法務部の高梨さんから、結婚のご提案がありました。
『個人的なご相談』
午後三時過ぎ、メールを確認していると、見慣れない件名が目に入った。
差出人は法務部の高梨さんだった。
俺、佐藤和樹は情報システム部に所属して六年になる。高梨さんは一期上の先輩で、法務とのやり取りで何度か一緒に仕事をしたことがあった。
ただ、個人的な連絡をもらうような仲ではない。
何だろうと思いながらメールを開く。
『佐藤さん
お疲れ様です。
業務とは関係のないことで、個人的にご相談したいことがあります。
もしご迷惑でなければ、本日の退勤後、少しお時間をいただけないでしょうか』
そこまで読んで、たぶんパソコンだろうと思った。
情報システム部にいると、会社の外にあるパソコンまで守備範囲だと思われることがある。
大学生になる子供にどんなパソコンを買えばいいのか。家のWi-Fiが遅いのはルーターを買い替えれば直るのか。家電量販店で勧められた機種は、本当にそこまでの性能が必要なのか。
仕事ではないので詳しく調べたりはしないが、分かる範囲で答えるくらいなら構わない。
高梨さんも何か買い替えるのかもしれない。
それなら業務時間外に、と考えたのだろう。そういうところは、いかにも高梨さんらしかった。
『十八時半頃でしたら大丈夫です』
そう返信すると、しばらくして待ち合わせ場所が送られてきた。
会社から二駅先にある、駅前のカフェだった。偶然にも俺の最寄り駅だ。
高梨さんの帰る方向とは逆だった気がする。
■■■
仕事を終えて店に着くと、高梨さんはすでに奥の席にいた。
仕事中は邪魔にならないよう緩くまとめている黒髪を、今日も低い位置で束ねている。白いブラウスに細身のパンツという格好も、会社で見たときと変わらない。
高梨さんは美人だ。
すっきりした顔立ちに涼しげな目元で、黙っていると少し近寄りがたい。ただ、仕事で話してみれば別に怖い人ではない。こちらの説明をきちんと聞いてくれるし、話も早い。
とはいえ、仕事以外で話すような仲ではなかった。
俺に気づいた高梨さんが、軽く手を上げた。
「すみません。お待たせしました」
「いえ。私が早く着いただけです」
俺はコーヒーを買って、高梨さんの向かいに座った。
「わざわざすみません」
「大丈夫ですよ。俺、この駅が最寄りなので」
「知ってます」
「え?」
聞き返すと、高梨さんは何でもないことのように続けた。
「以前、聞いたことがあったので。佐藤さんが来やすい場所のほうがいいかと思って」
「そうでしたっけ」
「覚えてないんですか?」
「すみません。いつ話したかも覚えてないです」
「そうですか」
高梨さんはそれ以上何も言わなかった。
なぜか少しだけ不満そうに見えたが、気のせいだろう。
「それで、相談というのは?」
「その前に、一つ確認してもいいですか?」
「はい」
「佐藤さん、今、お付き合いしている方はいませんよね?」
予想していた質問とあまりにも違った。
「……はい?」
「恋人です。いませんよね?」
「いませんけど」
「結婚の予定も?」
「ありません」
「よかった」
高梨さんが微笑んだ。何がよかったのか分からない。
「それ、相談と関係あります?」
「もちろんです」
パソコンではなさそうだ。
誰か紹介したい人でもいるのだろうか。高梨さんくらいの人なら、友人も似たようなタイプなのかもしれない。そこまで考えて、いや、いくらなんでも都合がよすぎるだろうと自分で打ち消した。
「では、本題なんですけど」
「はい」
「私と結婚しませんか」
俺は黙った。高梨さんも黙っている。
聞き間違いかと思ったが、訂正される気配はなかった。
やはり、パソコンではなかった。
「……誰と誰がですか?」
「私と佐藤さんです」
「ですよね」
他に誰がいる。
「ちょっと待ってください」
「はい」
「俺たち、付き合ってませんよね?」
「付き合ってませんね」
二人で食事をするのだって、今日が初めてだ。確認すればするほど、結婚から遠ざかっていく。
それでも、高梨さんは冗談を言っているようには見えなかった。
「俺のこと、好きなんですか?」
「いいえ」
即答だった。分かっていて聞いたつもりだったが、思った以上に刺さった。
「……そこ、もう少し考えてから答えてもらっていいですか」
「でも、嘘をついても仕方ないでしょう?」
「それはそうですけど」
結婚を申し込んできた女性に、好きではないと一秒で否定される。なかなかできない経験だ。
「じゃあ、どうして俺と結婚なんです?」
「結婚相手として条件がいいからです」
「条件?」
「はい」
高梨さんは真面目な顔で頷いた。
「最近、学生時代の友人の結婚式が続いたんです。それで私も、結婚について考えるようになりまして」
「それで俺に?」
「まだ飛ばさないでください」
「すみません」
高梨さんが少し笑った。会社で見るときより表情が柔らかい。
「最初は普通に結婚相手を探そうとしたんです。マッチングアプリを使ってみたり」
「高梨さんが?」
聞き返すと、必要なさそうだと思ったのが顔に出たらしく、高梨さんが目を細める。
「それ、褒めてます?」
「一応」
「では、ありがとうございます」
機嫌を損ねた様子はない。むしろ楽しそうだった。
「何人かとは実際に会ってみました。皆さん、別に悪い方ではなかったんですけど、もう一度会いたいかと言われると、別にいいかな、と」
合わなかったのだろうか。
「それを何人と繰り返せば結婚したいと思える人に会えるんだろうと考えたら、急に面倒になってしまって」
婚活とは、そもそもそういうものではないのかと思う。
「だから、向いてないなと思いました」
高梨さんは深く頷いた。
「諦めるの早くないですか?」
「向いていないことを続けても仕方ないでしょう」
判断が早い。仕事でもこうやって、駄目だと思ったものはさっさと切っているのだろう。
「それで考えたんです。何も知らない人から探す必要はないんじゃないかって」
「はい」
「すでに人柄を知っている人の中から探したほうが、結婚相手として判断しやすいでしょう?」
「まあ、それは」
「そこで佐藤さんです」
「……俺?」
話が急にこちらへ飛んできた。
「佐藤さんは独身ですし、一人暮らしも長いですよね。煙草は吸わない。お酒は付き合い程度。ギャンブルもしない」
「なんでそんなに知ってるんですか」
並べられて初めて、自分についてずいぶん知られていることに気づいた。
「今までの会話で聞いたことですよ」
「俺、全然覚えてないんですけど」
「私は覚えています」
さらりと言われた。何となく居心地が悪くなって、コーヒーに手を伸ばす。
「それに、仕事も真面目です。トラブルが起きても人に当たらないし、分からないことを聞かれても馬鹿にしない」
「……そんなところまで見てたんですか?」
「結婚相手を選ぶんですから、それくらいは見ますよ」
いつから選んでいたんだ。
俺の知らないところで、ずいぶん評価されていたらしい。
「あと、佐藤さんは恋人もいないと聞きましたし」
「……それ、今グサッときましたよ」
「どうしてです?」
「本人に確認する前に周りから確認済みってことでしょう?」
「必要な情報なので」
「誰に聞いたんですか」
「それは内緒です」
「なんでそこだけ内緒なんです?」
「情報源は守ります」
「法務ってそういう仕事でしたっけ」
「違います」
高梨さんの口元がわずかに上がった。
絶対に楽しんでいる。
「つまり俺は、高梨さんの条件を満たしてたんですね」
「はい。かなり。結婚相手としては優良だと思いますよ」
「俺、物件みたいになってません?」
「優良物件ですね」
本当に褒めているらしい。
少なくとも馬鹿にされている感じはしない。それどころか、聞いているうちに妙な気分になってきた。
恋愛対象として好きではない。でも、結婚相手としてはかなりいい。
それは男として喜んでいい評価なのだろうか。
「でも、条件がいいからって、いきなり結婚します?」
「いきなりではありません。佐藤さんのことは何年も知っています」
「俺は高梨さんのこと、そこまで知りませんけど」
「…………」
高梨さんが止まった。
「そこ、考えてませんでした?」
「考えてはいました」
「今ちょっと間がありましたよ」
「気のせいです」
涼しい顔で言い切った。たぶん気のせいではない。
「ですから、結婚する前に必要なことは話し合えばいいと思っています」
「普通はそこから付き合うんじゃないですか?」
「でも、私は結婚したいんです」
「付き合ってから結婚すればいいでしょう」
「それだと、また最初からじゃないですか」
思わず笑ってしまった。
「高梨さん、恋愛するの面倒なんですか?」
「今はそうですね。恋愛がしたくなったら、そのとき考えます」
そこまで言い切るか。
結婚したあとに恋愛したくなったらどうするんだ。
そう聞こうとして、やめた。さすがに、それくらいは高梨さんも考えているだろう。
たぶん。
「それで、結婚って具体的にどういうつもりなんですか?」
「どういう、とは?」
「普通の結婚をするわけじゃないんですよね」
好きではないと言い切った相手と結婚したいのだ。少なくとも、俺が考えている結婚とは違うはずだ。
高梨さんは足元に置いていた鞄を開いた。
嫌な予感がした。
「一応、考えてきました」
「何をですか」
「結婚後の生活についてです」
取り出したのは透明なクリアファイルだった。中に何枚か紙が入っている。
「……まさか契約書ですか?」
「まだ契約書ではありません。たたき台です」
「たたき台……」
受け取って数えると、六枚あった。思ったより多い。
「これ、いつ作ったんです?」
「昨日です」
「昨日?」
「佐藤さんにお話ししようと決めたので」
「俺が断る可能性は?」
「もちろん考えましたよ」
高梨さんはそこで一度言葉を切った。
「低いと思っていましたけど」
「なんでですか」
「私、そんなに条件悪くないでしょう?」
さらっと言われて、返事に困った。悪くないどころではない。
高梨さんは美人だし、仕事もできる。性格だって、少なくとも一緒に仕事をしていて嫌だと思ったことはない。
それを本人も分かっているらしい。
「自分で言います?」
「客観的な評価です」
「すごいな」
笑うと、高梨さんも笑った。
「読んでみてください」
言われるまま、一枚目に目を落とした。
住居について。生活費について。家事の分担。個人資産の管理。休日の過ごし方。互いの家族との付き合い。
思っていた以上に細かい。
住居は、高梨さんが今住んでいる2LDKをそのまま使う想定だった。賃貸なので、俺がそちらへ移れば引っ越しも一度で済む。嫌なら別の部屋を借りても構わないらしい。
「家賃は?」
「折半で」
今の家賃より安くなる。
「悪くないでしょう?」
嬉しそうに言わないでほしい。思わず条件を検討してしまう。
次のページには家事について書かれていた。
料理、掃除、洗濯を完全に半分ずつ分けるのではなく、仕事の都合を見ながら話し合う。得意なものがあれば担当してもいい。この辺りは意外と緩い。
「高梨さん、料理するんですか?」
「しますよ」
「意外」
「どういう意味です?」
声が一段低くなった。
「仕事ばっかりしてそうだから。すみません」
謝りながら、少し気になった。
「何が得意ですか?」
「結婚する気になりました?」
「なってません」
「では教えません」
妙なところで負けず嫌いだ。
ページをめくる。寝室は別。これは当然だろう。
互いの部屋には許可なく入らない。個人の郵便物や荷物を勝手に開けない。休日の予定には原則として干渉しない。
そして、その下に書かれていた一文で目が止まった。
婚姻期間中、配偶者以外との恋愛関係および性的関係を持たないこと。
「俺たち、恋愛しないんですよね」
「だからといって、結婚したまま別の人と付き合うのは嫌です」
「好きな人ができたら?」
「離婚します」
即答だった。そのための取り決めらしい。
「じゃあ、俺が結婚したあとに、普通に恋愛したくなったら?」
「離婚してからにしてください。できれば、そうならないでほしいですけど」
「なんでです?」
「結婚している間は私の夫なんですから」
その言い方に、妙なところで引っかかった。
契約なのに。好きでもないのに。夫であることには、ずいぶんこだわるらしい。
「それなら、最初から普通に付き合ったほうが早くないですか?」
「またそこに戻るんですか?」
「戻りますよ」
俺は書類をテーブルに置いた。
条件は悪くない。むしろ、よく考えられていると思う。
金銭面で一方だけが得をするようにもなっていないし、家事を全部押しつけられるわけでもない。高梨さんのマンションに住めば、俺の今の部屋より会社にも近くなる。
それでも、やっぱり違う。
「すみません。俺、これは無理です」
「どの条件です?」
「条件じゃなくて、結婚が」
「結婚そのもの?」
「はい」
高梨さんは黙った。本当に意外だったらしい。
「さっきも言いましたけど、高梨さんの条件が悪いとかじゃないですよ」
「では、何が問題なんです?」
「俺、結婚するなら普通にしたいんです」
口にしてから、少し気恥ずかしくなった。
それでも、ここを曖昧にしても仕方がない。
「誰かと付き合って、好きになって、一緒にいたいと思って。それで結婚したいです」
「……ずいぶん普通ですね」
高梨さんが俺を見た。
さっきまで少し楽しそうだった目から、からかうような色が消えている。
「ただ、佐藤さんがそういうタイプだとは思っていませんでした」
「どういうタイプだと思ってたんです?」
「もっと現実的な人かと」
「現実的ですよ。たぶん」
「そうでしょうか」
納得していない。
「高梨さんだって、今まで普通に恋愛したことくらいあるでしょう?」
「まあ、それは」
「だったら分かるでしょう。好きでもない人と結婚するのは、ちょっと」
そこまで言ったところで、高梨さんが視線を落とした。
テーブルの上の書類を揃える。
「……分かりました」
「すみません」
「謝らなくていいですよ。佐藤さんには断る権利がありますから」
六枚の紙が、クリアファイルに戻されていく。
来たときと同じ、仕事のできる先輩の顔に戻っていた。ただ、少しだけ動きが速い。
「でも、断られるとは思ってませんでした」
「やっぱり?」
「はい」
高梨さんは鞄にファイルをしまうと、俺を見た。
「私と結婚できるんですよ?」
「自分で言いますね」
「事実でしょう?」
口元に笑みが戻った。強い。
「惜しくなったら、まだ間に合いますよ」
「なりません」
「そうですか」
高梨さんはコーヒーを一口飲んだ。
「残念です」
冗談めかした言い方だった。でも、その一言だけは妙に耳に残った。
その日の話は、それで終わった。
翌日会社で会った高梨さんは、いつもと何も変わらなかった。
俺もそのつもりだった。
まさか数日後、自分からあの六枚の紙を思い出すことになるとは、このときは考えてもいなかった。
■■■
それから数日が経ったある日。
「佐藤、ちょっといいか」
課長に声をかけられ、小会議室へ入った。
向かいに座ると、課長はすぐに本題を切り出した。
「まだ正式な話じゃないんだけどな。北関東工場の情シス担当が、年度末で辞めることになった」
「そうなんですか」
「ああ。後任をどこかから出さなきゃならない」
嫌な予感がした。
「……俺、候補ですか」
「候補の一人だ」
当たってほしくなかった。
「期間は?」
「今のところ三年を想定してる」
三年。俺は先月、ようやく基幹システムの刷新プロジェクトに加わったばかりだった。
入社して六年。これまではパソコンの設定やアカウント管理、社内システムの問い合わせ対応など、運用や保守の仕事が中心だった。
今度は各部署から要望を聞き、ベンダーともやり取りしながら、新しい仕組みを作っていく側に回れる。
ようやく、運用する側から作る側へ進めたと思っていた。
三年も工場へ行けば、このプロジェクトは終わっている。
「俺、できれば行きたくないです」
「だろうな。お前が今のプロジェクトに入りたがってたのは知ってる」
課長もそこは分かっていたらしい。
「ただ、向こうにも人は必要だ。ある程度経験があって、できれば身軽な若手から出したいって話になってる」
「身軽って」
「独身で、転居に支障が少ないやつだな」
まさに俺だった。
「もちろん、それだけで決めるわけじゃない。他にも候補はいる」
「そうですか」
「俺としても、今のお前をプロジェクトから外したくはないんだよ」
それはありがたかった。
「だから、もし行けない事情があるなら今のうちに言ってくれ。家庭の事情でも何でもいい。材料があれば、俺から上に掛け合う」
「行きたくない、だけじゃ弱いですか」
「弱いな」
即答された。
「みんな、できれば転勤なんかしたくないからな」
「ですよね」
分かっていた。
「別に理由を作れって言ってるんじゃないぞ。何かあるなら黙ってないで言えってことだ」
「分かってます」
今のところ、そんな事情はない。
「いつ頃までに決まります?」
「そう時間はかからないと思う。だから、何かあるなら早めに言ってくれ」
「分かりました」
話を終えて、小会議室を出た。
自分の席へ戻ってからも、そのことが頭から離れなかった。
どうしよう。行きたくない。他の候補に決まる可能性もあるし、課長も上に掛け合うと言ってくれた。
けれど、こちらから出せる材料がない。せっかく入れたプロジェクトを外れたくない。それだけでは、三年間の異動を断る理由として弱いことも分かっている。
どうしたものかと考えているうちに、午後になった。
別の部署からの問い合わせを済ませて戻る途中、廊下の向こうから何人か歩いてくるのが見えた。
その中に、高梨さんがいた。
目が合う。
高梨さんも俺に気づいて、ふっと笑った。軽く会釈をされ、俺も同じように返す。それだけだった。
高梨さんは同僚と一緒に、俺の横を通り過ぎていく。
その背中を追うようなことはしなかった。
ただ、数日前の会話を思い出した。
『私と結婚しませんか』
あのときは、考えるまでもなく断った。
俺は普通に誰かと付き合って、好きになって、それから結婚したかったからだ。
その気持ちは今も変わっていない。なのに。
結婚したら、どうなるんだろう。
そんな考えが、一度浮かぶと消えてくれなかった。
転勤を避けるためだけなら、こんなことを考えるべきじゃないのに。
■■■
退勤時刻を過ぎた頃、俺は法務部の前にいた。
結婚したからといって、転勤がなくなるとは限らない。
それ以前に、一度断っておいて、転勤の話が出た途端に考え直すのはどうなんだ。
そんなことを考えている間にも、法務部から何人か出てくる。
一人と目が合って会釈をすると、向こうも会釈を返した。そのまま通り過ぎて、少し先でもう一度振り返る。
……やっぱり目立つよな。
仕事なら中に入ればいいのに、入口の近くで立っているのだから当然だ。
「佐藤さん?」
顔を上げると、高梨さんが立っていた。
「どうしたんですか、こんなところで」
「高梨さんを待ってました」
「私を?」
高梨さんは少し驚いて、それから笑った。
「珍しいですね」
後ろから出てきた法務部の人が、俺たちを見ながら通り過ぎていく。
高梨さんはなぜか楽しそうだった。
「少し話したいんですけど、時間あります?」
「ありますよ。この前のカフェにします?」
「いや、今日は俺から話があるので、高梨さんのほうでいいですよ」
「私のほう?」
「前は俺の最寄りだったじゃないですか。今日は俺が行きます」
高梨さんが一瞬、黙った。
「……そういうところですよ、佐藤さん」
「何がです?」
「何でもありません」
よく分からない。
「じゃあ、行きましょうか」
「はい」
高梨さんと並んで会社を出た。
駅までは歩いて数分だった。何か話したほうがいい気はするのに、何を話せばいいのか思いつかない。
高梨さんと結婚したら、どうなるんだろう。
考えれば考えるほど、分からなくなる。
隣から視線を感じて顔を向けると、高梨さんと目が合った。
「何ですか?」
「いえ」
高梨さんは少し笑って、前を向いた。
駅に着いて改札を抜ける。いつもなら反対方向のホームへ向かうところを、今日は高梨さんについていった。
電車に乗っても、会話はあまりなかった。
俺は頭の中で、これから聞くことを何度も組み立て直していた。
結婚したばかりなら、転勤は考慮されるのか。
それを聞いて、どうするのか。もし考慮されると言われたら。
そこから先を考えそうになって、やめる。
また隣から視線を感じた。今度は顔を向けなかった。
「佐藤さん」
「はい」
「カフェに着いてからでいいんですよね」
「……はい」
「分かりました」
それだけ言って、高梨さんは黙った。
車内アナウンスが、次の駅名を告げる。
あと一駅。
何をどう聞くか、まだまとまっていなかった。
■■■
電車を降り、高梨さんについて改札を出た。
駅前を少し歩き、高梨さんが入ったカフェにそのまま続く。
飲み物を買って、奥の二人席に向かい合って座った。
「それで」
高梨さんが俺を見る。
「お話って?」
とうとう来た。
ここまで来て、やっぱり何でもありませんとは言えない。
「ちょっと聞きたいことがあって。一般論なんですけど」
高梨さんが一度瞬きをした。
「一般論」
「はい」
自分でも苦しい前置きだと思う。
「結婚したばかりの社員って、転勤するときに多少は考慮されたりするんですか?」
高梨さんはすぐには答えなかった。
俺の顔を見ている。
「……何ですか」
「いえ」
口元が少し緩んだ。
「一般論でしたね」
「一般論です」
念を押すと、高梨さんは小さく頷いた。
「結婚したから転勤させられない、ということはありません。配偶者がいても転勤はあります」
「やっぱりそうですよね」
「ただ、家庭の事情が考慮されることはあると思いますよ。配偶者の勤務先だったり、子供がいれば学校だったり」
それは課長が言っていたこととも一致する。
「じゃあ、結婚したばかりで、相手も働いてる場合は?」
「事情の一つにはなるでしょうね。ただし、それで必ず転勤を避けられるとは言えません」
「ですよね」
そんな都合のいい話はない。それでも、何もない今よりは違う。
そこまで考えて、ふと顔を上げた。
高梨さんが俺を見ていた。
楽しそうだ。
「……何ですか」
「いえ、別に」
「絶対何かありますよね」
「佐藤さん」
高梨さんがテーブルに頬杖をついた。
「私との結婚、考え直してます?」
直球だった。
「なんでそうなるんですか」
「だって」
高梨さんは笑っている。
「退勤後に法務部の前で私を待っていて、わざわざ私の最寄りまで来て、結婚したばかりの社員の転勤について聞くんですよ?」
「それは」
「一般論でしたね」
「……はい」
完全にばれている。
「でも、そういうことなら」
高梨さんは少し身を乗り出した。
「私との結婚、悪くないと思いますよ」
「自分で言います?」
「だって、条件は悪くないでしょう?」
自信がある。
でも、実際その通りなのが困る。
「佐藤さんが私と結婚したら、新婚で、妻も同じ会社に勤めていることになります」
「そうですね」
「しかも本社勤務」
「はい」
「会社がどう判断するかは分かりません。でも、今とは事情が変わります」
「それはさっき聞きました」
「ここからは別のお話です」
何が始まるんだ。
「住むところは、私の部屋でいいですよ。2LDKですし、佐藤さんの部屋より会社にも近いです」
「ちょっと待ってください」
「家賃も二人で負担すれば、今より安くなります」
「条件を追加するのやめてもらえます?」
「追加ではありません」
高梨さんは平然としている。
「前回お渡しした資料にも書いてあります」
「書いてありましたね」
「覚えてるじゃないですか」
「六枚もあったので、全部すぐには出てこないですよ」
高梨さんが笑った。
「では、今回は前向きにご検討ください」
「営業みたいに言わないでもらえます?」
「ご提案ですから」
「まだ結婚するとは言ってません」
「もちろん」
そう言いながら、まったく引く気配がない。
「ほかにもありますよ」
「まだあるんですか」
「私、料理できます」
「……それも資料に?」
「それは書いてません」
「でしょうね」
「朝食も食べます」
「俺も食べますけど」
「生活時間も合いそうですね」
「なんでどんどん話を進めるんですか」
とうとう高梨さんが声を立てて笑った。会社では見たことのない笑い方だった。
「楽しんでますよね」
「少し」
「やっぱり」
「だって、佐藤さんから来てくれたので」
返事に詰まった。
高梨さんは笑ったままだったけれど、声はさっきまでより柔らかかった。
「この前は私からでしたから」
そうだった。
高梨さんが俺の最寄りまで来て、結婚を申し込んだ。
今日は俺が法務部まで迎えに行って、高梨さんの最寄りまで来ている。
「でも」
高梨さんはすぐに、いつもの調子に戻った。
「私から二回目はありませんよ」
「二回目?」
「プロポーズです」
「……」
その言葉を使われると、急に話が重くなる。
「一度断られていますから。さすがに二回も同じ男性には言えません」
「さっきまで散々売り込んでましたよね」
「営業活動とプロポーズは別です」
「何ですか、その理屈」
「法務なので、言葉は正確に」
絶対に楽しんでいる。
「ですから」
高梨さんは俺を見た。
「もし佐藤さんが結婚したくなったら、今度は佐藤さんから言ってください」
まただ。
涼しい顔で、とんでもないことを言う。
「俺にプロポーズしろってことですか」
「はい」
即答された。
「嫌ですか?」
「嫌というか……」
俺は言葉に詰まった。数日前なら、すぐに断れた。
でも今は、そうできない。高梨さんも、それが分かっているらしい。
「急がなくていいですよ」
余裕たっぷりに笑う。
「私は待てますから」
悪魔だ。
たぶん悪魔というのは、無理やり契約書にサインさせたりしない。
条件をきれいに並べて、笑って待っているのだ。
「高梨さん」
「はい」
「俺――」
「あ、でも」
口を開こうとしたところで、高梨さんに遮られた。
「返事は急がなくていいですよ。前に渡したものも、ちゃんと読んでからにしてください。時間はあげますから」
「読んでますよ」
「え?」
「もらった日の夜に、全部読みました」
高梨さんが黙った。
「……全部?」
「六ページ全部です」
俺は足元の鞄を開け、クリアファイルを取り出した。
高梨さんの目がそれを追う。
「……持ってきたんですか?」
「ずっと鞄に入ってました」
今度こそ、高梨さんが言葉を失った。
一度読んで、そのまま鞄に戻しただけだ。捨てるものでもないし、会社で返すのも変な気がして、そのままになっていた。
「家事の分担も、生活費も、その他の条件も読みました。気になるところは読み直してます」
「……そうですか」
「だから」
資料をテーブルに置いたまま、高梨さんを見る。
「俺と結婚してください」
高梨さんは何も言わなかった。
さっきまであれだけ喋っていた人が、急に静かになった。
「高梨さん?」
「……ちょっと待ってください。心の準備を」
自分から言えと言ったくせに。
「こんなに早いと思ってなかったんです」
どうやら、本当に待つつもりだったらしい。
「……もう一回、言ってもらえます?」
今度は俺が黙る番だった。
何のために、と思う。
「高梨さん」
名前を呼ぶと、今度はちゃんと俺を見た。
「俺と結婚してください」
「……はい。よろしくお願いします」
結婚が決まった。
あまりにもあっさりした言葉が頭に浮かんで、逆に実感がない。
目の前には、俺に結婚を申し込んできた人がいる。
数日前に断った相手で。ついさっきまで、俺に結婚する利点を並べていた人で。
返事をしたあとも、高梨さんはどこか落ち着かない。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫です。ちょっと予想外だっただけなので」
何が予想外なのかと思えば、俺が本当にプロポーズするとは思っていなかったらしい。
「させたの、高梨さんですよね」
「そうなんですけど」
理不尽だ。
高梨さんはテーブルの上の資料を見た。
「それ、まさかずっと持ってるとは思いませんでした」
「返した方がいいですか?」
「いえ。持っていてください。これから必要になるので」
そう言われると、一気に現実味が出た。
これはもう、結婚を申し込むための資料じゃない。俺たちが結婚した後の話だ。
「で、次は?」
高梨さんが止まった。
どうやら、プロポーズを受けた直後の段取りまでは想定していなかったらしい。
「……まずは両親への挨拶ですね。それから入籍する日を決めて、引っ越しも」
話し始めると、いつもの調子が戻ってきた。俺の部屋の契約期間、重複する家具や家電、処分するもの。
「急に元気になりましたね」
「得意分野に戻ったので」
プロポーズされるのは苦手でも、決まったことを進めるのは得意らしい。
「今日はもう遅いので、続きは連絡しましょう」
「会社のメールで?」
「そんなわけないでしょう」
高梨さんがスマホを出した。
そこで気づいた。
俺たちは結婚することになったのに、個人の連絡先すら知らない。
それを言うと、高梨さんも少し笑った。
「順番がおかしいですね」
「今さらですね」
スマホを出して、連絡先を交換する。
登録された名前を見ていると、メッセージが届いた。
『高梨です。よろしくお願いします』
「普通ですね」
「何を期待してるんですか」
すぐにもう一通届く。
『これから末永くよろしくお願いします』
顔を上げると、高梨さんはもういつもの顔に戻っていた。
「よろしくお願いします、佐藤さん」
「こちらこそ」
恋人になったわけではない。
好きだと言ったわけでも、言われたわけでもない。
それでも。
俺と高梨さんは、結婚することになった。
END




