつ続きを口にする。

「『アイヒラー先輩は、由緒正しい貴族の血筋のお方です。対する私は一介の従士候補生、どのようなご用件かは想像も付きませんでした。ご挨拶申し上げると、先輩は恥じらいながら私に微笑んでくださいました』……」

 なぜだか、ベルは今すぐアディの頰をつねってやりたい衝動に駆られた。先を促す視線が八方から注がれていたので、一呼吸の後にさらに続ける。

「『私たちは、しばし舞踏会での思い出話に花を咲かせました。私は過分なお褒めの言葉を頂き、ただただ恐縮していました。そしてある瞬間、アイヒラー先輩は私の手をお取りになったのです』」

 どこの少女小説だ、と普段のベルであれば呆れ返ったところだろうが、あいにく今はその余裕がなかった。ベルと同様、クラスメイトたちは固唾を飲んで次の場面を待っていた。

「『アイヒラー先輩は、真心を込めて私にお気持ちを打ち明けてくださいました。端的に書くと、「卒業したら私のお付きの従士になって、一緒に暮らしてほしい」とのお願いでした。私の胸は、身に余る光栄に打ち震えました』」

 それはまさしく、従士を目指す者なら一度は憧れるプロポーズの言葉だった。女性からの頼み事に弱いアディだが、まさか騎士になる夢を放り出して彼女に人生を捧げるのだろうか、とベルの心に絶望感すら立ち込めた。ところが、その深刻な表情は、次の文に驚きに変わったのだった。

「『しかし、私は首を縦に振ることができませんでした。なぜなら、私には既に決まった運命の主君がいるのですから。アイヒラー先輩は、寂しそうに去って行かれました』……」

 教室中に、神妙な空気が満ちた。ベルは沈黙してしまい、そこへヨハンナが助け舟を出すように声をかけた。

「ねえベル、運命の主君って国王陛下のことかしらね?」

 体中を占める妙な倦怠感と安堵に脱力していたベルは、その声にハッと我に返り、急いで頷いた。『既に決まった』などという自信満々な文句には引っかからないでもなかったが、大勢の女子生徒を前に格好を付けたくなったのだろう。

「え……ええ、きっとね。決意が固かったみたいで安心したわ」

「あら、一緒に騎士になりたい、ということ?」

「ホフマンさん、やっぱりアーデルフリート様と仲良しなのね」

 クラスメイトの微笑ましげな声はベルの耳の上を滑っていって、内側までは届かなかった。ベルは便箋を手にゆっくりと息を吐き、落ち着いて続きを読み始めた。後には大した事件は綴られておらず、結びの挨拶が添えられて、いつものように手紙は終わった。

 女子生徒たちは各々感想を言い合いながら教室を去っていき、鍵当番を残してヨハンナと二人、ベルも早々にその場を立ち去っていく。初夏の夕方は西陽が眩しく、自然と視線が伏せられた。ベルが何も言わないので、ヨハンナが先に声を上げた。

「ベル、安心した?」

「……なんのこと?」

「アーデルフリートさんが先輩だけの従士にならなくて」

 校門前の石畳は夕陽にキラキラと輝いていて、小説の挿絵のように現実味のない、幻想的な雰囲気が漂っている。ヨハンナは、返答があるより前にベルの手を握った。自分はベルの味方である、と伝わったかは分からないが、ベルは静かにヨハンナの手を握り返した。

「――アディがいないと」

 どうやら、独り言である。ヨハンナは、ベルの遠い視線の先に手紙の送り主がいることを悟った。

「私が強くなっていく意味がないもの……」

 校門を抜け、二人の手は離れた。夕陽を背にしてヨハンナがベルを振り返ると、そこには普段と変わりない、意志の強そうな瞳があった。


 便箋をクシャクシャに丸めることにも飽き、ベルは思い切って一度ペンを置いた。友人たちの分は書き取ってしまい、後は自分がアディへの返信を書き終えればこの度の一通は完成するというのに、一向にペンは進まなかった。卒業式の後の「プロポーズ事件」について、いかに反応すればいいのか、それがベルの頭を悩ませていた。いっそのこと、無反応を決め込んでしまうのも手かもしれない。しかし、この件が最もベルの心を乱しただけに、それは無理な話だった。悩み具合では、アディから持ちかけられた舞踏会についての相談を上回っている。貴重な休日の朝だというのに、アディのことで頭が一杯になっていること自体が我慢し難く、ベルはイライラと椅子から立ち上がり、鏡台に向かって簡単に束ねていた髪をシニヨンにまとめ始めた。

(なんなの、自慢のつもり? ううん、すぐ調子に乗るけど、そんなことを得意になって吹聴するような子じゃない、それは分かってる……)

 苛立っていると手が滑り、せっかくまとまりかけていた髪の一房が肩の上に溢れた。諦めて最初からやり直そうと全て下ろしてしまうと、何度目かのため息がひとりでに漏れた。

「……全部アディが悪いんだ」

 口に出してみると、少しは気分が落ち着いた。平静を取り戻したからといって良い文言が浮かぶわけでもないのが憂鬱ではあったが、シニヨンは綺麗にできあがった。扉越しに階下から母と兄の話し声が聞こえ、今日は兄のヘルムートも休みであることを思い出した。ペンが止まっている以上、部屋に閉じこもっていてもどうしようもないだろう。久しぶりに兄に剣の稽古を付けてもらおうと、ベルは自室を後にした。


 胸に花を挿したのは、舞踏会以来である。制服のコートをしげしげと見下ろしていると今日が着納めだとは信じ難く、フランツは感慨と共に通い慣れた男子校舎の教室の天井を仰いだ。卒業式の余韻に浸る暇もなく、もう再来週には養成所で最後となるであろう夏期訓練が始まる。だからだろうか、周囲の友人たちほどには「これでおしまい」の感が強くなく、やや冷淡な調子に見えてしまったらしかった。明日からはツンフトの工房に弟子入りするという職人候補生の少年たちが、フランツの座る椅子を取り囲み、一斉に大声を発した。

「フランツお前さあ!」

「よっ、未来の護民官殿!」

「馬術だけが取り柄のバウムゲルトナー!」

「恋する少年よ!」

 フランツは背もたれから滑り落ちそうになった上体を肘で支え、瞠目しながら四方を見回した。揃いの制服を着た彼らは、庶民的なフランツから見れば悪友の類に入る、それなりに親しい同級生たちだった。

「おっ……おう、なんだよ、びっくりしただろ」

「卒業式だぜ、告白しねえの? あの四年のさあ、怖い顔した美人の子」

 ベルのことを言っているのは間違いない。フランツはグッと言葉に詰まる様子を見せたが、力仕事を志す少年四人がかりでは、さすがの従士候補生でも逃げられそうにはなかった。

「いや、まあ、なんだ……俺らは養成所ですぐ会えるわけだしさあ……」

「出たなどヘタレ!」

「それでもペステリア男子かよ!」

 言いたい放題の友人に囲まれ、フランツは情けなく肩を落とした。父親と同じ護民官を目指して養成所での訓練を受け続けた彼も、次の訓練期間中にはいよいよ採用試験を受ける予定である。ベルが騎士団入りを希望しているのはずっと分かっていたことで、今度の訓練をもってベルへの長い片想いにも別れを告げなければならないことも、前々から決まっていたのだ。女子生徒から講堂裏に呼び出されていった級友も何人かいたが、フランツにはお呼びがかからないまま、昼が近くなっていた。ベルからの誘いなど微塵も期待していなかったにせよ、どこかもの悲しさはあった。フランツは背もたれに腕を置いて頬杖をついた。

「いいんだよ。今告白なんかして、養成所で気まずい思いさせたくねえし。他の野郎に取られるとは思ってねえ」

 たとえこの瞬間に玉砕したとして、それを気に病む彼女ではないこともよく分かっているが、それは友人らの手前伏せることにした。少年の一人が、呆れた風情で首を捻った。

「余裕かましてんじゃねえよ、あの子舞踏会の時かなり人気あっただろ! こいつもふられたし!」

「ばっ、テメエ――」

「……ほら、ガード固いやつだからさ。俺だって舞踏会の時はお情けで踊ってもらったようなもんだし、どんな男なら相手してもらえるんだか」

 勝手に恥ずかしい経験を暴かれて赤面する少年をよそに、フランツは長い息を吐いた。ベルが男子に想いを寄せる様が想像すらできないまま、ついに中等学校卒業の日を迎えてしまったのだ。同情しているのか、少年の一人が親しみを込めてフランツの肩を叩いた。

「ま、養成所でふられても気ぃ落とすなよな。俺らはこれから修行の日々だし、ますます女子との接点なくなるわけだけどよ、お前は女護民官とよろしくやれるんだろ」

「変な言い方すんなよ、俺だってまだ進路が決まったわけじゃなし、当分はそんな気分にはなれねえよ。……お前ら、職校のやつらに負けんなよ」

 通常の中等学校ではなく職業訓練学校を出ている職人の卵であれば、彼らと同い年でも、既にブルームガルトの工業を支える社会人として活躍しているところである。これからやっとスタートラインに立とうという少年たちの目には、若々しい希望が満ちていた。

「任せとけ。バウムゲルトナー、絶対護民官になれよ」

「そんで、あの娘を振り向かせてやれ」

「まだ言ってんのか? ったく、俺のことはいいだろ! さっさと行けっての、元気でな!」

「フランツも達者でな」

「護民官になったらたまには顔見せろよ」

「じゃ、また会おうぜ」

 騒がしく去っていく後ろ姿に向かって、フランツは座ったまま「またな」と呟いた。周辺で上品に挨拶を交わし合っているクラスメイトの多くは、ブルームガルトや首都ペステリアの大学に進学していく富裕層の子弟である。ここでは彼らが圧倒的多数派なので、フランツのような「肉体労働系」志望者は多少肩身の狭い思いをしていた。ベルはこんな思いをしていないのだろうか――と考えかけて、フランツは気だるげに立ち上がった。

「……帰るか」

 親しい級友とは挨拶を済ませてある。もちろん思い出もいくつかはあるが、自分の居場所は学校よりもむしろ養成所だと感じている彼にとって、この場は少し窮屈だった。重いコートを脱ぎ捨てれば、次は幾分動きやすいサーコートの出番である。肩に手を当てて腕を回しながら、フランツは五年間通った学び舎を一人で去っていった。


 ベルからの手紙は、夏休みのある日に届けられた。いつもより遅いといえばそうだが、重大な事情を心配するほどの遅着ではなく、アディは普段通りの期待と共に封筒を開いた。便箋には毎回違った香水がかけられており、いつも華やいだ気分にさせられる。今回はややスパイシーな、情熱的な印象の香りに包まれた。夏の窓辺に似合っている気がして、アディは笑みを深くした。

(『クッキーが美味しかったです』か、ふふ、よかった。リリーに伝えよう)

 リリーといえば、卒業式の日に卒業生の男子生徒数人から愛の告白を受け、その場で丁重に断ったという噂が立っていた。意中の先輩に想いを伝えられずに終わったツィスカとは対照的である。卒業式に限らずよくあることなので、おそらく事実なのだろうが、本人から真偽のほどを聞かされていないので、アディは努めて気にしないことにしていた。

 それはさておき、ベルの友人たちからのメッセージには、直接顔を合わせてから、親しみが増したように感じられた。架空の存在でないと実感した効能だろうか。細やかな変化でも、アディには喜ばしいことだった。

 ベル本人からの返信は、決まって手紙の最後に添えられていた。手紙の中のベルは、対面で言葉を交わす時同様の辛辣さを備えていたが、今回はいつも以上の恨み節が綴られているようだ、と普段よりも高めの筆圧から感じ取ってしまい、アディの笑顔は危うく凍りかけた。前回の手紙になにかまずいことを書いたのかを考えるより先に、ひとまず読んでしまおうと心に決める。

『――女子の前でいい顔ばかりしているからか、先輩を悲しませてしまったみたいね。中央養成所を出てさえいればそれなりのエリートだから、その箔をお望みだったのかもしれない。もう遅いと思うけど、調子に乗らないようにね』

 挨拶もそこそこに、この刺々しさである。出だしから肘鉄砲を飛ばされた気がして、思わず脇腹に手をやってしまった。そうしてばかりもいられず、続きに目を走らせる。

『もう少しで、アミュレットを買った時「離れても一緒」って言ったのは、ヘンペルで従士になるって意味だったのか、って勘違いするところだった。でも、正直に書くのは癪だけど、私は先輩のお誘いを断ってくれて安心した。アディと離れたくないなんて意味では決してなくて、ジーメンスの方には失礼だけど、アディはヘンペルの山奥に閉じこもっていていいような従士にはならないと思うから。これでも少しは認めてるって、アディは知ってるはず』

(……ベル!)

 個人に対しては最高の褒め言葉だ、とアディは便箋を抱き締めるように胸に押し付けた。そうして続きを読み始め、『ニヤけてたら呪うから』との文句に苦笑した。ベルは、きっとアディの顔を見ながら(・・・・・・)手紙を書いている。それが嬉しくて、アディはどんな呪いでも甘んじて受けることを決めた。ベルのことだから、きっと「服のボタンが取れる呪い」程度で済ませてくれるだろう。時に本人よりもアディの体を案じてくれる、正しく頼もしい親友なのだから。

『それから、ジーメンスよりだいぶ遅いと思うけど、こちらでも卒業式があったの。舞踏会の時に足首を手当てした女子の先輩がわざわざ会いに来てくださったからしばらく忘れてたんだけど、フランツ(中学では「バウムゲルトナー先輩」だけど)に花でもあげようと思って先生に呼び出しをお願いしたら、お昼前なのにもう帰ってた。なんの情緒もない辺り、彼らしいことだと思ったわ』

 遠くブルームガルトの同期生にかつてないほどの同情心を寄せながら、アディは続きを読み進めた。試験については『私は学年六位だった』とだけサラリと綴られていたが、アディの学校とベルの学校ではそもそもの生徒数が異なる上に、ベルが住んでいるのは進学に向けて本気で勉学に励む生徒の多い地域であることを考えれば、一概にアディの方が学力で勝っているとは言えないだろう。ただ、文字からはどことなく不満の色が見て取れたので、本人は数字だけでもアディに負けたように見えるのが気に食わないと思っているらしいことが窺えた。

『――最後になったけど、アミュレットは大切にしてる。アディが自分のものをどう扱っているかは私の知ったことではないけど、とりあえず次の訓練に忘れてきたら蹴るから。じゃあ、養成所で』

 揃いのアミュレットは、もちろんこの瞬間もアディの首から下がっている。この件で蹴飛ばされることはなさそうだ、とアディはシャツの上から胸元の小さな石に触れた。ベルも同じように愛着を持っていることが分かり、嬉しさが重なった。

 ベルの誕生日も過ぎたので、次に会う時はまた同い年のライバル同士、ということになる。そして、次の訓練を最後に年上の訓練生は養成所から去っていく。アディの同期生も多くが従士となり、中等学校では最高学年に進級するのと同様、養成所でもついにベルやアディが最年長になるのである。ハイノの送別会のことが思い出され、次は自分たちがフランツやフェリクスの送別会を主催するのだな、と思うと、寂しさと楽しみに思う気持ちが同時に胸に押し寄せた。読み終えた手紙を机に、窓の外を眺めれば、なだらかな山脈の向こうに夕陽が沈むところだった。そろそろ制服を脱がなくては、先に夕飯に呼ばれてしまうだろう。アディはカーテンを引き、ランプを点けようと立ち上がった。夏の盛りは、もうすぐそこまで来ていた。

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