九話 忘れられない光景を
養成所から帰省する馬車に揺られながら、アディは半ズボンの膝に乗せた柔らかな革の手袋と花模様の装飾が施されたペーパーナイフを見下ろしていた。どちらもヘルトリング伯爵の邸宅を訪問した際に授与されたもので、手袋は伯爵から、ペーパーナイフはその令嬢からの贈り物だった。座学の試験等が重なってしまったため、伯爵邸への訪問が帰省直前になってしまったのだ。ヘルトリング家に出向くのは一年に一度程度なので、彼らに会うのもまた一年ぶりだった。
(『お前は変わらないな』、か。去年までのことなんてお忘れかと思ってたのに。そういえば姫様、背が伸びていらしたな……)
トランクの中には行きには持っていなかった短剣も入っているが、これは盗賊を捕らえた功績を讃えるために養成所から贈られたものである。エンゲルス教官は、冬期訓練中の一連のアディとピアの活躍に対して豪勢な食事を贈ってくれ、同じ教官に指導されている後輩たちから大いに感謝されたものだった。
馬車の外からは、馬の蹄の音の代わりに、軋む車輪が雪を踏む音が続いていた。雪の積もる地域に差し掛かったということは、ヘンペルももうすぐということだろう。陽が暮れるまでには、なんとか実家に帰り着けそうだ。アディは隣に据えていたトランクを開けて贈り物をしまい、マントのフードを被って両目を閉ざした。扉と車体の隙間からカミソリのように冷たい空気が流れ込んでいたが、着込んできたのでひと眠りはできるだろう。ベルは、今頃家でくつろいでいる頃だろうか。瞼に浮かんだ親友の顔は、睡魔にさらわれて暗闇に消えた。
新学期は始まったばかりだというのに、ベルは早くも疲弊した顔をしていた。ベルの誕生日が二ヶ月と少し先だ、という話をヨハンナとしていた時、「手紙の従士様」の誕生日について級友たちから問い詰められ、うっかり「一ヶ月先だ」と漏らしてしまったのだ。予想はしていたことだが、手紙の次はプレゼントを贈りたい、と女子生徒たちはにわかに盛り上がり始めたのだった。
「アーデルフリート様、ホフマンさんよりお姉様でいらしたのね! 少し意外だわ」
「そうね。ああ、従士候補生の方ってなにをお贈りすればいいのかしら……」
午前中からずっと、クラス中がこの調子である。養成所から離れていれば、ほんの少しでも小憎らしいアディのことを忘れられるかと思っていたものを、これでは心の休まる隙がないというものである。ベルがため息を隠すことも忘れていると、隣の席に座っていたヨハンナが、急に腕を絡めて肩にしなだれかかってきた。ふと既視感が差し込み、ベルの胸がドキリと鳴った。
「……ヨハンナ?」
「ええとね、少しでもベルが元気にならないかなあ、と思って……予習の邪魔かしら?」
ベルは、動揺を悟られないようにヨハンナから目を逸らした。落ち着いて頭の中を分析すると、養成所で不審者の襲撃があった後、ベッドの上でアディが気持ちを打ち明けた時のことを思い出したのだと分かった。アディのことを思い出して胸が高鳴ったのだとすると、不愉快この上ない事実である。ベルは努めて冷静に首を横に振った。
「ううん、気を遣ってくれてありがとう。優しさに感謝してるわ」
「……ベル」
その囁きに、またしても心臓が跳ねた。ヨハンナは時々こうして甘えた素振りを見せてくるが、今日は事情が違っていたのだ。アディの顔が脳裏にちらついてしまい、ベルは顔をしかめて教科書を見下ろした。
「もう、今日はそんな顔ばっかり! 一体どうしちゃったのかなあ。もしかして、ベルもアーデルフリートさんへのお誕生日の贈り物で悩んでる?」
「……まあ、間違ってないわ」
アディへのプレゼントがベルの頭痛の種であることは事実だが、意味するところは全く違うものである。ヨハンナは、ベルの腕を抱き締めながらすねたように唇を尖らせて見せた。
「ベル、冬休みの間――というより、養成所に行っていた時、なにかあった? アーデルフリートさんと喧嘩でもしたの?」
思わずギョッとして、ベルは友人の方を振り向いた。ヨハンナはいつもの花を基本とした香水を付けていて、ベルの動きに合わせてフワリと華やかな香りが漂った。ヨハンナはアディやフェリクスほど鼻が利くわけではないが、思春期の少女らしく親しい友人の変化には敏感だった。
「……喧嘩、したの?」
「喧嘩はしてないわ。少し……騒ぎがあって、アディの意外な一面を見ただけ」
ヨハンナは、微笑みながら目を伏せた。
「やっぱり、アーデルフリートさんのことなのね」
「……ヨハンナ?」
ヨハンナは、ベルの片腕を捕らえたまま次の授業の始まりまで離さなかった。なにも知らない無邪気な級友たちは、そんな二人を「仲良しね」と暖かく見守りながら、まだ見ぬ従士候補生への贈り物に思いを馳せるのだった。
平野部ではそろそろ雪が溶け始めるが、高地のジーメンス郡では雪掻きをしていない場所の地面が覗くのはもう少し先になるだろう、そんな頃のことだった。中等学校の制服の上から羽織った冬用のマントを、アディが校門をくぐった瞬間、何者かが素早く引き留めた。突然のことで首が締まりそうになり、アディは慌てて振り返った。そこには、多少意外な人物が立っていた。
「アディさん、一生のお願いです」
「ちょっと……ケヴィン、なに考えてるの! 気絶するかと思った!」
ケヴィンは、いつも通りの暗い瞳でアディを確認し、言葉ばかりの謝罪を並べながらマントを離した。
「うん、ごめんごめん。つーかアディさん、舞踏会男役で出んの?」
ケヴィンが待ち伏せていたことも意外なら、その問いかけもまた予想していないものだった。この場合の舞踏会といえば、春の訪れを前にその自治体の長等を招いて中等以上の各種学校で開かれる、男女の学生が交流する数少ない機会であり、この片田舎における社交界の始まりである。通常は、共学校なら同じ学校に通う男子生徒と女子生徒が、限られた機会を待って密かに自分と踊るパートナーを見付けておくものなのだが、当然ながら奥手な――あるいは極端に潔癖な生徒は、当日まで相手が見付からない、または故意に見付けないことも多々あった。そんな生徒たちは、会場で壁の花となるほかないのである。昨年までのアディは、王宮の舞踏会に出る時のために養成所で習う騎士のダンス、つまり貴族の女性をエスコートする男性役の踊りを活かして「独り身」の女子生徒のパートナーを務めることが多く、ダンスを踊りたくても男子との接触が厳しく禁じられている富裕層の女子生徒から密かに引っ張りだこだった。
「まあ、こんなちんちくりんの男か女か分かんないの、男子からは誘われないし。先輩方から『今年もよろしくね』ってお願いされちゃったから――」
アディの言い種は、自虐というよりも事実を淡々と述べているようだった。ケヴィンは陰鬱そうな顔をさらに険しくして額に手を当てると、至極深刻そうにアディを拝んだ。
「うわ、マジですか……そこをなんとか、俺と踊ってくれませんか」
「……ん?」
完全に意表を突かれてしまい、アディは凍り付いた。「今まで練習以外で誰とも踊ったことがないし、一生踊るつもりはない」と自虐気味に豪語していた幼馴染が、今年に限ってどうしたというのか。それも、普段完全なる玩具としてからかって遊んでいるアディを、困り果てている割にはごく軽い調子で誘っているというのだから、なおさら驚いた。アディはしばし思考を放棄して棒立ちになっていたかと思うと、怪訝そうな顔になりながら答えた。
「……あの、踊る気になったのはいいと思うんだけど、なんで私? ツィスカの方が見栄えがいいというか、身長的にもお似合いだと思うんだけど……」
「や、ツィスカさん好きな男いるから! しかも俺らの学年に『ツィスカさん誘いたい』って野郎もいるから抜け駆けして喧嘩したくない!」
「あ、そっか……」
いかにもひ弱な文化系の彼らしい文句に、アディは自分が誘われていることを忘れて苦笑したほどだった。しかし、冷静になってみると、アディにはエスコートされる側の経験など、それこそ学校でのダンスの練習以外になかったのである。幼少期から少年のように育ってきた自身に務まる役目なのかどうか、考えれば考えるほど困難が立ちはだかっているように思えた。
「実は、うちの婆さんが今年の舞踏会を見に来るって聞かなくてさ。パートナーの一人も見付けられないんじゃ情けないとかなんとか、色々脅されてるんです」
「……でも、だからって私を誘うのはどうかと思うな、うん。男役のほうが慣れてるし……見た目もそんな感じだもん」
「いやいやいや、アディさん可愛いから問題ない。真面目にお願いします」
普段通りの軽い調子のせいでいまひとつ分かりづらいが、どうやらケヴィンは真剣に頼み込んでいるらしい。アディは及び腰になりつつ少年を見上げた。
「か、可愛いって身長のこと……じゃなくて、その……本当に私でいいの?」
「はい、アディさんがいいです。俺を助けると思って是非」
アディは、難しい表情で腕を組んだ。要は、ケヴィンの祖母を納得させられればいいということのようだ。舞踏会の踊りは一曲分だけではないので、少しの間だけなら女子の先輩たちとも踊ることはできるだろう。アディが頷くと、ケヴィンは珍しく片腕を振り上げながら「……っしゃ!」と似合わない叫びを上げた。
「少しだけだよ、先にお誘いくださった先輩方と踊りたいんだから!」
走り去ろうとするひょろりと長い背に向かって声を張り上げると、少年は憂鬱な面持ちを少しだけ明るくして振り返り、彼にしては上機嫌な様子で「了解」と手を振りながら男子校舎へと入っていった。それを呆れ半分で見送って女子校舎に向かいながら、アディは喜びとは違う不思議な戸惑いにため息をついた。
(男子から『踊ってください』なんて初めて言われたな、まあケヴィンなんだけど……困ったな、姫君のダンス忘れかけてる……)
これが「普通」の女子ならば、胸を焦がして喜び恥じらうところなのだろうか。周囲を歩く他の女子生徒たちの話の種も、耳をそばだててみるとダンスのパートナーや当日の髪型、衣装といった舞踏会のあれこれだった。今年は大変そうだ、と他人事のように考えていると、はたとアディの足が止まった。
(……というか、衣装! どうしよう、ドレスなんか一度も着たことない!)
思わず泣き顔になっていたのか、教室の前にたどり着いた時、ツィスカが血相を変えて駆け寄ってきたほどだった。
今日のベルは、普段に輪をかけて不機嫌そうな顔をしていた。順番から言って次はこちらから手紙を出すはずが、今回に限ってアディの方から次の手紙が届いたのだ。しかも、いつもなら『ベルティルデ・ホフマン様、そのご友人の皆様へ』とされているはずの宛名も、ベル個人宛に変えられていた。なにか特別な事情があるのか、と胸騒ぎを覚え、自室で慌てて封筒を開いてみれば、なんということはない。要約すると、『舞踏会で男子と踊ることになったのだが、女子の相手ばかりしていたのでどんな格好をすればいいのか分からない。日が近くなったら友人とドレスを買いに行くのだが、どんなものを着たい、と尋ねられても検討もつかない。なにかアドバイスはないか』というものだった。ベルは返信の便箋の一番上に「バカじゃないの?」と書こうとして思いとどまり、養成所の名誉にかけて恥をかかせないように少しでも助言しようと頭を捻った。
(アディが姫君の側でダンス? 一体誰がアディなんか誘うんだろう……ううん、そもそもアディはドレスを着るわけ? 中学の制服のスカートですら想像つかないのに、下手なことをしたら、なんて言うんだろう……男の子の女装? そんな風に見えるんじゃ――)
しかし、ベルはアディがちゃんと少女に見えることも知っている。単に養成所での稽古着姿と普段着の男装を見慣れすぎているというだけである。小さな手足、華奢な身体のライン、白い滑らかな肌、これらは全て女性のそれである。顔付きも中性的なだけで、特別他の少女たちと比べて見劣りするわけではない。
(怪我の手当てをした時、少しドキッとした……かもしれないくらい、女の子の体だったし……)
はだけたシャツから覗いたアディの胸元を思い出してしまい、ベルは慌ててペンを机に置いた。裸体ではなく、それを飾り付ける方法を考えるところだったのだ。両手で頭を抱えると、少なめに注いだ火の石が水鉢の底で泡を吹く音と、火の石売りの鈴の音が耳に届いた。
(大体、どうして私に助けを求めるの! それこそ幼馴染の子だか、リリー何某にでも聞けばいいのに――)
ふと、なにかがベルの胸を焼いたように感じた。こんな胸の痛みは覚えがなく、ベルはまたしてもアディのせいで心が乱れていることに気付かされた。不快でしかたがない。だが、自覚したおかげで冷静さを取り戻すことができた。
(ミルクティーのような色の髪と、青にも緑にも見える宝石のような瞳、生気のある白い肌の、少し幼げな十五歳の女の子……)
アディだと思わなければ、落ち着いて考えることができた。もしそんな少女がいたとしたら、どんな風に着飾らせるだろうか。ベルの脳裏に、初めて会った日のアディの姿が思い浮かんだ。格闘の試合で敗北し、この人物にだけは絶対に負けないと誓った瞬間、彼女の頭越しに見えていたものは――。
(……ああ、そうか)
ここに来て、ベルは初めてアディからの手紙に感謝した。アドバイスとプレゼント、二つの悩みは同時に解決した。つまり、誕生日にはそれを贈ればいいのだ。
「アディ、このドレスすっごく可愛いよ! ほら、この小さいフリル――あ、これよく見たら胸元がかなり開いてるね……」
「……う、うん、ツィスカくらい背が高くて胸がないと似合わないかなあ……」
舞踏会が近付いたある日、アディとツィスカはヘンペルから馬車に乗り、ジーメンス郡を囲む山を越えた先の街へと買い物に出かけていた。おしゃれの好きなツィスカは、今まで少年のように見ていた幼馴染がドレスアップする機会とあって大層な張り切りを見せ、衣装選びの助っ人を買って出たのだった。
「うーん、胸ならリリーの方が大きいと思うけどね。リリー、背は低めだけどスタイル良すぎだよね? あ、アディも小さくて可愛いと思うよ? 腕が細いの羨ましいな」
「……いや、ええと……そっか、腕見せるんだ……」
「見せるよ! アディは腕見せなくてなに見せるの! せっかくの綺麗なうなじは髪で隠れちゃうし――そうだ、後で付け毛屋さんも行こうね!」
ツィスカのはしゃぎようは、アディにも止める手立てがないほどだった。普段はどちらかと言えばおとなしく真面目な少女だが、ファッションに関しては一家言ある幼馴染だからこそ、アディは信頼して助力を求められるのだ。
「というか、ケヴィン絶対アディのこと好きだよね! じゃなきゃ待ち伏せしてまで誘わないよ!」
「いや……女子と踊って見せないとお祖母様にお説教されるって言ってたし、だからだよ。他にまともに話せる女子がいないんじゃない?」
「だめ、もっと自信持たなきゃ! アディ、今好きな人いないんでしょ?」
ドキッと心臓が高鳴って、アディは咄嗟に目の前にあったドレスの見本を手元に引き寄せた。少年のような格好をして、恋などとは無縁の人生を送ってきたはずなのに、なぜこんなことで緊張が走るのだろうか。不可解な動揺に眉をひそめていると、ツィスカがアディの手元を覗き込んで顔を輝かせた。
「あっ、それもいいね。プレゼントの髪飾りの色とよく合ってる! 今日持ってきてるよね?」
「えっ……え、そう?」
「うん、ちょっと着てみようよ!」
アディは、ツィスカに引きずられるように店員の前に突き出され、生まれて初めてのドレスを身に付けた。
「よくお似合いですよ! 丈はお直しいたします――このくらいでいかがでしょう?」
「アディ、やっぱりすごく可愛いよ! ほら、本当に女の子みたい! 女の子だけど!」
鏡の中の自分はまるで自分ではないようで、本人がどぎまぎするほどだった。アディの鞄から取り出した髪飾りを頭に乗せながら、ツィスカは実に満足げな笑顔を見せた。
「ほら、ね! この髪飾り、アディに似合ってるよ。養成所のお友達、アディのことよく見てるんだね」
「……うん」
遠くブルームガルトから届けられた『少し早い誕生日プレゼント』を目に、アディは照れ笑いを浮かべた。なにかにつけて小言を言いながらも、いつも側にいてくれる親友。相談してよかった、と心から感謝していた。
ドレスに合った靴も見付けてしまった後は、アディの方がツィスカを連れて男性ものの店に向かった。そこでアディが女子生徒と踊る時のための新しい靴下をほとんど迷わずに購入するのを、ツィスカは呆れながら見守った。
「アディ、男の子役の方は本当に慣れてるんだね……」
「うん、こっちのほうがずっと気が楽なんだけどな」
ドレスを着るのも、今回が最初で最後かもしれないのだ。ダンスの練習もそれなりに順調で、後はドレスの裾直しと舞踏会の本番を待つのみである。一応の下準備を終えてホッと安堵する一方で、プレゼントを受け取った時に浮かんだ疑問は残ったままだった。
(……そういえばベル、どうしてあの髪飾りにしたのかな)
果たして、尋ねれば教えてくれるものなのだろうか。ベルの仏頂面を思い浮かべながら、アディはツィスカと並んで真っ白なヘンペルの田舎道を歩いていた。知らないうちに、日が長くなり始めていた。
ブルームガルト第一中等学校のとある教室で、今日も女子生徒たちが放課後の秘密の会を開いていた。誕生日の近いアディへ、クラス全員からはブルームガルトの若い名匠が作ったアディの名前入りのペン、そしてベル個人からは舞踏会で身に付けられそうな髪飾りを贈ったのだが、それに対する返信が届いたのだ。アディは丁寧に礼を述べ、『これからは皆様から頂いたペンでお手紙を書きます』と書いていた。実際、この返信自体が新しいペンで書かれたもので、書き心地が非常によく、手も疲れにくいとのことだった。ベルの髪飾りに対しても『幼馴染から大絶賛だったよ』と書かれており、女子生徒たちはしきりにベルの贈り物について聞きたがった。なにしろ、ベルは「自分からは別にもう一つプレゼントする」と言ったきりで、誰にも内緒で髪飾りを選び、送ってしまったのだ。
察するに、アディはベルのクラスメイトが抱いている「手紙の従士様」のイメージを崩すことを望んでおらず、舞踏会で姫君の役を務めることを伏せておくためにベル個人に宛てた別便を送ったのだろう。ベルはその意思を尊重するため、あえて答えをはぐらかし続けていた。
「――ああ、ホフマンさんって恥ずかしがり屋さんでいらしたのね! せめてどんな物をお贈りしたのかくらい聞いてみたいわ」
「……ごめんなさい、内緒にすることにしてるの」
「そう……それにしても、アーデルフリート様、舞踏会ではもちろん騎士役をお務めになるのね! 素敵だわ、私も一曲お願いしたい……」
友人たちのうっとりとした視線に囲まれながら、ヨハンナはニコニコと温厚そうにベルに笑いかけていた。当然ヨハンナもベルのプレゼントの中身を知らないのだが、ベルと親しい者として級友たちから問い詰められたことは一度や二度ではなかっただろう。
ベルはというと、アディが男子からパートナーに誘われておきながら女子生徒とも踊ろうとしていることに驚き呆れているところだった。ベルらの学校にはそれなりの家柄の生徒が多く、彼らはコミュニケーションとしてのダンスにも慣れていて、舞踏会にも都会的な華やかさがあるものだが、ジーメンス郡の中等学校にはそこまで「誘えるほど踊れる」男子生徒が少ないのだろうか。ベルはこれまでフランツを含む数人の男子生徒から誘われていたが、全て検討もせずに断っていたところである。かといって、男役で女子生徒と踊るつもりもなかった。そのような機会があるとすれば、騎士になってから女性に誘われた場合だろう。ベルにとっての舞踏会とは、ドレスを着て壁際に立ち、気分が悪そうな女子生徒がいないか目を光らせる日である。
「じゃあホフマンさん、次のお返事は私たちの番よね? 素敵な詩を考えたのよ。またお時間のある時にお願いね」
「ええ、そうね。大作すぎないと嬉しいわ」
「うふふ、大丈夫よ。ほんの三行くらいでも気持ちは伝わるはずだもの……それじゃあ、ごきげんよう!」
少女たちは顔を見合わせてさえずるように笑い声を漏らし、ベルとヨハンナに挨拶を残して教室から出て行った。ちょうど今日はベルが女子校舎の鍵当番で、校舎中の教室に鍵をかけて回らないとならないのだ。ヨハンナは掛け時計の示す時刻を見て、ベルに「そろそろ行こう」と促した。
「プレゼント、喜んでもらえてよかったわね。ベルからのも……私も気になるなあ、なにをあげたの?」
「内緒、って言ったでしょ。これは従士の誓いなの」
夕陽の差し込む廊下を歩きながら、ヨハンナはクスリと小さく吹き出した。
「アーデルフリートさんに誓ったの?」
「私が勝手に精霊に誓ったの」
室内に誰もいないことを確認し、ベルが言い返しながら教室の鍵をかけると、ヨハンナが体の後ろで手を握り合せて呟いた。
「アーデルフリートさんがうらやましいなあ、ベルにこんなに大事にしてもらえて」
その一言に、ベルは噛み付くように振り返った。ヨハンナに他意はないのかもしれないが、聞き逃せなかったのだ。
「大事になんてしてない。養成所の名誉がかかってたの」
「……えっ、プレゼントに?」
「……まあ、そう」
一拍置いて、ヨハンナは鈴を転がしたように笑い始めた。ベルの真剣な顔がおかしかったのだろう、彼女は廊下を移動しながらしばらく笑い続けた。ようやく笑いが収まりかけた頃、ヨハンナはふと足を止めた美術室の前で、懐かしそうにその扉を撫でた。
「……はあ、ベルったら面白いんだから。あ、ねえ、思い出さない? ここ、私とベルが初めて会った場所だよ」
「美術室? そうだったかしら、廊下だったのは覚えてるんだけど」
「わあ、ひどい! 私はちゃんと覚えてるのよ、一年生の時のこと! ベルは忘れちゃったの?」
ヨハンナのおどけた声を聞き流しながら、ベルは美術室の中を覗き込んだ。放課後の室内はひっそりと静まり返っていて、人の気配はない。念のため一言「閉めます」と呼びかけてから、鍵穴に対応する鍵を挿し入れた。ヨハンナは作業を見守りながら、ベルの横顔にポツリと言葉を投げかける。
「忘れられない出会い、ベルにもあったでしょう?」
「……」
ベルの脳裏には、夏の日の光景が焼き付いていた。飛び跳ねる様が子リスのようだと思った小さな姿、短い髪の少年のような少女。戦う時の鋭い目、こちらを見据える真剣な表情――その頭越しには、真夏の白い雲が浮かぶ、抜けるような青い空。忘れられるはずもないので、そんな思い出を込めて送りつけたのだ。
(夏の空のような、青い――)
「……ベル? 鍵、回らない?」
「……ううん」
ヨハンナの呼び声に、ベルは我に返って施錠を終えた。またアディのことを考えていたらしい。贈った髪飾りは誰に見せるためのものなのか、そんなことは自分には関わりないことである。思いを振り切ってヨハンナの隣に並び、次の教室に向かった。忘れられない出会い。アディにもあるのだろうか、と思いを巡らせそうになって、ベルはイライラと鍵の束を握り締めた。そんな少女の側で、ヨハンナはおっとりと微笑みを絶やさずにいる。舞踏会が近付くにつれ、季節は春に近付いていた。
ある日の夜、師匠との夕方の稽古を終えたアディは、チェストの引き出しに大切にしまっていたベルからの贈り物を取り出して椅子に腰掛け、まじまじと眺めていた。確かにどんなものが似合いそうか、助言するよう求めたのはこちらだが、ベルはただ『これが似合うと思う』としか返してこなかったのだ。その代わり、『中途半端なダンスで中央養成所の恥晒しになったら絶対許さない』と力強い筆跡で添えられていた。手の中の目の覚めるような華やかさは、自分には不似合いなものだとばかり思っていたが、ドレスを買い求めた店で鏡に映った姿を見たとき、確かにこれが似合う、と納得したものだった。どんな気持ちでこれを選んだのか、どうしてこれが似合うと思ったのか、尋ねたいことはいくらでも湧いてきたが、どことなく気恥ずかしくなって手紙で問い合わせることはできなかった。ランプの光にかざすと、ベルからの贈り物はうっすらと透けて美しい影を落とした。その色はまるで、青空のようでもある。
(青い花飾りか、どうしてこれを私に――)
答えは得られないまま、アディは花飾りをチェストにしまい込んだ。ベルには、きっとこれを髪に付けた自分が見えたのだろう。理由は分からないまでも、真剣に検討してくれたことは伝わっている。手紙を読み返そうとしたアディに、階下から夕飯に呼ぶ声がかかった。早く応答しなければ、祖母の機嫌を損ねるだろう。ドレスを着て踊る、と伝えた時でさえ、「分不相応な」と渋い顔をするような厳格な人物なのである。少女はすぐに返答し、灯りを消して自室を後にした。




