人生で最大の試み 4
※R15(多分)が出てきますのでご注意ください。
いつまでもジュディの家に厄介になっている訳にはいかない、という理由で、マリーはパディントン市内に貸家を見つけて借りていた。ジュディは気にしなくても良いと言ってくれたものの、マリーはやはり気が咎めていたのである。
運が良いことに、探し出してほどなく、比較的治安の良い場所で家賃も思っていたより良心的な場所を見つけることができた。
そこに戻ると、室内から焦げた匂いがする。マリーは苦笑しながら、鍵を取り出して開けると中に入った。室内は狭く簡素なものだ。作りつけの家具も少ないが、生活出来れば十分だ。台所は暖炉と兼用になっている。そこに行くと、ハウエルズが鍋をかきまぜて渋い顔をしていた。
「また焦がしたの?」
「料理って難しいんだな。肉を焼くくらいならなんとか出来たけどさ」
渋面で答えると、テーブルを見る。
食卓の上には、焼いた肉や豆と切ったパンが載り、灯心草ロウソクの明かりに照らされて、美味しそうな香りを放っている。
マリーは、むしろシチューを焦がす方が難しいのにと思いながら笑った。彼はまだ鍋とにらめっこをしている。
それを横目に、上着を脱いで荷物を置くと、近づいて背中に抱きつく。早く言いたくてたまらない思いをこらえながら、ゆっくりと言う。
「聞いて。もしかしたら、一緒に生きられるかもしれないの」
マリーの言葉に、ハウエルズの手が止まった。一旦はなれて向き合うと、彼の瞳が不安と期待に揺らいでいるのがわかる。マリーは今日あったことを説明した。さらに、ハウエルズに書物の名前を聞くと、彼は知っていると答えた。マリーは思わず彼を凝視する。
「その本は、あらゆる魂を弄んだ罪で悪魔に堕天させられたやつが人間に教えた秘術を記したとされる本だ。あまり有名ではないし、よほどの好事家でもなければ出てこない題名だ。その小人とやらの言っていること、信ぴょう性がありそうだな」
「私は、信じることに決めたわ」
真っ直ぐに目を見て言うと、ハウエルズは戸惑ったように笑った。
「だけど、それだとマリーは一生、俺に縛られることになるぞ……いいのか?」
「もちろんよ。例えうんざりすることがあったとしても、今日の気持ちをもう一度思い返せばいいだけよ、違う?」
きっぱりと言うと、ハウエルズは嬉しそうに、けれど意外そうな顔をした。
「……何というか、少し前まで迷って泣いて、俺とあの教授に振り回されていたマリーと同一人物には見えないな。こう、強さを手に入れたって感じがするよ」
ハウエルズの指摘に、マリーは苦笑した。
確かに、その通りだ。あの時は進んでも進んでも、道が見えなかった。けれど、今は違う。はっきりと進むべき道が見えていて、やるべきことも、気持ちも定まっている。
だからきっと、強く見えるのだろう。
今ならわかる。マリーは、ふたりともを心から愛していた。
ひとは、誰かひとりだけしか愛せない訳ではないのだ。
けれど、どちらかを選ぶことが出来ずにいた。怠慢だったのだ。だからこそ、アレックスを傷つけ、ハウエルズに身を引かせるという残酷なことをさせてしまった。
それは、取り返しのつくものではないけれど、もう決めたのだ。
だから、迷わない。
「そうね、多分気持ちがはっきりしたからだと思う。私はあなたが好き、だから側にいたい。他にはなにもない。あなたのさっきの言葉だけど、そのまま返すわ。あなたは一生私に縛り付けられることになるけど、それでもいいの?」
小首をかしげて問うと、ようやくハウエルズの顔から強張りがとれた。
「望むところさ」
つぶやいて、マリーの頬に触れる。ハウエルズはそのままかがみこんで、唇を重ねた。
ここに来て以来、何度となく繰り返された口づけ。
軽いものから、全てを奪い尽くそうとするようなものまで、さまざまなキスをした。
そのまま、最後まで行ってしまいそうになったこともある。けれど、そうはならなかった。
マリーは男を知らない。だからだろうか、彼はキスしかしない。体に触れる手が、欲しいと訴えているように思えても、決して行為の要求をすることもない。
マリーは唇がはなれた隙に言ってみた。
「ねえ、最後までいってもいいのよ」
ハウエルズが動きを止めた。驚愕に瞳孔が開き、頬に赤みがさしている。その反応に、いたずら心が刺激され、動きをとめている彼の耳にふっ、と息を吹きかける。
「……!」
驚いたハウエルズは体を思いきり離した。
「ごめん、でも、今言ったことはうそじゃないから」
マリーはほほえんで、焦げ付いたシチュー鍋を暖炉からおろした。黒い部分を取り除けば食べることが出来そうだ。さて、食事にしようかと鍋を覗き込んでいると、ハウエルズが近寄ってきた。顔を上げると、真剣な顔をしている。
「どうしたの?」
「本当に、いいのか?」
マリーは一瞬呼吸が止まりそうになった。
「うん、私の覚悟は決まっているわ」
そう言うと、ハウエルズは困ったような顔をした後で、そっと手を伸ばしてきた。マリーは、せっかく作ってくれた食事が冷めてしまうなと思いながらも、何も言わずにおいた。
大きな手が、マリーを抱えあげて寝室へと運んでいく。心臓の音がうるさい。やがて寝台に横たえられると、綺麗な顔が視界を埋め尽くした。最初の造形とは異なる、鋭くて少し悪賢いような、それでも愛おしい顔が。
ハウエルズは顔をマリーの首もとに埋め、静かな声で囁く。
「ずっと、こうしたかった」
嬉しそうな、少しかすれた声だ。
お腹に、きゅんとした痛みが走る。
言葉ではなく、彼に抱きつくことでマリーは応えた。
「温かい。私ね、ずっとあなたの身体が冷たいのが寂しかったの、つないだこの手が温かかったらいいのに、って何度も考えた」
「なら、叶ったわけだ」
ハウエルズはそう言いながら、マリーの首にキスをしようとして、動きを止めた。その目がある一点を凝視している。マリーは彼の見ているものが何なのか気づいて、笑った。
「これ……まだ持ってたのか?」
「うん。だって、あなたが初めて私に買ってくれたものでしょう?」
マリーは、ハウエルズが首にかけたウォーター・サファイアのネックレスに触れるのを感じて、そう言った。彼は名状しがたい顔で、嬉しそうに何度もそれに触れる。
小さな、安物のアンティーク・ジュエリー。けれど、マリーにとっては本物のサファイアくらいに価値のあるものだ。
「とっくに捨てたと思ってた」
「そうね。そうしようかと思ったこともあるけど、どうしても捨てられなかった。あの時、手をつないでくれたのが嬉しかったし、本心では、もうあなたのことを好きになっちゃってたのね」
アミーリアの話を聞かされたあと、彼と一緒に市場を歩いた。ほんの短い時間だったけれど、そのときの胸が温かくなる感覚は今でもずっと残っている。
「だとしたら、時間を無駄にしたよな」
「そうね、私のせい……だから、もう無駄にするのはやめましょう」
手を伸ばしてハウエルズの背中に触れる。彼は笑った。
「そうだな」
その晩、食卓の料理がふたりのお腹に収まることはなく、それはそっくり朝食になったのだった。