助けてもらった青年と村娘には見えない不思議な女性のお話
鼻歌が聞こえた。少し高めの優しい、けれどどこか悲しげな音色で紡がれるそれは、俺の意識をゆっくりと覚醒させる。続いてカチャカチャと陶器の触れ合う音。食器だろうか。
……うん? 食器? 確か俺は勇者に求められて、魔王の城へと案内をしていたはずで、そして――?
「なっ……!?」
なんで、という言葉を中途半端に吐き出しながら、俺は横たえていた体をがばりと起こした。が、突然電流の走るような胸の痛みを感じてひっくり返る。痛った……。あまりの衝撃にもんどりうっていると、柔らかな色合いの毛布がひらりと舞い落ちた。
「ああよかった、起きたのね。だめよ。急に動いちゃ」
鼻歌が止み、開きっぱなしだった入口から長い黒髪の人物が顔を覗かせる。村娘のような服装をした、見知らぬ若い女性だった。そしてその後を、甲羅を背負った生き物がのそのそと付いてきている。なんだアレは。そんな困惑をよそに、女性は床に広がってしまった毛布を拾い、失礼するわね、と言って俺の体にふわりと乗せる。口調に対して丁寧な所作。俺は訳もわからぬまま口を開いた。
「君は……俺、は?」
それだけで問いたい様々なことがわかったらしい。彼女は近くにあった椅子に品よく座って、穏やかな声で説明を始めた。
「私の名前はジュノーよ。こっちは亀のタートル・トール・タルタル。亀は見たことがない?」
「あ、ああ……」
聞かれるままに頷くと、「なら驚かせちゃったわね」と女性はタートル・トール・タルタルと呼ばれた4足の生き物を持ち上げ、「とっても優しい生き物なのよ」と説明する。黒々としたつぶらな瞳は俺を見つめ、目が合うとゆっくりとおじきをしてくれた――ように見えた。反射的に礼を返す。
「ここはバシナ村のはずれにある森で、アナタは家の裏庭で倒れていたの。それも結構な傷を負ってね。見つけたのは昨日の昼間だから、丸一日寝ていたことになるわ」
「そんなに……って、バシナ村?」
俺はシムカ町の出身で、バシナ村とは王都を中心として真逆の場所に位置している。町を出ることすら珍しい俺にとっては、当然来たことも来る予定もないはずの土地だった。なのになぜ知っているかといえば、バシナ村も魔王城への「道」がある村として有名だったから。
「そうよ。ただでさえ私の家に尋ねてくる人なんて居やしないから、たまげたわよ。どうしてあそこにいたのか、憶えていて?」
「どうして……?」
彼女――ジュノーの言葉を受けて、俺は記憶を掘り起こす。
「昨日は魔王を討伐するために、魔王城に向かっていて、」
「あらじゃあアナタ、勇者サマなの? 旅装だし」
「いや、東部ではシムカが唯一、魔王城に通じる『道』のある町だから。俺は勇者を『道』まで連れて行く案内業を営んでいて……そうだ、昨日は」
数日前、俺の町に勇者とその仲間たちが魔王討伐のためにやってきた。一口に勇者と言っても数は様々その実力もピンキリで、残念ながら今回の一行は見るからにキリの方だった。安っぽい聖剣に飾り羽の付いた鎧に横柄な態度。名をソルフォンというその男は、正義感に突き動かされて魔王討伐を買って出たというよりも、周囲にちやほやされたくて剣をとったタイプの勇者だったのだろう。同じ案内業をやっている奴らは、アレはハズレだと早々に見切りをつけて手を引いていた。俺もそうしたかったが、幼いころの飢えの経験から仕事を断るなんて芸当ができるはずもなく、彼らの依頼を受けて魔王城に繋がる「道」まで連れて行くことになった。あの時気付くべきだったのだ。勇者一行の異様な金払いの良さに。
そこまで話すと、少しのこわばりを含んだ、凛とした声が俺の話の続きを引き継いだ。
「で、案内が終わって帰ろうとしたところを脅されたってところかしら」
「よくある話だ」
思い出しているとだんだんと落ち着いてきた。
あの時、俺は背中に剣を突きつけられて、勇者たちの先頭に立たされていた。自分の不甲斐なさに溜息を吐きながら盾として歩いていると、魔王城の門前で魔物に遭遇した。偶然なのか何なのか魔物は想像よりはるかに弱く、そのことが勇者たちを舞い上がらせてしまったのだろう。魔物を切り伏せると、自分たちはなんて強いのかと仲間内で褒め称えあい、そうして斃れた魔物の牙を抜いて俺の鳩尾にぶすりと刺したのだ。魔物を簡単に倒せる自分たちに、足手纏いの盾はいらなくなったのだと言って。
おそらく、そこで動けなくなったところに、魔王の力か何かで「道」を踏み外してしまったのだろう。あのまま魔王城の近くに放っておかれるよりも、はるかに運が良かったといえる、のか。しかしジュノーは、
「優しくすべきじゃなかったわ」
と怒気を含んだ声で呟いていた。
俺は聞き返す。
「何のことだ?」
「いえ、こっちの話。……それより、腹は立たないの?」
大きな黒い目に怒りを湛えながら、俺の命の恩人は問う。見ず知らずの男を助けて、さらにその男の境遇に気持ちを重ね合わせるなんて、もしかすると彼女は俺の会ったどの勇者よりも正義感が強いかもしれない。だが、純粋無垢な人間がのうのうと生き残れるほど、この世界は甘くない。
「そりゃ、もちろん立つさ。でもこういったことが頻発しているのも確かだ。それを知っていて騙されたなら、被害者面ばかりするわけにもいかないよ」
俺だって、生きる為と銘打ちながらも、結局は金に釣られて仕事を引き受けたのだから。
「そうなのね……そう、なのね」
目の前の女性はなぜか悲しげにそう繰り返して、すっと目を閉じた。まるで世界の見たくもない部分を垣間見てしまったかのような仕草。小さな村のはずれに住んでいる分、冷酷な世事にはあまり縁がなかったのかもしれない。傷つけたのなら悪いことをしたと次の言葉を探していると、目を瞑ったまま「幸せ?」と言われた。
「魔王がいて、そのせいで本来なら勇者に値しない人間が剣を振りかざすようなこんな世界にいて、幸せ? 3年前よりも……」
最後の言葉に、俺の肩はピクリと跳ねた。
「幸せかって?」
3年前。
それまで、この世界には魔物が跋扈していた。所構わず湧き出るヤツらは各地で人を襲い、殺し、喰い散らかしていた。その被害は甚大で、勇者たちが駆除のために赴いても時すでに遅く、町が壊滅していたなんてこともザラだった。
そんな凄惨たる時代の幕引きは、思いもせぬ方向から突如として訪れた。魔王という巨大な敵が、各地に散らばる魔物を自らの手元にすべて集めたのだ。魔物よりはるかに強い力を持つソレは、人々を恐怖に陥れながらもその実何か大それたことをするでもなく、異界の地に魔王城を作って早々に魔物と共に引っ込んでしまった。あとに残されたのは魔物のいなくなった世界と、魔王城に繋がる「道」だけ。「道」は各町に作られたわけではなかったから、「道」のある町の人々は自分たちだけが餌食にされるのではないかと恐れ戦いていたが、今のところ特に何事も起こっていない。むしろ、魔王を討伐するために勇者たちがそこを通り金を落とすので、他の場所よりも裕福だったりする。かくいう俺も。
「俺は小さい時、魔物に村も家族も襲われて一人で生活してかなきゃいけなかったんだ。でもあんな時代に見知らぬガキを引き受けてくれる余裕のある場所なんて、どこにもなかった」
ジュノーはいつの間にか目を開けて、黒曜石のような瞳で俺のことをじっと見つめていた。続けてくれてかまわないということなんだろうと勝手に解釈し、身の上話を続ける。ありきたりで、大したオチもない俺の人生を。
「ゴミをあさりながら孤児としてどうにか生きていたけど、明日には死ぬんじゃないかって、毎日思ってたよ。でも今は、俺の町に『道』があるおかげで餓死だけは避けられてる。案内業なんてしてるけど、正直言って魔王が討伐されようがされまいが、俺にとってはどうでもいいことなんだ。食うに困らない生活さえできればさ」
そう締めくくると、目の前の女はとても複雑そうな顔をしていた。悲しさと嬉しさがない交ぜになったような、そんな顔を。そして唇を真一文字に結んで、何かに耐えるように目を伏せた。
「……ジュノー?」
「ええ、ええ。それならよかったわ。ありがとう。――ごめんなさい」
それは何に対しての感謝と謝罪なのだろう。俺にはさっぱりわからなかった。けれど聞くのも憚られたから、うん、とだけ返事をする。安堵したような溜め息が返ってきた。
不思議な人だ。
少し間をおいてから、目の前の女性が薄く微笑みながら口火を切った。
「まだ、名前を聞いてなかったわね」
ああ、そうだ。自分の現状を把握するので手一杯で、彼女に何も伝えていなかった。俺はベッドの上でゆっくりと姿勢を正し、目の前の恩人に向けて頭を下げた
「俺はソスピタ。素性も知れぬ俺を助けてくれてありがとう、ジュノー」
あのまま放置されていたら、間違いなく死んでいただろう。生まれてこの方、死はいつだって身近にあった。だからその局面から救い出してくれた彼女に感謝するのは当然の事なのに、ジュノーは多分に驚きを含んだ声で言葉を紡いだ。
「ありがとう、なんて久しぶりに聞いたわ」
「え?」
「ううん、気にしないで。どういたしまして、ソスピタ」
どうも彼女は普通の村娘ではないようだ。話し方は平民のそれと大差ないが、その割には妙に気品のある仕草、世間と断絶しているかのような口ぶり。もしや名立たる貴族の落とし胤か何かだろうか。そんな考えが脳裏をよぎるが、何にせよ不用意に踏み込んではいけない事情だ。頭を振って意識を散らす。
「ところで、俺の面倒は君が?」
「ええ。バシナ村の中心までかなり距離があるから、お医者様も呼びにくかったの。素人の応急処置で悪いわね」
「いや、充分だ。むしろ迷惑をかけたな、本当に助かったよ」
そっと衣類の下を覗くと、真っ白な包帯が胴にぐるぐると巻き付いている。血が滲んでいないところを見ても、寝ている間に傷はふさがったのだろう。よかった。
「ジュノー、ここからシムカまでどれくらいかかる?」
「馬だって10日はゆうにかかるわよ……って、まさか帰る気? まだ傷も癒えてないのに?」
「流石にずっと居続けるわけにもいかないし」
帰るまでにある程度かかるとは踏んでいたが、まさかこんな遠方にまで来てしまうとは思わなかったから、住んでいる部屋もそのままだ。
「私なら構わないわ。一人増えただけで逼迫するような生活をしているわけでもないもの」
「でも」
「そんな怪我で帰れるわけないって、冷静に考えたらわかるはずよ。いいじゃないの、家主が居ろって言っているのだもの」
その後同様の押し問答が繰り広げられたが、結局のところ俺が折れた。
「じゃあ、悪いけどしばらくお世話になるよ」
こうして、俺とジュノーとタートル・トール・タルタルとの、不思議な共同生活が始まったのだった。