人生で最大の試み 3
やるべきことはあとひとつだけだ。
けじめをつけること。そこをきちんとしなければ、マリーは納得して次へ進めない。服のポケットに入れた紙の存在を意識して、重い足を動かす。まだ、彼が残っていることはわかっていた。
そこまでの道のりが遠い。けれども、マリーは歩を進め、やがて辿りつく。
教授の部屋の前に。
息を吸い込み、ノックする。
「はい」
「教授、お話があるので少しよろしいでしょうか? マリー・ヘイスティングスです」
廊下に声が響く。答えはすぐに返ってこなかった。間の悪い静けさが場を満たす。
「どうぞ」
控えめだが、固い声が返ってきた。マリーは扉を開けて、執務机につき、なにか書きものをしているアレックスを見た。彼は顔を上げずに、感情のこもらない声で言った。
「要件は何でしょう? 忙しいので、手短にお願いします」
「……これを、受理していただきたいと思ってきました」
マリーはポケットから封筒を取り出し、彼の前に置く。そこには「辞表」と書かれていた。さすがに驚いたのか、アレックスが顔をあげる。マリーは真っ直ぐにその目を見て、頭を下げた。
「色々とご迷惑をお掛けしてしまい、申し訳ありませんでした。一身上の都合で恐縮なのですが、辞めさせて頂きたいと思います」
きっぱりと言うと、アレックスはそれを手に取ることもせず言う。
「これを受け取る訳にはいきません」
「なぜですか?」
「あなたは優秀な研究員です。確かに、私との間には色々なことがありましたが、それと仕事内容に対する評価は関係ありません。この研究所には、あなたがいた方が良い」
にべもなくそう告げると、ふたたび書きものに戻る。
それでも、マリーは引くわけにはいかなかった。
「では、学院長か副学院長のところへ行きます」
そう言うと、アレックスは顔をあげて、迷惑そうに眉間にしわを寄せた。マリーは、その視線を受け止めて、静かに心境を語る。
「これは、私にとってのけじめなんです。錬金術にたずさわることや、研究自体から離れることはないと思うのですが、他のひとや、教授を巻き込むようなことを独断でしてしまったのは、やはり私の責任です。ですから一度、責任をとらなければならないと考えました。身勝手なことを言って申し訳ありません……ですが、たとえそれが受理されなくても、私はここを一度去るつもりです」
アレックスは、つらそうな顔をした。
「なら、これは私が預かっておきましょう」
「……わかりました。教授、今までいろいろとありがとうございます。私は、あなたに会えて良かった、いつかの舞踏会では、本当に嬉しくて仕方なかったです。あの時ハロルドからかばってくれたことはずっと忘れません。本当に、ありがとうございました」
一息に言葉を並べて、マリーは彼に背を向けた。そうしないと、また泣いてしまいそうだったから。それから急いで部屋から出ようとすると、声がかけられる。
「ま、待って下さい!」
マリーは立ち止まった。だが、振り向けない。
「これで、何もかも終わりにするということですか?」
「……そうです」
マリーが答えると、椅子から立ち上がる気配があった。その場から動かずにいると、後ろから肩をつかまれ、振り向かされる。
「私は、確かにあなたに暴言を吐きました、ですがそれは……」
「わかっています」
アレックスの言葉をさえぎるように、マリーは言う。
「心配してくれた教授を、私は裏切ったんです。だから、あなたの思いを受ける資格はない……それに、彼は私が生み出したも同然です。だから、彼の思いも存在も、私が受け止めるべきだと決めたんです。それが理由です」
「納得出来ません」
言って、アレックスはマリーを抱きしめた。涙がにじむ。この腕の強さも、胸の温かさも、優しい声も全てが好きだった。
「納得……して頂けなくても、私は決めたんです」
「まだ、婚約は破棄していません」
「教授なら、またいい恋が出来ますよ……」
小さく言って、腕の力がゆるんだ好きに胸を押す。腕が放れて、呆然としたアレックスの顔が見えた。マリーは、せめてもの思いで、うそをつくことにした。
「私なんかに、いつまでも捕らわれて欲しくないから、言います」
「何を……」
「教授なんて大嫌いです! 全然タイプじゃないです。身分がいいから付き合ってみただけですよ。ただ肉体関係になるにはいいかなと思ったし、ここで出世もしたかったですしね。なのに真面目すぎだし、その上、顔が綺麗すぎて一緒にいたらこっちが引き立て役になっちゃうし。しかもこれだけ一緒にいても何もしないし、教授って女に興味ないんじゃないですか? という訳で、さようなら!」
わざと大きな声でマリーは言った。
ひとつも本心ではない。それでも、彼の心に突き刺ささればいいと思った。マリーのことなど、嫌な女だったと思って忘れてくれればいい。
マリーは、アレックスが驚いているうちに走り出した。
必死で走って、大学院の外まで来ると大きく息をする。しばらくは、喋ることも出来ないほど呼吸が苦しかったが、しばらくして収まってくると、マリーは振り返った。
これでいい。
こうするのが、今マリーに出来る全てだ。
つ、と頬を涙が一筋伝う。
初恋だった。
ハロルドとうっかり婚約してしまったせいで、恋する前に傷ついたマリーは恋らしい恋など出来なくなっていた。けれど、彼の優しさに恋をしたのだ。そして、傷つけてしまった。マリーはせめて、彼が自分などより遥かに素晴らしい女性を見つけてくれることを祈りながら、帰路へとついた。