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トンボ捕獲方。

父親は涙を滝の様に流しながら何度も地面に額を擦り付ける。

実に愛情深い父親の姿である。

だが、それに感動を覚えたとしても、現実にみのりに出来ることなど何もない。


何度も言うが、みのりの持ち物は虫取りセットに財布と携帯が入ったミニポーチに、

川の水が入ったペットボトルとパン一個である。


都合のいいドラえ00の便利ポケットは持っていないし、

都合のいい医療セットなどある筈がない。



可哀想だか何も持ってないので他を当たってくれと言おうとしたら、

父親が鼻水と涙でくしゃくしゃの顔でみのりの足に縋り、そのまま登ってきて、

みのりの腕をがしっと掴んで、苦しむ娘の傍に引っ張っていった。


火事場の馬鹿力に近い怪力を発揮する父親の執念になすすべもなく、

みのりは引きずられるように少女の前に立った。


少女はすでに白目をむいてピクピクと痙攣しており、

呼吸もまともにできているか怪しい。


「どうか、どうか、何か薬を」


父親に掴まれたみのりの腕にくっきりと赤い指の跡が出来ていた。

そしてうっ血するほどの握力が加え続けられていて、指先が痺れてきたし、

掴まれている所が痛い。


「お願いします。薬を下さい」


しかしながら、手を離せと振りほどくには力の差がありすぎる。

大人しく離してもらうには、何か与えないと駄目かもしれない。


すっぽんに噛まれた時は雷だが、

犬や猿などの動物は目の前に食べ物をぶら下げると手を離す。


みのりの持ち得る物で役に立ちそうなものはと考えたら、

水くらいだろうか。

動物が飲んでいたから安全だろうと思うが川の水である。


たかが水、されど水だ。

痙攣くらいは止まるかもしれない。


後で腹痛になるかもしれないが、

死にかけているのだからそれ以上悪くなりようがないだろうと考えた。


「これを飲ましてはどうか」


袋の中からペットボトルを出して父親に渡した。


「おお、有難うございます。

 一生恩にきます。 このご恩は必ず」


そういって父親はボトルを感動しながら両手で恭しく受け取った。

だが、ボトルの開け方が解らないのか、蓋を押したり引いたりしている。


動転し混乱しているのだろうか。


そう思ってペットボトル相手に四苦八苦している父親の手を止め、

みのりがボトルの蓋を捩じって開けた。


中からあふれるのは先程汲んだ冷たい川の水だ。

父親は、娘をそっと抱きかかえ、喉を上向きにして水をそっと飲ましていく。


娘の喉がこくりと音をたてて動いた。

次第に娘の体の痙攣が収まっていくのが見えた。


ほっとした。

これならば、死なないかもしれない。


みのりが娘の顔色を窺おうと屈んだら、そこにヘンな生き物が居た。



ヘンと言うには悍ましい程可愛くないそれ。

虫歯菌の様な触角の生えた黒い小人生物が、

少女の腹の上で図々しく胡坐をかいているのだ。


小人と言うには醜い顔である。

あれを小人と称したら全国の小人ファンが怒るに違いない。


全長5cm前後の醜い二足歩行生物だ。ちなみに手は二本。

紫と黒の縞々模様の全身タイツの恰好は毒々しいと言わんばかりだ。

長い先の尖った鞭の様なしっぽを持ち、二本の触角。

牙をむき出しにして口を大きく開け、紫色の長い舌をでろりと伸ばして、

少女の腹の上でキシャッシャッシャと笑っていた。


なんだあれは。


目を細め焦点を合わしたが、視界から虫歯菌は居なくならない。

やはり幻覚ではない様だ。


虫歯菌は醜い顔でにやにや笑い、持っている尖った槍で、

少女のお腹をぐりぐりと突いた。


「ひぃ!」


その途端、少女が悲鳴を上げて痛みで反り返る。


痙攣がやや収まり、水を飲んで落ち着いていた少女は、

痛みで意識がはっきりもどったがその痛みで再度痙攣を起こす。


今度は虫歯菌が尻を振りながら立ち上がり、

少女の横腹を嬉しそうに槍で刺した。


少女はお腹を抱えてくの字に曲がり横に転がった。


「あ、あああ、ああ、うぅ」


虫歯菌が少女の腹を突いたとき、みのりは思わず自分の頬を押えてしまったが、

それはまあ条件反射と言うものだ。


それはともかく、少女の痛みの原因は、

明らかにあの虫歯菌もどきであるとみのりは予測した。


更に今、少女が苦しんでいるのに、あ奴は少女の腹の上で、

トランポリンで跳ねるがごとくに飛び跳ね始めたのだ。


「ぐっ、はっ、がっ、ごぼっ」


二回転、高いジャンプからムーンサルト、飛び込んで二回転半ひねり。


体操選手顔負けの実技だが、飛び跳ねている土台が少女の腹の上である以上、

感動は蚤以下だ、素晴らしいというつもりは毛頭ない。


「ごふっ」


少女は衝撃で七転八倒し、荒い呼吸と共に胃液を吐き出した。


随分と活発な虫歯菌だ。


虫歯と言うのは人間が必ずかかる最古の最もたちの悪い病気の一つだ。


虫歯を放置すると、歯周病になったり歯槽膿漏になったりして、

それを更に放置すると、脳や神経にダメージが積もって気が狂うらしい。


古代エジプトの王様の死因の約半分が虫歯だと聞いたときには、

虫歯菌の存在を見直したほどだ。


それを思うと現代の歯科医師の技術や知識に先端医療は、

古代の人にとって喉から手が出るほどの欲しい技術であろう。

みのりは、自分が今のこの時代に生まれてきて、

本当によかったと心から思ったものだ。


虫歯で死ぬのだけは絶対に嫌だ。

この意見に賛同する人は全人口の大多数を占めていると思う。



それは兎も角、腹痛や直接攻撃を直接仕掛ける虫歯菌など、

聞いたことも見たこともない。


サイズも5cmほどと、絵本に載っている虫歯菌の常識よりもはるかに大きい。


フンコロガシと同じく、虫歯菌も進化したのか。

実に面白くない進化だ。

この分だと、何が巨大化しているかわかった物ではない。

本当に世も末である。


「フェイ、フェイ、しっかりしろ。

 頼む、しっかりしてくれ」


ふと気が付けば、父親の声が悲痛な叫びをあげている。

やはり川の水では駄目だったか。

せめて痛み止めでも持っていればよかったが、ない。


みのりの携帯が充電切れになっていなければ救急車が間に合ったかもしれない。

しかし、実際問題、どっちを向いてもどうにもならないと実感するだけである。


みのりは、なんともやりきれない無力さを感じた。

目の前で死にかけている人がいたなら、ふつうの人間であれば当り前だろう。


だが、虫歯菌はまたもや嬉しそうにキシャッシャッシャと笑い、

にやあっと口角を上げて牙をちらつかせ、長い紫色の舌をべろっと伸ばして、

その口の周りを舐めた。


それを見たみのりの虫歯菌に対する印象はムカつくの一言だった。


みのりは、この虫歯菌が大層気に入らなかった。


みのりが小さな心を痛めて無力さを抱え嫌な気分でいるというのに、

その原因を作っているコイツがニコヤカに笑っているのが大層気に食わない。


その上、まずもって、見かけも醜くけりゃやること成すこと腹が立つ。

小さいとなんでもかわいい理論をよく友人が言っていたが、奴は絶対に論外だ。


こんなものが小っちゃい物クラブに分類されるなら、

火星人を仲間にした方が断然ましだ。


「ひゅぅ、ひゅぅ……」

「フェイ!」


虫の息の少女を前に、父親が叫ぶ。


ふつふつと沸いてくる怒りを原動力に、みのりは行動を起こした。


これは半分八つ当たりに近い物かもしれないが、

そこに、そのように、気味の悪い顔で笑うやつが居るのが悪いのである。



みのりはささっと虫歯菌の背後にまわり、

楽しそうに揺れている鞭の様なしっぽを、指で掴んでグイッと持ち上げた。


「シャ?」


そして尻尾の先を持ったまま思いっきり手首を回転させた。


「ギ、シ、シ、シ、シ、シ、シ」


虫歯菌の悲鳴のような声が、回転する度にドップラー現象で重なって聞こえる。

まったくもって美しくない声だ。


ここで人のようにキャーとか助けてくれと叫ぶのなら、

醜悪小人もどきあたりの仲間としぶしぶ認めてやってもいいが、

シの一点張りでは不十分だ。


みのりの中で今、この虫歯菌は蚊や蠅と同じ虫に分類された。


コイツが虫歯菌を名乗るなど烏滸がましいにもほどがある。

真面目に歯を溶かすことだけ専念している虫歯菌に失礼だ。


虫歯菌は別名ミュータントというカッコいい(?)横文字までもつ、

子供世界では殺傷力抜群の小さな有名小人なのである。


歯を磨いた良い子には決して暴力を振るわない。

夜間突貫工事を無言でこなす職人気質な面を持つ小人なのである。


菌に分類されて居ることからも、もしかしたら、

マツタケやマッシュルームなどの菌類高級食材の、

まかりまちがえば仲間だったかもしれない。


コイツは、ただの虫だ。

それも、ゾウリムシ以下に分類してやる。


だが、虫でひとくくりにすると、

代表格であるカブトムシやクワガタに申し訳が立たない。

あっちは本当にカッコいいのだ。


みのりは、奴を廻し続けながらゆっくり考えを纏めていた。




******





「は、はあ、はあ、う、ふう、あ、あれ?」


先程まで痛みで死にかけていた少女の様子が見るからに変わった。


「フェイ?」


少女は、ゆっくりと体を起こして先程まで必死で押さえていた自らの腹を見下ろした。

そして、自分を抱えている父親の顔を見返した。


「え、どして……? 今、痛みがいきなりすうっと引いて……」


「フェイ? お、お前、大丈夫なのか? もう痛くないのか?」


少女は不思議そうに自分のお腹をさすって胸を押え、腰に足に肩にと、

自分で自分の体を確認する。


「うん。 そう…みたい。 

 不思議なの、あんなにどこもかしこも痛かったのに治っちゃったみたい」


父親がひしと娘を抱きしめてその頭に頬ずりして鼻水をすすった。


「そうか、ああ、そうか。

 ああよかった。フェイがもう死んじまうかと思った」


「うん、心配かけてごめんね、お父ちゃん。

 私もこのまま死んじゃうのかなって思うくらい痛かった。

 ……でも、どうして?」


父親の腕を押しのける様に腕を伸ばし、少女は首を傾げた。


「どうしてって、あ、ああ、そうだ。 薬、薬だ。

 さっきこの人から薬をもらったんだ」


父親がみのりを指さし振り返った。


そこには、眉間に皺をよせ難しい顔をしたまま、

何かをじっと考え込んでいるみのりが居た。

彼女は手首のスナップを利かせて手を動かし続けている。


彼等の目には、みのりの手の先で悲鳴を上げている虫歯菌モドキの姿は、

全く見えていなかった。








*********




ぐるぐるぐるぐる。 


ずっと延々にまわす。


たかが虫であろうと、目が廻れば流石に悪さをしないだろう。


漸く考えがまとまった。

こやつは命名、シ虫だ。

シとしか言わないのでそれでいいだろう。


ところで、何故みのりは、シ虫を廻しているか。

答はトンボである。


トンボを捕まえるときにはトンボの目を廻すのが一番簡単だ。

目の前で指をくるくると蚊取り線香の様に回すと、

目を廻してころりと落ちるのだ。


何度も試してトンボを何匹も捕獲したことがある。

これは立派な捕獲方法だ。


だが、シ虫は体操選手並みに俊敏だ。

トンボのように一所に留まっている殊勝な虫ではない。

ならば、直接まわしてやればいいと思いついた。


そう考えて偶々回してみたが、なかなかに効果があったようだ。

奴は目を廻して伸びているように見える。


それに、みのりのふつふつと怒っていた心情も、

心なしかすっきりしている。


奴はぐったり、みのりはすっきり。

一挙両得を得たような素晴らしい気分だった。


みのりは念には念を入れて、何度も何度も執拗にまわした。


シ虫は見た感じ明らかに目を廻しているし、

気持ち悪そうにぐったりしている。


だが、悪者顔のシ虫に情けは無用。

回す手は止めない。やるからには徹底的にだ。


だが、流石に5分ほどまわしっぱなしにしていたら、

みのりの手がつかれてきた。


手首が腱鞘炎になったら困る。


そう思っていたら、そこに居た少女と父親が、

躊躇いがちにみのりに声を掛けてきた。


「あの、もし、少しよろしいでしょうか」


ちょっと待てとばかりに、反対の手を掲げ言葉を差し止める。


回す手をゆっくり止めたら、シ虫は目を廻して案の定気絶していた。

紫の長い舌と口から噴き出した紫の泡が気持ち悪かった。


やはり気絶していても可愛くない。


コイツはどこかに投げ捨てるかと周りを見渡したが、やめた。

目を廻しているだけなので、復活して誰かに取りついても後味が悪い。

それに、この道は帰りにも通るのだ。報復に襲われたら厄介だ。


だから、そのへんで捨てる案は却下した。


こういう菌類は火で万遍なく焼くのが一番いいだろう。

持っていないが抗菌ファOOーズや土葬では不安はぬぐえない。


ドント焼きは古来からある浄化儀式だし、炎による浄化は消毒殺菌確実だ。

キャンプ場が近いのなら、焚火か竈の火で焼いてしまおう。


それは大変良い考えに思えた。


だが、そこまでこれをこのまま持って歩きたくない。

どうしようか、紐で括って簀巻きにして吊るすかと考えた時に、

目に入ったのは虫かごである。


みのりの虫かごの中はいまだ空である。

いずれ、虫の宝石を入れて大豊作となる予定だが、今は空だ。


中には、虫寄せの蜜が入った小瓶だけである。


だから、虫かごを開けてその中に意識のない虫歯菌を放りこんだ。

これでとりあえず一安心する。


「あ、あの~」


遠慮がちに声を掛けてくる少女にみのりは向き直った。


「ああ、待たせて申し訳ない。

 それで、体調はよくなったのか?」


みのりは、手から菌を払い落とすように、ぱんぱんと手を払った。

尻尾の毒々しい紫色で指が染まっていないことにほっとした。


「はい、有難うございました。

 お蔭様で本当に助かりました。

 あの、この薬って、凄い効力ですよね。

 これって、かなりお高い薬なのでは……」


余りに即効性がある薬なので、少女は興味半分、恐れ半分。

提示されるであろう薬の代金への覚悟を決めて、

おのれの父親が手に持ったペットボトルの水を見た。


死にかけたと言うのに、随分立ち直りの早い娘だ。

彼女は真剣な目でみのりを見つめてくる。


「いや、それはただの水だ。

 薬は手持ちがなかったからね。」


ついでに言うとそこに流れている川の水だが、そこはあえて言わない。


「え? でも、娘は確かにこの通り…」


父親が首を傾げると、娘がポンと手を叩いた。


「わかった。 貴方、治癒術師様でしょ」


「ああ、なるほど。 偶然とはいえ、治癒術師様が通りかかるとは。

 本当に本当に有難うございました」


みのりはすぐに否定の意味を込めて首を振った。


「いや、私は医者でも治癒術師でもない」


ここははっきり言っておかねば、後々が大変だ。

過大な評価は大きな問題を招くことが多い。


治癒術師と言ったら按摩かマッサージ師のことだろう。


世は癒しブームであり、あちらこちらでマーサージ屋を見かける。

そんな風潮に対し、生半可な素人が知ったかぶりで

病人の体を触れるのはやめた方がいいと、先日の教育テレビ番組で、

某テレビの有名評論家の某が言っていた。


その意見には全面的に賛成している。


だから肩たたきを希望する父母にもはっきり言っている。

私にマッサージを望むなら、明日の朝日は拝めなく成るかもしれぬと。

父母は、すごすご諦めて湿布の世話になることにしている。


大体、みのりは肩こりという感覚が解らない。

母父曰く、肩がこる程に何かを一生懸命することが無いから。

友人曰く、得な体質と言うやつだ。


肩がこらない人間に、肩こり解消マッサージを頼んでも痛いだけである。

主にみのりの指が。


だから、ここでも思いっきり否定する。それはもう気持ちいい程に。



感謝されお礼を言われるのは確かに気分はいいかもしれないが、

ここで否定しないと、兄の肩たたき券の二の舞を起こしかねない。


みのりは知っていた。


子供の頃、勤労感謝の日に向けて大抵の学校で作る肩たたき券。

兄は馬鹿正直に両親に渡していた。

兄は父に教わった按摩の方法をあーだこーだといろいろ伝授され、

我が家の救世主、黄金のゴッドハンドと煽てあげられていた。


父親に言いくるめられ母親に猫なで声で強請られ、

肩たたき券は一回一枚ではなく、いつの間にか永久定期券に変更されていた。


気が付けば兄は、父母の専用マッサージ師と呼ばれ、

宿題が終わり次第毎日施行されるという苦行を強いられていた。


みのりはそれを見て自分の肩たたき券は全て廃棄することに決めた。

みのりが勤労感謝の日に父母に献上したのは、残り紙で折った折鶴だけである。


腕がいい、優秀だと持ち上げられると、その後に来るのが、

それ程腕がいいのならと別依頼がやってくるのだ。


最初は肩だけだったはずの券が全身マッサージ券になったのと同じように。

人の要求にはきりがない。


それを不快に思うのなら、最初からすっぱりきっかり断るのが、

正しい人生の選択というものだとみのりは考える。





みのりの態度と返答に、父親は考え込むように腕を組んだ。


「あ、あの、それでは、貴方様は治癒術師様と違いなしゃるので、ぐっ」


無理に敬語を使おうとした父親は、思いっきり舌をかんで涙目になった。

敬語は使い慣れてない様だ。


「何やっているのお父ちゃん。 でも、そういえばそうね。

 前に見た治癒術師様の治療は、はっきり白い光が溢れてたもの。

 痛みで意識が飛んで覚えていない部分もあるけど、さっきのは違うわよね」


白い光? レントゲンの光だろうか?


「ああ、言われてみたらそうだ。 全く違うな」


納得してくれたところで、自分は唯の通りすがりだと言おうとして、

ふと目の前の二人の恰好が目に入った。


スイスの民族衣装の様な恰好の少女に、

皮なめしの胸当てに皮の編み上げブーツの父親。


現代社会において日常でこのような恰好をしている人はまず見かけない。


祭りでもあったのだろうかとふと思った。

だが、それにしては華やかさが無い。


それでふと思い出した。


遠い異国ではアーミッシュという、

好んで電気ガス水道の無い生活をしている物好きな人達がいる。

彼等は近時代の便利文化を否定し昔からの生活を営む人達である。


そんな彼らの服装は、手縫いの服ばかりで、

テレビで見た時は確かこんな感じだったようなないような。


何でもいいと思ったら、すぐさま取り入れるのが日本人だ。

同じことをする人々が日本の田舎にいても不思議はない。


もし、主義主張で態々昔っぽい恰好をしているのなら、

ここで変だと指摘すれば下手な怒りを買うだろう。


もしかしたら、侮辱罪とか取られて訴えられたら面倒だ。


それに、それならばみのりの恰好はどうだと突っ込まれたら、正直勝てる気がしない。


みのりは昔から負ける勝負は決してしないのである。

とりあえず、二人の恰好はそういうものだと気にしない事にした。




********



少女と父親は、目の前の女性に明らかに戸惑っていた。


服装からして近隣の村の物ではなかったが、明らかに旅装ではない。

皮あても皮の靴もマントも付けていない。

旅装束には不似合いな粗末な薄い布地の服は夜着にも似た恰好だ。

物乞いならば解らないではないが、汚れが少ない。


だが、それならば近隣の村の新参者かと考えても、

彼女の様な恰好は不自然だ。

型崩れしたよれよれの貫頭衣に近い服に大きな麦わら帽子。

貧しい農夫でも、もっとましな恰好をしている。


それに、どこか偉そうで、態度がやけに落ち着きすぎているような気がした。


この女性は貴族なのかもしれないと最初は考えた。

日に焼けていない肌に、言葉少ないが人を従わせるような口調。


だが、貴族はこのように平民と気さくになれ合ったりしない。

というか、薬をくれと頭を下げても、

知らん顔して聞かなかったことにするのが大半である。


ちなみに、みのりが知らん顔をして他人顔で通り過ぎようとした状況は、

父親の中で、自分から娘に近づき癒そうとしてくれた、

心優しき女性に脳内で変換されている。


伸ばされた手はやわらかい労働を知らぬ手。

だが、急な病人に狼狽えた様子が全くない。

そして、自分が引き止めたとはいえ、服が汚れるのも構わず、

膝を土に付けていた。



着ている者は粗末だが、ぴんと張った背筋に威厳さえ感じる。

そう、まるで、教会の神父の様に姿勢がいい。


父親はぴんと閃いた。


「もしかして、教会か?」


「何言っているのよお父ちゃん、

 神に仕えるのは男子のみって常識でしょ」


みのりは首を傾げた。

教会は女性厳禁なのか?

そういえば、神父に女性は確かにいない。

ということはカソリック系の教会だろうか。


みのりは無表情な顔をそのままに黙って二人の話を聞いていた。


父親は自分の頭に浮かんだ考えを肯定しながら、目を輝かして娘に話す。


「ほら、何年か前に教会の聖女様が民救済の為諸国を漫遊していると、

 聞いたことあっただろう?」


聖女?

教皇や枢機卿は聞いたことがあるが、聖女って聞いたことが無い。


「へ? あれって眉唾物な話だってお父ちゃん言ってたじゃない」


「だって、その聖女はあっさりと隣国の王の側室に成っちゃったからね」


聖女が側室にランクダウン。いや、民間からの聖女なら下剋上だろう。

まあ、美人だったらよくありがちな話だ。


そういえば最近、夏休みにかまけて夏の特集番組ばかり見ていて、

めっきりニュースをみていなかった。

ヨーロッパのどこかで、聖女とやらが立候補して、

どこかの国の王様の二号さんにおさまったということだろうか。


あちゃらの宗教さんは本当に元気だ。


「どうせなら隣国じゃなくてうちの国の王族に嫁いでくれればいいのにって、

 隣のお婆ちゃんも母さんも言ってたあの人のこと?」


日本に当てはまる人がいたか?

知らないだけで居たのかもしれない。

皇族って、意外に横広がりがあると聞いたことがある。


しかし、日本に来てもなんの得もないだろうに。

日本の皇族は神道だったっけ?


「そうそう、うちの国の王様の後押しでやっと聖女候補になったのに、

 あっさりと隣国に鞍替えしたって、当時凄い噂になっただろ」


後押しって、また日本の総理大臣がどこかに金を寄付したのだろうか。

全く、不況だって言ってる割にポイポイあっちこっちに金をばらまき過ぎだ。

そこまでばらまきたいのなら、みのりの財布に優先的に入れてくれと言いたい。


しかし、隣国か。

中国、ロシア、韓国とかかな。まあいいか。


言いたいことは解らないでもないが、

聖女と言えど人は人なのだ。聖女にも権力欲とかがあるのだろう。

条件のいい結婚をするのは仕方ない。


所詮他人事なので、別段咎めることはしない。

どの世界も権力と宗教は切っても切れない関係ってやつだ。


「今はどうなったんだろうね。

 大国とはいえ7番目か8番目の側室だったんでしょう。

 この辺は田舎だし、全然噂流れてこないからわかんないや」


「だなあ。もううちの国とは関わりが無い人だから、

 特に気にしたこともなかったが、なんとかやってるだろ。

 もうどうだっていいやさ」


人々の歓心は移ろい易い物である。

且つての聖女は、今はどうでもいい人。

なんだか、諸行無常の風を感じそうだ。


「それで? もう、だから一体何が言いたいのよ」


娘が父親に癇癪をぶつけ始めた。

意外にこの娘は気が短いのかもしれない。


余り怒ると、女性でも禿るぞと言うべきか。

みのりは少し悩んだが、まあいいとそのまま放置する。


「落ち着けフェイ。 俺が言いたいのはだなあ。

 俺達に内緒で教会がまた聖女選抜でもしてるんじゃないかってことだよ」


「えええっ、それじゃあ、この人、聖女様なの?」


「候補だよ。こ・う・ほ。

 本物になったら教会の本殿から出てこれないはずだからな」


またもやおかしな過度な期待をされているようだ。

だから、みのりはそちらも否定する。


「いや、その聖女というやつでもない。

 私は、ごく普通の、どこにでもいる、人畜無害な一般市民だ」


胸を張ってみのりは自分の立場を宣言する。

大体、教会なんてものはみのりは一度として足を踏み入れたことない。

親は禅宗、祖父母は浄土真宗、従兄弟は真言宗。

実にバラバラだが、血筋一つとっても仏教徒である。


だが、そんなみのりの態度と言葉に、生暖かい視線と声がかけられた。


「ええ、解ってますわ。お忍びの旅ですものね。

 そういわないといけないんですよね」


「こんなにお優しい力のある貴方様なら、絶対聖女になれます。

 救済の旅、ぜひ頑張ってください」


フェイと父親は、全てお見通しだとばかりの視線を変えようとしない。

完全に思い込みの産物だが、キラキラした目に負けては後の面倒だ。


だから、再度否定する。


「私はその教会とやらには入ったこともない」


本当は中学の修学旅行の長崎で大浦天主堂に入ったが、

それはカウントしない。


だが、二人の思い込み指数はどんどん頑なに上昇し続けていく。


「そうですよね、聖女に認められて初めて入信されるのですもの。

 実にご立派ですわ。 そんな人に助けられるなんて、

 私はなんて幸運だったのでしょう」


「ああ、そうだな。

 あの、聖女様、よろしければ私共の家にお出でぐだしゃいまじぇんか。いてえ」


また父親は舌を噛んだ。今度は相当痛かったらしい。すでに涙目だ。


「お父ちゃんはもう黙っていて。

 聖女様、お礼が少しでもしたいのです。

 ぜひ、我が家に来て、母の自慢のチェリーパイをご馳走させてください」


チェリーパイ?

みのりの大好物である。


「いや、しかし……」


正直、ウグイスパンの後口の記憶を払拭したい気はある。

大好物を食べて記憶の上書きをしたい。

甘い誘惑にぐらぐら理性が揺れる。


「そうです。今が旬のチェリーの味は極上です。

 特に、うちのやつが焼いたチェリーパイが近隣でも評判なのです。

 祭りのときなんか、態々焼いてくれと注文が来るくらいなんですから」


ごくりとみのりの喉が鳴った。

そうかそれほど美味しいのか。


(大好物を食べたらすぐに帰ればいい。

 それならば、たいした問題にはならないはずだ)


心の中のもう一人のみのりが告げた。


「ああ、そうですよね。

 聖女様と今はまだお呼びするのは駄目ですよね。

 それならば何とお呼びすればいいのですか?

 よろしければ呼び名を教えていただけませんか?

 私はフェイ、こっちは父親のマルフォイです」


みのりは軽く目を閉じ覚悟を決めた。


「みのりだ」


誘惑に負けた瞬間だった。




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