人生で最大の試み 6
目の前に、ハウエルズの顔がある。見慣れた顔。けれど、決定的に違うのは瞳だった。暗く淫靡な赤い色を宿していたのに、それが消えているのだ。
「マリー、大丈夫か?」
「え、ええ。ありがとう」
背を支えて起こしてもらいながら、マリーは部屋の中にもうひとり増えたことに気づいた。驚いてそちらを見やると、見たことのない美形が香などの載っている台の上に腰かけて、嫣然と笑っている。その口もとからは、牙がこぼれて見える。
さらりとした黒い髪。整った、端正だが冷たい印象を受ける顔。背も高く、しなやかな体つきをしており、漆黒の羽根が生えている。まとう衣服は全て漆黒。唯一、切れ長の瞳だけが赤い光を内包して、深い輝きを放っていた。
「あれが、もともとのハウエルズ様です」
ジュディの声がした。悪魔はほほ笑みながら声を発した。
「ようやくその窮屈な檻から出ることが出来た。感謝するぜ……それと、邪魔な感情を取り払ってくれたことにも礼を言う」
悪魔は、肉体のあるハウエルズを見て言う。
「こっちこそ、お前と離れられてせいせいしたさ」
ハウエルズは、鼻を鳴らして行った。向き合う、もともとは同じ魂を持っていた者同士。目線だけで意思を交わし合ったのか、互いに口端をあげ、微かに笑った。
「まあいい、礼は言ったぞ。何も出来ないが……せめてお前たちが生涯悪魔に狙われることがないようにしてやろう。俺が出来るのはそれだけさ。じゃあな」
低く艶めいた声で言うと、悪魔はばさり、と羽根を羽ばたかせて消えた。
「あっ! あ~あ、行っちゃいました」
ジュディがしょんぼりして言う。
「あなたなら、また呼び出せるわよ」
心からそう思ってマリーは言った。それから、ゆっくりと戸惑いながらハウエルズを見る。
「本当に、人間になったのね」
「ああ。ちゃんと血も流れて心臓も動いてる。ありがとう……これで、人を食らうことなく生きられる」
ハウエルズはそう言うと、強い力でマリーを抱きしめた。体は温かく、きちんと存在を感じる。マリーはあまりに強く抱きしめられたので痛かったが、何も言わなかった。
しばらくそのままじっと抱きあう。
「あれだね、奇跡ってあるもんなんだね」
呆けたようにクリスが言った。ジュディはそれを受けてうっとりと言う。
「ロマンチックですよねえ、神秘的な存在と結ばれるなんて」
「いや、僕はふつうの女の子がいい」
クリスが半笑い気味に言うと、ジュディは彼を睨みつけた。
「そうですか。別にあなたに同意は求めていませんよ。まあ、あなたには理解は出来ないでしょうが、私だっていつかは悪魔を呼びだしてその下僕にしてもらうのが夢なんです」
「は! 下僕? 君は頭がおかしいの?」
「失礼な、本心ですよ」
ジュディが断言すると、クリスは頭を抱えてうめき声をあげた。それから、ジュディに言う。
「その件についてはちょっと話し合おうか? どうしても理解できないんだけど?」
「いいですよ! 理解させてあげますよ」
なぜかふたりは言い争いをはじめ、部屋を出て行く。
「あ、マリーさん、後片付けは私がやっときますんで。むしろへたに触らないほうがいい物もあるのでここはそのままにしておいて大丈夫です。それじゃあ、また!」
「うん、またね」
マリーは答えて手を振った。
やがて、言い争いをしながら去っていくふたりの姿が見えなくなると、マリーはつぶやいた。
「あのふたり、もしかしたらもしかするかも」
今はまだ何も芽生えていないが、マリーはちょっと期待してしまう。でも、それは未来の話だ。今は、自分を抱きしめてくる存在と言葉を交わしたい。マリーは、彼の身体がわずかに震えているのに気づいた。ハウエルズは、泣いていた。
「ハウエルズ……?」
「ごめん。ただ、さっきまで死ぬんだとばかり思っていたから」
「うん、でももうそんなこと考えなくていいのよ。どちらかが死ぬまで、一緒よ」
マリーはハウエルズの背をさすりながら、優しく言う。それは、自分に言い聞かせる言葉でもあった。
「信じられない」
「私もよ……でも本当なのよ」
マリーは、彼にしがみつくようにして言った。少しずつ、思いがとめどなくあふれる。彼が生きている。ここにいる。それだけで胸がいっぱいになり、言葉が詰まって出てこない。お互いに、ただ互いがちゃんといることを確かめあうだけの時間が流れる。
あふれた思いは、ゆっくりと全身に広がり、静かな幸せを感じた。
やがて、落ち着きを取り戻したマリーは言う。
「これで、あなたは私とは離れられない。ねえ、後悔してる? 私はひどい女よ、いろいろなひとを傷つけたのに、こうしていられるのが嬉しいんだから」
「そんなの、俺も同じだ」
ハウエルズはそう言うと、体を離してキスをした。最初は軽く、感触を確かめるようなキス。つづいて、息を奪うようなキス。マリーもそれに応えた。
お互いを確かめあうように、何度も重ねあう。
そうして、ふとした瞬間に見つめあって、同時に笑った。
マリーは思った。
私は、本当に恋人をつくってしまったのだ。あのとき結婚式で、情けない思いをぶつけるようにしてつくった。これでもう、ひとり夜に泣くことはないのだ。
「ずっと、離さないから」
笑顔で心から言う。
私は、幸せだ。