「青い手の女など要らない」と婚約破棄されたので、御前染めでは新しい婚約者様ご自身の手で夜明け色をお出しください
「青い手の女など、侯爵家には要らない」
セドリック様がそうおっしゃったのは、夜会の控え室で、わたくしが手袋をはめ直している最中でした。
白い絹の手袋です。三年前、婚約が決まった日に侯爵夫人から贈られたもので、「人前では必ずこれを」と一筆が添えてありました。
その指先を、セドリック様がつまんで引き抜かれます。
現れたのは、爪の際まで藍の染みた両手でした。石鹸で洗っても、灰で擦っても落ちません。三年間、毎朝甕に手を入れて温みを確かめてきた手ですもの。
「見ろ。こんな手で王家の方々と握手をするつもりか」
「本日は握手のご予定はないと伺っておりましたが」
「そういうことではない」
では、どういうことなのでしょう。
セドリック様の背後から、薄紅のドレスの令嬢が顔を覗かせました。オフィーリア・メルツ男爵令嬢。先月の園遊会から、侯爵家の馬車にたびたび乗っていらっしゃる方です。
「まあ、本当に青いのですね。痛くはありませんの?」
「痛みはございません。染みているだけですので」
「俺はオフィーリアと婚約する。今夜の夜会で披露する。君との婚約は、今日で終わりだ」
開宴まで、あと半刻。控え室で済ませておこうというお心遣いか、広間でおっしゃる度胸がおありでないのか。
後者でしょうね。
「かしこまりました」
「……それだけか」
「はい。工房の件はいかがいたしましょう」
「侯爵家の工房で染めたものは侯爵家のものだ。布も甕も、侯爵家の財産だ。持ち出すことは許さない」
工房の棚には、暁染めの布が十二反ございます。藍を九度重ねた深い青に茜を差し、裾へ向かうほど空が白むように色の移っていく布です。三年かけて、ようやく十二反。
昨年の春の夜会で、セドリック様はそのうちの一反を広間に広げ、「我がグラーフェン家の工房の品です」とご披露なさいました。拍手が起こり、どなたが染めたのかを尋ねる方はいらっしゃいませんでした。わたくしはそのとき、白い手袋の中で青い指を握っておりました。
「かしこまりました。染めた十二反は置いてまいります」
オフィーリア様が、ぱっと顔を輝かせました。
「あの綺麗な布、わたくしもいただけますの?」
「侯爵家のものだからな。好きにすればいい」
ええ、どうぞお好きになさいませ。
布は置いてまいります。甕も柄杓も、干し竿も。
ただ、手順はどこにも書き残しておりません。甕の温みをどう見るのか。何分浸し、何分風に当てるのか。灰汁をどれほど薄めるのか。三年のあいだ、それを尋ねた方は侯爵家にひとりもいらっしゃいませんでした。
尋ねられなかったものを置いていく義理は、ございませんわね。
わたくしは手袋を化粧台に揃えて置きました。
「こちらもお返しいたします。侯爵家のものですので」
そのまま裏口から出ると、渡り廊下の先に工房の屋根が見えました。
三年間、夜明け前にあの戸を開けておりました。まず甕の蓋を取り、手首まで沈めて温みを見る。冬は炭を足し、夏は戸を開けて風を通す。侯爵家の方がいらしたのは、布が仕上がって棚に並んだ日だけでした。
工房には寄らず、馬車も呼ばずに歩いて帰りました。背中で夜会の音楽が始まりましたが、振り返る理由は特に見当たりませんでした。
◇
ヴァイト子爵家の納屋は、父が農具を仕舞っていた小屋です。
翌日から三日かけて鍬と鋤を母屋の軒下へ移し、床を掃き、北の壁際に甕を二つ据えました。ひとつは藍、ひとつは茜。町の瀬戸物屋で求めた、侯爵家の工房の半分ほどの甕です。
藍は建てるところからやり直しでした。すくもに灰汁と麩を合わせ、毎朝手を沈めます。人肌より少しぬるいくらい。指の腹で、甕の底から立ちのぼる温みを探ります。
「リーゼ、また手が青くなるわよ」
姉が戸口から覗いて申しました。
「もう青うございます」
「それもそうね」
五日目の朝、藍の面に紫がかった泡が立ちました。藍の花です。
その昼、納屋の戸を叩く方がありました。
「ヴァイト嬢はこちらに?」
ユリウス・ハーゼル伯爵。茜の産地ハーゼル領の若いご領主で、この三年、侯爵家の工房へ茜を卸してくださっていた方です。取引の相手はいつもわたくしでした。侯爵家のどなたも、茜の束の数など気になさいませんでしたから。
「侯爵家を訪ねたら、あなたはもういないと言われた。事情も聞いた」
「お聞き苦しいことを」
「いや。私が聞きに来たのは、別のことだ」
伯爵は納屋を見回し、二つの甕に目を留めました。
「今季の茜は、どこへ届ければいい?」
侯爵家へ、とは、この方は一言もおっしゃいませんでした。
「……こちらへ、お願いできますでしょうか」
「承知した。十日後に最初の束を届ける」
それから伯爵は、甕の縁にかけたわたくしの手をご覧になりました。ご覧になって、それだけでした。汚いとも、隠せとも、おっしゃいませんでした。
◇
御前染めの告知が王都の辻に貼り出されたのは、婚約破棄から六日後のことです。
第二王女殿下のご婚礼衣装に用いる布を選ぶため、王室衣装局が御前染めを執り行う。開催は告知の日より三十四日後、期間は七日間。出品の家は布一反と工程札を添え、出品保証金として金貨三百枚を納めること。審査の七日間、出品者は審査の前で自らの手により同じ布を一反染め直すこと。虚偽の出品には違約金を科す。
姉が写してきた告知文を、わたくしは二度読みました。
工程札。染めの手順を書いた札を出せということです。
保証金の金貨三百枚は、父が出してくれました。
「お前の嫁入りのために積んでおいたものだ。嫁入り先が消えたのだから、使い道を選ぶのはお前だろう」
「かしこまりました。では、甕に使わせていただきます」
「甕に三百枚は要らんと思うが」
「規則でございますので」
父は笑って、革袋の口を縛り直してくれました。
告知から十二日後、約束どおりユリウス様が茜の束を荷車に積んでいらっしゃいました。荷を下ろし終えると、上着の内から一枚の紙を出されます。
「衣装局に出た出品の届けの写しだ。今のところ四家ある」
三番目の行に、見覚えのある家名がございました。
――グラーフェン侯爵家。出品物、暁染め一反。作者、オフィーリア・メルツ。
「オフィーリア嬢の新作、と届けに書いてあるそうだ」
「新作でございますか。三年前から棚にございましたが」
「十二反のうちの一反だろうな」
ユリウス様はそれ以上、何もおっしゃいませんでした。怒れとも、訴えろとも。
わたくしも、怒りはいたしませんでした。布はもう侯爵家のもの。どなたの名で出そうと、侯爵家のご自由です。
ただ、規則には「審査の前で自らの手により」とございます。
「ヴァイト嬢」
「はい」
「あなたの名で出品するつもりなら、推薦人が要る。爵位のある者の署名だ。……推薦人に、私の名を書いてもいいか」
ユリウス様は、ペンを取る前にそうお尋ねになりました。紙はまだ白いまま、ペン先も乾いたままです。
三年のあいだ、わたくしの名は、どの書類にも書かれませんでした。侯爵家の工房の布は、侯爵家の布でしたから。
「お願いいたします。わたくしの名で、出させてくださいませ」
「承知した」
ユリウス様は、それから署名をなさいました。これで五家です。
「なぜ、ここまでしてくださいますの」
「ハーゼルの茜で染めた布だ。作った人の名がついて王家へ出るところを、一度見てみたい」
それだけおっしゃって、ユリウス様は空の荷車を引いて帰っていかれました。
◇
その晩から、わたくしは工程札を書きました。
頭の中にしかなかった手順を、一枚ずつ木札に移していきます。誰が読んでも同じところで手を止め、同じところで次へ進めるように。
工程一、精練。灰汁で煮て、糸の脂を抜く。
工程二、水洗い。濯ぎの水が濁らなくなるまで。
工程三、藍甕の見立て。手首まで沈め、十数えて温みが逃げなければよし。泡が紫なら建っている。
工程四から十二、藍浸し九度。一度ごとに十五分浸し、十五分風に当てる。布は裾から引き上げ、絞らない。
工程十三、藍止めの水洗い。
工程十四、茜の煮出しと浸し。
工程十五から十七、灰汁媒染三度。灰汁は茶碗一杯に水五杯。
工程十八、茜の仕上げ浸し。裾から膝の高さまで。
工程十九から二十一、水晒し三日。流れのある水に一日ずつ。
ひととおり書いてから、わたくしは札だけを手に持ち、頭を空にして甕の前に立ちました。札に書いていないことを、手が勝手にしていないか確かめるためです。
工程三の見立てを札どおりに繰り返して、気づきました。柄杓を甕に入れる手が、底に届く前に必ず止まるのです。三年、何も考えずにそうしておりました。底には灰汁と麩の澱が沈んでいて、かき回せば藍が濁るからです。
わたくしは工程四の札に、一行書き足しました。甕の底は決してかき回さない。
手が覚えていることは、書かなければ誰にも渡りません。
全二十一工程。書き終えたのは夜明け前でした。窓の外が、ちょうど十二反目の裾の色をしておりました。
朝になって、起きてきた姉に札を一枚だけ渡して、工程三を読みながら甕に手を入れてもらいました。
「十まで数えて、温みが逃げなければよし……逃げないわね。泡は、紫」
「では、建っております」
「わたくしにも分かるのね」
「札に書いてございますので」
その日から、出品する一反を染め始めました。
藍は九度。十五分沈めて、十五分風に当てる。砂時計を二つ並べ、ひとつが落ちきったら布を上げ、もうひとつを返します。一度目の布は、引き上げたときは黄緑色で、風に当たるうちに浅葱に変わります。二度目で縹、五度目で紺。九度目を上げたとき、布は夜の一番深いところの色になりました。
茜は、ハーゼルから届いた根を刻んで煮出します。灰汁媒染を三度。一度ごとに布の裾が、群青から紫へ、紫から暁の赤みへと移ります。
灰汁媒染の二度目の朝でした。水を吸った一反は重く、竿へ上げるときに甕の縁で足が滑りかけました。
横から差し出された手が、布にも、わたくしにも、触れる手前で止まりました。
「手に触れても?」
ユリウス様は、茜の束を届けに来たついでに、納屋の戸口で作業をご覧になっていたのです。
「どうぞ」
支えていただいて竿に布を掛け終えると、ユリウス様はわたくしの手を離す前に、少しだけ見下ろされました。
「夜明け前の空の色だな」
「藍でございます。落ちません」
「落とす理由がない」
わたくしは返事をしませんでした。何と返せばよいのか、手順が見つからなかったのです。
最後は水晒しを三日。裏の小川に杭を打ち、布を流れに預けます。一日目で余分な藍が抜け、二日目で茜が落ち着き、三日目の夕方、引き上げた布は、裾へ向かうにつれて空が白んでいく暁染めになっておりました。
御前染めの前日、わたくしは布一反と二十一枚の工程札、それに保証金の受取証を持って衣装局の門をくぐりました。
翌朝で、婚約破棄からちょうど四十日になります。
◇
審査場は、衣装局の中庭に建てられた長い仮小屋でした。五家の甕が等間隔に並び、正面の壇に審査官が三名。中央の椅子に、白髪をきっちりと結い上げたご婦人が座っておられます。
王室衣装局の審査長、マグダレーナ・ロス夫人。
「規則を読み上げます」
夫人の声は大きくはありませんが、仮小屋の端まで届きました。
「出品者は七日間、審査の前で、自らの手により出品と同じ布を一反染めること。甕と水と薪は衣装局が用意し、五家とも同じものを使います。加えて」
夫人は、壇の脇に立つ少年に目を向けました。十四歳と聞きました。袖をまくった腕が細く、爪はまだ白いままです。
「衣装局見習いのティモが、各家の提出した工程札だけを頼りに、同じ布を並行して染めます。出品者はティモに口を出してはなりません。札に書いたことがすべてです」
仮小屋の空気が少し動きました。
「布は嘘をつきませんが、人はつきます。だから手で確かめます」
視線の先、グラーフェン家の甕の前で、セドリック様が咳払いをなさいました。
「審査長。当家は工程札を提出していないが」
「ええ。届いておりません。ですから、ティモは札のない家の分は染めません。出品者ご本人の手だけで審査いたします」
オフィーリア様が、日傘の柄を握り直すのが見えました。
「わたくしが染めましたの。感覚で染めますから、札に書けるようなものではございませんわ」
「審査長、当家の手順は侯爵家の秘伝だ。札に書いて他家に盗まれては困る」
セドリック様が言い添えられました。
「札は審査の後、封をして衣装局の書庫に納めます。他家の目には触れません。それでもお出しにならないのでしたら」
夫人は、オフィーリア様の方へ向き直られました。
「結構です。感覚で、どうぞ」
夫人はそれだけおっしゃって、砂時計を返されました。
◇
一日目は精練でした。
ティモはわたくしの工程札の一枚目を甕の脇の台に立てかけ、声に出して読みます。
「工程一、精練。灰汁で煮て、糸の脂を抜く」
読んで、そのとおりに鍋を火に掛けます。わたくしは隣の甕で同じことをいたしますが、ティモの方は一度も見ません。見れば、口を出したくなりますもの。
グラーフェン家の甕の前では、オフィーリア様が侍女に鍋を運ばせようとして、審査官に止められていました。
「ご本人の手で、と申し上げました」
「まあ、重いのに」
ほかの三家は、絞りの家と、刺繍糸の家と、紅花の家でした。どの家も出品者ご本人が袖をまくり、甕の前で黙々と手を動かしております。見習いの台には、それぞれの家の札が立てかけてありました。札の立っていない台は、グラーフェン家の分だけです。
二日目、藍浸しが始まりました。
ティモは工程三の札を読み、手首まで藍甕に沈めて、唇を動かして十まで数えました。
「泡、紫です。建ってます」
審査官のひとりが帳面に何か書き留めました。
十五分浸して、十五分風に当てる。ティモは砂時計を二つ並べ、札どおりに布を裾から引き上げ、絞らずに竿へ掛けます。二日目の夕方までに五度。わたくしの布とティモの布は、並べると同じ紺でした。
グラーフェン家の甕では、オフィーリア様が布を沈めたまま日傘の下へ戻られ、砂時計は一度も返されませんでした。半刻ほどして引き上げた布はまだらな浅葱で、それを見たセドリック様は「初日はこんなものだ」とおっしゃいました。暁染めに初日の色というものはございませんが。
三日目の朝でした。
グラーフェン家の甕の前で、オフィーリア様が柄杓を甕の底まで突き入れ、大きくかき回されました。
「色が薄いのですもの。よく混ぜれば濃くなりますわよね」
藍甕の底には、灰汁と麩の澱が沈んでおります。かき回せば澱が立ち、藍は濁ります。濁った甕に浸した布は、青くなりません。
わたくしは自分の砂時計から目を離しませんでした。わたくしの甕ではございませんので。
引き上げた布は、どぶ川のような灰色がかった青でした。オフィーリア様はそれを見て小さく悲鳴を上げ、隣に据えてあった茜の鍋へ布ごと押し込まれました。赤を足せば暁になると、そうお考えになったのでしょう。
茜の鍋から出てきた布は、紫褐色でした。
夜明けの色ではなく、干からびた葡萄の皮の色です。
「ち、違いますの。甕が悪いのですわ。この甕、わたくしの工房のものと違って」
「甕は衣装局が用意したもので、五家とも同じです」
マグダレーナ夫人は壇から降りず、そうおっしゃいました。
「セドリック様、何とかしてくださいませ」
セドリック様は一歩踏み出しかけ、止まりました。何とかする手順を、ご存じないのです。
オフィーリア様は紫褐色の布を抱えて泣き出されました。侍女は審査官の目を気にして動かず、ほかの四家は自分の甕から手を離しません。誰も、手を貸しませんでした。
ティモだけが、砂時計を返しました。
「工程十、藍浸し七度目」
◇
三日目の夕方までに、ティモは藍の九度を終えました。四日目は工程十三の水洗いから茜へ進みます。
灰汁媒染の一度目を上げたとき、ティモは布を竿に掛けて、しばらく黙って見ていました。群青の裾に、うっすらと紫が差しております。
「……色、変わってきました」
「ティモ。札のとおりに」
「はい、審査長」
二度目で紫が赤みに寄り、三度目で、裾が白み始めました。工程十八の仕上げ浸しで、膝の高さまで茜を差します。
同じ四日目、オフィーリア様は新しい白布を求められました。審査官が衣装局の白布を一反渡すと、甕の前で柄杓を持ったまま動かなくなりました。何度浸すのか。何分浸すのか。いつ風に当てるのか。札のない方には、次の手が見えません。
「審査長。オフィーリアは緊張しているだけだ。普段の工房でなら、ちゃんと」
「では、普段の手順を札にお書きください。今からでも受け付けます」
セドリック様はオフィーリア様をご覧になり、オフィーリア様は目を逸らされました。紙もペンも、壇の脇に用意されておりました。けれど夕方まで、札は一枚も届きませんでした。
昼過ぎ、オフィーリア様はまた甕の底をかき回されました。前日の澱がようやく沈みかけていた甕です。白布は、二度浸したところで灰色になりました。
四日目の夕方、ティモの竿とわたくしの竿に、同じ暁の布が並びました。審査官のひとりが、壇から身を乗り出して二つを見比べ、何も言わずに座り直しました。
五日目から水晒しです。二人とも、布を衣装局の裏手の水路に預けました。
グラーフェン家の竿には、紫褐色の布が一反、三日目から同じ色のまま掛かっておりました。
オフィーリア様は五日目、審査場にお見えになりませんでした。侍女が届けた言付けには「体調不良のため」とだけございました。
セドリック様がおひとりで壇の前に進み出られました。
「審査長。婚約者の体調が戻るまで、当家の審査を延ばしていただきたい」
「七日間と規則にございます。五家とも同じ七日です」
「では、侯爵家の工房から職人を呼んで、代わりに」
「出品札に書かれた作者の手で、と申し上げました。三度目です」
セドリック様は拳を握ったまま、グラーフェン家の空の甕の前へ戻っていかれました。
◇
六日目。水晒しの二日目です。
水路の杭に布が掛かっているのを確かめました。流れに揺れる裾が、昨日より少し白んでおります。ティモの布も、隣の杭で同じ色に揺れておりました。
審査場へ戻ろうとしたところで、袖を掴まれました。
「リーゼロッテ」
セドリック様でした。夜会の控え室で手袋を引き抜いた、あの指です。
「戻ってくれ」
「どちらへでございましょう」
「工房へだ。いや、今夜だけでいい。明日の審査までに、オフィーリアの名であの布を一反、君が染めてくれれば」
「審査の前で、出品者ご本人の手で、と規則にございます。それに、暁染めは一晩では染まりません。二十一工程ございますので」
「だから、そこを何とか。審査長に話を通す。君が裏で手を貸したことにすればいい。侯爵家の工房の職人として」
職人。三年間、一度もそう呼ばれたことはございませんでした。婚約者とも、染め手とも。
「このままでは虚偽出品になる。違約金だけで金貨千二百枚だ。父上に何と言えば……頼む、君の手が要るんだ」
セドリック様は、わたくしの両手を掴もうとなさいました。
わたくしは、その前に手を引きました。
藍の染みた、爪の際まで青い手です。三年、甕に沈め続けた手です。汚いと言われ、手袋に隠せと言われ、四十日と少し前に要らないと言われた手です。
「セドリック様」
「リーゼロッテ、頼む」
「わたくしの手はもう、あなたの家のものではございません。どうぞ、ご自分の手で」
セドリック様の手が、宙で止まりました。
ご自分の手。藍甕に一度も沈めたことのない、白く、爪を短く整えた手です。
「侯爵家の工房で染めたものは侯爵家のもの、でございましたね。でしたら、侯爵家のどなたかがお染めになればよろしいかと。どうぞ」
わたくしは一礼して、審査場へ戻りました。水路の方から追ってくる足音は、ございませんでした。
◇
七日目。水晒しの三日目が明け、昼の鐘で布が引き上げられました。
壇の前に、三反の暁染めと、一反の紫褐色の布が並べられます。わたくしの出品布。わたくしが審査の前で染め直した布。ティモが工程札だけで染めた布。そして、グラーフェン家の竿から下ろされた布。
グラーフェン家が出品した十二反のうちの一反は、別の台に畳まれて置かれておりました。
審査官三名が順に布を手に取り、光に透かし、裾から肩まで指で撫でていきます。マグダレーナ夫人は最後に、ティモの布を長いこと両手で持っておられました。
「審査官三名、全員一致。ヴァイト家の出品布、審査中に出品者が染め直した布、見習いティモが工程札のみで再現した布。三反とも、本物の暁染めと認めます」
ティモが、自分の手を見下ろしました。七日で、爪の際が少しだけ青くなっておりました。
審査の場で、出品者は見習いに口を出してはならない決まりです。けれど判定の済んだ今なら、よろしいでしょう。
「ティモ様。お疲れさまでございました」
「工程四の札の、最後の一行」
ティモは、青くなった指で札を一枚持ち上げました。
「あれがなかったら、三日目、僕も底をかき回してたと思います。色が薄く見えたので」
「書いておいて、よろしゅうございました」
壇の上から、マグダレーナ夫人がおっしゃいました。
「十四歳の見習いが、札だけで七日で染めました。手順さえ守れば、誰でも同じ色が出せるということです」
夫人はそれから、別の台に目を移されました。
「グラーフェン侯爵家。出品者オフィーリア・メルツ嬢は工程札を提出せず、審査の前で同じ布を再現することができませんでした。出品札には『オフィーリア・メルツ作』とございます。作者と書いた方の手から同じ布が出ない以上、この出品は虚偽と判定いたします」
「待ってくれ、あれは侯爵家の工房で染めた布だ。侯爵家のものであることに変わりは」
「侯爵家のものかどうかは、審査しておりません。誰の手で染めたかを審査しております」
夫人は手元の紙に目を落とし、読み上げられました。
「出品保証金、金貨三百枚は没収。虚偽出品の違約金として、金貨千二百枚。グラーフェン侯爵家の王室御用達の資格は、本日より十年、剥奪といたします。オフィーリア・メルツ嬢は、以後、衣装局への出入りを禁じます。期間の定めはございません」
合わせて金貨千五百枚と、十年です。
「第二王女殿下のご婚礼衣装の布は、ヴァイト家の暁染めといたします。工程札は、作者の名を添えて衣装局の書庫に納めます」
オフィーリア様は、今日はいらしていました。審査場の端で侍女の袖を掴み、何か言おうとして、口を開けたまま閉じられました。セドリック様は壇を見上げたまま動かず、お二人ともお互いの方をご覧になりませんでした。
仮小屋を出ていくお二人に、誰も声を掛けませんでした。ほかの三家の方々は自分の布を畳み、審査官は帳面を閉じ、ティモは甕の水を抜いておりました。
◇
翌週のことは、姉が町で聞き集めてまいりました。
御用達の資格を失ったグラーフェン家の商会では、反物の注文が三十八件、立て続けに取り消されたそうです。暁染めを当て込んでいた貴族家の婚礼支度が、ほとんどでした。侯爵閣下はセドリック様を商会の代表から外し、家督継承の第一候補の地位からも外されたと聞きます。
侯爵家の棚には、暁染めが十一反残っております。売ることのできない、どなたの作とも名乗れない布です。
その週の終わり、わたくしは婚礼衣装の布に選ばれた旨の書状を受け取りに、再び衣装局を訪ねました。書状の宛名には、リーゼロッテ・ヴァイト、とございました。
夕暮れの審査場は、甕も竿も片付けられて、がらんとしておりました。
入口に、ユリウス様が立っておられました。
「おめでとう、と言いに来た。それと、聞いてほしい話がある」
「どうぞ」
「ハーゼルに、工房を建てたい。名義はあなたの名で。ハーゼル領の茜は年に四百束出る。それをすべて、その工房へ回す契約を結びたい」
四百束。侯爵家の工房が三年で使った茜より、多い量です。
「三年前、初めて茜を納めに行ったとき、束を数えに出てきたのはあなただった。侯爵家の誰でもなく」
「数えなければ、媒染の分量が決まりませんので」
「知っている。あなたは毎回、根の太さまで確かめていた。あの手の色を、私はそのときから覚えている」
「そのうえで、私の妻になってもらえないだろうか」
ユリウス様は、そこで言葉を切られました。手は、差し出されませんでした。
「答えは今でなくていい。王都に残って工房を持つなら、茜はそこへ届ける。断っても、茜は届ける。住む場所も、工房の名義も、あなたが決めてくれ」
わたくしは、自分の手を見下ろしました。
夕陽を受けた藍の青は、夜明け前の空の色をしておりました。汚いとも、隠せとも、この方は一度もおっしゃいませんでした。触れる前には必ず尋ね、署名の前には必ず尋ね、今も、尋ねておられます。
ですから、今度はわたくしが決めます。
わたくしは青い手を、自分から差し出しました。
「わたくしが選びます。ハーゼルへまいります」
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。リーゼロッテの青い手と夜明け色の布を少しでも気に入っていただけましたら、下の★評価で応援していただけると大変励みになります。作者ページには完結済みの長編『『無能な君との婚約は破棄する』と笑われたので、「かしこまりました」と領地の全収入を持って出て行きました』もございますので、よろしければあわせてお楽しみください。
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